2010年10月30日土曜日

臨海部についての市民懇談会の報告、行政の現場から

みなさんへ

今日は朝から大雨で台風の影響があり、JRの運行に支障があったようです。それにも拘わらず10名を超える人が集まりました。今回の講師は、川崎市経済局産業政策部長の伊藤和良さんでした。

「工都100年を支えた基礎技術と先端技術の将来展望」「自治体の使命は高い理念に基づき、地域で汗をかき続けること」「川崎市におけるオープンイノベーション 産学官連携・知財戦略の紹介」という伊藤さんの準備されたレジュメに記された内容からも、彼が何を言いたいのかわかります。

55歳になられるという伊藤さんは、市の第一号の「遊学生」としてスウェ―デンに行き、それ以来15年に渡り、毎年5月に訪れ行政マンとして街の変化を見守っているとのことでした。川崎の工業都市としての伝統を活かし、生き残りに苦しむ中小企業に役立つようにできることは何でもやるという熱血漢で、毎週金曜日の早朝にもつ学習会は800回にもなるとのこと、中小企業に寄り添っていきたいという言葉が印象的でした。スライドを使った90分の講演はよく準備されていて、流れるようなスピーチでした。

川崎の「光と影」ということで、臨海部を夜観光する企画を立ち上げたり、公害の街を「環境の街」に変え、素材産業から研究開発の都市へ、知財戦略を重視する川崎市きっての理論家であり先頭に立つ市の行政マンであるとお見受けしました。川崎のDNAは工業であり、市の役割はコーディネートととらえ、大企業と中小企業、大学間の連携を深め新たなビジネスを作り出すという思いもよくわかりました。

今回は伊藤さんの産業政策部長としてやってこられたことを中心にした講演だったのですが、私は、彼の誠意・熱意は理解できても、それでは川崎市の将来を見越した政策はどうなのか、何を川崎市の問題としてとらえているのかという点では、今一、残りの90分では十分な話を聞けませんでした。

スウェ―デンの市民の実態を見てこられた伊藤さんにとって、川崎市の「タウンミーティング」のように、行政主導で行政は市民の声は聴いても(学者の意見を取り入れ)、何もしようとはしないという意見がありましたが、何よりもこのような市民の参加の器を上から作るだけで、市民と一緒に課題を担い対話から具体策を練るという姿勢をもたない、民主的ではない行政のあり方から街づくりは可能なのかという、最も根本的なところをどう思っているのか、実はこの点がよくわかりませんでした。

臨海部の将来に関しては私企業のことでありよくわからないという説明でしたが、臨海部は川崎市全体の2割、その6割をJFE(元日本鋼管)が占めていて、これまでの工業化の中心であった石油や鉄鋼の素材産業が間違いなく変わらざるを得ない(研究開発や新製品の開発など付加価値の高い脱工業化産業に向かうということがはっきりとして来ている)というときに、何も考えていないというのは私にとっては信じられないことです。

鉄鋼や石油の他に危険な薬品を使うような工場を集中させ、人も住めない工場地帯として残したまま、時代の流れに沿って目の前の対応策を練るのか、川崎の歴史と文化・伝統(ものづくりを含めて)に合ったまったく新しい街づくりをするのか、私は今が100年の工業化の道を歩んできた川崎の転換点だと思います。それは「その時になって」からではもう遅いのです。今から、企業・市民・行政がしっかりと話し合いを進める準備に入るべきでしょう。

経済政策は経済の分野で完結するのでなく、自治のあり方、地域のネットワークつくりなど総合的な街づくりのなかで考えられるべきものです。二次会での席で、国際都市川崎を目指すのであれば、外国籍職員の昇進を禁ずるような政策から変えるべきですねと、スウェ―デンの実情に詳しい伊藤さんに振ったところ、さあ、よくわかりませんという、「行政マン」の顔で話されました。

中小企業に拠り沿うというのは、経済政策で終わらず、商店街を含めての総合的な街づくりであるべきだという意見がフロアーから出されました。川崎の法人税の3割は臨海部の企業からのものらしいのですが、臨海部を工場地帯にして他から切り離し、ネガティ―ブな問題はそこで集中させるということは逆に大震災のときにはとてつもない被害をもたらします。川崎を研究開発の都市にして世界に類のない新たな都市を作るというのは、もっと大きな構想であるべきです。

素材産業から研究開発都市にすることによって「持続する都市」を作るというのであれば、そこでは住宅環境、文化など住民がQOLを享受するような空間であるべきで、臭いや危険な薬品があっても構わないことを前提にした臨海部をそのまま残すという発想が間違っていると、私は思います。もっと大胆な構想を、何よりも市民と一緒に考えて行くという、恐らく伊藤さんがスウェ―デンで一番実感されたことを一緒に始めたいものです。

読者で伊藤さんの講演内容(スライド)を資料としていただけることになっています。希望者はメールで申し込んで下さい。今日の懇談会の内容は追ってみなさんにご報告いたします。伊藤さん、ありがとうございました。行政の現場からの貴重なご意見をうかがうことができました。今回は坂本市議の御尽力で議員会館の会議室を予約していただき、懇談会にも参加いただきました。感謝いたします。

次回についてのみなさんのご意見はいかがでしょうか。

2010年10月29日金曜日

領土問題を考える、基本は民衆に目を向けることー伊藤明彦

伊藤明彦さんから領土というものをどのように考えるべきなのか、というさらに詳しいメールが送られてきました。おっしゃっている基本は明確ですが、意見は分かれると思います。みなさんの御意見はいかがでしょうか。

崔 勝久

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 私の意見をブログに掲載してくださり、ありがとうございます。

 私が「竹島は韓国領」「尖閣諸島は日本領」と判断していることについて、問題提起されていると思いますので、少し触れさせていただきますが、私は「尖閣諸島は琉球領」だと考えています。そして「琉球」が「沖縄」として現在「日本領」ならば、「尖閣諸島は日本領」と判断しているということで、今後「琉球」が独立するならば「尖閣諸島は日本領ではない」ということになります。

 しかし私が述べたいことは、国家の判断や専門家の判断、各個人の判断など、立場によってそれぞれの判断があるけれど、私伊藤明彦は「尖閣諸島はどこ国の領土?」と聞かれれば「日本領」と答えるけれど、「民衆へ目を向けなければいけない」ということです。

 日本が台湾を「支配」した時代は、日本国家からすれば「台湾は日本領」です。すると台湾から見れば、尖閣諸島は「国内」ということになります。たとえばまったくの空想ですが、当時の台湾漁民は、国内の尖閣諸島で問題なく漁ができたのかもしれません。それがいつまでできたのか。アメリカの沖縄占領時代はどうだったのか。もしそのころも漁ができたなら、沖縄が日本に返還されたとき死活問題になった台湾漁民がいたということになります。そういう想像もできるわけで、もしそうなら、台湾が1970年代に領有権を主張し出したことも理解できます。上記の例は、まったくの私の想像ですが、そういう民衆の立場で考えることが大切なのではないかと思います。

 現在の中国に対しても、民衆の立場に目を向ければ、日本企業によって「安い人件費」で働かされている・・・。日本経済はそのような民衆からの「搾取」の上に成り立っている・・・、。そういうことを考えると、日本国内においても同様のことが行われていることに気が付きます。

 私たちが民衆に目を向けず、国家と同じような立場で語るなら、ただ危機を煽る目的に用いられているマスコミに同調することになり、「軍備は必要」という世論作りの一因になってしまい、「軍備で儲ける」ことが目的の権力者の思う壺になってしまうと思っています。

伊藤明彦

2010年10月27日水曜日

ブログ読者からの御意見

ブログ読者からの反応

5人の読者からの御意見がありました。
尖閣諸島をめぐる中国と日本の在り方については
さらに討議をする必要があります。

この「出来事」の間に中国に滞在された人は、
中国ではまったく「騒ぎ」がなかったという
ことでした。これはこれで問題にされるべきですが、
いずれにしても日本での「から騒ぎ」は意図的に
報道されているという意見が多いようです。

伊藤明彦さんは「竹島は韓国」「尖閣諸島は日本」
の所有と断定的に書かれていらしゃいますが、その
ように日本政府やマスコミが断定的に言う根拠は
何か、中国・台湾の主張は根拠なく、ただ政治的に
言っているだけなのか、慎重に、冷静に、客観的に
知る必要があると思います。

この分野での読者のさらなるご意見を求めます。

崔 勝久

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納税者の一般的感覚ー滝澤貢

たぶん「納税者の一般的感覚」なのでしょう。
恐らく日本で一番成功している企業であれば
その納税額も相当なものでしょうから
「納税したもの」として、相当の見返りを
「受税したもの」としての国家に要求しているのでしょう。
特段の「歴史観」があってその歴史観からの物言いではない
と確信します。
そんな「歴史観」があったとしたら、それはそれでたいした
ものでしょうが・・・。

ただ、当然ながらグローバル経済活動は
国家戦略と結びつきますから
強大な軍事力を背景に傍若無人な経済活動が出来るのです。
でなければ一私企業が傭兵を雇うことによって初めて
それが可能になります。
だから、米国では、いわゆる「セキュリティ会社」が
実は海外派遣の「傭兵」会社だったりするのでしょう。

そもそも、「多文化共生」などをまともに考えるグローバル
企業などあり得ません。
他国で展開するのは、その必然があるからで
それが「安価な労働力」であったり「巨大市場」であったり
するだけでしょう。
現地で起こる軋轢については、
本国の軍事力か、あるいは自社の経済力による傭兵によって
解決するかの選択肢があるだけだと思います。

特に、私企業が一人の人間の意志どおりには動かなくなる
コーポレーション(co-operation)であればなおさらです。

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尖閣諸島での中国漁船逮捕と沖縄ーN古賀

企業は、本拠地の国の国籍があり、その国の後ろ盾を求める
でしょう。これはけっして変わることはないでしょう。

やはり、尖閣列島での漁船逮捕は、沖縄の市議会議員占拠
の公示期間中に行われました。9月7日です。

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尖閣諸島問題と世界の今後を思うー塚本昭二郎

この度、崔さんが尖閣諸島問題で、ユニクロ柳井社長の発言新聞記事を読み、企業活動と国家の関わりに就いて、皆さんはどう思われますかと、問題提起されました。私はその記事を見ていないので、コメントできませんが、この問題と世界の今後の在り様進展について、私見を述べたいと思います。

私は1927年生まれ83才です、4才で満州事変10才で日支事変14才で大東亜戦争18才敗戦で終戦です。もの心つく頃から多感な青年期まで、14年の長い間勇ましいスローガンが躍る戦争一色でした。その戦禍の体験から、悲惨な戦争の実態を知らない若い政治家を中心に、党派を超え「領土を守ることは政治家最大の責務」と声高に叫び、尖閣諸島に自衛隊をと、武力衝突も辞さない主張は、偏狭な愛国心を煽動し、戦争体験世代として我慢ならない思いです。

その上で、やれ弱腰・軟弱外交だ・圧力に屈して国益を害するなどなど、嵐の非難を浴びながら、仙石官房長官が指揮した政府の対応は、見事と賞賛するものです。それは官房長官が例に引いたポーツマス条約での小村寿太郎と国際連盟脱退の松岡洋介の両大使が帰国時に受けた焼き討ちと歓呼の比較は、時間軸でどちらが国民の生命を守ったか、適切でわかり易い事例と思いました。私はこの度の事は勿論、あらゆる国際紛争は当事者国で話し合って解決すべきと確信致します。10年20年でも、外交の知恵と総力で交渉を決裂させず継続している限り、戦争にはならないからです。

さてグローバル化した世界はこれからも益々進化発展すると私は思います。大気も水も石油も地球資源の限界が近付いている事を人類が気づいて来たからです。それがCO2大気汚染問題や、生物多様性が国際議題と成っているのだと思います。今日、本屋さんを覗いたら「地球文明の危機」表題の本が積まれていました、著者稲盛和夫氏です。
地球は人類に垣根を低くし、国境が消えることを求めているのでは無いでしょうか、尖閣諸島はじめ、世界各地の紛争地も、領地領海の確かなことは総て地球のものなのです。

時間がかかっても、人類は必ず単一民族・狭い国家観を超える多様性で統合し、グローバルなアイデンテーが構成する、人類の議会「世界連邦政府」の誕生を確信するのです。

みんな一緒に歌おう/異なる声で/そして一つの心で
スペイン国家

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住みたい人が、住みたい場所で、住みやすい国ー伊藤明彦

 いつも情報をくださりありがとうございます。

 私もこの間、「尖閣諸島騒ぎ」からいろいろなことを考えています。
 私は、世界の国家の権力者は、「軍備で儲ける」という目的で一致していると判断しています。少なくてもアメリカ・日本・北朝鮮・韓国、そして中国・・・。ですから今回の「尖閣諸島騒ぎ」も、もはや自作自演だと感じています。「意図的に中国脅威論を煽っている」ということはその通りであり、特に日本では、日本に沖縄に、そして辺野古沖に「米軍基地は必要」という世論作りが第1の目的だと思っています。

 私は、「竹島は韓国領」と判断していますが、「尖閣諸島は日本領」と判断しています。
 しかし、過去にそして現在も日本が中国および台湾にしてきたことがあります。これに対する中国・台湾の民衆の思いは理解し、解決していかなければいけないと思っています。日本国家が尖閣諸島領有を宣言したのは、日清戦争中です。まもなく日本が台湾を支配します。そして、「尖閣諸島騒ぎ」が起こった9月は「満州事変」の月・・・。

 戦後は、「安い人件費」ということで、中国などの民衆の貧困の上に経済成長をさせた日本。ユニクロもその一つで、それに気がつき労働運動を始め人件費が高くなってきた中国から、まだ「安い人件費」ですむ国への転換を考えているのでしょう。ガーナではチョコレートを食べたことがない子どもたちが、学校に行かずにカカオ農園で働いているそうです。そして私たちはチョコレートをたべている・・・。フィリピンのバナナも・・・。例をあげたらきりがなく、日本の「経済的植民地」にされている国は数多いのです。そして「搾取」により成長した日本経済は、もろい経済になってしまいました。

 中国の富裕層は、少子化で定員が埋まらない日本の大学に子どもを進学させ、日本の企業は中国人留学生を採用しています。また中国で土地を取得しても70年で国に帰さなくてはいけないので、軽井沢の別荘地などを購入し土地を永遠取得する中国人が増えています。それはそれでいいことだと思いますが、日本と中国との関係が、民衆同士の思いが、過去・現在のままなら、中国国家に利用される可能性はあると思います。

 そこで、改めて「日本人の誇り」「日本人のプライド」を考えると、それは「ない」のです。「ない」から「万世一系」なんてものを持ち出すのです。憲法9条がそれになればよかったのですが、今は「ない」が正解だと思います。住みたい人が住みたい場所で、住みやすければ、いいと思います。私は今住んでいる町が好きです。愛国心も愛県心も愛市心もありませんが、愛区心と愛町心はあります。そうなると住民登録だけで充分で、国籍・本籍は関係ないと思います。住民主権です。「住みたい人が、住みたい場所で、住みやすい国」、それならそれで誇りがもてます。

 失礼しました。またよろしくお願いします。

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政治は政治としてーSS

ブログ、拝読いたしました。

ユニクロの件の話題も読みました。
政治と実際の経済活動は、
全く別の動きをしている事を
中国に行って感じました。
当社のような弱小企業にとっては、
国が何かしてくれるという感覚は
そもそもありませんので、
企業も体が大きくなると錯覚も生じるのでしょう。
当社が中国にいる4日間は尖閣諸島の問題が
とてもヒートアップしており、上海でデモがあるかも
しれないとの報道もあった時期でしたが、
中国国内でその話題を耳にしたり、
何か問題が起きたことは一切ありませんでした。
一方日本に帰ると加熱気味の報道でしたので、
これは、「国としての外交戦略と情報のコントロールが
どの程度できているか」の差であると思いました。
日本は、この辺は作為的に周到に対処するのには
限度があるのでしょう。マスコミの稚拙さもあるでしょう。
一方、中国は非常に対外向け情報と国内向け情報の
扱いは上手であるな。と思います。

中国も韓国も日本も、
それぞれ一つの問題があれば、
国益が最大限発揮されるようにそれを利用するのは
当たり前の話だと思うので、
建前としての正義とか正解については、
我々民間人があまり気にしていると、
本質がどこにあるか分からなくなるな~と
今回の中国訪問で特に思いました。
(尖閣の問題だって、知っている情報の内容によって
答えが違うのに、情報が正しいかどうか誰が分かる
のでしょう。)
当社は、政治は政治として置いておいて、
中国と取引ができれば良いなと思ってます。

2010年10月23日土曜日

ユニクロの会長発言、そうか、新自由主義って国民国家の強化と一体なんだ!

『季刊 ピープルズ・プラン』11月号に寄稿する原稿、ようやく脱稿しました。私には学問的な論文は書けず、民族差別についての想いを率直に書きました。前向きな形で論議されればと願っています。読者の率直なご意見を期待します。

10月23日の朝日の「be」で、ユニクロの会長兼社長の柳井正の「希望を持とう」というコーナーがあり、毎週持論を記しています。今回は、「偏狭な愛国心排すべき」というタイトルです。

「アジアは共存共栄をめざすしかない。すでに日中は互いに切っても切れない関係を築いている。その原点に立ち戻り、冷静に対処することが大切だと思う」と穏健で、さし障りのないことを書いています。しかし私があれっと思ったのは、今日の朝日新聞本体の経済欄で、ユニクロの主力商品の中国生産比率(現在8割)を2015年までに5割に引き下げると柳井会長が記者会見した際、16日の中国成都での反日デモでユニクロ店を一時閉鎖したことを明らかにし、日本政府の対応について以下のような発言をしていたことです。

「中国に進出した企業は自己責任でやってくださいというのはどうかと思う。ビジネスがやりやすいようにするのが国としての義務」ということでした。これを読み、中国に進出している多くの企業は恐らく、我が意を得たりと思ったでしょう。

私はこの記事を読み、そうか、国境を超えるという新自由主義は国家権力と結びつく、ネオリベのインターナショナリズムはナショナリズムの強化と表裏一体と言われていたことはこういうことだったのか、はっきりと実際のこととして理解できました。

しかし政治的に冷静な対応を訴える企業家の歴史観はどうなんでしょうか、尖閣諸島は日本「固有」のものということがマスコミで当然視されています。中国を専門とする横浜国大の村田教授のメールでは、「日本国内が大騒ぎしているのに驚いております。中国でも事件そのものは伝えられておりましたが、日本のような馬鹿騒ぎはしておりませんでしたので。この問題を利用して意図的に「中国脅威論」を煽っているとしか思えません。」と記されていました。

野党や民主の中でも管政権の弱腰を批判する声が相次ぎました。「粛々と国内法に基づいて処理をする」ということそのものが、尖閣諸島を日本「固有」のものであること宣言するという構図になっており、これは基本的には竹島(韓国、独島)問題と同じだと思います。日清戦争の前後、富国強兵政策で植民地主義による日本の侵略・拡張の過程で生じた問題です。この事実はまったくマスコミでは報道されず、ナショナリズムを扇動するばかりです。

ユニクロはもっとも成功している企業のひとつであり、世界に進出し、多くの外国籍社員を抱える「開かれた」企業とされています。しかしその会長が、いざとなると国がでて守ってくれと本音をだすのですから、多文化共生は植民地主義のイデオロギーとする私の主張をいみじくも証明してくれたように思いますが、みなさんのご意見はいかがでししょうか。

2010年10月18日月曜日

個人史―私の失敗談(その6、全てを失い新たな旅路へ)

私の個人史は一時、中断したのですが、それは最近のことを記すことで多くの人に迷惑がかかると思ったからです。しかし最も身近なことを話せば、正真正銘、私はもののみごとに「相続」した不動産、私が自力で立てた家屋もすべて手放しました。「相続」は私の父のみならず、義父の残してくれたものを含めてです。私は文字通り、子供に残せる資産は膨大な借金以外は何もなくなりました。

学生の時から「在日」に目覚め生意気だった私は、差別社会との闘いを宣言し本名で生きることや、日立闘争、地域活動と具体的な実践に邁進したのですが、それは新しい動きであると同時に、周辺の人たちからの激しい反発を受けることになりました。在日韓国教会青年会と川崎の青丘社からは責任ある地位からリコールによって放逐されました。

お前の行く末を見てやろうと、肉憎々しく言われたことは数多くあります。成功するはずはないという彼らの予言はものの見事に的中したのですが、しかし文字通り無一文になった私がそのことによって、自意識としては生まれて初めての開放感を味わい、新たな一歩を歩み出すことに喜びと意欲をもつことになったことに感謝の気持ちを持とうとは予言できなかったようです。

全てを失い何もないということがこんなに開放的で、自由を与えてくれるものなのか、私はあらためてこの間思索してきたことを根底から捉えなおしたいと思っています。「杖一つの他は何ももたず」(マルコ6章8節)、私はこれは古代のことだと思っていました。聖書の奇跡物語は実際に起こったことでなく、原始キリスト教団の信仰告白が反映されたものと理解していたのです。今だに記憶に残っている、森有正のアブラハムの無からの旅立ちについての話を大学の礼拝堂で聞いたときも、何千年前の神話としか理解できませんでした。しかし今、それらのことは私にリアリティをもったものとして迫ってきます。

このように書くと読者は私がファンダメンタルな信仰者になったのかと思われるかもしれません。奇跡物語を聖書は日常を超えた神秘的な神業のように記していますが、奇跡を人間のあらゆる努力を超えすべてをあきらめたところから、思いもよらぬ、自分の人間としての可能性が途絶えたところから起こった出来事ととらえると、私は全てを失ったときにまさにこのことを経験しました。事業の失敗から残されていた不動産全てが競売にかかり、それが全く知らない第三者によって落札されたのですから、私たちはその落札の日から6カ月以内に家をでるしかすべはなかったのです。私はそのことを予想し、家族全員に心の準備とその覚悟を求めてきたのですから。

私はありがたいことに家族の誰からも私の失敗について批難されることありませんでした。義母も妻も、義弟家族も淡々とこの事態、私の失敗の結末を受けとめてくれていました。私は家族の想いと彼らの配慮に感謝するしか言葉がありません。そのうえ多くの人にかけた迷惑を考えるとこれは当然のことであろうと思います。

競落が決まったその足で、私は落札をした不動産業者に会いに行きました。彼らはビジネスとして落札した物件を立て売り住宅か新たなマンションの建設をするのが常識です。私は無謀にも、その会社社長に面談を求め、私のこの間の失敗の連続を見守ってくれた義母が亡き夫が残してくれた場所で死ぬことを願っていると考え、彼女が住めるようにしてくれることを訴えました。数回にわたる話し合いで、その若き社長は、最終的に私の願いを聞き入れてくれました。今は家賃でそのまま私たちは義母と共に住ませてもらっています。

彼女が亡くなるまでそのまま住んでいいという条件まで承諾してくれました。これは私にとってはまさに奇跡でした。自分のやってきたことの全ての結末であると同時に、私は自分の手を超えたところから恩恵を受けたと思うしかありません。

振り返ると、私は自分の実家と妻の実家の両方に責任を持とうとしたことになります。大阪ナンバの一等地のビルは、父の三度目の妻から彼の病床で離婚による1億円を超える慰謝料を求められ、その金策をするために銀行に担保にいれました。しかしそれは同時に、私が継いだ岳父の会社の事業(前に記したぬいぐるみの仕事)を支える担保でもあったのです。いろんな事業をしながらなんとか借金から脱却したいという思いが、今から考えると私の潜在的な重荷になっていたのでしょう。無理な投資を重ねたのも金銭問題を一挙に解決しようとしたことで、冷静な理性を失っていたのだと思います。

今はもうこれまで苦しんできた資金繰りに悩むことはありません。私が求めてきた日韓のビジネスは「一粒の麦」になってくることを願うだけです。「在日」の問題については、年内発行予定の「人権の実現―「在日」の立場から」『人権論の最定位 全5巻』(法律文化社)、「「民族差別」とは何かー対話と協働を求めて」『季刊 ピープルズ・プラン』11月号にまとめ、これから自分の進むべき方向についてのグランドデザインを描きました。

私は古代のアブラハムのようにこれからの余生を新たな地を求めて生きることになります。ただ私にとって幸いだったのは、私を理解し、支えてくれた妻と一緒にその旅路に出ることができるということでしょう。これまでやってきたことで無駄なことは何もなかったと思い、これからの新たな人生を歩めることに胸を膨らませる今日、この頃です。それに今朝、新たな喜びが与えられました。俳優を志す次男に二番目の子が生まれたと知らせがありました。

2010年10月15日金曜日

さらばサツキさん、「革命」に生きようとした友人、逝く

サツキさんはこの5ヶ月間の闘病生活もむなしく、本日、病院で亡くなったそうです。御冥福を祈ります。

サツキさんは、新左翼党派に属し20歳の時から活動をしていたそうです。成田闘争で機動隊から水平打ちされた催涙弾で片目を失明し、下半身は同じ新左翼の他党派の火炎瓶を下半身にまともに受け大火傷をしたとのことです。

私たちとは、10年以上、川崎の「外国人差別を許すな・川崎連絡会議」で一緒に活動をしてきました。歌が好きで、カラオケでは何時間も歌うような明るい性格の持ち主でした。
1週間前に彼が末期がんで手術もできず放射線と抗がん剤で「復帰」しよとしていると聞いて、私はすぐに電話をし、早く元気なったらカラオケに行こうねと言ったところ、喜んで「そうしましょう」と応えていたのですが・・・残念です。

61歳11カ月と部屋にありましたが、病床には同郷の太宰治の『走れメロス』が置かれていました。純粋な文学青年だったのでしょう。

彼の本名は今日、初めて病床で知りました。ある中年の女性が成田闘争の集会に参加したときの名簿を彼が見て、その日の夜自宅に来たそうです。その時の彼の説得によってオルグられた、本当に感謝しているということを彼の耳元で話していました。そうか、彼らはもう40年も、党員として命をかけ日本社会の「革命」を目指して闘ってきた同志なんだ、ということをつくづくと思い知らされました。身内は誰もないところで、意識のない彼の足をずっとなでる人たちを見て、彼らは闘ってきた「仲間」なんだなと実感しました。

今のこの時勢、「革命」に本気で取り組んでいる人たちがいるということは驚きです。「革命」とは何か、それはどんな手段によって実現するのか、世俗化した世界において一般の大衆との接点はどうなるのか、一部の労働戦線の「勝利」をもって針小棒大に拡大解釈して自論を展開しているだけではないのか、仲間を暴力的に切り捨ててよいのか、「在日」問題を利用主義的に取り上げてきたのではないか等など、私なりに言いたいこともあります。

しかし私はサツキさんとは論争をしたことがありません。時々は自宅に集まり、楽しく酒を交わし話をした仲です。妻は、彼の仲間にどうしてもっと早く知らせてくれなかったのよと涙ながら詰め寄っていました。意見が違ってもいいではないか、どうして10年も一緒に活動してきたのに、党の事情で私たちの人間関係を切るようなことをしたのか、恐らく彼は自分の心情と党の方針の間で悩んだに違いありません。

そういえば、昨夜から私は自室のステレオでナット・キング・コールを聴きだしました。夢の中で私が「モナリザ」を歌っていたら誰かが自分に歌わせろとマイクを取り上げるのです。不思議な夢だなと思っていたら、その意味が先ほど届いた彼の死亡を知らせるメールを見てわかりました。サツキさん、今度またカラオケに行きましょう。下手だったけど、たっぷり、何時間でも聴いてあげるね、御冥福を祈ります。

2010年10月10日日曜日

川崎で支局をもつ各マスメディアの方に

今日の朝日新聞全国版で、「日米の協力関係 「次の50年」協議」「ワシントンでシンポ」というタイトルで小さな記事がでました。「世界やアジアの平和と繁栄のための日米の役割を考えるシンポジューム「日米関係―次の50年」(米外交問題評議会<CFR>,朝日新聞共催)」で、内容は後日(22日付けの朝刊)発表とのことです。

私が驚くのは、50年先の日米の「協力関係」について両国の専門家を集め、昨今の時事問題をも念頭に置き、広範囲な情報を分析するとのことです。50年先ですよ、Who knows?と言いたくなりますが、できるだけ多くの専門家の知識、情報、判断を集め、未来に寄与したいということなのでしょう。

そこでわが川崎に支局を置く各マスメディアの方々に具体的な提案があります。川崎というと昨今では、「在日」の「多文化共生」と「公害から環境都市へ」ということしか話題にならないようです。「区民会議」とか「タウンミーティング」はほとんで市民の関心を買いません。

何故か、面白くないからです。市民参加や「市民の責務」ということが声高に言われますが、それらはいずれも行政主導の、予め行政の設定した範囲内(想定内)のことしか話題にされない、行政の方針の正当化に使われるだけと市民は思っています。そんな短時間で話し合いなんかできっこありませんから。

「在日」だと「多文化共生」という話題だけが取り上げられ、「コリアンタウン」「外国人市民代表者会議」も時々目にしますが、昨日(土曜日)のかきいれ時に現地セメント通りを訪れそこの寂れ具合に驚きました。「多文化共生」そのものが政策として世界的に問題視されてきていることを知識としてでも知っている記者はいるのでしょうか。

また「地方参政権」の問題についてもまともに問題点を報道した社があったのでしょうか。6日の議会で3月には否定されている永住外国人の参政権をめぐる意見書案が今回通ったということの意味を分析した記者がいたのでしょうか。

さらに深刻なのは、マスコミの臨海部に関する関心、問題意識の水準です。石油コンビナートが抱える深刻な事態、鉄鋼社が海外ビジネスの比重を高めている(現地への投資、技術移転、日本市場の縮小)ことがどういうことなのか、それは近い将来、JFEの場合、川崎全市の12%の面積もつ敷地の使い方が問題になるということを意味しています。世界に誇る「環境都市」のスローガンも実際は、京都議定書の定めた数値をクリアできそうもないと専修大の『白書』は明記しています。

誰もがわが川崎が世界に誇る「環境都市」になってほしいと願います。しかし「大本営発表」ではあるまいし、行政の発表する資料しか記事にしないというのではあまりに寂しいではありませんか。川崎の実態が「環境都市」として相応しいのかどうか、今どのような問題を抱えているのかについて研究・調査・検証しようとする新聞社はないのでしょうか。冒頭の記事のように、全川崎の20%を占める臨海部の50年先をどうすればいいのか、シンポを主催し未来に貢献しようとする新聞社、記者はいないのでしょうか。

川崎に支局を置く各マスメディアの方、川崎市の臨海部の50年先を考えるシンポを一緒に計画しませんか。

2010年10月6日水曜日

円高で1ドル50円は「歴史の必然」? 臨海部はどうなるの?

今朝のテレビ朝日の「スーパーモーニング」で衝撃的なインタビューがありました。同志社大学の教授が、ドルはこれまで過大評価されてきて、円高になるのは「歴史的必然」と言うのです。ミスター円の榊原氏も基本的には円高になることを認めていました。

その教授は、1ドル50円もありうるということでした。円高になると海外に行く工場が増えるのではという質問には、海外移転は円高とは関係しない、それは海外の低賃金が最大要因とのことでした。

そうすると、川崎の臨海部の場合、臨海部は川崎の全面籍の20%で、JFE(元日本鋼管と川崎鉄鋼の合併会社)はその60%ですから、JFE社1社で川崎全部の12%を占めることになります。

その臨海部では、石油関連会社は勿論、JFEのような鉄鋼会社は海外の高炉に投資をし、現地で高品質の鉄を作り、現地生産を始めている日本の自動車メーカ(日産マーチはタイで生産し輸入されている!)に供給する体制が急速に実現されているので、近い将来(恐らく50年以内)に川崎臨海部のJFEは撤退か、大幅に縮小することは間違いないと思われます。石油関連はここ数年でしょう。

十数年前に、歯の抜けるようにがらがらになった臨海部は、東南アジアの旺盛な需要でまずJFEが元気を取り戻し、抜けた跡地にはどんどん後釜が来ているようです。勿論、各企業の努力があり、公害をなくす技術開発がなされ、企業間の協力がなされているのは事実のようです。

しかしそれが、川崎は「公害都市」であったが、今や世界に誇る「環境都市」と言えるのか、その点は疑問です。専修大の白書では、京都議定書でだされた炭酸ガスの規定をクリアすることはまったくできてないそうです。

今月の30日(土曜日)に既に案内をしたように、産業政策部の伊藤部長をお呼びして「川崎臨海部の現状と展望について」の2回目の懇談会を持ちます。多くの方が参加されますように(事前に申請下さい)。
http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/10/skchoi777gmail.html

伊藤部長は苦戦する川崎の中小企業のために心血を注ぎ具体的な対策をされてきていると伺っています。当日はそういう実態と、その上で50年先、川崎臨海部をどのようにすべきなのか、その展望に関して市民との意見の交換をしたいと考えています。

現在の川崎市の将来像に関しては、行政は各地区の具体的な現状と課題を明記しているのですが、臨海部の将来像に関しては一言も触れていません。しかし地域の活性化、地域のあり方は、市民と識者、企業との真摯な対話を通して話し合われなければならず、それが政策に反映されないと具体的な展望を持つことはできません。

世界では、その地域の実情にあわせながら、ドラスティックな(高速道路を無くし川を作ったり、運河を再開発したり)政策が実際になされています。わが川崎でできないことはないはずです。それには、まず市民が行政としっかりと話し合い、課題を共有化することから始めるべきだと考えます。

世界に誇る「国際都市」川崎は一朝一夕にはできません。経済政策だけではできません。市民が参加し意見を述べることが普通にない、行政とも対等に話し合えことが保障され、何よりも、同じ行政パーソンを国籍で差別する制度を一日も早く撤廃し、世界に「国際都市」宣言をしなければならないでしょう。「国際都市」は総合的な、あるべき街つくりの延長にあるのです。

2010年10月5日火曜日

<「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索>加藤千香子さんの論文の紹介

4月26日に加藤千香子さんが東京歴史科学研究会で発表した「1970年代の「民族差別」をめぐる運動―「日立闘争」を中心に」を、当日の会場での議論を踏まえて改めて論文にしたものです(『人民の歴史学』第185号)。

「1970年代前半は、日本社会で「在日朝鮮人問題」が浮上した時代で、「日立闘争」はその象徴となる運動であった」という理解のもとで加藤さんは、日立闘争における日本人と「在日」との「共同」・協働のあり方に焦点をあて検証し、「在日朝鮮人の民族的自覚と日本人の自己変革」という定着した評価を、「現在を新自由主義の時代ととらえてその困難に向き合おうとするならば、これらの前提や結論自体を問い直すことが不可欠」ではないかと問います。論文は、日立闘争における日本人のそれぞれの「主体」のあり方、両者の関係性と「共同」について、最後に闘争後の地域活動の行き方を検証します。

加藤論文の特徴は、これまでの研究者(及び活動家や一般的な評価)が日立闘争当事者の朴鐘碩のアイデンティティ変容や、日本人の「自己変革」、及び川崎における「現在をマイノリティの権利や「共生」の達成点」ととらえるこれまで固定的な評価を<脱構築>した点にあると思われます。

日立闘争での日本人と「在日」の「共同」性が評価されてきましたが、加藤さんは、地域活動に活動の場を求め「社会とのかかわりを積極的に求める」「在日」と、「「抑圧者」(加害者―崔)としての自覚と意識変革を課しながら内向化し疲弊する」日本人の対比を明らかにします。そして何よりも、「在日」が「民族運動としての地域活動」とした活動自体が、保育園の「お母さんたちの問題提起」によって問われるという、これまで誰も取り上げなかった「事件」に焦点をあてたことが注目されます。

70年代の「共同」が「在日」に「連帯と差別解消を要求する権利意識の高揚をもたら」す一方日本人の内向化や逃避を生んだが、「90年代以降の「共生」は、マジョリティである日本人側が「行政施策を通して、権利を求めるマイノリティに対して一定の場所と文化の承認を与えようとするもの」であり、「「民族差別」解消の課題は、「多文化共生」のかけ声への変わっている」と指摘しています。

裁判闘争後、日立に就職し朴鐘碩はそこで「企業社会の同化・抑圧」の現実に鋭い告発を行ってきたことも記されており(この点も、これまで研究者が言及してこなかった)、結論で、「70年代の「共同」と新自由主義時代の「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索が必要」ではないかと提起しています。

また『人民の歴史学』では当日の討論要旨も掲載されており、その中で加藤さんが、「「被害者」である在日朝鮮人に対して日本人は「加害者」としての立場から向きあっていたため、(日本人としての)「権利意識」が育ちにくかった」という発言していることは重要な指摘だと思われます。

今もてはやされている「多文化共生」とは、新自由主義の時代において何なのか、どのようなイデオロギーとして用いられているのか、また日本人と「在日」の「協働」はどのような質をもつべきなのか、を考えるためにも加藤論文を是非、一読されることを薦めます。

なお、加藤論文は望月文雄さんのHPに掲載されています。
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_205.htm

川崎臨海部の現状と展望についての懇談会の御案内

第二回10・30懇談会のご案内
川崎臨海部の歴史・現状・課題についてー
市民参加による地域再生を目指してー


川崎の埋め立ては日本の工業化と共に始まり、今年で100年になります。「韓国併合」と同じ時期です。戦後、日本は経済最優先で工業化に邁進し、川崎は海を埋め立て、臨海部は世界に類のない、ごく一部の人口海岸でしか市民が憩うことのない製鉄所や石油コンビナートが中心の工業地帯になり、市民は公害に悩まされてきました。

しかし現在は、各企業と行政が公害を克服しようと努力をして技術革新を進め、廃棄物の利用や新エネルギーの開発によって、世界に誇る「環境都市・川崎」に生まれ変わろうとしています。しかし市民が参加し、臨海部の展望についての話合いに参加することはこれまであまりありませんでした。

第1回目の懇談会は横浜国大の中村剛治郎教授が講演で、川崎の臨海部について世界の例をあげながら、川崎も市民がプライドをもてるような街になれるように大胆な政策を打ち出すことが必要というお話をされました。今回は、行政の立場でどのように臨海部の現実に関わり将来の展望を考えるのかのお話しを伺い、参加者と意見交換の場を持ちます。

第一回目は猪俣議員、今回は坂本議員の御尽力で会場の設定ができました。感謝いたします。なお会場の都合上、希望者は事前に事務局のメールか電話で申請下さい。


主催 「新しい川崎をつくる市民の会」
代表   滝澤 貢
川崎市川崎区小川町11-13日本キリスト教団川崎教会
連絡先:skchoi777@gmail.com、携帯番号:090-4067-9352

2010年10月2日土曜日

こんなに共鳴した本はありません、文京洙『在日朝鮮人問題の起源』

文京洙『在日朝鮮人問題の起源』(クレイン、2007)、「在日」関係の本でこんなに共鳴したことはありません。文さんの学者としての謙虚な姿勢から、わからないことはそのままわからないと言い、断定的でなく、それでいてしっかりと事実は事実として押さえるという書き方をしています。私が共鳴したのは、文書から彼の人柄がしのばれるということもさることながら、彼の追い求めてきた思想的遍歴(「在日」としての生き方)に自分のそれが重なるように思えたからでしょう。

著者は日本社会が戦後どのような国民国家つくりをして「在日」を疎外するに至ったのかを説得力あるかたちで説明します。しかしこれはある意味で、他の学者でもやっていることで、特に新しい資料の発掘ということはありません。しかし彼の特徴は、「在日」そのものが同じく、国民国家の概念、枠内で自己規定してきたことを率直に記していることです。

著書の中でも日立闘争の記述は何度も出てきます。それがいかに新しい発想であったのかということを高度成長、都市化現象の流れのなかで、歴史的、社会的に説明します。それらは社会科学的に分析して証明した上で概念として提示するというより、高度成長によって日本人社社会が大きく変わってきたことの影響を「在日」も受けたという脈絡で説明し、違和感はまったくありませんでした。なるほど、その通りだと思いました。

日本共産党と「在日」との関係も詳しく取り上げ、『日本共産党70年』において「在日」との関係には一切ふれていないということを明らかにします。6全協以来、日本共産党と総連は「極左路線」批判だけでなく、相互干渉しない、「内政不干渉」を旨とする「主権国家」「国民原理」においても同じ土俵に立ち、「在日」の運動はそれ以来、この枠を前提にしてきてそこからの脱却に時間がかかったこと、その脱却は下からの「市民」の立場からの動きを待つしかなかったこと、その端緒に彼は日立闘争を位置つけます。

彼に共鳴した上で、違和感をひとつ。それはエピローグで「既成の理念と違う何か別の理念を編み出そう」とは思っていないと記しながら、プロローグでは「多文化共生」を理念化していると思わせる書き方をしていることです。日立闘争も川崎での地域活動も、また「多文化共生」を謳う川崎市の施策もその実態は何かということを文さんは知ろうとせず、文献や一方(「共生」を推進する側から)の話しでそれらを評価するというのは、結局、それらが文さんの「理念」に適ったからなのではないでしょうか。

川崎のことを論文にしたり、本にしたケースは多いのですが、ほとんど(私の知る限り全て)、「共生」施策を批判する意見の検証はせず、「共生」はいいものだという結論を先に持ちそれに見合う資料・情報でその結論を正当化するという過ちを犯しています。例えば、金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』(明石書店、2007)、広田康生「アジア都市川崎の多文化・多民族経験」(宇都榮子編著『周辺メトロポリスの位置と変容』(専修大学出版局、2010)、その他多数あり。

文さんは私たちが12年以上、川崎市政の問題点や、川崎の地域活動の問題点を批判してきたことを耳にしながらも深く関心をもたなかったのではないかと思います。それは「多文化共生」批判の中から新たに「開かれた社会」につながる展望がでてくるのではないかという思いが彼にはなかったからではないでしょうか。

私はむしろ、「多文化共生」は今日何故強調されるようになったのか、カナダやオーストラリアでは批判的な見解もでてきているのに、どうして日本は教育・経済・労働・行政・市民運動等の各分野でもてはされているのか、みんなが一致して賛美する現象を批判的にとらえるべきではないかと思うのです。「多文化共生」は社会・歴史の中で一定のイデオロギーとしての役割を果たしているのではないか、この点を私は文さんと会う機会があれば議論したいと思います。

私は「国民国家」を根本的に批判する西川長夫の<新>植民地主義論はあらためて議論されるべきだと考えています。「在日」を含めた、増加する在日外国人の日本での位置そのものが実は国民国家日本の植民地主義支配なのではないかと、私は思うようになりました。