2010年5月20日木曜日

『経済学は人間を幸せにできるのか』の斎藤貴男は大丈夫か?

構造改革を糾弾してきた反体制的、社会派ジャーナリスト、斎藤貴男の『経済学は人間を幸せにできるのか』(平凡社)を読みました。経済学の学者として日本では最も著名な6名とのインタビューの内容と、彼のコメントが記された本です。

TVでの丁々発止のやりとりではなく、じっくりと話し合って本にするということで、斎藤貴男の問題意識と、「一流」の経済学者の考えがよく整理されています。中谷巌、佐和隆光、八代尚宏、井村喜代子、伊藤敏、金子勝の各氏は、それぞれ小泉・竹中の構造改革に反対、賛成する経済学者です。

本の中では、「構造回改革賛成論者・反対論者」というレッテル貼りでは通用しないということが6人とのインタビューのなかで明らかにされます。そういう意味では、インタビューを短く的確にまとめ各学者の持ち味を明確にした、斎藤貴男のジャーナリストとしての手腕は大したものです。

個人的には、慶応大学のマルクス経済学者の井村喜代子名誉教授のお話し(戦後の日本経済が朝鮮戦争とベトナム戦争によって経済復興したという、戦後史のタブーの領域の唯一の研究者と紹介されている)はなるほどと思いました。何気なく、「史上最高で最長のいざなぎ景気」と言われていたことをそのまま受けとめていたのですが、景気指標ではそのように言えても、「賃金がほとんど上昇していない、低下さえしている・・・景気とは何によってはかるのか」という指摘で、物事は複合的に、自分でしっかりと考えないと、学者や政治家による指標や数字に騙されると強く思いました。

斎藤貴男はジャーナリストとして鋭く、構造改革によって非正規社員や就職できない若者を生みだした小泉・竹中の政策とそれを支持した経済学者を批判する立場から突っ込み、そもそも経済学が人間を幸せにできるのかと問います。専門的な対場から、時としてはねかえされそうになっても、斎藤は自分の問題意識を貫こうとしているということはよくわかり、そういう意味では期待通りです。

しかしこのタイトルからして、内橋克人を思い出すのですが、斎藤は経済学の専門分野に造詣が深く、下手すると論理や学問の世界に落ち込むのではないかと危惧しました。言葉では「鍵を握るのは独立自営業」だと言うのですが、彼の鋭い現実批判の問題意識が、内橋のように、現実の経済活動に従事する具体的な人物に本当に依拠しきるのかという点が気になりました。

私は、斎藤の外国人労働者に関する言及が気になります(295-299頁)。「外国人労働者の受け入れ問題」と「日本国内で生活している外国人労働者の受け入れ問題」とは「切り離して考えるべき」というのが唐突な主張で、どうしても触れておくべきと思いで書きだしたものの、中途半端です。

また、日本の戦後経済の高度成長のもつ根本的な問題に触れながら、「その実態は、女性や障害者、被差別部落出身者、在日朝鮮・コリアン(ママ)の人々を下部構造とした、一部の男性だけが享受できる“平等”でしかなかった」と正しく指摘するのですが、どうして「在日朝鮮・コリアンの人々」と書いたのでしょうか? この一言で、私はなんか斎藤貴男もあぶなかしいな、と感じました。

2010年5月17日月曜日

新たな「在日」学者との出会い

郭基煥という若手「在日」研究者に出会いました。『差別と抵抗の現象学―在日朝鮮人の<経験>を基点に』(新泉社 2006)という本です。難解ですが、非常によくわかる本です(?!)。難解なのは、彼の採用した現象学という学問が私にはよくわからないからで、その方法論によって描く「在日」の差別を見据える視点は新鮮であり、私がこの40年、日立闘争と地域活動の実践の中で見出した地平に限りなく近いという印象をもちました。

私が彼に注目したのは、三谷博と金泰昌編『東アジア歴史対話』(東京大学出版社 2007)にある特論、「在日二世以降の異邦人感覚と<国民のための歴史>-「国籍変更」問題に寄せて」を読んだからです。そこで鄭大均批判の視点に注目しました。鄭大均のアイデンティティと国籍の乖離を理由にした、「在日」に帰化を薦める論は多くの日本人保守派に愛読されているのですが、それを<在日同士の関係>性から、郭基煥は批判をします。

郭基煥は現象学の大家(らしい)シュッツとレヴィナスを軸に差別の問題を「社会哲学的/人間学的な新地平」から解き明かそうとします。具体的な「在日」の差別の事例には触れず、差別とは何か、それはどうして生じるのかという哲学的な考察を深めるのです。日本社会への批判はファノンを軸に展開します。

彼は「共生」や国民文化なるものに関心を示さず、徹底的に対人関係に注目し、「在日」を他者にする日本社会のあり方を批判します。「共生」なるものはマジョリティに属する者がマジョリティのあり方を「破壊」するのでなく、そのマイノリティを生みだす関係性を固定するものとみなします。従って参政権を一瞥もしません。そしてマジョリティの差別を「病」と見て、マジョリティそのものがマジョリティ社会にルサンチマンをもっている、だから彼らこそ癒されなければならないと捉えます。

私は彼の学問的な方法論に関しては論じる資格はなく、その方法論に関心があるわけではありません(そもそも理論、思想は仮説に過ぎず、アカデミズム社会の論争で現実が変わるものではないと考えるからです)。しかし彼の徹底した考察の仕方、その真摯さには感動さえ覚えました。

しかし彼の哲学的な考察そのものが差別とは何かをとらえる明確な視点を提出するのですが、その方法論がまた限界性をもつように思いました。差別を生みだす社会構造やナショナル・アイデンティティを生みだす実際の「力」に対抗する実践よりは、人と人との関係性の問題に落とし込まれるような気がします。しかしそれは新鋭の期待すべき研究者一人が負えるものではないでしょう。私は逆に徹底的に現実の地域社会にこだわり、そこでの実践と思索の中から、彼との対話を深めたいと願います。

2010年5月4日火曜日

「多文化共生」の欺瞞を目撃しました!

「多文化共生」の欺瞞を目撃しました!

今日は、夫婦で日本で最大の映画街、川崎のチネチッタに映画鑑賞に行きました。街は、「第7回 はいさいFESTA」を謳い、「音楽・映像・食・酒・伝統芸能・・・ラ チッタデッラ大沖縄文化祭」とあります。川崎駅東口の商店街をあげての大イベントなのでしょう。帰りの車で、鳩山の弁解が繰り返し流れていました・・・http://lacittadella.co.jp/haisai/

沖縄であれ、韓国であれ、文化だの「多文化共生」だのと謳いながら、「文化」の一部を切り取り、沖縄や韓国への差別をなくし、その文化を尊重し多様化を尊重する・・・そうです。私は、「多文化共生」の実態、その欺瞞を、その正体を目撃したように思います。

そういえば、上海万博でTVは大騒ぎですが、日本の大阪万博のとき、キリスト教会は多くの人が集まるので伝道になるということでキリスト会館を立て万博に参加することになり、それに反対する人たちと、いわゆる社会派と福音派の争いになり、今日に至っています。社会派と言われた人たちの多くは教団から追放され、今日、福音派が完全なるヘゲモニーを握り、社会的な発言は慎み、行動を起こさず、相変わらず福音、魂の救いを看板に掲げて信者獲得に奔走しています。今やアジアで、最もクルスチャンが多くなった韓国は日本宣教に力を注ぎ、ローマ時代のように天皇をクリスチャンにしよう、日本人の魂を救おうと、大勢力を作りつつあります。2万人を超える韓国人教会も出現し、最近、「在日朝鮮人」より多くなった中国人伝道にも力を注いでいるそうです。

外国人の文化に関心を示し、多様化だとか「共生」が日本社会に必要だという人たちは何を考えているのでしょうか。外国人の全生活、全存在に関心を示さず、労働力や文化に関心を示すのは、根本的に、外国人への差別・抑圧だということに気づかないのでしょうか。「在日」の友人が多い、彼らを差別したことがない、しかし選挙権が欲しいのなら帰化をしなさい、外国人の地方参政権は亡国につながる・・・彼らとの対話が可能なのか、私は自信を失いそうになりながら、必死に耐えています。

良心的なキリスト教会もその内部に目を注げば、戦争責任告白を空洞化し、自分たちのやり方に反対するような人は教会に来てほしくないのでしょう、他の教会に行ってはとうそぶく始末です。信者獲得のために、教会においては国籍は関係がないと言いながら、国籍による外国人差別の実態には一切触れないのは結局、人間の魂の救いこそが最も大切なことと信じているからなのでしょう。魂と肉体とは分離できません。それはまさに外国人の労働力だけをほしがり、人格を認めない日本のあり方と同じように見えます。

「われわれ陣営の質」についての投稿です

九州のHさんからのメールを公開させていただきます。
過日、私が、「在特会」の状況にふれながら、われわれ陣営の問題に
ついて記したメールに対する感想です。「在特会」の活動や、「外国人
参政権」に反対する集会には1万人を超す人が集まり、「日本は我ら
日本人のもの」という偏狭なナショナリズムで外国人の政治参加を拒む
ことに熱心です。

「参政権」反対派は、憲法違反だからと主張するんですが、その知識が
どれほど正統性があるのか、憲法違反ではないという主張の内容を
知った上で、議論を戦わせているとはとても思えない状態です。
まさに対話が全く不毛の時代になってきていると感じます。

近藤淳さんの講演と質疑応答、それに拙論を加えたものがブックレットに
なり、「靖国・天皇制問題情報センター」から発行されました。一般流通
ではなく、口コミで市民運動や組合で学習資料にしてもらいたいという
ことでの発行です。

1部300円です。郵送費はこちらで「新しい川崎をつくる市民の会」
事務局で負担いたします。どうぞ、できるだけ多く、ご注文ください。
ご注文は送り先を記して私宛にメールをいただけましたら、銀行口座を
お知らせいたします。皆さんのお仲間で是非、ご活用ください。

崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

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Hさんからのメール


[しかし私が本当に憂うのは、彼らの動向ではなく、実は、彼らを
疎ましく思いながらもそれぞれが自分の党派や、仲間で固まり、
結集すること、連帯することに心を砕かなくなった、「われわれ陣営」
の質です。どうすればそれが可能になるのかみなさんの助言を求めます。
崔 勝久SK Choi

上記、Aさんから再三のメールを見て 初めてメールを送ります。
全く同意見です。特に最近つくずく感じています。絶望の言葉を
発したい気持ちがすぐそこまで来ています。日本という国家領域に
存在する人民・日本を離れられないすべての諸民族の責任・・・
民族観も大きく変革されねばならないように偏狭である。

「地方参政権」はこの偏狭さを取り崩すか。今、日本が新衰退国
とも呼ばれ、「国家戦略なき日本」ともいわれます。目先の選挙
だけの政治、目先の視聴率だけのマスコミ、目先だけの自分の存在感、
「癒し」にとらわれ、長期的社会的視野を失った日本内諸民族。
それと全く同じように、「左翼」「革命派」「革新」と標榜し、
「人権」、「九条」、「環境」うたう人々にも同じ課題が内包して
いると思います。

それぞれが我が方がベスト・絶対という神話セクトがあり、そうでは
なく、それぞれはベターであり共同してベストを目指す。このことを
確認するだけで大きな意義あり。

・・・長期戦略、共同学習、互いに補い合う関係が必要と感じます。
いまのところそう感じています。

Hより

2010年5月3日月曜日

鄭香均(チョン・ヒャンギュン)の定年を祝う集い



鄭香均(チョン・ヒャンギュン)の定年を祝う集い

昨夜、鄭香均の定年を祝う食事会に20名近い人が集まりました。集いは二次会に及び、写真は二次会での彼女の挨拶と近況報告をする最新のものです。とても定年を迎えたとは思えない若さでしょう。相変わらず、東京都職員からの嫌がらせメールが来るそうですが、
泰然と受け流しているようで、さすがに最高裁判決で負けたあとの記者会見で、<可哀そうな日本人(Poor Japanese)>と言い放った面目躍如です。

集まった友人たちは、40年前、川崎で日立闘争・地域活動を担ったときからの人から、「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」のメンバー、今の「新しい川崎をつくる市民の会」のメンバー、南高校の問題で知り合った人を含め、若い研究者(そのうちの一人は、わざわざ京都から来てくれました!)も参加しました。

参加者で月並みな挨拶をする人は誰もおらず、この間自分の生きてきた生活をしっかりと述べ、酒が入った場にも拘わらず心にしみる話しで、旧友を温め、また新たな出会いを喜び、これからの闘いに思いを強くしました。参加してくださった皆さんに感謝です。

鄭香均は定年後、ようやく、よく寝、食べ、泣くことができるようになったと言っていましたが、後1年で定年を迎える朴鐘碩と同じく、「在日」の歴史に残る人物と時代を共にし、
一緒に闘ってきたことに心からの喜びを感じます。彼女の話しや、朴鐘碩の会社の経験談からも、彼らが人知れず苦しみ、悩み、その中から道を切り開いた人物であることを思うと、心からの敬意を表したいと思います。

ヒャンギュニ、お疲れさまでした。あなたとこの40年歩みを共にでき、心から感謝します。これからも「当然の法理」の闘いを私たちは続けます。一緒に、楽しくやりましょうね。そしてこの目で、「当然の法理」が崩れ去るのを目撃しましょう。あの、ドイツの壁が歴史の流れで崩れたように。