2009年12月30日水曜日

「本気で臨海部の未来を考える会」のブログ(12月29日)を読んでー「まちづくり」の課題について

「本気で臨海部の未来を考える会」のブログより(12月29日)を読んで。
http://www.owat.net/rinkaibu-mirai/

住民らが感じていた矛盾、そして当初の怒り、はこの「リスク産業のでっちあげ事件」とでも言おうか、それに集約されるのだと思う。なにかがおかしい。なぜ、こんなことが許されるのか。そして住民訴訟をして分かったことは、行政と議会は、「議会制民主主義」という仕組みを駆使し悪用し、財源を自由自在に私物化していたということだった。

渡辺さんの怒りは、上記の内容に集約されています。議会制民主主義という仕組みの中で行政と議会が、住民の意向を無視して、自分たちで国の意向を反映させながら推進してきたこれまでのやり方に対する告発です。指摘は正しいと思います。

「土壌汚染」を口実に、南高校校舎を解体したことに対する怒りがそこにあります。当然です。しかし現実は、渡辺さんを中心とした3年にわたる裁判闘争と住民の「抵抗」にも拘わらず、校舎は解体されました。その現実を直視すると、校舎の跡地をどう「活かすのか」という課題が浮かび上がります。それはまさに、「本気で臨海部の未来を考える会」の頭に記されている「旧県立川崎南高校の有効活用を求める」ことであり、「小田栄西地区計画の見直し」(=「浜川崎駅周辺地区」という、期限限定の、都市再生特別措置法にもとづく都市再生緊急整備地域の見直し)ということです。

南高校跡地の有効活用は、「浜川崎駅周辺地区」のみならず、渡辺さんのブログのタイトルである「臨海部」のあり方を根底的に見据えながら検討されるべきでしょう。渡辺さんの怒りは、現実的な課題として、これまで抗議の矛先を向けていた、市及び県を相手にして対話をしていくなかで止揚されていかなければならないのです。新たな闘いが来年からはじまります。毎日ブログを更新し問題提起をし続けてきた渡辺さんに敬意を表します。

『環境再生―川崎から公害地域の再生を考える』(有斐閣)を是非、お読みください。実は、川崎の「公害」問題は解決されていないことがわかります。編者・著者は川崎市の「公害」問題はまさにこれからの「まちづくり」の課題であると指摘します。しかし「まちづくり」が「持続可能な社会」(Sustainable Community)を目指すのであれば、私がその英単語を意訳したように「住民が生き延びる社会」であるべきで、宮本憲一の定義には、川崎の歴史において公害の真只中で生きてこざるを得なかった外国人の実態が見過ごされています。

臨海部の問題を具体的に考えるためには、桜本や小田、渡田などという町そのもの活性化を図るべきであり、その実践課題を行政、住民、企業、市民活動家が集い話し合う中から道筋が見えるように思えます。その取り組みを始めたいですね。

2009年12月28日月曜日

「住民が生き延びる地域社会」の実現、というのはどうでしょうか

いよいよ今年最後の週になります。みなさんはどのように
過ごされるのでしょうか。滝澤さんから問題提起された、
「まちづくり」「都市計画」が行政側の言質になっている
という点に関して考えています。


勿論、「共生」と同じで、言質そのものに本来的な意味が
あるのでなく、上野さんが私たちの本の中でも指摘されて
いるように、その言質は時代ごとに、全く意味内容が
変わっています。ですから、運動側が自分たちの意図
する意味にしていけばいいという一面もあるのですが、
「共生」が「多文化共生」になる過程で、完全に支配者側
の言葉になったことを考えてみると、やはり私たちが
求める時代に合ったキーワードを作るべきですね。


そこで「麻生まちづくり市民の会」のHPを参考にしてください。
http://web-k.jp/asao-shimin-no-kai/
私たちが使う言質とほぼ同じです。でもよく見ると私たちが
求めるものと何か違うように思います。
みなさんはどのように考えられますか。


いろんな経験を持つ人たちが、「時代の言葉」を使って、
麻生区で必要とされている市民運動を活発にしている
ようです。私たちが参考にすべきことが多くあります。
しかし歴史の過程の中で現実の問題を捉え、その問題を
生みだした社会の構造、基盤を変革するという意気込みを
感じることができないのです。事務所まで区役所に置いて、
行政にもの申す事ができるのでしょうか。


今朝起きてふと思ったのが、住民が「生き延びる」地域社会の実現、
ということです。これは英語のSustainable Communityの私訳です。
普通はこれを「持続(維持)可能な社会」と訳しています。
阿部市長はもちろん、行政はよく使っています。しかしこれは
政治家、官僚の上から目線での言質だと感じます。阿部市長は、
これまでの福祉中心の体制では川崎市はもたない、だから
行財政改革をすると宣言したのですが、そのときに使われたのが
この単語です。


『環境再生』で宮本憲一は、Sustainable Communityを
このように定義付けしています。
「平和、環境・資源・生物多様性の維持・保全を枠組みに、
絶対的貧困の除去、民主主義、基本的人権と自由が総合的に実現
する社会」


宮本憲一の定義にもどこか海外での定義の臭いがします。
しかし基本的には、「住民自治の実現」と外国籍住民を含めた
「全住民の平等」の概念をいれれば賛成です。普通、「まちづくり」
というのは行政も、市民運動側も景観や建物の建築基準を強調する
ことが多いのですが、彼の定義には、それを含めてもっとソフトを
強調している点を私は評価します。


「住民が生き延びる」地域社会(Sustainable Community)とは、
「平和と民主主義を希求し、国籍に拘わらず全ての住民の自由、
平等、基本的人権を保証し絶対的貧困を除去すると同時に、
環境・資源・生物多様性の維持・保全を根底に据えた、
住民が主体となった住民自治を志向する地域社会」
というのはいかがでしょうか。



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崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

2009年12月22日火曜日

渡辺さんの「環境衛生問題は、一体誰が作ったのか?」に賛意を表します。

一体わたしたちの近代日本は誰の犠牲の上に成り立っているのか? 今の競争力、経済力。>どれだけの人が、環境被害に合ってそして、悔しい思いをし、救済されずに、涙を飲んだ>か。そこで生じている南高問題はどのように解決すべきなのか、よく考えて欲しい。

渡辺さんが毎日、ブログの更新をしています(「本気で臨海部の未来を考える会BLOG」
(http://www.owat.net/rinkaibu-mirai/rinkaiblog.html)。
川崎の公害は、臨海部の「工場や交通による排気」ガスによる被害でした。南高校の問題は、それとは関係のないように見えますが、まさに渡辺さんが看破しているように、これまでの公害を生みだした環境を再生しようとする、川崎市の政策の中心のひとつに置かれているのが、臨海都市拠点としての浜川崎駅周辺地区なのです。その地区の中心にあるのが、南高校です。

しかし臨海部の再開発は、これまで公害を生みだした社会の構造を批判的に総括したうえでなされているのでしょうか。多くの学者が臨海部の「環境再生」に向けて現状の分析、検証、提案をして、それを行政は自分たちに都合のいいように選択して、施策にしています。しかしその学者たちが、都市再生緊急整備地域に位置つけられている浜川崎駅周辺地区で南高校の跡地をめぐって3年も計画がとん挫している事実を知らないのではどうしてでしょうか。

現場の重要性を説く学者もまた、現場を離れた観念操作をしていたのではないでしょうか。『環境再生』を私は高く評価しますが、しかし16名の著者の誰ひとり、臨海部に外国人住民が多いこと、その人権をめぐっての考察をした人はいません。彼らはその外国人多住地区を何度も訪れたはずなのに、外国人の問題が「見えなかった」のでしょう。「持続可能な社会」(Susutainable Commity)の内容が根本的に問われる所以です。

私は、そもそも都市計画が国と行政の発意で大きな枠が決められ、それに従って地域のあり方が決められてきたその手順が、まったく逆であったと思うのです。地域住民の意向をまず聞き、それに基づいて市民の総意である全体像が作られるべきものが、大企業の意向を最優先し、その便利性を図る形で交通網が整備されるというこのあり方が問題なのです。その結果が、まるでモンスターのような臨海部のコンビナートの姿であり、産業道路の上を走る高速道路をつくり排気ガスをまき散らす結果になったのです。そうなるのはわかりきっていました。

南高校跡地の活用の論議は、国策に従って産業優先の都市計画をしてきたこれまでのあり方を根本的に批判し、住民中心のまちづくりをしていくことを宣言することになるのです。

川崎に住む外国人住民もまた政治参加を果たし、住民としてあるべき「開かれた地域社会」建設に参加することになるでしょう。川崎の埋め立て作業が始まったのは、まさに日韓併合のその年からで、来年100年を迎えます。私たち「在日」が自分の住むまちづくりに参加するのは当然のことです。

2009年12月19日土曜日

いい本に出会いました、「地域再生」の歩みの参考に



『環境再生―川崎から公害地域の再生を考える』(永井進ほか編著 有斐閣選書 2002)を読み終えました。南高校跡地の問題に関わり、また「在日」の地域社会での政治参加について模索してきた私にとっては、まさに最良のヒントを与えられた本でした。

川崎南部の公害問題を通して「維持可能な地域社会」(Sastainbale Community)をどのようにつくりあげることができるのかについて、3名の編者と16名の著者によって書かれた力作です。この「維持可能な」というのはもっとなんとかならないのかという気もしますが、行政への影響も大きいようで、思い出してみれば阿部市長の最初の当選の時にもこの単語は使われていました。しかしそれは福祉や外国人施策に力をいれてきた、財政破産寸前の川崎市を行財政改革していくものとして語られていました。

しかしこの本では「維持可能な社会」をこのように定義しています(宮本憲一)。「平和、環境・資源・生物多様性の維持・保全を枠組みに、絶対的貧困の除去、民主主義、基本的人権と自由が総合的に実現する社会」。ここに外国人の政治参加を保証する住民自治の実現がはいれば私は全面的に賛成します。

最後にこの本では、「環境被害のピラミッド構造」を直視し、川崎の公害問題を社会全体の在り方の問題として把握します。従って、公害の直接的な原因とみられた「交通体系や道路構造のあり方、それらを規定している臨海部コンビナート地帯を中心とした産業構造や都市構造のあり方、さらには川崎におけるコミュニティや市民参加のあり方をめぐる諸問題」まで分析や考察をしようとしています。

ここで指摘された問題点がその後の川崎の施策の中でどのように評価され、具体的なものとなってきたのか、私は徹底的に調べようと思います。南高校の跡地の問題が、アスベストの発見によりさらに多くの解決すべき問題が潜在的にあるとわかってきましたが、なによりも、この問題が川崎の都市計画の一環であり、川崎が直面している「環境からの再生」を図るために避けては行けない、最も根本的な問題であるということがわかってきました。

地域住民は南高校跡地を公園とか緑の批難所にしたいという素朴な要望をもっているのですが、その想いを川崎全体の歴史と現実の中で、そしてこれからの社会をつくりあげるのに最も重要な核として、都市計画そのものの中で位置付け説明されなければならないでしょう。

来年は日韓併合100年、期せずして川崎の埋め立て工事が始まってから100年が経ったそうです。川崎の海は工業の発展を目指した国策に翻弄され、完全にWater Frontを無くした、コンビナートに占拠された化け物のような都市になってしまいました。南高校跡地の活用を軸として、市民を中心とした「地域社会の再生」「川崎の再生」に向けた第一歩にしていきたいものです。

2009年12月17日木曜日

南高校跡地問題、一歩前進ー川崎区市議との懇談会の実現

昨日、川崎区の市会議員全員と委員会の後の時間を南高校問題で、地域住民、「活かそう会」のメンバー8名とで話し合う場が設定されました。

県立南高校の解体に反対し、「活かそう会」を結成して県の強引な解体作業に反対してきた住民に対して、解体の過程でアスベストが発見されたこともあり、住民と県側が双方で提訴する事態になり、県と市とも行政が「活かそう会」との対話を拒んできたのですが、その硬直した状況を打開すべく持たれたのが、昨日の懇談会でした。

その実現は、市会議員が自分の選出された区の問題でありなんとかしようという動きと、同時に、「活かそう会」内部でも建物がすべて解体された今、「対話」路線に舵を切ろうという動きがひとつになったものでした。行政側もその動きに関しては注目をしています。市議と住民との懇談会の実現と、今後の進展に行政が加わるようになれば、今後の跡地活用に関してその解決に向けた大きな一歩になると思われます。会の最後は、住民からの懇談会の継続と行政の参加を要請する発言で終わりました。

住民側は跡地活用に関する要望を訴える発言が多かったのですが、市議からは注目すべき二つの発言がありました。ひとつは、南高校の跡地は都市開発の一部であり、都市計画のゼロベースを求めることには無理があるというものでした。もうひとつは、跡地の活用という住民の要望が先鋭化され、都市計画の一部であるという市政の立場と対立することがないようにしたいというもので、いずれにしてもこれまでの対立はリセットしたいというものでした。

私は二人の市議の発言を前向きなものと捉えました。それは住民に対して自分たちの要望だけを行政に求めるのでなく、多くの問題を抱えた現実・課題を踏まえた上で、これまでの対立は水に流して話を勧めて行こうという呼びかけだと思います。

行政側も、住民との話し合いなしには都市計画を進めることはできません。一方住民側も、都市計画の全容を見ようとせず、南高校跡地だけを取り上げて、世界史上最悪の都市計画などという扇動的な情宣は控えるべきです。ここは住民側も広い視野と柔軟な姿勢をもって、まちづくりに参加すべきでしょう。

行政側の都市計画も頓挫しているばかりか、本当にそれが数十年先を目指したグランドデザインになっているのか自信がないのだと思われます。ここは双方本気になって腰を据え徹底的に話し合い、研究し合ってまちづくりの在り方を求める必要があります。そしてそれが住民自治の根幹です。その第一歩が始まりました。

2009年12月15日火曜日

野中広務と姜尚中の対談を目の当たりにして


昨日東大で、「闘いとしての政治」「信念としての政治」というタイトルで、野中広務の講演、それに姜尚中と森達也(ドキュメンタリー作家)の鼎談があり、満員のところ、A女史の手引きで無事、傍聴できました。

野中広務と辛淑玉との対談を読んでいた私は、野中の老獪さを感じていたのですが、今回「社会的差別との闘い」というテーマもあったものの、野中広務は終始、政治家として戦争を忌み、平和を求め国民の繁栄を願う<保守>政治家の信念を披露、84歳の遺言と胸を張り発言していました。それはそれで彼の人となりを垣間見る思いがしました。確かに後藤田と通じるものがあるのでしょう。小沢批判は最後の最後まで厳しいものでした。

姜尚中は、野中広務が非差別部落出身と公言し差別の経験に触れたので、その点を彼の政権内での経歴、麻生首相の巷間伝わる差別発言とのからみで発言を引き出そうとするものの、ものの見事に空振りでした。彼は安易に部落差別を語る人ではなかったのです。彼の半眼に開いた両棲類のような眼、政治家としての信念を語る語調から、野中の両義性を賛美し少数者(非差別者)としての発言を引き出そうとする姜や森の誘いには一切、応じませんでした。

部落差別は現実を直視することでしかなくならないと正論を発する森達也の言葉にも、眉ひとつ動かさず無視しました。そこに私は部落差別の深淵を感じざるをえませんでした。結局、野中広務をして部落差別の現実を吐露させたのは、姜尚中や森の言葉ではなく、辛淑玉の、自分の信念によって身内との崩れる人間関係に涙する姿しかなかったようです。

<情>の人、多数派の幹部でありながら大政翼賛会的な集団化に警鐘を鳴らす人、などなど野中広務を評価する流れが出てきたのはどうしてなのでしょうか。辛淑玉との共著がヒットしたことがきっかけなのでしょうか。私は野中論議が非差別部落問題につながることはないように思います。「当然の法理」を前提にして外国人を排斥してきた戦後日本の在り方について質問をしかたったのですが、短い時間では噛み合わないなと感じ、質問書を途中で破ってしまいました。

自分では部落差別の現実にものを言わないものの、周りの人が取り上げることを野中広務はどのような思いで見ているのでしょうか。一筋縄ではいかない政治家は戦争を知らない世代に<平和>だけを語り死にたいと思っているようです。彼が自民党の幹部として犯した罪のことはもう触れられることはないようですが・・・

2009年12月13日日曜日

義母が救急車で運ばれたときに想ったことー国籍条項はやっぱ、やめましょう

みなさんへ

暖かい日もありますが、これからどんどん寒くなるそうです。
みなさん、年末にかけお体をお大事に。飲みすぎには
気をつけましょうね(自戒)。

昨日、自宅で義母が倒れこみ、救急車を呼びました。
幸い、今日会ったら元気でぴんぴんしてましたので安心です。

救急車には川崎市消防局と書いていました。
若く溌剌と動いてくれたのは若い人たちで、いわゆる、
消防局員です。外国人は排除されている職務です。
彼らにはとてもいい印象を持ちました。動揺する家族に
冷静に説明し対応してくれていました。

しかしそのとき思ったのは、日本語で説明できない住民
に対応するには外国語ができる消防局員(士)がいれば
いいなということでした。川崎の人口の2%を占める
外国人の数からして、外国籍の消防士はいたほうが
いいですね、昨日は痛感しました。

国の見解の「当然の法理」に基づき、「公権力の行使」を
川崎市は独自に「市民の意思にかかわらず、市民の自由、
権利を制限する」と解釈したので、義母のようにものも
言えない患者を病院に運ぶのは、「市民の自由、権利を
制限する」ことになり、「公権力の行使」であり、外国籍公務員
には就いてはいけない職務ということになるのでしょう。
ケースワーカー同じですね。

消防士ということですぐに連想する火事の際に出動する
仕事は、家を壊したりするので「市民の意思にかかわらず、
市民の自由、権利を制限する]ということになり、外国籍
公務員はだめということなんでしょうね、きっと。なんか
法律があるんでしょうか? 知っている方は教えてください。

地方分権が叫ばれ、地方公務員の住民へのサービスが
強調される今日、「当然の法理」を声高に批判せずとも、
「公権の行使」を時代に合った新しい解釈で表現できない
でしょうか?

川崎の場合、政令都市としては全国で初めて、
「門戸の開放」を実現したのですが、そのときは、
市民運動の要求と、国の「当然の法理」を両立
させるために川崎方式なるものを考え出し、
「公権力の行使」の独自な解釈を生み出し
「運用規定」に反映させました。

私たちは12年にわたってそのことが、外国籍公務員
の昇進・職務の制限をうみだす差別制度だと、市に
運用規定」の撤廃を求めてきました。しかし「運用規定」
そのものは何も外国人のために作られたのでなく
(もっともらしく「外国籍公務員のいきいき人事」などと
副題にしていますが)、私たちが強調してきたように、
ジョブ・ローテーションによって市職員の合理化をはかる
ことが目的でした。「運用規定」そのものの抜本的な
見直しが必要かどうかは組合が判断することでしょう。

「運用規定」に明記されている「公権力の行使」の解釈
だけを変更すれば、「当然の法理」云々の論議をせずとも、
また右翼的な民主党議員と闘って市議会で論争せずとも、
うまく行くような気がします。

国は、「当然の法理」の建前だけを尊重してくれればよく、
地方自治体がどのような職務を国籍条項にあてはめようが、
はずそうが、個々の具体的な職務の判断には口出ししない
と言っているのですから。

というわけでみなさん、「公権力の行使」とは何かの新しい
解釈を考える必要がありそうです。

外国人問題に精力的に関わり、姉妹都市の韓国・富川市
との交流を図ったり、日韓の高校生の交流を進めている
市の職員のみなさん、私たちが「運用規程」の問題を
取り上げないと批判してきたからと怒らず、ここは一緒に
なって英知を集めましょうよ。いくら当初の動機が純粋で
自分たちは「共生」を求めて一生懸命やったからといって、
現行の「運用規定」は明らかに差別制度です。

この問題をないことにして日韓の親善や、慰安婦問題や
教科書問題に言及しても、やはり問題は残ります。
現存する明らかな差別制度に口をつむぐことは、よくない
ことです。心も痛むでしょう。ここいらで一挙に解決するために
力(英知)をあわせようではありませんか!

こんなことを40年もやってきた私は来年65歳ですよ。
市の職員のみなさんもまもなく定年でしょう。まだそこまで
いかない若い職員、外国籍公務員になった人たち、市民運動、
組合活動、NPO従事者も、一緒にいかがですか。

これは、私の来年に向けた心からのメッセージです。


崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

2009年12月11日金曜日

阿部川崎市長との面談内容

1.面談前の応接室で

今日、午前10時40-50分の間に市長室で面談しました。

面談に当たり、待合室で会ったのは、船橋兵悟、総務局理事

秘書部長でした。彼は私の顔を見るなり、お久しぶりですねと、

挨拶をしました。話を聞くと、元人事課の課長で、「連絡会議」

との交渉の席に出て、「運用規程」の見直し発言をし、民団新聞

に 大きく報道された人物でした。



なんだか、阿部市長との面談の実現といい、斎藤まちづくり局室長、

大澤課長、船橋秘書部長との出会いといい、全く予期せぬ出来事
でした。誰かが画策してもこんな風にはいかなかったでしょう。


2.面談のイントロダクション

阿部市長には、お招きにあずかりありがとうございますという挨拶

で握手をして、私たちの『日本における多文化共生とは何か』を

手渡しました。市長は短く礼をいい、「読んでみます」と答えました。



私は、自分の考えとして、外国籍市民の問題は行くつくところ、川崎

の住民自治、市民の政治参加がどのように内実化、実現されるの

かということに尽きると考えていますと、自説から話を始めました。



3.国籍条項について

阿部市長からは、国籍条項のことは、みなさんの期待されたよう

にはできず申し訳ないという発言がありました。私は、国民国家と

いう制度がある以上、(国籍条項撤廃の)むつかしいことはわかり

ます。しかし煙草の吸殻を捨てることを注意もできないという事態が

(外国籍職員に)起こっており、改めて(運用規程を)見直していた

だきたい、と話しました。市長は、具体的な提案があれば話して

くださいということだったので今後、窓口になった大澤課長と話し

合いを進めていくことができると思います。



「見直しが必要」と公言された元人事課の課長が秘書室のトップ

になったということからして、ここはどのような見直しが可能か、

どのような問題があるのか、こちらの要求だけでなく、人事課の

「苦しみ」にも耳を傾け、一緒に解決の方向を目指したいと思います。



国籍条項の話は最後にも触れ3度、短く出しました。その際、

民主党の仙石さんは、私たちの主張をよく理解されていますと話し、

政権政党は阿部市長が決断されても支持しますよと、暗に伝えた

のですが、「有名な方ですね」という対応しかありませんでした。



4.南高校の跡地の問題について

南高校の跡地に関しては、住民の要望を聞くということは既に

言及していると市長は何度か強調しました。私は、それはわか

っていますが、住民も行政と一緒になって問題の内容を理解し、

解決に向けて努力する必要があり、そのためには行政と話し

合う場がなければならず、どのような形が相応しいのかは、

斎藤室長とよく話し合っていくことを認めていただきたいと

単刀直入に切りこみました。市長はうなずき、斎藤さんに話し

合った内容は自分に報告するようにと指示されました。



飯塚議員をはじめとした16日の市議との懇談会の話しにも

私が触れると、既に阿部市長はわかっているという表情でした。

裁判の取り下げに見られるように、住民は対話路線に向かう

のは間違いないと思われますという説明にも黙って聞いて

いました。様子を見ようということでしょうか。



(斎藤室長は面談後の私との話で、その懇談会は重要だと

いう認識をもっているようでしたので、この点はしっかりと準備

する必要があるように思えます。)



市長は、南高校の跡地の問題は川崎駅周辺地区という都市

計画の問題の一部であり、JRの駅建設を計画しており、土地

の確保もできている、また福祉施設の要望が住民の間で強い

ことも聞いているが、あの地域の周辺には福祉施設がかなり

できてきている、という2点を市長は強調していました。



今後行政との話し合いを進めるなかで、市長の発言を踏まえ、

その実現性、問題点、対案などをしっかり協議するべきだと

思いました。



いすれにしてもJR駅の建設、全体の都市計画のなかでその

面積の5割以上を占めるJFEの計画は5年前のものであり、

大きく社会情勢が変わってきた今、改めて南高校の跡地の

活用を含め、都市計画全体を見直すという作業が不可避に

なるでしょう。



5.臨海部の開発に市民の声を

最後に、臨海部の問題に関しては、学識者と行政による案

しか提示されてないが、もっと市民の意見を取入れてはどうか

と話しました。市長は具体的な提案があればいつでも受け入れ

検討するという対応でした。川崎区の今後の産業政策とも

からむ話なので、この点も市民として積極的に取り組む

必要を感じました。



6.最後に

阿部市長との今日の面談の内容は、いずれも簡単に結論が

でない問題で、その中で関係部局との話し合いを進め具体的

な提案を望むと市長が明言された以上、関係部局との真摯な

対話を市長が承認したことになり、市民側の責任は重大という
強い印象をもちました。


阿部市長が市長選の最終日、私との対話をするという約束を
実行されたことに敬意を表します。

崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

2009年12月7日月曜日

同時代史学会の大会にお出で下さり、どうもありがとうございました。

「共生」を批判する: 学問は過去の出来事(歴史)を捉えることができるのかー「同時代史学会」に参加して

崔 勝久 様

先週の土曜日には
同時代史学会の大会にお出で下さり、どうもありがとうございました。
また、丁寧な感想をお寄せいただき感謝しております。

私は、現在、学会の代表をつとめております。
市民に広く開かれた学会を目指しておりますが、
実態はまだまだ不十分です。
学会自体は、運動にはタッチしませんが、
学会に参加しているメンバーには
さまざまな運動に参加している人も少なくありません。

当事者が現存しておられる中で行う同時代史の研究は、
緊張感のあるものにならざるを得ません。
研究者にとっては自分の生き方が問われることにもなります。
しかし、それは古い昔の歴史を専攻している人には味わえない
醍醐味でもあると思います。

崔様のブログは、まだ一部分を拝見しただけですが、
大変に興味深く読ませて頂きました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

12月7日
浅井良夫

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浅井良夫さんへ

ご丁寧なご返事、ありがとうございます。
日立闘争の件で研究発表された土屋さんからは、
私の感想に対して大変ご丁寧なご返事を送って
くださいました。

思想と現実の出来事とはどのような関係になるのか、
これは文献を集めただけでは見えてこないものなのでしょう。
もちろん、証言も同様です。それらの「証拠」の真偽を
明らかにする作業抜きに、先に研究者の結論ありきで、
そこに証拠を当てはめるという手法が社会科学の論文で
多く見られると私は感じて来ました。

「在日」の運動とそれを担ったリーダたちの思想との関連は
大変、興味深いもので、アメリカの黒人神学、韓国の民衆神学
との相関関係、同時に同時代的な全共闘運動、解放同盟の
実践などとの関係から浮かび上がらせると、歴史の一駒が
浮かび上がるように思うのです。

土屋さんや、加藤さんの今後の御研究に期待しています。
その作業はまた、現在の閉塞状況を突破していく切り口に
なるのではないかという期待が、私にはあります。

先生の、また貴学会のますますのご発展を祈念します。
今後ともよろしくお願いします。

崔 勝久

PS:浅井さんのご返事をブログに掲載させていただいて
よろしいでしょうか。

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崔 勝久 様

ブログに載せて下さっても差し支えありません。

日本の学問が、欧米から理論を輸入し、
それを当てはめる悪弊からいまだに脱していないことは
ほんとうに嘆かわしいことです。

12月7日
浅井良夫

2009年12月6日日曜日

学問は過去の出来事(歴史)を捉えることができるのかー「同時代史学会」に参加して

昨日、東大の本郷キャンパスでの「同時代史学会」学会の研究発表会に、横浜国大の加藤さんのご紹介で参加しました。加藤さんが紹介くださったのは、その日のテーマが「60年代論の再構築」であり、「越境する市民権運動―川崎市南部における日立裁判支援運動と黒人神学」だったので、当事者として話を聞いてみないかということでした。

HPで発表者の土屋和代さんのレジュメを読み、実は、あまり気が進まなかったのです。というのは、以前、東大の博士論文で川崎の「多文化共生」を教育の分野から取り上げ、日立闘争をその後の川崎の「共生」運動のキートーンとして位置つけながら、当該の朴鐘碩と私への接触がなく、数度の手紙での問題点の指摘に対しても全く反応がなかったという、韓国の研究者との苦い経験があったので、今回も同じ思いをするのは嫌だなと思っていたからです。

しかし、この学会は、若い学者に発表の機会を与え、それを経験あるいろんな分野の学者が愛情をもって鍛えていく、問題意識の交換をしていく場だと感じました。最初の発表の「青春文学と青春歌謡にみる60年代」は、斎藤さんの軽妙な語り口(歌を口ずさみながら)だったので、そうかここはこんな雰囲気の学会なんだといい印象をもちました。次に登場したのが、日立闘争を取り上げた土屋さんの発表でした。

日立闘争当事者が参加すると加藤さんから事前に知らされていた土屋さんは逆に話しづらかったのではないかと心配しました。4-5年にわたってインタビューや資料収集を重ね、淡々と話される土屋さんに私は大変、いい印象を持ちました。地域での黒人差別の問題を直視し、その運動の必然性、正当性を黒人神学として保守的な信仰理解から展開していたコーン博士は、まさに私が学生時代、「在日」のアイデンティティに悩み、日立闘争に関わっていたときに読み、また実際に川崎でお会いした人物でした。

土屋さんは、その黒人神学を受容し「在日」の立場で実践した人物として李仁夏牧師をとりあげ、市民運動のトランスナショナルな一面を実証するのに成功していました。李先生こそ、「在日」を代表する知識人であり、日立闘争の中心人物、差別との闘いを地域で切り開いた人物なのですから、彼の思想(神学)と実践とを結びつけようとしたのは当然です。しかし、やはり私が危惧したとおり、思想と出来事の因果関係を土屋さんは逆に捉えていました。彼は目の前でアイデンティティに悩む「在日」青年の悩みを受け止め、実践を支え、ともに闘い、そこで見えたことを思想として書き表したのです。彼の思想(神学)に影響を受け、運動がはじまったのではありませんし、運動が彼の神学に影響を受けたとは言えません。彼はその運動の意味を解き明かしたのです。

コメンテータからも鋭い質問がありました。その中で二点、ひとつは、「在日」のアイデンティティの回復を目指す運動と、行政との交渉(改良運動)の関係。二つ目は、「在日」の地域での運動の中での分裂は、他の地域でもあったのか、ということでした。しかし土屋さんの報告では、「在日」の地域での運動の内部分裂という現象は説明されていたが、それが何であったのかという点では十分な理解がなかったのではないかと感じました。

当事者として発言を求められた私は、2分ばかり、「在日」の差別と闘う運動は全国的に「多文化共生」に収斂されている、その「共生」は政府・企業を巻き込んだ新自由主義の流れの中で捉えるべきだと話しました(これではわかりませんね、何のことか)。

その後の懇談会では、いろんな方にお目にかかりました。新しい出会いを喜んでおります。また土屋さんとも話す機会があり、年甲斐もなくこちらの問題意識や、過去の経験等を話したのですが、土屋さんの今後の研究の参考になったのかどうかはわかりません。しかし60年代に日立闘争勝利の後、地域活動を始めた私たちは既に「貴重な存在」になっていて、現在の閉そく状態を突き破るためにも、その時の出来事を理解、把握することが重要だと語られていたことには賛同します。

学問(研究)は過去の出来事(歴史)を捉える事ができるのか、これは大変困難な仕事と思われます。文献、インタビューをできるだけ多く集めるだけでなく、その真偽さえ批判的に捉えなおし、歴史という広大なステージの中で、ひとつの出来事を複合的に理解して、またそれを歴史とは何であったのかと総合的に解釈していくわけですから。研究者って大変ですね。土屋さんをはじめ、学会の皆様のご活躍を心より祈ります。皆様の研究成果から学び、実践の場で活かしたいと願ってやみません。

2009年12月2日水曜日

阿部市長との面談の実現(?!)

先月末、川崎市総務局市民情報室市民の声担当から、阿部市長が私との面談をしたいという、驚くべき連絡がはいりました。

私は、阿部市長に「市長への手紙」コーナーに数度メールを送り、返事をいただいたことがありました。南高校の跡地と、国籍条項に関することですが、後者には触れていませんでした。調べてみると、私との面談は市長の人事課の課長への指示に基づくものであることが判明しました(偽メール―ではありませんでした!)。

人事課課長への市長からの指示は、市長選の投票日に私が阿部市長に出会い、「阿部三選阻止」のビラを渡しながら、阿部市長とは考えは違うが、対話をしたいと申し込んだところ、「喧嘩でなく、対話であれば約束します」と話されたからだというのです。私はビラを渡した後バスに乗ったものの、言い忘れたような気がして阿部さんのところに駆けつけたところ、「戻ってきてくれてありがとう」と話され握手したことを思い出しました。そのときの、「対話を約束します」という言葉は何故か、必ず実現されると確信しました。

人事課課長への指示ということから、国籍条項の問題を含めても話しあう考えがあると推測できます。私は、担当局の方としっかりと意見交換をしてからであればと考え、阿部市長の面談の申し込みに応じることにしました。「面談はおひとりでお願いします」とありますので、一人で面談します。

今年の春に入院したときに読んだハンナ・アーレントの、「話し合いの保障」こそが民主主義の要ということは、「在日」の在り方、住民自治の仕組み、実際の運動の面で、私のものの考え方、行動にとって最も重要な基準になったと思います。意見の違いがあってもいいではないか、どういうことがあっても逃げず、排除せず、対話をするという信念で、私は苦しい局面を切り開くことができました。それが師走になって、阿部市長から面談を申し込まれるようになるとは、意外でもありながら、大きな喜びです。

市長との個別面談でどのような進展になるのかわかりませんが、まず担当の方がたとしっかりと話し合い、市長に対しては感謝とともに、率直な話をしたいと願っています。