2008年12月25日木曜日

クリスマス・メッセージー来年に向かって

みなさん、お変わりありませんか。

昨日はクリスマス・イブ、私たち夫婦は、ホームレスの人が大多数の小さな教会の礼拝に出ました。これから数年続くと思われるこの不況の中で、私たちの私生活の今後を含め、多くのことを考えさせられました。
私は寒くなるにつれ、また坐骨神経痛で杖を使うような生活です。今年は、杖に始まり、杖に終わりそうです。まったくこの世はままなりませんね・・・・

体はなかなか思うようにならないのですが、それとは裏腹に、この10年、川崎市の「多文化共生」政策を
批判してきた運動は大きな転機を迎え、心がはずみます。昨年の上野千鶴子さんを迎えての「多文化共生を考える集会」がきっかけになり、今年の7月に私たちのこれまでの運動の集大成ともいうべき本を出しました。それ以来、私自身の世界は大きく広がりをもちはじめました。川崎の「共生」批判は世界的な、歴史的な課題としてあるということをはっきりと自覚するようになり、その自覚の下で、来年は新たな闘いになると確信します。

まず、「共生」の看板を掲げながら外国籍職員の国籍条項を頑なに守る阿部市政についてです。この「当然の法理」に基づく政策は戦後一貫した日本政府の見解なのですが、この解決は実は簡単であることがわかりました。そんな国籍条項なるものは撤廃すると明言する市長を新たに立てればいいのです! 来年10月は川崎の市長選です。最有力候補とも会いましたが、彼は、当選すれば国籍条項の撤廃を約束しました!

もうひとつ、私がこの40年「在日」の生き方を求めてきたその目指す方向がはっきりとしました。今日はそのことを報告し、今年のクリスマス・メッセージとします。意外なことに、それは在日の権利の要求ではありませんでした。被参政権のない、また北朝鮮を排除する、今盛んに語られる参政権の要求ではなく、「住民自治の確立」がそのキーワードです。

私は本の出版がきっかけで立命館大学のシンポに呼ばれ、その際に知った京都の市長選で主張された「区民協議会」のコンセプトに関心を持ちました。是非、川崎で実現させたいと考えています。日本の民主主義が形がい化しているのは住民自治がないからと捉え、戦後60年の代議制民主主義を捉えなおすには、住民が主役となる仕組みを作らなければならないというのです。そこでは、住民は国籍に関わりなく(永住権の有無も問いません)、公募公選で、予算をとり、区のことはそこで決定するのです。住民不在の行政、市議会への批判にとどまらず、住民が自ら考え、決定し、責任をとるという仕組みです。

外国人は被選挙権・選挙権をもちます。国会での決議は不要で、条例の制定で可能になります。住民が当事者として自分のことは自分で考え決定し、責任をもつという住民自治の実現です。外国人は住民ですから、その住民自治を担うメンバーとして責任を担います。在日の権利の主張の観点では、この問題は見えてこないので、民族運動としては捉えませんが、私としてはこの40年間の総括と考えています。

外国人の権利の主張ではなく、住民自治の観点からこの運動を進めたいと考え、公務員の国籍条項の撤廃と合わせ、この主張を受け止めてくれる候補者を来年の市長選に推すことになります。この話はすでに進行中で、市長立候補者との政策協定が鍵になるでしょう。李仁夏牧師が生きておられたら手を叩いて喜んでくださると確信します。

マイノリティが参加してマジョリティを変革することで、マイノリティ問題が解決されていくのです。マイノリティのためになることがマジョリティのためになるというこれまでのテーゼは間違いです。結局、為政者はマイノリティを一定の領域に抑え込むことで全体の統治を自分の思うように進めるという結果が出ています。アンチテーゼではなく、私たち自身がマジョリティの抱える問題の本質を変革していく主体になり、そのことによって、これまでの国民国家に基づく仕組みではない、住民主体の自治の仕組みをつくることによって、歴史は大きく変わっていきます。

日本人が抑圧者で、在日が被抑圧者であるというこれまでの捉え方でなく、両者とも歴史の課題を担うということではまったく対等にその責任が問われるという観点に立ち、自分の生きる足元から変革していく、このことが単なる夢でなく、来年は具体的な目標になります。みなさん、来年は忙しくなりそうです。くれぐれもお体にには気をつけてくださいね。

Merry Christmas and A Happy New Year!

みなさん、よいお年をお迎えください。


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崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352

2008年12月3日水曜日

「共生」を批判する: N教授への手紙ー国民国家の呪縛に抗して

康成銀さんへの謝罪


康成銀さんからメールをいただき、私の記事が正確でなく、また私の見解があたかも康成銀さんからの引用で
あるかのように記したことに対して、大変親切なご指摘をいただきました。謝罪し、訂正いたします。

本文は以下のように訂正しました。[]内が訂正した文の全容です。

[第二セッションの康成銀氏(朝鮮大学校)によると、「在日コリアン社会における「分断体制」」という発題をしそのレジュメの中で、総連の元になった在日の組織が1950年に「民戦」(在日本朝鮮統一民主戦線)を作ったということが記されています。(「民戦」は独自の組織でありながらも、日本共産党から直接・間接的な指導を受け、日本の革命活動を担おうとしました。)](()内は修正した箇所)

民戦が組織として日本共産党の傘下組織であったというのは私の間違いです。独自の組織であったが、直接・間接的に日本共産党の指導を受けていたと記すべきでした。私の強調したかったポイントは、社会を変えようとする者が、日本共産党の六全協を契機として、日本人も在日朝鮮人も国民国家の論理にすべて吸収されるようになった、国民国家の論理を超える現実の運動を作り思想として育て上げるよう必要があるのではないか、
ということでした。これは今現在においての課題でもあるのです。

また私が記した、ナショナル・アイデンティティを最優先することになるこれまでの民族運動についての記述は「主観主義的」との批判を受けました。この点に関しては康成銀さんとも意見の交換をさせていただきたい旨を本人にメールしました。この点に関しては、わざわざ鳥取から2度にわたり川崎の集会に参加してくれた民団の役員の方からも以前、同じように批判されました。

立命館でのシンポジュームにおいても、この点について私への批判がありました。今後継続して今後の課題として考えていきたいと思います。私はパネラーとして、主体性についてはいろんな可能性があるのであり、それは本人が判断すべきこと、それをどうして民族主体性が最も重要なものとするのか、また(民族)アイデンティティの追及が当然のこととして語られているが、そのそもアイデンティティとは何かということを問いました。

私は民族主体性ということが観念化され、政治化され、足もとの在日の抱える問題に関わることとを拒んできた過去の日立闘争のときの各民族団体の反応について話しました。足もとの例えば、介護や保育、教育の問題は在日にとって、すべて日本人に委ねることなのか、自分の住む地域において責任をもって関わるべきことなのではないのか、と発題しました。それに対して、徐勝さんからは、日帝時代においても一般の民衆は飯を食うていたという現実はあったのであり、足もとの問題だけを強調するのは問題だという指摘がありました。いずれ、立命館からシンポのことは出版される予定とのことですので、私ももっとしっかりとした主張にしたいと考えています。

崔 勝久

川崎市議会の横暴についての報告書

みなさんへ

吉井さんから送られてきたメールによると、川崎の市議会の実態、問題の所在が正確に説明されていますので、みなさんに転送することにしました。議会は市民を締め出したところで、重要な、議会基本条例を審議しているというのです。

私はこのような問題は、議会、議員の質ではなく、地方自治の制度的な欠陥だと思います。
行政も議会も住民を阻害していても、住民は手も足も出ないという状態です。

川崎は住民自治条例と、議会基本条例によって形式的に民主主義を貫徹させた都市になることです。しかしいくら市長が、「市民の市政への参加は責務」としたところで、それは説教であり、実際問題として住民は疎外されたままなのです。ここを打破するには、これまでの地方自治の仕組みを根底的に変革し、住民が自分で考え決定するようにするしかありません。

来年の市長選でこのことを政策に掲げる候補者を立てましょう。


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崔 勝久
SK Choi

skchoi777@gmail.com
携帯:090-4067-9352



---------- 転送メッセージ ----------
差出人: mag2 0000219072
日付: 2008/12/03 6:00
件名: 探検!地方自治体へ 第72号“制度的真空状態”での川崎市議会基本条例検討
宛先: skchoi777@gmail.com


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探検!地方自治体へ~川崎市政を中心に~      第70号 08/12/03

★“制度的真空状態”での川崎市議会基本条例検討★
~質問書に対する川崎市議会からの回答~

1.問題の所在
2.回答の中味
3.“制度的真空状態”の雰囲気
4.議会はチェック機構を創設すべき
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1.問題の所在

「川崎市議会へ質問書を提出~議会基本条例の検討プロジェクトの審議過程公開拒
否~」(第70号 08/11/13)
http://archive.mag2.com/0000219072/20081113060000000.html

に対する回答を2008/11/24、16時30分頃、川崎市役所本庁舎総務局において議会事
務局から口頭で聞いた。

何も新味のある情報は得られなかったが、この間の活動で、議会が“制度的真空状
態”で重要な審議をしていること、議会をチェックする機構が内部に何も存在してい
ないことに改めて気が付いた。本稿はそのことについての試論である。

2.回答の中味

先ず、質問ではないが、『「市長への手紙」に準じ、受付日から15日以内を目処
に「文書」で回答』を要求したことについて、回答は以下、
『「市長への手紙」のような制度は設けておらず、従って、文書回答の規則も存在
しない。今回は事務局から口頭で回答する。』
確か、「いつでも要望書を受付けます」とのことであってが、ここにきて、規則は
ないから答えても答えなくても「議会の勝手でしょ!」という返事と同じになった。
本音が出たというべきであろう。

「議会のあり方検討プロジェクト」についての質問に対する回答
1)質問…会議の傍聴或いは会議の討論部分の市民への公開を拒む理由
公文書開示請求に対する不開示理由と同じである。
1.今後のプロジェクトでの検討、協議に支障が生じると考えられる。
2.市民の間に混乱を生じさせる恐れがある。
3.公にすることにより、率直な意見交換若しくは意思決定の中立性が不当に損なわ
れる恐れがある。

これについては、これまでの回答と同じであり、言葉が見あたらないくらいである
が、すでに反論してある。

2)質問…公式機関の特別委員会ではなく、「団長会議」諮問機関とした理由
議員の身分や位置づけ、議会の役割や位置づけ等、幅広い調査検討が必要であり、
そのため“任意”の会議である「団長会議」の下にプロジェクトを置いた。

まったく説明になっていない。同じように議員が集まるのであるから同じことをす
るだけであり、笑ってしまうような回答である。このような回答をする以外にない事
務局の担当者は気の毒であり、それを結果として強いたプロジェクトの大島委員長
(高津区選出・自民党)は無責任というべきである。

3.“制度的真空状態”の雰囲気

“任意”の会議との説明を受けたと書いた。では、『任意の会議とは何か』を聞い
た処、回答は次のようであった。

『規則等の規定がまったくない会議で議題、決定等については特に定めがない。諮
問機関も同様であり、従って、第1回会議で「傍聴及び報道機関の取材お断り」を決
定した経緯がある。』

更に説明して、『例えば、この会議に出るために役所に来る途中、事故にあっても
所謂通勤災害にならない。』
えっ!と思ったので、『では、議会事務局が何故一緒にやっているのか?』と聞い
た処、怪訝そうな顔をして『議会をサポートするのが仕事ですから…』との答が返っ
てきた。こちらの質問の意図がわからなかったらしい。

以下、少し会話を重ねたが、議会事務局担当者の感覚が筆者の感覚と全くずれてい
ることがわかり、『民間なら部屋を使うことも許可されないだろう。部屋の電気代も
問題になる。』と言って切り上げた。問題はこの感覚を育てた雰囲気であると考えた
からだ。

“制度的真空状態”とはこの感覚のズレをどういう言葉で表現したものかと考えあ
ぐねていたときにふと思いついた言葉である。

制度的真空とはときに見かける表現だから、頭に浮んだと思われる。但し、これは
“無法”とは異なる。規則はないのであるが、それにかわる“暗黙の了解”があるの
だ。どう言おうか?「そんなに難しいことを言わなくても、だいたい判っているよ」
という世界である。

閉じられた世界である川崎市議会(どこの自治体議会も同じであろうが)では、多
くは“暗黙の了解”で運営され、外部から注目されないが故に、自らだけで「常識」
を無意識に形成してきた。しかし、地方分権改革が急激に進むなか、住民からの監視
の眼が光るようになってくると、その「常識」のなかに実は「非常識」も培っていた
ことが明るみにされてきたのである。今回のこともその一つであると考えれば、残念
ながら驚くにあたらないと言うべきであろう。

4.議会はチェック機構を創設すべき

これまでのことをまとめてみよう。

1)川崎市では、議会の最高規範となる「議会基本条例」案が“制度的真空状態”に
おいて決められようとしている。
2)川崎市には(他の地方自治体共通か)、議会をチェックする機構が存在しない。
3)行政のチェックは議会が行う仕組である。また、広聴制度「市長への手紙」、苦
情申立制度「川崎市民オンブズマン」等、市民のチェックを可能にする制度を作って
いる。
4)議会には「請願・陳情」という市民が政策をお願いする制度だけである。「議長
への手紙」はない、「川崎市民オンブズマン」はオンブズマン条例第2条で市議会を
対象から外している。議会は自らの内部にチェック制度を設置していない。

5)会議の傍聴或いは討論部分の公開を拒む理由として、公にすることによる“会議
メンバーへの制約”及び“市民の間に混乱を生じる怖れ”を挙げている。両者共に全
く理解しがたい。公に討論することが議員の仕事、それを聴くことが市民の立場であ
る。
6)一方、「団長会議」は規則等の規定がまったくない任意の会議である。その諮問
機関である「議会のあり方検討プロジェクト」も同様である。
7)規則等の規定がない任意の会議で、傍聴も含めて市民に非公開で、議会の最高規
範となる「議会基本条例」案が検討され、これをチェックする手立てが市民に何もな
い。
8)「公文書開示請求」に対する「部分開示」について「異議申立」をできるが、形
式的な相手は市長である。

9)規則等の規定がない任意の「団長会議」の下、恐らく他の議員にも非公開の“制
度的真空状態”において、実質的に「議会基本条例」となる案を策定している。
10)更に、この状態を“法令の見地”から批判する議員もいない。
11)本来、委員会条例で規定される特別委員会で議論するのが筋である。
12)議論の内容が何であれ、議員だけでの会議であるから「団長会議」の諮問機関で
あろうと、特別委員会であろうと、中味は変わらない。 
13)従って、「団長会議」の諮問機関として検討する理由は何もない。

14)また、議会事務局は特別委員会の設置について職責をもって働きかけるべきである。
15)奇妙にも規則のない『任意の会議』の記録が公文書になっている。

16)現状、慣行の束によって議会運営が行われているのは理解できないわけではない。
17)また、団長会議も必要な機能であることも判る。
18) しかし、この慣行を安易に利用することを慎むだけの思慮深さが必要である。
19)慣行による惰性が非常識化を生んでいることを今回の例は示している。

結論として、
20) 議会は自らの内部にチェック制度を設置すること、これを「議会基本条例」の議
論の一つに加えることが必須と言える。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
編集発行人 吉井俊夫
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2008年11月26日水曜日

再度の「呼びかけ文」

みなさんへ

29日の川崎市民フォーラムで発表できるように、これまで何度か修正
してきた呼びかけ文をさらに、書き直しました。

勿論これはどこかからぱくってきたようなものではなく、
これまで私たちが日立闘争以来、追い求めてきたことの
ひとつの帰結だと考えています。

しかし多くの方々から教えていただいたこと、アドバイスして
いただいたこと、または著作を通して知ったことをすべてを動員
して私の問題意識においてまとめたものです。関係するすべての
方々に感謝申し上げます。

勿論、これは最終ではなく、ここから始まるものです。みなさんの
アドバイスをお願いします。

これまら師走に向かって寒くなります。お体にご注意ください。

崔 勝久

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阿部川崎市長三選阻止への呼びかけ

<川崎市政に変革をー地域住民を主役に>

何故、阿部三選を阻止しなければならないのでしょうか。
阿部市長は「構造改革」を掲げ、市場原理を最優先し福祉を軽視する新自由主義の政策によって、川崎市民の格差の拡大と貧困化をもたらしました。川崎市の「行財政改革」を目標にした阿部氏は、行政の合理化、民営化を図り、福祉や保育・教育の分野にまで「市場化」「民間化」という競争原理を持ち込むことによって、市民生活に多大な被害をもたらしています。市が1億円を支援した民間保育園の倒産はその一例です。

阿部氏は、「多文化共生社会の実現」を看板にしながらも、いざというときに戦争に行かない「外国人は準会員」と公言してきたことを頑なに撤回しようとしません。外国人を二級市民と見做す考え方は、彼の「改憲」の持論と表裏一体で「戦争をする普通の国」にするということであり、国が憲法で二度と起こさないと約束した戦争に、川崎の住民を加担・動員させていくということを意味します。

川崎市をどのような街にしていけばいいのでしょうか。それは、すべての住民の、憲法で謳われた平和を希求して人間らしく生きる基本的人権、福祉の向上を保証する、「開かれた地域社会」を目指すことにほかなりません。地域住民が主役となるには、地域住民の自治が保障されるように行政の仕組と、市政の根本的なあり方を変えるしかありません。

「戦争をする普通の国」にするための「改憲」と対応した道州制導入によって、住民自治は機能しなくなります。そのような政府の動向に賛同する阿部市長に対抗して、私たちは、地域住民が主役になるためには小さな行政単位の地方自治が必要不可欠であり、地域住民が主役となる住民自治を勝ち取っていくには阿部三選阻止をしなければならないと判断しました。地域住民を蔑ろにする阿部現市長の三選を阻止する運動に賛同される組織、個人のネットワークづくりと共に、阿部三選阻止の署名運動を展開いたします。上記の趣旨に賛同くださる個人、団体の参加を求めます。

私たちは地域住民が主役の川崎市政にするために、以下の具体的な提案をいたします。
1.地域住民が主役、当事者として市政に参加、政策を決定していく区民協議会を設置する。
2.教育・保育や介護、福祉、医療の分野おける行政の責任を明確にして、「民間化」「市場化」の政策を見直し、すべての市民の基本的人権を保障する政策を提言する。
3.大企業誘致や公共事業の推進においても地域の住民の声を反映させ、地元の中小企業を優先する政策と、公共事業に従事する人たちの最低賃金(時給1000円)を保証する条例を提言する。


阿部3選を阻止する川崎市民の会
川崎市川崎区小川町11-13、日本基督教団川崎教会付
電話: 090-4067-9352、Fax: 044-599-0609               
eMail:skchoi777@gmail.com

2008年11月24日月曜日

川崎の民間保育園の倒産の意味すること

みなさんへ

川崎市の職員から私に送られてきたメールで、倒産した民間保育園に 莫大な援助金が支払われていたという事実を知りました。

これを無駄遣いという観点から記されていますが、この事件は新自由主義政策に基づいた政策によるもので、本来、行政が責任をもつべき保育行政について、規制緩和 によって、民営・民間に保育園を経営させていたがゆえに、起こるべきして起った 事故です。神戸大学の二宮教授が行政の責任放棄によってどのような事態が起こるのは多くの著書で指摘されていましたが、まさにそのとおりのことが起こったようです。

川崎市政に変革を 住民が主人公ー阿部三選阻止を

崔 勝久
SK Choi
skchoi777@gmail.com携帯:090-4067-9352

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川崎市の職員からのメール

市職労の仲間のみなさん。
保育園の民営化の実態として以下のことが雑誌「AERA」に掲載されていたということ。 これが、阿部行革の正体の一つなのでしょうか。この件でもっと詳細な事情をご存知の方、 お知らせください。

首都圏を中心に29か所の保育園や学童保育所を経営していたエムケイグループが、経営難を理由に 突然11月から全園を閉鎖した問題を取り上げた記事でした。

「泣きながら家に電話して、帰宅していた夫を呼び出した。夫はすぐに車でかけつけて事情を聞き、 園内から運び出した子どもの着替えなどを憮然とした表情で車に詰め込んでいた。」・・・ ~2歳の子どもを認可保育園「上小田中スマイル保育園」に預けていた川崎市高津区の会社員女性(36)~【AERA】

また、「溝口スマイル保育園」も・・・・
そのエムケイグループに対して川崎市は、約1億1200万円の補助金を支払っていたとのこと。 民間に任せてコストを削減したつもりが、短期間で撤退されたため、1億円もの税金がムダになったことになります。

2008年11月23日日曜日

阿部川崎市長の「道州制」についての見解

市長記者会見記録日時: 2 0 0 8 年6月3 日( 火) 午前1 1 時0 0 分~ 午前1 1 時5 5 分

( 道州制について)
記者: この前、道州制の線引きみたいなものが出ましたけれども、市長は道州制については、どのようなお考えをお持ちでいらっしゃるのでしょうか。

市長: 国の権限を道州に移して、そして今の都道府県の権限を市町村に移すというような形で、住民に近いところにどんどん権限を移す。あるいは、規制をなくしていくという考え方で道州制を進めるというのは賛成です。基本的に霞ヶ関1箇所、永田町1 箇所で全部国民の細かいところまでコントロールをしていくというのは無理な時代になっていますので。ですから、もう少し身近なところで制度構築をするなり、地域の特色をもう少し活かせるような仕組みになるのが望ましいと思います。極端にいえば、北海道の通貨は本土の通貨より2割ぐらい安くしてもいいのです。そこまでできるかどうかなのです。そうすると、北海道の農産物が売れるようになるわけですよね。だから、そこまで道州制を考えると非常に素晴らしい制度になると思います。北海道円というようなものをつくって。

阿部川崎市長三選阻止への呼びかけ

阿部川崎市長三選阻止への呼びかけ
ー川崎市政に変革を 住民が主人公ー

何故、阿部三選を阻止しなければならないのでしょうか。
阿部市長は「行政改革」を掲げ市場原理を最優先し福祉を切り捨てる新自由主義の政策によって、川崎市民の格差をますます拡大してきました。川崎市政の財務改善を目標にした阿部氏は、住民を中心とした政策でなく、市場原理による行政の合理化、民営化を図り、福祉や教育、医療の分野にまで競争原理を持ち込む体制によって、市民生活に多大な被害をもたらしています。住民無視の市政であったと言えましょう。

阿部氏は、当選した当時から、外国人はかけがいのない市民として「多文化共生社会の実現」を看板にしながらも、いざというときに戦争に行かない「外国人は準会員」と公言してきました。外国人を二級市民と見做す考え方は、憲法を改悪して戦争に備えるという彼の持論と表裏一体です。
川崎市をどのような街にしていけばいいのでしょうか。それは、すべての住民が憲法で謳われた人間らしく生きる基本的人権を求める「開かれた地域社会」を目指すことにほかなりません。そのためには、住民が主人公となるように政治の仕組みをはじめ、市政の根本的なあり方を変えるしかありません。戦後60年経ちましたが、川崎を真の民主主義の街にすることで、日本は勿論、世界中にそのメッセージを発信することになるでしょう。

道州制が具体化される中で、私たちは住民が主人公になる街づくりをするためには、道州制を推進しようとする阿部三選阻止をしなければならないと判断しました。阿部三選阻止の運動に賛同される組織、個人のネットワークづくりと共に、阿部三選阻止の署名運動を展開いたします。上記の趣旨に賛同くださる個人、団体の参加を求めます。

私たちは住民が主人公になる市政という原則の下で、以下の具体的な提案をいたします。
1.住民が当事者となって参加・決定していく区協議会を設置する。
2.教育・保育や介護、福祉、医療の分野おける行政の責任を明確にして、すべての市民の基本的人権を保障する政策を提言する。
3.大企業誘致や公共事業の推進においても地域の住民の声を反映させ、地元の中小企業や労働者、一般市民を中心にした政策を提言する。



阿部3選を阻止する川崎市民の会
川崎市川崎区小川町11-13、日本基督教団川崎教会付
電話: 090-4067-9352、Fax: 044-599-0609
eMail:skchoi777@gmail.com

2008年11月22日土曜日

N教授への手紙ー国民国家の呪縛に抗して

拝啓 N教授

N教授、もう日本に戻れらたのでしょうか。韓国での学会はいかがでしたか。
先週、訪韓の前日のお忙しいときにわざわざ私のために時間をとってくださり、ありがとうござました。心より感謝いたします。私の話をじっくりとお聞きになり、川崎に来てみたいとおっしゃったので、私は驚きました。「文明・文化」論は普遍的なものでなく、フランス、ドイツの国民国家を成立させるためのイデオロギーであったと看破され、国民国家の本質を突き、現在の新自由主義とは新植民地主義であり「多文化共生」はその流れの中の施策と理論展開されるその背景に、ご自分の足で東北中国、韓国の「多文化共生」が語られる、あるいは外国人が国民国家の中で生きる現場を見て、そこで生きる人の話を聞くなかで、理論構築されるのかと改めて思いいりました。


さて、N教授が私たちの本(『日本における多文化共生とは何か』)についての感想で、私たちの主張を理解されたうえでなおかつ、それでは私たちが民族の歴史にどのように関わるのかということが気にかかるとおっしゃいました。私は応えることができませんでした。ただ足ものと闘いであった日立闘争が、韓国の民主化闘争の中で韓国との共通の闘いになり、裁判勝利に関しては韓国の新聞がこぞって朴鐘碩の「告発精神」から学びたいとあったことを例にして、私たちの足もとでの闘いが民族の歴史の中で評価されるようになったように、在日の人間としての在り方を求める行動が、民族の歴史との関わりの中で何らかの解釈・評価をされるのではないかという私の思いを話させていただきました。

しかしそ私の発言は十分なものでないということを私は自覚をしておりました。特に、立命館でのシンポジュームで民族主体性、アイデンティティが強調されればされるほど、徐勝氏や、朴裕河・上野千鶴子両氏を批判する金富子氏たちと、民族の主体性の相対化、具体的な足もとの闘いを主張する私の考えがどこでつながるのかを考えざるをえませんでした。それは言いかえれば、私の主張は、民族の歴史の中できっちりと位置つけたものでなければならないということです。

第二セッションの康成銀氏(朝鮮大学校)によると、「在日コリアン社会における「分断体制」」という発題をしそのレジュメの中で、総連の元になった在日の組織が1950年に「民戦」(在日本朝鮮統一民主戦線)を作ったということが記されています。「民戦」は独自の組織でありながらも、日本共産党から直接・間接的な指導を受け、日本の革命活動を担おうとしました。52年には北朝鮮(共和国)から路線転換方針がだされますが、その間、日本人と革命運動をした「民戦」の活動を康氏は、「一時、路線上、方針上の誤りを犯します」と記しています。その後、コミンテルンの指示があり、55年に日本共産党の「六全協」で、組織的にも日本共産党と朝鮮人の関係は切れます。そのとき以来、共産党は国籍条項を設定し現在に至ります。革命運動を日本人と一緒にしてきた朝鮮人は、共和国の在外公民として総連の活動をすることになります。すなわち、在日の活動家は、日本に関しては内政不干渉を貫い、国民国家を大前提にするようになったということです。

徐勝氏や金富子氏やその他シンポに参加した在日の元活動家の学者もまた、国民国家、Nation Stateという枠組みを前提にし、韓国の民主化と分断国家の統一を求め、在日として民族主体性を求めたそれぞれの政治的な活動を担ってきたのだと私は考えます。彼らは従って、ナショナル・アイデンティティを批判的にみる、あるいは民族主体性を相対化する主張は基本的に受け入れることができないのだと思います。

しかし私は今、祖国の分断・戦争を見ながら日本人コミュニストと日本の革命を行うしかないとトランスナショナルな行動をした当時の朝鮮人の気持に感情移入します。ひょっとすると私の主張はその範疇に入るのかもしれないとさえ感じます。勿論、革命に対する考え、価値観は根本的に変化しました。新左翼の諸君はいまでも革命をスローガンにした運動をしているようですが、私はそこに参加したいとは思いません。戦後60年、今の新自由主義の(N教授は、それを新植民地主義と看破されました)世にあって、革命ではなく、何によって資本主義をベースにした市民社会にあって人間解放は可能なのかという、現代の最大の課題にぶちあたります。小賢しく提案されるようなものではなく、多くの世界の賢人・活動家が模索していることなのでしょう。

私は上野千鶴子氏の「当事者主権」に注目します。女、朝鮮人であることのルサンチマンから現実の変革を求めるという点で、私たちは同じような感性を持つのかもしれません。在日の市民運動体や民団は「共生」を掲げ、戦後日本の既存の考え方、政治的な仕組みを前提にしてそこへの「参加」を求めます。参政権は公明党、民主党が植民地支配の総括からではなく、自党の拡大のために在日を利用していると私は感じています。韓国は、在日に国政参加の権利を付与する準備にはいりました。これもまた韓国の海外国民への影響力行使だと私は考えています。しかし在日の介護、保育、福祉、教育などの問題は日本人にすべて託すべきことなのでしょうか。どうして在日が当事者として主張し権利を獲得できないのでしょうか。私は今回関西で、これまでの制度に在日が埋没するのでなく、在日がまさに地域の住民として自己主張し権利を獲得する民主的な制度を作っていける可能性があることがわかり、呆然としました。

戦後60年の日本の代議員制度でなく、また道州制という新自由主義に基づく制度改革でなく、日本人地域住民自らが政治の主人公になっていくような直接民主制を人口10万人くらいの区を基礎にしたものにできるのではないかという考え方と、それが実際の京都の市長選で提起されたことを知りました。しかし残念ながら京都ではその主張した候補は負けましたし、区を中心にした政治制度の改革に外国人もまた参加し、選挙権・被選挙権をもち、予算を獲得した独自の判断・行動が可能になるというその理念が十分に展開されたとは言えません。その京都市長の候補者の考えによると、今問題になっている参政権のような国会決議は不要で、市長が発議して条例で決行できるのです!

民主党が政権をとっても、あるいは自民とひとつになっても、新自由主義信奉者は道州制に移行するのではないかと思われます。そうであれば市民(住民)は自分で決定し実行する小さな場を確保しなければ未来はないと思います。植民地支配の総括というものもまた、国会決議でなされるべきものですが、これは時間がかかっても市民(住民)が地域において当事者主権を行使する実践(訓練)を重ね、そこで自立する人間が形成されるなかで歴史の問題や、韓国との関係もまた新たな展開になるのではないのかと私は考えるに至りました。

ごめんなさい、N教授の一言の「宿題」が胸にささっていたものですから、ずっとそのことを考え、このようなメールの中で自分の考えをまとめました。舌足らずなメールで申し訳ございませんが、ご理解いただければ幸いです。私は、川崎での阿部三選阻止の準備をする中で、もっとしっかりとした在日の解放の理論、民族の歴史にとどまらず、人間解放を目指す世界の歴史の中における理論というものを考えていきたいと思います。

そもそもデモクラシーというものは古代ギリシャから始まったものですが、その都市国家の中では女性・外国人は発言権がなく、またフランスの人権宣言以来の国民国家においてもその状況は変わらなかったものと理解しています。そうであれば、戦後60年過ぎ、過去の植民地支配の総括が
できず、新自由主義による資本主義の末期的な症状さえ見せ始めているこの日本社会において、地域という狭い生活空間において住民が当事者として発言して自分の考えることを実行していくというもっとも重要なステップを歩みはじめるというのは、まさに快挙ではないか、その歩みに在日もまた一緒になって住民として行動を共にすべきではないのかという思いが募ります。N教授、私の思いは単なる夢物語なのでしょうか。また機会があれば、ご助言いただければと願います。

こちらも寒くなりました。京都はもっと寒いのでしょうね。ご自愛ください。ますますのご活躍を祈っております。いただきましたご著書、しっかりと読みます。
崔 勝久拝

2008年11月17日月曜日

立命館大学のシンポジュームを終えてー個人的な感想

「浮遊する在日コリアンー同化と差別のなかで」を主題にした、立命館大学コリア研究センター主催のシンポジュームに参加をしました。

11月14-15日の2日間、六つのセッションに参加した人は約30名で、聴衆した人は延べ150名という大がかりなものでした。

第一セッション:米占領下の在日コリアンと民族運動
第二セッション:南北分断体制下の在日コリアン
第三セッション:脱植民地・過去清算と在日コリアン
第四セッション:在日2世、3世の時代とアイデンティティ
第五セッション:グローバル化の中の在日コリアンー植民地・帝国・民族・国民・市民権
第六セッション:大討論:「在日論」再考

私は「大討論」の4人のパネラーとして20分の発題を事務局から依頼されて出かけました。
参考までに、司会は、尹健次(神奈川大学)、パネラーは、朴一(大阪市立大学)、鄭暎惠(大妻女子大学)、竹田青嗣(早稲田大学)、高演義(朝鮮大学校)、崔勝久(外国人への差別を許すな・川崎連絡会議)というメンバーでした。

とにかく第1-5セッションも同じようなパネラーの数で、それぞれが20-30分(20分を超える人が大部分)の発題をして全体で2時間15分というだからそれだけで時間一杯で、ほとんど討議、フロアーからの質問なしで、議論は最後の「大討論」に持ち込まれるということらしく、私と同じパネラーの鄭暎惠さんとはどうなることか苦笑をしていました。 

さて司会を含め、第六セッションの全員がそろったのはパネルが始まる4時直前で、それまでのセッションでの質問を討議するようなことはそもそもできない相談でしょう。いや、それどころか、何日も時間をかけて20分の発題の準備をしてきたのに、司会者の「命令」でなんと、急遽、5分で要約して話してくれと言うことになりました。いやはや、さすがに温厚な竹田さんも「それはちょっと、アンフェアーではないか・・・」と話されましたが。

私を含めパネラーはそれぞれ、事前にレジュメを送り、2-3時間くらいたっぷりと話せるだけの準備をしていたので、このセッションだけでもおそらく何日にもわたって話ができたでしょうね。それに徐勝さんをはじめ30名近い論客がきているので、1週間くらいかかっても、民族主体性については語りつくせなかったでしょうね(でも、それってやってもおもしろいですよね)。

私の趣旨は、民族主体性を求めるという姿勢が結果として、在日の生きる現場を直視し在日が当事者としてそれを解決すべく声をだしていくことになっていない(たとえば、介護・保育園・学童保育・医療問題・中小企業の問題など)、在日もまた地域住民として、国籍に関係することなく、参加・要求していく道筋を求めよう、それはまさに日本人自身の戦後の課題であるということでした。参政権や国籍にしても、既存の組織・機構の仲間に在日も入れてもらうということでなく(それは「埋没」であり、新しい社会作り「変革」ではない)、新たな地域(世界)を足元から創っていくという呼びかけでした。

(各パネラーの準備したレジュメは十分に考察を重ねたものであることは一見してわかります。関心のある方は連絡ください。)

パネラーは市民社会の本質論から、民族主体性論までそれぞれ発題をしただけで議論にはならなかったのですが、資料集がでるということなので、御期待あれ! 私への批判としては、崔は民族イデオロギーといって民族を政治的なものだけに矮小化している、民族主体性を最優先するのでなく相対化するべきと言ってるが、崔自身は民族的な主体性をもっているのではないか、崔のいう足元というのは植民地時代でも朝鮮人は飯を食う日常があったのだから、現在の東北アジア・政治状況というものにかかわるべきというものであったように思います。

ともあれ、今回初めて私のメールを受け取った方は京都で出会った方で、意見の違いがあってもこれから議論を続けていける、また何か一緒にやるべきことがあれば協力しあってやっていけると思いました。よろしくお願いします。機会があれば地域でも学校でも結構ですから、呼んでください。日立闘争と韓国のKBS(「小さな勝利」-日本語版)のCDもあるので、活用ください。

最後に、主催者側の期待に添えられなかったかもしれませんが、呼んでくださったことを心より感謝します。意見の違いなんて大したことではなく、このように顔を見合わせて話し合うことができればそれに勝るものはありません。徐勝さんをはじめ、コリア研究センターのスタッフのみなさん、御苦労さまでした。本当にありがとう。

なお、このメールは「共生を批判する」ブログに掲載されます(http://anti-kyosei.blogspot.com/)。
「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」(http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index.html
なお、私の主張する根拠となる地域での「共生」批判の内容については、この7月に出版した本を
参照ください。在日と、フェミニズムの立場から「多文化共生」について、それぞれの経験を元にして記しています(『日本社会における多文化共生とは何かー在日の立場から』(崔勝久・加藤千香子編著 新曜社)。在日は日立闘争当該の朴鐘碩の日立入社後の生き方について、「民族保育」について、またフェミニズムの立場からは上野千鶴子さんが書かれています。

崔 勝久
SK Choi
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2008年11月3日月曜日

川崎の市議会の改革を求めるYさんへの手紙

Yさんへ昨日は、御苦労さまでした。いい集会でしたね。私も「三権分立」は学校で学び知っていましたが、なるほど、地方においても行政と議会の役割があるということを改めて認識いたしました。そのとおりだと思います。

YさんのメールにYさんのお気持ちが記されていますね。

議会改革は行政の上に立つ政治の復権の問題と考え、それも今がタイミングだと思って います。また、私自身は議会の活動を知ることを通して行政の全体像を知るという方法論 をとっています。それが行政をまとめて理解する効果的なアプローチだからです。

Yさんの市議会の改革を求めるご意見、ご活躍は改めて大変重要なことだと再認識しています。
(「ブログ」 川崎市政との対話 http://d.hatena.ne.jp/goalhunter/

昨日の私の質問で少し触れましたが、以下、私のコメントです。
1.市民の責任・権利というときに、外国人はその中に含まれているのか
2.市民に議会への関心を持たせる(持ってもらう)意義は理解できるが、行政、特に圧倒的に市民の  生活に直結する首長の在り方はどこで議論されるのか


議会制民主主義、特に地方自治体の役割が明確になったのは戦後だと思われます。今、地方自治の自立、重要性が特に注目されていますが、この論議は、実権としては国の影響力がさらに強化されるのか、市民が文字通り地方自治の中心になるのかの綱引きではないかと認識しています。Yさんは市議会の在り方に疑問を抱き、その変革を求めていらっしゃるのであり、市民への啓蒙を第一義的に考えていらっしゃるということではないと理解しています、いかがですか。今、市民の抱える問題は 実際は深刻です。しかし東京を中心にした関東地方は日本でも最も豊かな ところで、新自由主義の影響においてもそのメリットを享受している人が多いのではないかと思われます。内橋克人の本で指摘される規制緩和や格差の拡大の 被害が顕著になっているこのときに、意識ある人は何に注目し、注力すべきなのか、Yさんは市議会の変革と市議会に対する市民の関心と捉え捉えていらっしゃるように思います。

私は、阿部三選阻止、即ち、行政の在り方、特に首長の思想、施策が実際に どのように川崎市民に影響を与えているのかの実態把握と、骨太の対案を 出すことの重要性を強調したいと考えています。自民・公明・民主各党は 与党として阿部市政を支え、基本的に市長を批判できない立場です。それは議員 としての自覚が足りない、質問内容が貧弱だということより、今の地方自治体の 実態、力関係を表していると思われます。

だからこそ市議会への関心が大切という議論に関しては同意しますが、圧倒的に、 市民への直接的な影響力を行使している首長の在り方を不問に付すことは問題の 本質を曖昧にするように思えます。この点、Yさんはどのようにお考えなのでしょうか。

阿部市長は、革新市政に対抗して、中央の小泉・川崎の阿部というスローガンで 立候補して当選した人物です。特に財政問題に関しては新自由主義的な発想 から改革をはじめ、基本的には福祉を軽視し、民営化と行政の合理化によって 財政問題の解決を図ろうとしてきました。それが功を奏していると公表されていますが、 実際の市民の被った被害は大きく、財政の実態そのものも定かではないと私は 危惧しています。 福祉・教育という面では、今日の新聞でも明らかになっているように民間の保育園がつぶれました。これは資金繰りに協力しなかった金融機関の問題というより、そもそも保育に責任をもつのは誰か、それを民間企業にまで任せた規制緩和を した行政の責任を第一義的に問うべきです。学童保育もなし崩し的に崩され、 わくわくプラザが作られました。

そのほか、国政レベルでの責任以前に、地方自治体で実行できることが多々 あるように思えるのです。老人・介護・教育・非正規社員の取扱い・失業率・ 大企業の税制の問題などなど、実際に川崎の市長の決断でできることがあると、 私は考えています。この点、いかがお考えでしょうか。

私の編著『日本における多文化共生とは何かー在日の立場から』(新曜社)は 御一読いただけましたでしょうか。阿部市長が当選時から一貫して、 戦争に行かない外国人は「準会員」(=二級市民)と発言し、撤回しません。 また採用した(試験に通った)外国籍公務員には昇進を禁止し、タバコの投げ捨てを中止させる職務さえ、「公権力の行使」として外国籍公務員には制限して います。これらは市長の決断だけで、議会にかけることなく解決できるのです。 戦争に行かない外国人というのは、そもそも戦争しないことを国是とした憲法を軽視した考えです。

ということで、私は阿部三選阻止を是非、実現させるべきだと考えています。 この点Yさんは別に阿部三選は構わない、大した問題ではないという お考えなのでしょうか。どのような形であれ、私は阿部三選阻止について Yさんの御協力をお願いしたいと思っております。

私にできることがあれば協力させていただきます。Yさんの議会改革を求めるお考えとご活動には賛同し、また敬意を表します。同時に、来年に迫った市長選に備えて何をすべきか、この点に関してもYさんのご意見・アドバイスを お願いいたします。 だんだん寒くなりますが、御自愛ください。 またお会いしてお話することを楽しみにしております。

崔 勝久
SK Choi
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2008年11月2日日曜日

「社会的弱者の連帯」を、上野さんのインタビュウーから


みなさんへ

11月2日、本日の朝日新聞で上野千鶴子さんのインタビューが載っています。 「衆院解散見送りで」「社会ビジョン選び直しへ」というタイトルです。

インタビューですから、どこまで本人の真意が正確に表わされているかわかりませんが、一応、正確であるとして上野さんの意見を参考にして、川崎の状況を考えてみたいと思います。

「次の総選挙は、日本社会のビジョンを選択する選挙」になるという位置つけで議論が展開されます。 ふたつのシナリオが想定され、ひとつは、アメリカ化といわれるネオリベラリズム(新自由主義)型改革路線で、これまでの日本が突っ込んできた方向です。

もうひとつはヨーロッパ型の社会民主主義路線。「市場万能主義に対して市場の限界を認めたうえで、 そのリスクをやわらげるために再分配・社会連帯の原理」をもとにするビジョンということなのでしょう。
「麻生政権は改革を否定してばらまき路線に戻る反改革守旧派政権で、・・・論外」として、彼女は社民路線に舵を切ることを提示します。

安心を高めるためには国民の6割以上が高負担に応じてもいいという意識調査結果を紹介しながらも、基本的に民主党に対しても「市民が負担を託す政府を信頼していない」と断じます。彼女はここで大胆にも民主党を選ぶ他に、「自・民の大連合の可能性」を示唆します。総与党化の方向に雪崩を打つ危険性もありながらと言うのですが、ここは意見がわかれるでしょう。

大きな賭けであるが、日本ではまだ介護保険を実現させたのは「社会連帯」が死語になっていない証拠として、格差に苦しむ若者のデモを上げながらその社会連帯に彼女は注目します。高齢者も「一種の中途障害者」であり、誰でも社会的弱者になる可能性があり、それは社会連帯でないと守れないことを強調します。最後に、手遅れにならないうちに、「社会的弱者によるアクションが必要」であると結んでいます。

以上が上野さんのインタビューの内容です。来年、市長選を迎える川崎の状況の中で、以上の彼女の見解はどのような意味をもつのでしょうか。まず川崎では麻生政権とは違い、阿部市長がリーダーシップをとり財政危機も民営化・合理化によって、また駅前の都市開発も成功して、キャノンのような大企業の誘致も行いよくやっているという評価が高いようです。福祉・介護の分野でも大きな失政をしたという声は今のところ広がっていません。阿部市政に反対してきた市民運動も半分はあきらめてどうしようもないという声さえ聞こえてきます。市職員の組合も阿部市政に真っ向から問題提起をして新たなビジョンを提示するという機運はないようです。民主党は与党として自民、公民と一体化して阿部市政をそのまま認めるような様子です。

国政レベルでの政権交代は地方においても大きな影響を与えるものと思われます。しかしそのような 外部の風に頼らずに、まず阿部市政の何が問題なのか、こんなもんだと思いこまされている多くの市民の本音のところで渦巻く不安の内容を明確にすることが何よりも重要です。

私はここで上野さんの提示する「社会的弱者によるアクション」「社会連帯」という言葉に注目したいと考えます。私の言葉では、「社会的弱者の連帯」です。高齢者、非正規雇用を普通のことと考え格差の拡大に不満と不安を募らせる青年たち、障害者、低賃金に甘んじる労働者、ここに私は「社会的弱者の連帯」に在日外国人も参加すべきだと考えています。戦争に行かない外国人は「準会員」という発言に、この間平和を希求してきた市民が賛同するはずはありません。この「社会的弱者」の大きなうねりが「連帯」という形をとり、阿部市政の市場原理主義主義的な思想・政策に否を突きつけ、地方自治体の明確なビジョンを市民が中心となって明示することが何よりも重要だと思います。

在日の生き方を求めてきた私は、在日という領域を設定しその中に押し込まれることを拒否します。
今選挙権がなくとも、川崎市民・住民として、私たちの住む地域社会の進めべき道に対して自分たちの意見を出していくのは当然のことだと考えます。何を躊躇することがありましょう。ここで在日が社会の弱者の立場に立ちきれるのか、それとも強者の立場にすり寄ってその仲間入りを求めるのか、岐路
に立っていると思います。後者の立場だと、新自由主義歓迎、自己責任、格差の拡大は仕方がない
ということを在日が主張するということになります。さて、読者のみなさん、いかがでしょうか。

崔 勝久
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2008年10月25日土曜日

同一労働同一賃金の意味すること

みなさんへ

市内パート女性
待遇「正規職員並みに」
法改正後県内初 解決援助申し立てへ


東京新聞10月23日の記事で、横浜市の聴覚障害者支援施設に勤める女性パート職員が、厚生省神奈川労働局に紛争解決援助を申し込んだということが報じられました。申し込んだ内容は、「正規職員とパート労働者の仕事内容がなどが変わらないのに待遇は異なるのは、両者の差別を禁じたパートタイム労働法に違反する」ということです。

彼女には、非正規社員(パートタイマー)として「正規社員に適用される昇給や退職金がこれまで認められていない」ということです。よこはまシティユニオンが彼女を支援しているとのことで、これまでの交渉では、彼女の人材活用の運用などは通常の労働者と同じであり、契約期間が実質的に無期であることは、当事者間で違いはなく、問題は職務内容の違いについてで、事業団は「中核的業務が異なる」と主張し、彼女は正規社員と同じ仕事をしているのに待遇の差別があるのは不当としている点です。

<外国人への差別を許すな・川崎連絡会議>を11年にわたり関わってきた私がこの記事に注目したのは、日本では、外国人への不当な待遇が当然視されてきたからです。しかもそれらを取り締まるべき行政は、「当然の法理」という超法規的な政府見解を根拠に、採用した外国籍公務員の職務・昇進を制限しています。研修生という名目で外国人を安くこき使ったり、外国人ということで賃金・保証の面で差別することはそもそも国籍を理由にした差別は労働基準法で禁止されているのです。これは、「同一労働同一賃金」の原則の逸脱です。彼女の問題提起は、国籍・女性という理由でなくとも、非正規社員ということで、この「同一労働同一賃金」の原則を逸脱することの不当性を指摘したものです。

正規の職員を少なく非正規社員を多くして企業の利益を上げるというのは、新自由主義の政策下で正当化され、促進されてきました。格差の拡大が指摘されるゆえんです。そもそも資本主義社会においては労働力は労働力として認められるべきであるのに、国籍や性別によって差別が生まれたのはどうしてでしょうか。階級論では説明しきれないと思われます。そもそもの国民国家の成り立ちからして、女性と外国人は市民として認められていなかった(二級市民であった)、植民地支配においては多民族を搾取し、低賃金でこき使ったという事実が想定されるべきでしょう。

ドイツにおいて戦後の補償が100兆円あり、ユダヤ人への不当な労働に対する補償を現代も続けているということを知るならば、この日本社会においては、日本国家として植民地支配の謝罪・補償をすることを決定し、同時に日本社会のあるべき姿として、あらゆる(国籍・性・資格を問わず)労働者の賃金・権益を保障しなければならないはずです。

今回、東京新聞で取り上げられた女性の闘いを支持するとともに、彼女の個別闘争で終わらせないで、日本の戦後責任・これからの社会作りを念頭におきたいと思います。そのためには、植民地支配の総括なく、資本の論理を最優先させた新自由主義に対しては否を言わなくてはならず、新自由主義政策を掲げる川崎阿部市長の3選を阻止する闘いは極めて重要だと考えます。みなさん、川埼の市長選はもう来年秋ですよ。阿部市政の新自由主義政策による問題点を明確にしていく地道な作業から始めましょう。

あまり、他のグループの違いを強調せず、一致できるところで共闘をするということはできないものでしょうかね・・・・・

崔 勝久
SK Choi
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2008年10月24日金曜日

在日に韓国の国政参政権付与ー民団新聞より

みなさんへ

10月22日の民団新聞より

「在外国民に国政参政権」
「中央選管委 意見書提出」

「韓国では、20005年6月の公職選挙法改正により、永住の滞留資格取得後3年が経過した19歳以上の外国人に地方参政権が既に与えられている」が、「憲法裁判所は昨年6月、在外国民に投票権を制限した公職選挙法と国民投票法などの条項について・・・「憲法不合致」の判断を下して今年末までの関連法条項の改正を求めていた」。

そのことによって「300万人余りと推定される在外国民に現地投票や郵便投票を通じ投票権を保障」
することになりそうである。それによって「大統領選挙と国会議員選挙の時、選挙権が行使できる」
とのことである。

中央選挙管理委員会が関連する法律の改正意見を国会に提出したので、まだ反対意見もあり、決定されたわけではないが、恐らくその方向で論議され、決定されるように思われる。在日韓国人も同じ
韓国国民として選挙する権利が与えられるべきだという考えで、韓国国内では、選挙の権利を付与されても徴兵の義務を果していないのは不公平という議論もあるのこと。

さてさて、在日韓国人は、「本国」の選挙にも関わり、日本の地方参政権を獲得して日本の地方選にも関わるようになるのであれば、忙しくなりそう・・・形式的に間接民主主義の制度が具体化されることで本当の意味で、在日が社会的責任を果たすことになるのか、ここはよく考えたいところ。

韓国はやることがはやく、外国人への地方参政権の付与を実現し、今度は海外の国民にまで選挙権を与えるということは、これは韓国という国民国家の国権をさらにグローバルに拡大し、影響力を行使するようになり、多くの海外の韓国人まで政治に巻き込むということになるのではないか・・・これは国民の権利とか、という次元だけでいいものと判断されていいのか、立ち止まって考えたいところである。



-- 崔 勝久
SK Choi
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2008年10月21日火曜日

拉致問題と在日の民族主体性の問題

みなさんへ

11月の立命館大学のシンポジュームでの発題の依頼を受けて、20分で何を話すべきか、いろいろと考えています。皆さんのご意見、ご批判をお願いします。

私たちはこの11年、川崎において「共生」批判を展開してきました。その間、世の中は「共生」賛歌で満ち、私たちのような「共生」批判は、まるで「共生」を推進する運動体に対する誹謗中傷であり、超過激派集団ではないかとの陰口を叩かれてきました。

それがこのところ世界の「多文化共生」の先進国から、どうも「多文化共生」というのはマイノリティを吸収していく、国民国家の新たな統治政策ではないのか、という意見が出始め、それを学者が発表しだしたようです。しかし私たちはその世界の動向を知り、日本の学者の見解を学び、川崎で「共生」批判をしていたわけではまったくありません。

私たちは、川崎の「共生」運動の実態を知れば知るほど、これでいいのかと考え、問題の所在は何かを突き詰めるのに10年かかったということです。私たちは、「当然の法理」というのは日本的な差別思想にもとずく政府見解であることははやくから認識できました。従って、川崎が「門戸の開放」を実現しながらも、その根底には、「当然の法理」を前提にし、法ではなく国籍によって、外国籍職員には市民の自由と権利を制限する職務と昇進を禁ずるという川崎の独自の解釈で、市の職員は法に基づいて市民に対するべきという法治国家の原則を破るという大きな、致命的な過ちを犯していたことも分かってきました。しかしそれらのことが「共生」の名の下で、市民・運動体・市の組合・行政が一体となって行われている事態を見て、私たちは「共生」批判をせざるをえなかったのです。今は多くの研究者の助けを得て、新自由主義社会の下での「多文化共生」とは何かという明確な問題意識を持ち始めています。

しかし一方、日経連の外国人労働者の必要性を主張する動きに対しては、早くから批判がありました。そのことも「共生」の名の下で言われだされたので、「共生」はおかしいという指摘もあったようです。しかしそのようなニュー・カマーの労働者の導入に対する批判はありながら、川崎の「共生」運動は在日の提案からなされ、川崎市の外国人施策は日本で最先端を行っているという評価は揺るがず、「共生」が権力と一体化し始めたことにたいする、内在的な批判はなかったようです。

従って「共生」批判には、私たちのような川崎の在日の運動の流れをしっかりと捉えた上での内在的な批判と、ニューカマー政策が「共生」の名の下で行われていることに対する外在的な批判があるということがわかります。

しかしよく考えてみると、この川崎での「共生」の流れは、日立闘争から地域活動をはじめそこから指紋押捺印運動などを経て出てきた概念だとすると、私が40年前から主張してきた、在日朝鮮人として、本名で生きるということは実は共生ということではなかったのか(共生と「共生」の違いは、後者が権力と一体化してきたことを指す)ということに気が付きました。

そうすると今や、本名で生きるということさえ、元入管の職員が在日の新しい像として言い出すようになり、完全に「多様性」とか、「多文化共生」という概念として権力側の言葉として使われてはいるのですが、そもそも在日の生き方として、本国の統一・民主化闘争連帯という政治運動に関わることのみが在日の主体性であり、日本名を使い本籍をいつわるような朴鐘碩の運動には協力できない、それは在日の「同化」傾向に拍車をかけるだけとしてきた民族主体性を求める人たちは、日本に定着し、共生を求める動きそのものを批判してきたのであり、「共生」に対しても外在的な批判しかできなかったという理由がよくわかります。

そしてまた在日の民族主体性を求めて韓国に留学に行きそこで民主化闘争に関わり「北のスパイ」として逮捕された多くの人たちには、これまでその逮捕は南の「でっちあげ」ということでの釈放運動がなされてきたのですが、民衆が国境を越え北に「不法」に行ってきたことが何が悪いのだという論理で、「でっち上げ」論は不問に付されてきました。徐京植氏などは岩波で、そのような北に行き南で捕まった200余名の人の活動を高く評価するような記述をしています。実は私も、総連の幹部から日立闘争のさ中、北朝鮮に行かないかと誘われた経験があります。民族意識に燃え始めた私とってそれは実に魅力的な誘いでした。徐氏が指摘するようなそのような200余名の在日もまた、総連の誘いを受けその手配のもので北に行き日本に戻ってきたことは間違いないでしょう(個人の力でそんなことはできません)。

これまでその行為は在日の民族意識の結果、国家を超えた民衆の行為として、むしろ称えられてきました。しかしよく考えてみると、それは拉致を実行した北朝鮮・総連の組織的な体制において可能であったのではないでしょうか。拉致は無理矢理に日本人を連れていき、在日は自ら総連の誘いに乗り「主体的」に北、我が分断された国の北側に行くのだという自らの意思で行ったということは異なります。しかしそれらの行為を可能にしたのは、実は北朝鮮及び総連の戦略であり、「不法」に自由に国境を越えて北と日本を往来するというシステムがあったからなのではないでしょうか。実に、拉致問題と、在日の「不法」に北に行くという問題は表裏一体ではなかったのかと考え始めました。

在日の主体性論議が最近亡なくなったという立命館大学の主催者の表現に、私はひっかかります。まず、私たちが盛んに論争してきた「在日の主体性論」とは何であったのか、この論議をいかなるタブーを設けず、まずきっちっりとすべきです。以上の論議を進めるに際して、私は、日本は植民地支配の過去の謝罪を行っていないこと、従軍慰安婦や強制労働に対する不払いなど数多くの問題が残っているという点では、恐らく上記の徐氏たちと同じ意見です。また、拉致問題が日本のナショナリズムを喚起し、日本の歴史的な課題を曖昧にしているという点、及びその拉致問題で民族学校の子弟に対する差別事件が続発しそれを日本のマスコミも報道さえしていないという点、でも同意します。

ただし私は、日本人の「当事者性」を問いつめながら、在日もまた、歴史に対する「今日の責任」については日本人と全く同じように問われているという点を曖昧にし、在日の歴史的責任は本国の状況に関わることという認識には同意できません。国境を越え、東北アジアで全民族的な視点から新たな共同体を模索する考え方にも積極的にはなれません。それは李建治が分析するように、韓国という国民国家の前提・強化につがる視点を払拭していないということだけでなく、私にはそれは民族観念であり、国境を超える作業は私たちが生きる、まさにこの日本(私が強調したいのは私たちが住む地方自治体)において、足もとから国境を超える実践を始めるべきであると考えます。これは発題内容ではありません。そこに結び付くかもしれませんが。みなさんのご批判をお願いします。

崔 勝久

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2008年10月19日日曜日

ドイツについての理解

ドイツについての理解

三国同盟とかヒットラーユーゲントなどという、幼少時の記憶が残っているに過ぎないドイツだが、ドイツは日本よりも3ヵ月早く、敗戦し、日本の経済復興よりもかなり遅く、戦後の復興を遂げたという記憶もある。

1994年ポーランドに旅行し、アウシュビッツ収容所を見学、ナチスの残虐なホロコーストの実態を見、生証人の老夫人の証言を目の前で聞くこともあった。その後、8日間のツアーで名所巡りもしたが、市民の実態を知るという経験はない。ただ、20年位前のこと、ドイツには教育委員会という制度がないということを耳にした。その後、ドイツには教会税というのがあるということも耳にした。だが実態に関する報告書は目にしていない。

日本の学者、研究者等がドイツに留学し、専門分野の研究に励み、それなりの研究成果を挙げ、その道の権威者になるケースも多い。だが、彼らからは、社会的制度やその中で生活している庶民の姿、実情は報告されていない。

このような状況の中で、10月15日、東京新聞に「強制連行、政治解決を=ナチス被害補償の基金理事(ギュンター・ザートホフ氏)、ドイツの経験きょう講演という記事が載った。翌日、崔さんがその講演を聞き、感銘を受けたというメールが届いた。なぜかその時、私は日本とは違う巨額の補償を行っていることを紹介されて、私たちがそれをどのように受け止め、政治社会に反映することが可能なのだろうか、という疑問が残った。

昨日、半日掛けて、ドイツの教育事情についてネットサーフィンを試みた。幾つかの興味深い記事に出会ったが、中での正確な報告書は「教育事情-ドイツーヨーロッパー各国・地域情報-財団法人 海外職業訓練協会のホームページ(http://www.ovta.or.jp/info/europe/germany/04education.html)だ。その「教育事情」という報告書はドイツの現在の教育事情を正確に伝えている。そのなかで、私が注目させられたのは、義務教育の中で、週2時間の宗教教育の時間がカリキュラムされていることだ。これは、ドイツという国家の成立を考慮すれば当然のことなのだという理解が出来る。

また宗教教育に関しては東京大学大学院教育学研究科、教育学研究室、研究室紀要 第29号 2003年6月の「近代公教育原理『世俗性』と現代ドイツ・フランスの宗教教育―(1)概観― 吉澤 昇」の第二章・第二次大戦後ドイツの宗教教育という項目のなかに「ルッターの『小教理問答』は中学校の教材として今日も用いられ、小学校段階で旧約聖書の教材が多いが、宗教教育の内容は個人の人生課題に対応する方向が、この時期に示された」という部分に興味を抱かされる。

カトリック・プロテスタントというキリスト教の二大勢力が生じ、その双方の手で教育が実施されてきた国柄が現れているといえるのだろう。16州の州政府によって州の教育内容がさだめられていて、国家は州の独立性を無視して教育に干渉できない仕組みになっており、州には文相任命および父母や教員組合による州学校諮問委員会が組織され、教育法令立案には、かならず慈善に州学校諮問委員会にはかることが義務づけられている(宮田光雄・西ドイツの精神構造・Ⅲ戦後ドイツの教育と政治399頁注釈10項より)。

初等から大学まで、学費はすべて国庫負担であるのはフランスなどと同様だ。教会税に関していえば、この税を徴収しているのはドイツだけではなく、デンマーク・スエーデン・オーストリア・スイス・フィンランド・アイスランドなどでも実行されているようだ。(Wikipedia=教会税より)。

このようなヨーロッパ事情(主としてドイツの事情)を垣間みるとき、戦争による罪科とその戦後補償という行為が個々人の・そして国の深く多大な宗教観念に基づいていることが理解できるようだ。

      2008年10月19日   望月 文雄

2008年10月15日水曜日

ドイツのギュンダー・ザートホフさんの講演を聴いて

ドイツのギュンダー・ザートホフさんの講演を聴いて
「記憶から未来へつなぐ責任―ドイツの経験」

ナチズムの犯罪に対してドイツは戦後補償として総計100兆円位を支給したそうである。
ドイツ政府と企業が出資した強制労働者への補償基金にあたる「記憶・責任・未来」財団で、氏は同財団が2000年に設立されて以来の活動家とのこと。この措置によって、世界のほぼ100カ国、170万人以上のナチ体制下の元強制労働者及びその他の犠牲者に対して、総額47億ユーロ(約7兆円)の補償が支払われたとのこと(氏のプロファイルより)。

氏は日本の運動に対しては何もアドバイスすることはない、課題は自分で見つけ、自分で解決すること、しかし日本の運動をする人たちにはがんばれと言いたい、と挨拶をした。

氏の講演を通して、このドイツでの闘いの過程には様々な問題や苦闘があったことを思い知らされた。しかし氏たちは、歴史に対する「今日の責任」を訴え、党派、組合、教会などにおける反対意見を巻き込んで進んだとのこと。

日本の互いに孤立している「タコ壺」型運動に、違いを強調し一緒に行動できない「在日」の組織・運動に、一体何が欠けていたのか。歴史に対する「今日の責任」意識がなかったからなのか。しかしそんな分析をしてみてもはじまらない、その分析は研究者にまかせよう。私たちは日本の植民地支配の決着をつけられないでいる。そのまま戦後を迎え、そして今は新自由主義の下、今の時代を、歴史を嘆くしかないのか。

「在日」はもはや「本国」か「日本定着」かを問うことなく、日本定着が当たり前のこととなっている。40年前私の提起した、「在日朝鮮人として日本社会に入り込む」という主張が、「同化論者」として在日韓国教会青年会の委員長を解任されたことを知る人はもういないかもしれない。私のその主張は日立闘争に参加し、地域活動を立ち上げ「民族差別と闘う砦つくり」を目指したものの、その運動母体は「共生」を掲げるようになり、行政と組んで「多文化共生社会の実現」を求めるようになってきている。

「本国」の政治状況に「在日」として民主化・統一を目指して直接的に関わり、日立闘争に与しなかった人たちは、今の「共生」をそもそも根底的に受け止めることはできなかったことは想像に難くない。しかし私は「共生」を内在的に批判する。日本に定着している事実の上で、日本の、植民地支配をひきずる歪められた歴史に、私たち「在日」も正面から参加し、歴史に対する「今日の責任」を担いたい。その鍵は、地方自治にあるように思える。氏の講演を聴きながらいろんな想いが次から次へと出てくる・・・・

2008年10月14日火曜日

T牧師との対話から思うこと

T牧師との対話から思うこと

T牧師とは知りあって(私が押しかけて行って)もう1か月になるのでしょうか。
彼が私たちの『日本社会において多文化共生とは何か・・・』の中の「民族保育」に関する論文への感想として、保育の現場において、「民族保育」を柱とする教育方針に疑問を呈しながらも、「在日」の保育園にそのように思わしめる背景に日本社会の差別があることを認め、しかし、だからと言って自分は「贖罪意識」を表明したり、民族差別と闘うということをしないで、自分の場で自分がやろうとすることをしっかりとやり進めたいと記しました。それを「在日」への無関心と読んだ人もいたかもしれませんが、むしろ私は、それをT牧師からの私たちに対する共闘への呼び掛けととらえました。

「在日」を被害者とし、日本人を加害者とする固定的な観念から一体、何が生まれてきたのでしょうか。そこからは「在日」が日本人に向かって、「被害者」の強みから物を申すという関係性が生じます。それでは「在日」自身はどこで己の在り方を批判的に見直すことができるでしょうか。私は「在日」が物を申すのは、歪められた現実・歴史に対してであって、日本人や日本社会ではないと思うのです。だからこそ、「在日」は日本人と全く同じように歴史と現実に責任を負い、現代に生きる者として日本人と一緒になってその歪みに対して闘っていかなければならないのです。

「在日」という枠はとっぱらうべきです。「在日」という特殊領域を作ることによって、為政者は「在日」をその枠の中に閉じ込め、「在日」もその枠の中の権利獲得で満足するのです。「要求から参加へ」という「在日」のスローガンはなんとささやかなものであったことでしょう。「在日」の要求を完結していくことで、日本社会そのものの変革をもたらす質をもち、その「要求」していくことが「参加」であって、特殊領域は拒否すべきです。

「マイノリティのためにいいことはマジョリティのためになる」というテーゼは、日本の運動をスポイルすることになりました。なんだかんだといいながらお金をだせばいいのか、 連帯の名前をだせばいいのか、こんな日本人を誰が作ったのでしょうか。それはすべて「在日」の責任だと、私は思います。

民族主体性は不要です。自分の生き方を追及すればいいのです。「民族主体性」という言葉には正しい生き方という倫理的なニュアンスがあり、「母国語」や「本名」を名乗らない「同胞」を見下し、「正しい」「民族的な生き方」を押し付けるという傲慢があります。私はこの40年間、自分のやってきたことの貧しさが恥ずかしいのです。こんな社会しか作ってこなかったことに私たちの次の世代に申し訳ないと思うだけで、彼らに説教をする資格は私にはありません。

2008年10月11日土曜日

立命館のシンポに参加します

みなさんへ

私たちの本をたまたま目にした立命館大学コリア研究センター
のスタッフの方から、11月に開催されるシンポジュームに
パネラーとして私に参加してほしいと連絡がありました。20名
をこえる学者が発題し、最後の討論で著名な「在日」の学者と
一緒になって、私のような者が何か言えるのかと躊躇した
うえで、結局、引き受けることにしました。

私に声をかけてくださったスタッフの方は、おそらく私たちの本
を読んで、私が日立闘争から地域活動へ、そして「共生」批判
の運動をこの40年にわたって続けてきたことに注目したので
しょう。私に発題をさせて、私たちのやってきたを在日の学者、
参加される日本人関係者と議論させたいと目論んだものと
思われます。

理論や思想は現実の問題の解決を図る「仮設」であり、実際の
運動が優先(先行)するが、いかなる理論・思想・運動もすべて
相対化され、批判的に検証されなければならないと考える私は、
実はこれまで、運動・実践を何かの思想や理論に基づいて
やってきたことはなく、多くの学者の書くものは、過去や現実の
出来事についての「後知恵」、理屈づけにすぎないと不遜にも
思っていました。

「共生」が在日の運動から出るようになり20年が過ぎ、今や
政治経済、あらゆるところでもてはやされるようななったときに、
「共生」を捉えかえそうという動きは歓迎されるものであるとは
言え、それでは「共生」を主体的に主張してきた(している)
運動や組織、それを称えてきたマスコミや学者、あるいは
「共生」の運動を内在的に批判してこなかった在日知識人は、
どのように「共生」の動きを検証・総括しようとするのか、これ
は実にむつかしいことと思われます。

というわけで、私の参加にどのような意味があるのか
わかりませんが、私を指名してきたスタッフの「勇気」に
応えるべく準備をしようと思っています。

最後に、実は私はそのスタッフの方にひとつの条件を
付けました。私は、新自由主義の阿部川崎市長の三選阻止
のために、新自由主義施策にどのような対抗の理念、政策を
掲げて闘えるのか、参加者から知恵・知識を得ることができる
ように協力を要請したい、そのことが認められるのであれば、
参加すると要請しました。さて、どうなりますか・・・

崔 勝久
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立命館大学コリア研究センター国際シンポジウムの資料から
「浮遊する在日コリアン-同化と差別のなかで」

日時: 2008年11月14日(金)、15日(土)
場所: 立命館大学朱雀キャンパス5F大講堂
主催: 立命館大学コリア研究センター
参加費: 無料
助成: 韓国国際交流財団



第6セッション 大討論:「在日論」再考 16:15~19:00
司会:尹健次(神奈川大学)
 かつて自らの生き方とそれを規定する構造要因とをそれぞれが、それぞれの見方・立場をぶつけながら論じられてきた在日朝鮮人論から「論争」が消えて久しく、在日コリアンは心地よい「在日」言説にどっぷり浸かっているように見える。かつての論客は今、何をどのように考えているのだろうか。「在日論」の毒と薬は何か。「在日」を論じようとする人たち、もしくは論じ始めている人たちは、かれら・彼女らから何を学び、何を受け継ぎ、何を批判的に克服し、何を提示するべきなのか。

パネラー:朴一、崔勝久、鄭暎惠、文京洙+報告者

2008年10月5日日曜日

新たな出会いへの期待

みなさんへ

昨日、私は、平和無防御条例をめざす「新たなスタートの会」に
出席しました。川崎を”戦争をしないまち”にするために、
「平和無防御都市条例」制定を目指して直接請求運動を起こし、
3万人を超える署名を集め市議会に提出した人たちの集まりです。

去る7月23日、5名の請求代表人が市議会で意見陳述をした
のですが、「阿部市長は、地方自治体は無防御地域宣言は
できないという「国の見解」なるものを繰り返し、「地方自治法に
抵触する」との反対意見を提出しました。その上、議会での
質疑で「この署名をされた方が内容を理解していたどうか」と
署名そのものへの疑問を投げかける等、市民の平和を願う思い
に向き合わない対応に終始」(「報告集」より)したそうです。
市議会市民員会の各政党もすべて反対したとのことです。

この市民運動を展開してきたメンバーは、条例案が否決されたので、
今後の川崎における運動をどうするのかということで、昨日の集会を
準備されました。会に出席した私は、このメンバーとの新たな出会い
に大いなる期待を抱きました。

1.彼らは、市民の立場で、平和を希求する立場から、国を
絶対化せず、地方自治体のあるべき姿を求めて行動を起こし、
3万人を超える川崎市民の署名を得るなど、自らが当事者として
行動を起こすという姿勢を貫いているという点において、
私たちの考え、立場と一致する。

2.彼らが作成した条例案では、「平和的生存権の保障」の項で、
「国籍を問わず、川崎市に居住する全ての人は平和のうちに
生存する権利を有する」とあり、その主張は、(日本の)戦争に
行かない外国人は「準会員」とした阿部市長の主張と真っ向から
対立し、私たちが10年にわたり主張してきた内容と一致する。

3.彼らの主張は、平和の希求を根本に据えて、市民の生活全般
の在り方にまで及ぶ可能性を秘め、福祉切り捨て政策を掲げ
実行する、新自由主義信奉者の政策を批判し、川崎のあるべき
姿を求めるという姿勢において、私たちの立場と完全に一致する。

ということで、私は彼らとの新たな出会いへの期待をふくらませ、
今後、一緒に歩めるとの確信をもちました。その集会の中で、
参加者から、3万人の署名を集める中で、特に南部地区に
ては外国人の署名が15%を超え、それらが、地方公共団体の
議会及び長の「選挙権を有する者」でないという理由で、無効に
なったことを素直に、それはおかしいという発言が多くだされました。

川崎では外国人の住民投票は認められたのに、条例請求の署名
ができないということが明らかにされましたのです。また私たちが
進めている「阿部三選を阻止する川崎市民の会」の呼びかけ文の
内容に賛同し、すぐに入会するといううれしい発言をしてくれる方も
おられました。請求が否定された以上、市長選運動に直接関わり、
その準備にかかるべきではないかという意見もありました。

今日はうれしい報告です。
崔 勝久

2008年9月29日月曜日

樋口さんの読後感への感想ーその(2)

9月26日のブログで、「共生」施策における行政のパターナリズムの問題
と、 「共生」を要求する側の体質(エスタブリッシュ化の危険性)の問題に
ついて 言及しました。両方の問題は関連します。それは行政側と運動側
の関係性 の問題に発展します。そしてそれは川崎市政そのものの質と
方向性に 関わるものになるでしょう。

以下、樋口さんのご指摘にある以下2点について考えてみます。
3)私たちの新自由主義と「多文化共生」の関わりの記述は不十分である
4)政治的な課題と執行の問題

3)のご指摘はそのとおり認めます。今回の本の内容としては、
「多文化共生」の問題を新自由主義との関係において考えるべき
だという問題意識の発露に終わっています。その展開は第二ラウンド
においてなされなければならないと考えています。
「多文化共生」の問題を社会構造そのものの中で把握すべきという
樋口さんの意見には全面的に同意します。

4)のご指摘の内容は明らかにされていませんが、外国人問題を
市政の政治課題として捉えず、目の前にある諸問題のひとつとして
捉えて処理をすることを「執行の問題」にしているとの指摘と推測しました。

これは運動側に言えることなのですが、自分たちの課題を追求するあまり、
外国人問題を特殊化してしまい、すなわちひとつのカテゴリーをつくり
そこに押し込め、その部分だけの解決でよしとする危険性があります。
為政者はその点を突き、当事者の要求に応えるふりをしながら(そして
実際に応えながらも)、為政者の大きな路線に沿って自分たちのやりたい
ことの実現の第一歩として位置つけます。

事業を民営化して問題を地域に限定することで自治体の政治責任を放棄し、
同時に財政の軽減化を図るということです。市政の緊迫した財政問題を
取り上げ、それを理由にして行政のスリム化を図るという方針は大衆に
受け入れられているようですが、問題は、その為の民営化、福祉切り捨てが
市民のためになっているのかということです。

企業の自由な活動(海外での生産、販売)を最優先し、福祉を切り捨てる
というのは新自由主義ですが、阿部市政は川崎においてその新自由主義
に基づく政策の実現を図りながら同時に、「多文化共生社会の実現」を
あげています。民族差別との闘いの中から「共生」「多文化共生」を主張し、
行政との関わりを深めてきた運動側は、今後、市政全般の大きな路線の
問題に対してものを言う立場にたつのか、マイノリティ問題だけに自己限定
した立場に立つのか、今、問われています。

私は、前者の立場に立ち、阿部市政の新自由主義路線に対して、それが
弱者を切り捨て、格差を拡大する政治であるがゆえに、阿部三選阻止を
唱えるべきだと考えます。みなさんはいかがでしょうか。

崔 勝久

2008年9月27日土曜日

二人の感想文への所感

今朝、崔さんと朴さんの「樋口さんの読後感を読んで」の感想文を
拝見しました。

樋口さんの「利敵行為」という判断に関して、朴さんの質問は理解
できるように 思えますが、私は崔さんの理解に共鳴したい気持ちです。
そして樋口さんのいわれる、「青丘社の父母会の『混乱』」という文への
解釈は、 崔さんの感謝という気持に共鳴します。

ただ、最近の学者等との交際で案じられることは、彼等が自己保身から、
自分の学者という立場に固執する傾向がみられることです。先日の
出版記念会 の席で高史明さんが発言された、言うべきことを言って仮に
職を失ってもいいではないかという言葉で、学者が「自分の地位に固執
すること」 への批判がありましたが、重要な指摘であると思います。

望月文雄
「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」代表

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皆さんへのお願い

樋口さんの読後感について質問がありましたが、ご本人からのメールで、
「先日お送りした感想は、一読者としての読後感を書いたものであり、
それからさらに議論をする準備はありません。大変申し訳ないのですが、
私が著者で答えるべき立場にあるわけではないので、感想をお送りする
にとどめたいと思います。」とありました。

みなさんには、樋口さんの感想文に関する質問ではなく、ご自分の意見を
出してくださるようにお願いします。意見の交換には樋口さんも参加される
かもしれません。

崔 勝久

樋口さんの読後感に質問が来ています

樋口さん

「革新自治体と住民運動の研究を当時並行していたので、これは革新自治体が持つ構造的な問題だと思いつつも、批判は利敵行為になるという意識が強く書けませんでした。」

(質問)1.
何故、「利敵行為になる」のでしょうか?
「利敵行為になるという意識」、この点について樋口さん思想、考えを知りたいです。


2)多文化共生(あるいは人権)業界ともいえるものができあがり、そのなかでエスタブリッシュメントが形成され、それが結果として行政や企業のアリバイを、他方では既得権益や内部での抑圧を生み出していくことになる。これは、どのような意図で書こうが、保守派のバッシングと何ら変わらない結果になるので1)よりさらに批判できない点です。

(質問)2.
「それが結果として行政や企業のアリバイを、他方では既得権益や内部での抑圧を生み出していくことになる。」「保守派のバッシングと何ら変わらない」
この箇所は、よく理解できませんので、具体的に補足していただければありがたいです。
よろしく御願いします。

from 朴080927

2008年9月26日金曜日

樋口さんの読後感への感想ーその(1)

樋口さんへ

樋口さんの読後感はブログに掲載させていただきました。
ありがとうございます。「オープンな議論」が川崎でおこることを期待
して、まず私の意見をのべさせていただきます。

樋口さんは、私たちの本を読まれ、2点、「重要な貢献」として指摘
されています。

1)川崎でなされていることがパターナリズムであるという点
2)運動の中でのエスタブリッシュメントの形成

その他にも以下の2点に簡単に触れておられます。
3)私たちの新自由主義と「多文化共生」の関わりの記述は不十分である
4)政治的な課題と執行の問題

(1)まず1)と2)で共通の単語が使われています。それは「利敵行為」です。
即ち、(「共生」を進める運動にとって)よかれと思ってきたので、外国人
との「共生」を望まない「保守派のバッシングと変わらない」と思い、
「利敵行為」になることを恐れ、批判を慎んだと読みました。

勿論、その気持ちはよくわかります。私たちは「外国人への差別を許すな・
川崎連絡会議」を作り11年が過ぎましたが、私たちの「共生」批判は
「内部批判」であり、せっかく運動で作ってきたものをつぶすつもりかという
批判・中傷を浴びてきました。

しかし私は、本の中で記したように、<相互批判と情報の公開>は運動を
進める上での大前提という信念をもち、「共生」批判を続けてきたのです。
「利敵行為」を恐れて内部の、あるいは自分が支持・共鳴する運動の批判
を怠れば、結局は、その運動は権力者の庇護の下で、一定の特権を得て、
樋口さんが指摘するように、「既得権益や内部での抑圧を生み出して
いくことになる」危険性をはらみます。

それは地域民衆の代弁者になり、同時に権力の代弁者にもなって結果
として住民の声を抑えるという働きをする危険性を秘めています。運動側が
そのようにならないようにするにはどうすればいいのか。私は樋口さんの
御指摘に全面的に賛同します。それこそ、本の中での私の論文において
最も強調したかった点です。この点について樋口さん以外の方からの言及
はまだありませんが、よくぞ私の言いたかったことを見抜いてくださったと
いう思いです。

それは、「青丘社の父母会の「混乱」をダイナミズムの発露と捉え、それを
重視するような方向が必要だと」いうことです。内部的な「混乱」「批判」を
抑えたり、外部に目をそむけさせるのでなく、苦しくともその「混乱」を
正面に据えて、徹底的に内部の検証を行い、地域住民とともに組織を、
運動を作り上げ、住民と一緒に(代弁者でなく)権力者に要求していくと
いうことです。

しかし外部の問題が、民族問題であったことが、そしてそれが大きな
運動になっていったその「成功」が「不幸」でした。私が、民族主義
イデオロギーは克服していいかなければならないというのはこのことです。
樋口さんにご理解いただけるでしょうか。

崔 勝久  SK Choi

樋口直人さんから読後感が送られてきました

みなさんへ

徳島大学の樋口直人さんから、読後感が送られてきました。
御本人の承諾を得て、掲載させていただきます。
樋口さんは大学院時代は川崎市の外国人政策の調査にも関わり、
その後は南米のマイノリティの問題を現地調査をして、社会構造の
中でマイノリティの問題を研究されている方です。
国内では「移住連」の問題にも取り組まれています。
詳しくは樋口さんのHPをごらんください。(http://www.ias.tokushima-u.ac.jp/social/higuti/higuti.html

樋口さんのご意見に対する御意見を求めます。

崔 勝久

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各位アルゼンチンから戻ってまいりました。

10週間留守にしてから木曜日に徳島に戻り、御本を拝見しました。
お送りくださったことまず御礼申し上げます。
また、御礼が遅くなりましたことお詫び申し上げます。

シンポジウムの記録に近い体裁をとっているので、ですます調で
書かれているのが個人的には気になります(読みにくい)が、
全体を通読しました。個別の点についてはいろいろ突っ込みを
入れたくなるところがありましたが(上野さんのジェンダー以外の
議論の紹介はこんなんでいいんか、とか)、面白く拝読しました。

2点これまで表立っては言われてこなかったが非常に重要な指摘が、
川崎の現実に即してされていると思います。これは次のステージを
考えるに際して不可欠の論点であり、私はこれが本書の一番重要な
貢献だと思いました。

1)川崎でなされていることがパターナリズムとして捉えられうる。
私自身は、94年の川崎市調査からかかわり、代表者会議について
調査もして論文も書いているので、関わりながら書きながらずっと
思っていたことです。革新自治体と住民運動の研究を当時並行して
いたので、これは革新自治体が持つ構造的な問題だと思いつつも、
批判は利敵行為になるという意識が強く書けませんでした。
代表者会議の最初の時点で3つの組織推薦がなされて・・・と思った
記憶がよみがえります。
ただ、そこには運動と当局との交渉の歴史があり、70-80年代の
経験をもっと踏まえたうえで現状を捉えないと、出口は見えにくいようにも
思います。
点としての出来事については本書でも書いてあり、それは勉強になるの
ですが、では線としてどう捉えるのか。そしてその線をどこに伸ばして
いこうとするのか。運動としても研究としても、この点を掘り下げていく
必要があるようにみえました。

2)多文化共生(あるいは人権)業界ともいえるものができあがり、
そのなかでエスタブリッシュメントが形成され、それが結果として
行政や企業のアリバイを、他方では既得権益や内部での抑圧を
生み出していくことになる。これは、どのような意図で書こうが、
保守派のバッシングと何ら変わらない結果になるので1)よりさらに
批判できない点です。
この点については、青丘社の父母会の「混乱」をダイナミズムの
発露と捉え、それを重視するような方向が必要だと思います。

新自由主義については、川崎の現実との関連ではあまり議論として
成功していないようにみえました。地方政治の水準では、新自由主義は
川崎や横浜や東京のような右派が台頭する形よりも、三重や岩手や鳥取
のような政治の行政化として地方では出現しているという見方が妥当だと
私自身は考えています。

右派政権は新自由主義の本丸ではなく、それを適用するのに失敗した
ゆえにナショナリズムに訴えるという意味で、出来損ないの新自由主義
という意味です。そうでなければ、余計な発言をして統治効率を下げる
必要はありません。

新自由主義がナショナリズムを伴うという立論は、上野さんが論理的には
矛盾といわれていましたが、実際のところナショナリズム抜きの新自由主義
も存在します。「多文化共生」とのかかわりでは、本来政治的な課題を
行政上の執行の問題に矮小化してしまうことにも、もっと目を向けていく
必要があるように思います。

この点は、川崎の状況についてではなく今後の自治体一般で生じうる
課題としての話ですが、私が社会構造にこだわる理由はここにあります。
塩原さんの議論も、新自由主義の概念的理解と社会構造の把握が弱いが
ゆえに、私は上野さんが評価するほどには評価していません。

研究書ではない本を研究書として読むのはどうかという気もしますが、
私自身は全体に上のような感想を持ちました。これを機会に、川崎でも
オープンな議論が起こるといいなあと思います。

樋口直人
徳島大学総合科学部

2008年9月5日金曜日

二宮厚美著『格差社会の克服ーさらば新自由主義』の紹介


二宮厚美著『格差社会の克服ーさらば新自由主義』(山吹書店)を
読みました。みなさんにこの本を読まれることを勧めます。


二宮さんは、格差社会は資本主義社会では必然的なもので

あるが、新自由主義によって決定的に拡大されると捉え、

新自由主義を克服しようと本気でこの本を記したと読みました。


格差社会に関してはそれを称える者から、それを解消しようと

考える者までを取り上げ、その考え方を簡潔に紹介し、徹底的

に批判します。私はその分析、批判は正しいものと思います。


彼は拡大する格差社会を階級と階層という概念で説明します。

新自由主義的政策によって階級格差はますます拡大し、

それによって階層間の格差が増大するメカニズムを簡潔に説明

するのですが、この視点が明確で、すべての批判の核心に

なっています。


新自由主義の信奉者で、「小さい政府」を実践するために

学童保育などを廃止し民営化を進め、福祉の切り捨てを敢行し、

大企業の誘致に血祭りをあげることに成功しつつある阿部川崎

市長の3選を阻止するためには、運動としてネットワークの構築

ともに、何よりも新自由主義を克服するという明確な思想と、

それを地方自治体において具体化する政策提案が必要です。


いざというときに戦争に行かない「外国人は準会員」と公言

しながら「多文化共生社会の実現」を掲げる阿部市長は、憲法

の戦争放棄とすべての人の最低生活の保障という根本理念を

全く無視しているのです。彼との闘いの根本はこの点です。


国政レベルでなければできないことがあります。しかし地方

自治体においてできることもあるはずです。そのことを市長選

まで後2年、阿部3選阻止にはそのことを学者の協力を得ながら

しっかりと準備をしなければならないと痛感します。


この本を一読してどのような具体的な施策が可能か、

みなさんの御意見をお聞きしたいと思います。


崔 勝久

2008年9月4日木曜日

外国人労働者問題と「多文化共生」について

来週、外国人労働者の不当解雇や賃金未払いなどの労働問題に
取り組んでいる活動家と会うことになりました。少し、頭の中を整理
しておきたいと思います。以下の展開に問題はありませんか?

●「多文化共生」と新自由主義との関係
「多文化共生」は文化や教育の面でいろんな民族が仲良く、それぞれの
違いを もちあって地域や職場で生きていくこと、それは多様性を認める
こと、などという ように言われています。

しかし、外国人は安く雇用できると経営は考えています。 同じ労働者で
あっても日本人より賃金が安い、これは労働者間での階層格差 ですね。
外国人差別です。


●外国人は安く働かせてもいい、同一労働同一賃金の原則が
守られていない、 どうしてでなのでしょう?
日本の政治、経済は、日本の大企業が国際社会での競争に勝ち抜く
ために 非正規社員を増やし、請負制度を導入し会社の負担を少なく
したいと考え、 それを支える体制を作り上げてきました。
それが新自由主義です。

「多文化共生」は外国人の賃金体系での平等を求める運動に
なっていません。 新自由主義を支えるイデオロギーになっています。
労働運動は「多文化共生」を 賛美するのでなく、撃たなければならない
のではないでしょうか。


●外国人労働者の問題とは何か?
現場での外国人労働者の不当解雇や賃金未払いなどの問題の本質
は何か。 それは新自由主義政策によって、階級格差が拡大し、それが
労働者間での 階層格差をさらに広げているという現状の中で、さらに
賃金を下げるために 外国人雇用が始まり、その流れの中で生じてきた
現象なのではないでしょうか。 労働者総体の貧困化の問題です。

そうだとしたら、新自由主義政策を進める政府と、同調して大企業優先
の 政策をとる地方自治体と、総賃金を下げようとする企業、戦えない
組合、 沈黙を余儀なくされる労働者という、まさに日本社会の現状だから
こそ、 外国人労働者問題が起こっていると考えるべきなのでしょう。

●ナショナル・アイデンティティの問題
外国人B 4働者が搾取され、差別されているのを黙認しているのは、
自分たち自身が搾取・貧困化されている現実に立ち向かわないでいる
日本人労働者が日本のナショナル・アイデンティティに取り込まれ、
外国人差別を当然視するようになっているからなのではないでしょうか。
ナショナリズムは格差の拡大をカモフラージュします。


崔 勝久

2008年9月3日水曜日

川崎市の自己評価は「94%達成」

9月3日の朝日新聞川崎版です。

自己評価は「94%達成」
市の川崎再生フロンティアプラン実行計画
外部委評価「自己満足だ」

川崎市の進めるまちづくりの基本方針を示した市の新総合計画「川崎再生フロンティアプラン」で市は2日、第一期(05-07年度)実行計画の実施結果を公表、高い評価結果が出た。しかしこれらは「自己評価」。外部の識者により評価委員会は「自己満足的」と厳しい評価を下した。(斎藤健一郎)



2008年9月1日月曜日

阿部川崎市長3選呼びかけ文

阿部川崎市長の3選を阻止するために

何故、阿部3選を阻止しなければならないのでしょうか。
阿部市長は「行政改革」を掲げ、市場原理を最優先し福祉を切り捨てる
新自由主義の信奉者です。新自由主義政策によって市民の格差は
ますます拡大されています。

川崎市政の経済立て直しを目標に掲げた阿部氏は、あらゆる分野での
民営化を図り、福祉や教育、医療の分野にまで競争原理を持ち込む
体制を着々と築いてきました。

永く続いた革新市政を批判して出馬した阿部氏に闘いを挑んでいた
はずの市の職員組合も 2選目からは彼を支持するようになり、正面
から阿部市政を批判できない でいます。また残念ながら個々の市民
運動もばらばらに されており、 私たちは一つになって、格差社会を
拡大する阿部市政に待ったをかけ、 平和と福祉を求める市民の声
に応えたいと立ち上がります。


阿部氏は、当選した当時から、外国人はかけがいのない市民として
「多文化共生社会の実現」を看板にしながらも、いざという時には戦争に
行かない「外国人は準会員」と公言してきました。外国人を二級市民と
見做す考え方は、憲法を 改悪して戦争に備えるという彼の持論と
表裏一体です。

川崎市をどのような街にしていけばいいのでしょうか。それは、テロとの
闘いや北朝鮮の脅威を口実にして軍備拡張に走る国策に協力していくの
ではなく、平和を希求しながら、すべての市民を国籍や思想、宗教、
ジェンダー によって差別せず、憲法で謳われた人間らしく生きる
基本的人権を保障して弱者を切り捨てない、「開かれた地域社会」を目指
す ことにほかなりません。

阿部3選を阻止するために、国籍にかかわりなく、上記の趣旨に賛同くださる
個人、団体の参加を求めます。

1.阿部市政の志向する新自由主義的政策がもたらしたひずみの実態を
明らかにし、平和を希求し、すべての市民の基本的人権が保障される政策を
提言する。

2.税金の集め方、税金の使われ方を検証し、川崎市政の新たなあり方を提言する。

3.阿部氏に対抗して出馬する意思のある候補者とは、政党所属の如何に
かかわらず、上記の方針にそって政策協議に応じる。

4.阿部市政に対して危惧する個人、市民団体は国籍に係らず、すべて対等
の立場で、上記内容の調査・検証・立案のために協力しあう。参加者間での
情報公開、相互批判は保証されなければならない。


            阿部3選を阻止する川崎市民の会
            川崎市川崎区小川町11-13、日本基督教団川崎教会付
            電話:044-599-1447、Fax: 044-599-0609
            eMail:Skchoi7@aol.com

阿部川崎市長3選阻止宣言

みなさんへ

7月21日の出版記念集会の後、集会での論議を踏まえて、
「共生」批判の研究と運動はどうあるべきかを考え、阿部市長の
新自由主義的政策による格差の拡大、「外国人の準会員」発言は
黙過すべきではないという結論に至りました。

ここに阿部3選阻止の共同戦線作りに着手することを宣言します!

詳しくは添付資料をご覧いただき、賛同・協力してくださる方の連絡を
お待ちましす。お互いの違いを議論するのでなく、何が一緒にできるのかを
話し合い、共通の敵を明確にした共同戦線を作り上げたいと考えています。
全くのセロからの立ち上げですので、運動の進め方などついての積極的な
ご意見をお待ちしております。

まず、ばらばらにされた個々の市民運動のネット作りに着手したいと
考えています。同時に、「開かれた地域社会」を求めて、財政の問題を
直視しながら、平和を希求し、社会の弱者が人間らしく生けていけるように
具体的な提案まで準備したいと思います。

外国人は市民であるという基本的な立場に立って、既成の政党に依存せず、
市民の立場から川崎市の在り方を模索し、阿部3選阻止宣言をすることに
よって、新自由主義の政策によって市民の生活はどのようになっているの
かの実態把握からはじめていきたいと考えています。

幸い、日本基督教団川崎教会の滝澤牧師の了解を得て、連絡事務所に
させていただきました。深いご理解と御協力に感謝いたします。

崔 勝久

2008年8月21日木曜日

植民地主義の克服と「多文化共生」、を読んで

まだまだ残暑が厳しいですが、みなさん、おかわりございませんか。

藤岡美恵子さんの論文「植民地主義の克服と「多文化共生」論」」
(『制裁論を超えて』、新評論、2007)を読みました。北朝鮮
バッシングが横行する現状を危惧しながら、それとは無関係に
唱えられる「多文化共生」の問題点を考察した、力作です。
教えられることが多く、共鳴するところも多い論文でした。
皆さんの一読を是非、お勧めします。

藤岡さんは、現状、地方自治体・国レベル、及び経団連で唱え
られる「多文化共生」は「外国人の受け入れおよび管理に関する
政策提案」と喝破し、そこに脱植民地主義化の視点が全くない
ことを批判します。彼女は、「多文化共生」とは「多文化主義」
にもとづく考え方であり、提言であると捉えるのです。

個人の平等の保障やアイデンティティの尊重を目指す「多文化
主義」は、それでも結局は、資本主義下の構造的な矛盾を抱えて
いると説明し、「多文化共生」の脱植民地主義化が課題である
ことを強調します。「人権の保障」では、この「脱植民地主義化」
にはつながらないというのです。

彼女の基本的な考え方に同意し、何点か私の意見を記します。
1.川崎は拉致されためぐみさんの両親が住み、北朝鮮バッシング
では最も声の大きな都市であるといえるでしょう。しかしその問題
が川崎の運動の中で取り上げられることはなかったように思います。
今後の私たちの運動の課題です。

2.彼女の論文は、北朝鮮バッシングに危機感を覚え、これまでの
自分の経験と世界のマイノリティの闘いの中から学び、それを理論化
しようとしたものと思われます。しかしその理論化の中で、地方自治
体の実態に関してはよく分析されていません。個別・具体的な地方の
実態に関しては、理論化が優先してよく見えていないのだと思われます。

これは金栄の力作「在日朝鮮人弾圧から見る日本の植民地主義と軍事化」
(『歴史と責任』、青弓社、2008)でも感じられます。そこからは川崎の
「共生」を批判し、日本社会の問題点を探る作業はなされず、かえって
川崎の「共生」を賛美するようになる可能性があります。

3.「人権の保障」を求める闘いを理論的にその限界を指摘すると同時に、
その闘いをさらに徹底化し、「国籍条項」にしてもそれを支える「当然の
法理」の問題点を具体的な地方で深めて考察して闘うことによって、日本
国家の在り方に対する批判・闘いになるのです。

4.同時に、日本国家の在り方を支えてきた日本人自身のナショナル・
アイデンティティの問題点を考察するべきだと思います。沖縄やアイヌ、
それに在日朝鮮人を国民国家の枠で新たに統合しようという動きは、
その根底に日本人の統合が明治以降、当たり前のこととして進められて
きたからでしょう。

日本社会で脱植民地主義化の動き、研究が進められて いないのは、
日本人自身のナショナル・アイデンティティ批判が徹底的に
なされてこなかったからだと思われます。「多文化共生」は日本の
ナショナル・アイデンティティを賛美するのに貢献しているという
ことは私たちの本で指摘したとおりです。


ということで、官製「多文化共生」を批判する集会を主催した<NGOと
社会>代表の藤岡さんとは今後、意見・情報交換をさせていただき、
お互い協力しあうことができればと願ってやみません。


崔 勝久

2008年8月20日水曜日

東京新聞で本の紹介


 みなさんへ


少し涼しくなりましたが、まだまだ残暑が続きそうですね。

お変わりありませんか。

本日の東京新聞(川崎版)で、私たちの本が紹介されました。

私の写真付きですが、実物より劣った写真なのが、

心残りです(笑)。


崔 勝久

2008年8月12日火曜日

「民族保育」の実践と問題を読みました

滝澤 貢さんから送られてきた、「民族保育」の実践と感想を
ブログに掲載させていただきます。

『日本における多文化共生とは何かー在日の立場から』に収録
されている曺慶姫氏の「「民族保育」の実践と問題」は、具体的な
保育の現場で模索されてきた、桜本保育園の核となる「民族保育」
についての批判です。

「民族保育」は「多文化共生保育」と名前を変えても、その質は
同じものです。滝澤さんの定義では「属性」を求めるものです。
それは被抑圧者にとってナショナル・アイデンティティとは何なのか、
という問題とつながります。支配のナショナリズムはだめだが、
抵抗のナショナリズムは絶対的に評価すべきものなのかという問題です。

これまで川崎では、「共生」ということと、「民族保育」というのは
無条件に評価され、「民族保育」(=「多文化共生保育」)は「共生」
の目玉でもありました。しかしこれは結局のところ、人にはナショナル・
アイデンティティが最も重要なものであるという考え方に基づくものであり、
日本のナショナリズムの攻勢に加担するものであると思います。

「民族保育」の実践と問題、を読み、」また滝澤さんのご意見に
対してみなさんのご意見をお寄せください。

崔 勝久

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「民族保育」の実践と問題、を読みました。 

キリスト教保育を標榜する幼稚園の名目園長というわたしの立場から、
この論文を読んだ感想を述べます。 

わたしたちの社会が格差社会である現実の中で、それが問題だと
言われることはあっても、問題の根はどこにあるのかが問われる
ことは少ないように思います。ある時突然──たとえば「小泉改革」
によって──格差社会が訪れたのではなく、わたしたちの、あるいは
この国の歩みの中に今日を迎える必然があったということでしょう。 

幼稚園という現場からふり返るならば、社会が求めた「幼稚園」は
正にさまざまでしたが、気になったのは子どもの属性を磨くことを
売り物にすることの横行でした。

早期・英才教育とは、属性を磨くことでしかないのですが、どれだけ
磨くことができるかは正に「自己責任」だったわけです。つまり、
教育における自己責任とは、「教育(その内実は属性磨き)に
どれだけカネをつぎ込むことができるか」というその一点である
ようにわたしには思えるのです。 

属性がどれだけ磨かれたとしても、本性が育たなければ無意味です。
本性とは一人の子どもの中にある生きる力がどう発揮され、
さまざまなことが起こりえる長い人生を意義あるものとして生き抜く
ことができるかにかかる本質的な部分でしょう。教育の平等とは、
制度的な保証という意味で用いられる言葉ですが、むしろ人間の
本性を伸ばすという意味においては誰も、どんな立場の者も同じ
であるという意味があるのではないかとさえ思えてきます。 

そういうように考えてみると、たとえば「民族保育」という概念は、
属性に関わるものであるのか本性に関わるものであるのかと
いう視点で見る時に、前者であるといって差し支えないでしょう。
そして、そうではなく後者を、本性に関わるものを求めて苦闘した
その足跡が、チョウさんの苦闘であったのではないかと思いました。 

98.5%が日本人であるわたしの幼稚園で、その保育目標に
「日本人教育」「日本人保育」を掲げたらどうなるか。笑い話です。
「日本人保育などという前に、子ども一人ひとりの現実に関心を
持ってください」と言われてしまうことでしょう。しかし桜本保育園が
「民族保育」という言葉を掲げなければならないという現実がある
としたら、それを掲げさせていることの責任はわたしにもあるのです。 

そのことに責任を感じ、その現実をなんとかしようと思う時に、
わたしのとるべき道はいくつかに分かれるでしょう。一つは責任ある
者としてお詫びの心を持つこと。一つは責任ある者として民族差別と
共に闘うこと。しかしわたしがするべきことはこのいずれでもないよう
な気がします。

そうではなく、わたしもまたわたしの現場で「普遍性」を求めて産みの
苦しみを続けてゆくこと(121ページ)にあるのではないか。わたしたち
の暮らすこの社会の軋轢は、日本人であるがゆえに免罪されるもの
ではないからです。

わたしたちもまた人間としての普遍性を獲得することにおいてのみ、
この社会の軋轢をはねのけることが出来るのだと信じるからです。
以上、感想終わり。

滝澤 貢

2008年8月11日月曜日

鈴木道彦さんからのメッセージです

鈴木道彦さんから朴鐘碩へのメッセージを、御本人の承諾を
得て、ブログに掲載させていただきます。

鈴木道彦さんは、昨年、60年代のご自身と「在日」との関わりに
ついて出版されました。『越境の時―一九六〇年代と在日』 (集英社新書)

大変、感動的な本で、「在日」の問題にどのような姿勢で、どのように
関わりをもとうとしたのかについて記されています。
是非、一読をお勧めいたします。

崔 勝久

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朴鐘碩様

先日は『日本における多文化共生とは何か』をお送り下さり、
有り難うございました。

御礼がすっかり遅くなりました。ようやく一段落しましたので、
昨日初めて御著を拝見し、感銘深く読了したところです。

「日立闘争」から現在まで、朴さんがずっと問題を深めて
こられた軌跡も、あらためて確認しました。口当たりのよい
「共生」という言葉が諸刃の剣であることも、鮮明に指摘されて、
時宜を得た問題提起になっていると思います。

「民族保育」の実践にかんするレポートは、細かい事実を
どこまで理解できたか心許ないところがありますが、
「普遍性」を求めて行く産みの苦しみ、という149ペー ジの
言葉には、非常に共感しました。

上野千鶴子氏の発言も、興味深く読みました。彼女の広い
知見に裏づけられた言葉は、 いつものことながら、沢山の
考えるヒントを与えてくれます。

7月21日の集会も行ければ35年ぶり(?)で朴さんにも
お会いできたし、高史明氏とも久々に旧交を温めることが
できたと思うと、実に残念です。

折角の機会を逃しましたが、どうぞ今後もますますお元気で
活躍されますように。取り急ぎ御礼まで。

鈴木道彦

2008年8月10日日曜日

朴裕河さんからの激励のメッセージ

みなさんへ

7月21日の出版記念会には遅れて来られて二次会から参加された、
韓国の朴裕河(パク・ユハ)さんが韓国から送ってくださった激励の
メールを本人の承諾を得て、みなさんにお知らせします。

朴裕河さんは、『和解のために』(平凡社)で2006年に大仏次郎賞を
受けました。韓国のナショナリズムを正面から批判するという、ある意味
では韓国社会にとっては衝撃的な本を韓国で出版し、それを日本語に
翻訳したものです。

しかしあとがきを書いた上野千鶴子さんをはじめ「進歩的」日本人学者
とマスメディアは日韓の問題を曖昧にしたまま朴裕河を持ち上げたとして、
「朴裕河現象」という言葉で一括りにして日本の学者から批判され
始めています。

しかし彼女が(また上野さんが)日韓のナショナリズムそのものを批判し、
相互批判を前提にして日韓の共同作業を提案することを、私は強く
支持します。

他の著作として、『反日ナショナリズムを超えて』(河出書房新社 2005)も
ありますが、私は昨年出版された『ナショナル・アイデンティティとジェンダ
漱石・文学・近代』(クレイン)を強く推薦します。この本で考察されたことが
後の2冊の核になっていると思われます。

ナショナル・アイデンティ(NI)にどれほど強く日本人は取りこまれたきたのか
ということが漱石の作品を通して論証されます。彼女はフェミニズムの
立場から、NIなるものが実は日本人の間の様々な差異を男(知識人)の
立場から主張されていることを漱石を例として批判するのですが、それは
過去の問題としてではなく、そのことが問題にされなかったのは、実は、
今も日本社会は同じ質の問題を抱えているのではないかと憂い、その指摘
は開かれた社会への希求からであることを明示します。

彼女は日本のNIだけでなく、同時に韓国の、そして「在日」のナショナル・
アイデンティの問題を取り上げ、李恢成と梁石日の作品の分析を通して
見事な批判をします。

自殺した金鶴泳の分析を通して、在日のNIそのものがいかに抑圧的で
あったのかを示すのです。

私たちの「共生」批判の見つめるべきものは何か、彼女ははっきりと
示してくれたと思います。皆さんの一読を勧めます。

崔 勝久

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朴裕河さんからのメッセージ2編

(1)この間いただいてきた本を読ませていただいて、ほんとうに嬉しく
思っていました。 長い期間にわたって、「実感」として感じられた
諸矛盾に対して異議をはっきりと となえ,そしてその思想を「運動」
として実践して、文字とおり「社会を変えて」きて いらっしたことを知って、
深く感銘を受けました。

朴ジョンソクさんもそうですが、そのような朴さんを支えてきた崔さん
の柔軟な 思考と強い行動力にはとくに心から敬意を表したいと思います。

いわば、直接の被害者が声をあげたり闘うことよりも、ある意味では、
そのことに 「コミット」していくことのほうが、はるかに大変で難しいこと
かもしれないと 思うからです。

私も「社会を変えたい」と思ってやってきてはいるのですが、
最近の独島事態を見るにつけても、自分の無力さを感じ、ここ
数週間は ほんとうに憂鬱でした。そういう意味でもすごいことを
なさって来られたと思うのです。

朴さんの文章も、チョさんの文章も、ぜひ多くの人々に読まれる
ことを こころから願っています。子供を日本で保育園にあずけながら
留学した 経験を持つものとしても、チョさんの文章、その中に現れた
崔さんの 行動には心を打たれるものがありました。

どのような「ただしい」志向でも、常に自分の内部を見つめないと即
硬直してしまうことをよく示している内容とも思いました。

(2)
何よりも皆様の試みとなしえたことがすばらしいとおもうのは、
「ナショナリズム」という強力な武器を、本書の上野さんの言葉で
言えば「水戸黄門の印籠」をあえて捨てて、(私の言葉で言えば
「強者としての被害者」の立場に甘んぜずに)闘ってこられたことです。

何々主義に頼らずに抑圧の本質を見抜くことのみが、別の場所に
いる被害者に目をつむることのない実践となり、普遍的なものと
なりうると思うのです。

ソウルにて朴裕河

2008年8月6日水曜日

朝鮮新報(8月6日)、朴日粉記者による書評

みなさんへ

朝鮮新報社の朴日粉記者が朝鮮新報8月6日の文化面で、
私たちの本の書評を記しています。

朴記者は、本書は、「個の位置から」問い直した「意欲作」であり、
「読み応えのある論考が並ぶ一冊」と紹介しています。以下、的確な
引用と合わせ、朴記者がどの点に関心を持ったのか、よくお読みください。
どこよりも早く、なお的確に、新聞紙上で書評を記してくださったことに感謝します。

崔 勝久

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朝鮮新報 8月6日 文化面から引用(5ページ)


より深刻な人間性蹂躙の今
「日本における多文化共生とは何か」

 日立就職差別裁判闘争(以下日立闘争)の勝利から34年―。
本書は、グローバリズム と新自由主義のなかで、変質する「共生」の概念をこの闘いを長年担い、支援してきた人々が「個の位置から」問い直した意欲作である。

 日立闘争は、1970年、日立の入社試験において本名の蘭に日本名を記し、本籍地に現住所を記した在日朝鮮人2世の朴鐘碩青年が、「嘘をついた」ということで採用を取り消され、そのことを不服として日立を相手に提訴し、4年にわたる裁判闘争で勝利した闘争である。

 このときの判決は、日立は民族差別にも基づく不当解雇をしたと日立側を全面的に問責しながら、日本社会にはこる民族差別について次のように厳しく指弾している。

 「・・・在日朝鮮人に対する就職差別、これに伴う経済的貧困、在日朝鮮人の生活苦を原因とする日本人の蔑視感覚は、在日朝鮮人の多数から真面目に生活する希望を奪い去り、時には人格の破壊にまで導いている現在にあって、在日朝鮮人が人間性を回復するためには、朝鮮人の名前をもち朝鮮人らしく振舞い、朝鮮の歴史を尊び、朝鮮民族として誇りをもって生きていくほかにみちがないのであることを悟った旨、その心境を表明していることが認められるから、民族的差別による原告の精神的苦痛に対しては、同情に余りあるといわなければならない」と。

 あれから40年近い歳月が流れた。しかし、日本では相も変わらず同化と差別がはびこり、政治、経済、言論界など社会の隅々に差別的、閉鎖的、排外主義的な言質が跋扈している。しかも、より深刻な問題を呈しているのは、世界的な新自由主義(ネオ・リベラリズム=ネオリべ)の席巻やグローバリズムの拡大のなかで、企業・行政はネオリべ路線に沿って、利潤を求める競争や効率を最優先させ、地域住民や労働者らに犠牲を強いて、人間性を踏みにじる状況であろう。

 そうした今日的な問題意識を持ちながら、いまや政財界もこぞって唱えるようになった「共生」とは何かを、フェミニズムの立場から論じた上野千鶴子・東大教授の論考、「共生の街」川崎を問う崔勝久氏の問題提起など、読み応えのある論考が並ぶ一冊。

とりわけ、上野氏が外国人の「参加」や「参画」「多文化共生」ということもそれが使われる文脈次第で異なる意味が生まれると指摘、「そういった言葉自体になにかの意味が本質的にあるわけではなく、それがどのような文脈においてどのように使用、流用、盗用、動員されるのかという可能性にいつも注意深くなければならない」と警鐘を鳴らしていることに頷く。
                               (朴日粉記者)

高史明氏の講演内容と私の感想

 08・08・06   望月 文雄

昨日、小田実の「河」という出版記念会に引き出されました。
昨日の小田実の「河」六千ページにわたる作品を読みたいという希望
を いだかされました。
なぜ、「河」を読みたいのか、「河」は九年もかかっている作品で、
生きて いる間には完成しませんでした。それは「共生」にかかわる
新しい視点が 込められていると思います。

かれは「何でも見てやろう」という文章で世に出ました。ベ平連の中心
になり、 ベトナム反戦で大きな力となったが、彼の死後出てきた「河」は
「何でも見てやろう」と見てきた事の思いを正直に表そう、自分の
意思表示を 明確にという、従来の立場から変化して、日本社会の
変革を求めるという風に。

戦時中大阪大空襲の炎に囲まれた体験が、フルブライト交換生時代
にある。 それを1923年の関東大震災の在日朝鮮人虐殺の想いを
馳せ、 大阪大空襲の体験に重ねている。自分は日朝のハーフとしての
体験を 小田の「河」には日本は変わらなければならないんだという
意識が鮮明に 出ている。

見る小田から行動する小田へ、阪神大震災であやうく死という体験
を経て、 また、日本政府への要求が受け入れられず、さらに、
新潟の大震災への 重複体験は変革を求める行動を起こすことへの
変化となった。 何を変えなければならないのか。

布施辰治の韓国での叙勲、建国功労賞、野間宏の「暗い絵」に出てくる
京大の学生は布施辰治の息子。 日立闘争は、強制への扉で子の扉を
開いてどこへ行くのか。丸山真男の日本への問題提起は1980出版の
日本思想体系第31巻(岩波)で、日本の戦前の思想の根を抉っている。

敗戦という問題は日本の根幹に関する問題(国体に関する根幹)を提起。
それは明治憲法と教育勅語という問題と、神ながらの道への天皇の思想が
問われているのだ。しかし、日本の思想はそれを風化させている。天皇が
ポッダム宣言の受諾を躊躇している間に二度の原爆投下を受ける。

戦後の日本は賠償問題に着手しない間に、朝鮮動乱がぼっ発、その
時点で GHQの日本支配の重点の転換が(賠償から日本の復興へ)
なされた。 それによって日本の政治は経済の進展へと変化した。


感想
戦前戦中の植民地支配の賠償金問題を含む戦後処理を無視し続けて
よいのか。 戦後の在日問題は、歴史を直視してこなかった政治にあり、
当然の法理という 場当たりな見解を国会審議に懸けることなく、国家の
基本方針として黙認する という不条理を最高裁が公認したという、
非倫理理念が存在する。 人権尊重とは何か。理性的な在日朝鮮人
から日本人に突きつけられた 問題提起であるのだろう。

2008年8月5日火曜日

「ネオリべって経団連の会長の名前かと思ってました」

みなさんへ

本当に暑い日が続きますね。
千葉のCさんから出版記念会での感想文が届きました。
抜粋してその内容の一部をお知らせします。

そろそろみなさんも本を読まれたと思いますので、感想をどうぞ。

昨日、辛淑玉(しん・すご)さんと会いました。
本の内容に関しては「全面的に同意します」というご感想で、
3年後の市長選を念頭に置き、石原と対決しようとした彼女から,
これからも具体的な(失敗例を含め)アドバイスをいただこうと
思っています。

夏風邪が流行っているそうです。ご注意ください。

崔 勝久

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21日はお疲れ様でした。問題意識をかき立てられる非常に
エキサイティングな 集会だったと思います。

集会で崔さんや朴さんが提起された、現実の闘いの中で
つかんだ確信こそが、 われわれ労働者階級の理論であって、
それを言葉にして労働者階級の闘いを 励ますのが、闘う
陣営にあろうとする知識人の役割ではないかと思います。

朴さんの「ネオリベって経団連の会長の名前かと思って
いました」という言葉は、 単なるギャグにとどまらない、
聞いている労働者の劣等感を吹き飛ばし モヤモヤを
すっきりさせる、実にナイスな言葉だと思っています。

2008年7月29日火曜日

長野からの感想文

7・12出版記念の集いお疲れ様でした。
いつもながら川崎に行って皆さんとお会いすると勇気がわいてきます。
そして皆さんの笑顔がとても美しく誇らしげに見えて
私はとてもうらやましく思います。

また「日本における多文化共生とは何か」の出版に至る過程でも
皆さんの大変な「労力」と思想の「エキス」が本に注ぎこまれ
その出版が現実のとなった時の皆さんの喜びは
計り知れないのではないかと察します。

さらに「在日」として「民族差別」などに日々苦悩し、壁にぶつかり、
それを乗り越えてもまたさらに壁にぶつかる
そのようなことを繰り返しながら自ら活路を切り開いてきた歴史が刻まれています。

そして立ち上がれば何とかなると勇気を与えたのがあの「日立闘争」であり
その闘いがステップとして、川崎市(行政)を相手に
「国籍条項の完全撤廃」「当然の法理」なくせ
という取り組みにつながり、さらに「共生」批判へと歴史を刻んできた
ということを読む人にわかりやすく訴えていたと思います。

この本はなるべく多くの人に読んでほしいと思っています。
いま仲間に声をかけています。
また、図書館にもリクエストするつもりです。

それでこの集いで私の感想ですが
「多文化共生」という言葉は支配する側の論理によって使われ
その響きの心地よさによりそこに迎合する風潮が
全国的に網羅されているといることが実態だと
この集いに参加して私の脳裏にしっかり刻まれました。

私はいままで「多文化共生」は「利用されること」もあると
漠然と認識しておりました。
しかし、それを利用して「差別していく言葉」=「支配していく言葉」
として実在していることがはっきりいたしました。
発言の中で学者と運動体の意識・認識のギャップが出されましたが、
私は運動の車の両輪でどちらも欠かせないものだと思います。
でもそのような議論は両輪を刺激するためにも必要なことだとも思いました。

この集会が大成功に終わり大変よかったと思います。
私も得るところがあり有意義な集いだったと思っています。

交流会に参加して、翌日の仕事のことも忘れ
結局最終列車で長野に帰宅するようになってしまいました。
有意義な時間をありがとうございました。

是非崔さん、朴さん、文さん、さん長野にも着て欲しいと思います。
いつかその機会をつくりたいと思います。
そのときはどうぞよろしくお願いいたします。

高橋 徹

2008年7月26日土曜日

申英子さんからの感想文です

みなさんへ

暑い日が続きます。お変わりありませんか。
さて、大阪で日本の学校で教鞭をとりながら、日本キリスト教団
ハニルチャーチで牧会されている在日2世の申英子さんから
本の感想が送られてきました。感謝します。

崔 勝久

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「多分化共生とは」の本ですが、何よりも「勇気」ある本だと思います。共生という名ばかりで在日を実質的にはほんとうの仲間として扱っていない状況はあらゆる組織で見られることです(これから多くの外国人を市民として受け入れていかなければならない現実を見据えたら、学ぶべきでしょう)。


それは日本人自身が個の確立を経験していないため、何をどうすればよいのか分からない面もあるでしょうし、パワーゲームの罠を操ることでしか、自分の存在を認め、認めさせることが出来ない悲しい現実があります。

ですから、この本は川崎で何が起きたのかということを深く広く知らせることによって、読者が自分たちの置かれている状況で当事者として考えさせられるのではないでしょうか。40年近くかけての取り組みを誠実にしてこられたチョンソクさん、キョンヒさん、勝久さんの使命に感動します。在日という閉ざされた世界にあって、闘いは容易でなかったでしょうし、外からのバッシングや御自分との闘いも相当なものでしたでしょう。


 でもその真実な問いが民族、国籍を超えて響きあう尊いものを共有する人たちとの出会いを起こさせたのでしょう。

新しい世界に向けてのパイオニア的な歩みは受難を伴うものでしょうけれども、悲観的になる必要はないと思います。プロセスにおいてすでに得るものを勝ち取って行けているからです。お二人に久しぶりに会ってそう感じさせられました。 

多くの人たちに読まれますように。 

申 英子

2008年7月25日金曜日

大阪から感想文が送られてきました

みなさんへ

徐々に私たちの本に関する感想が送られてきています。
大阪のSNさんのメールを転送いたします。

崔 勝久

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崔勝久様


 メールをお送りくださりありがとうございます。メールを見たのが昨日の昼でしたが、そのまま勤務に向かって、帰ってきたのが今日の昼でしたので、ご返事が遅れてしまい大変失礼しました。また本も送っていただき、ありがとうございます。火曜日に受け取りました。まだパラパラと8 2くって見ただけですが、これからじっくりと読ませていただきたいと思っております。感想などは、その節に、送らせていただきたいと思っております。帯とあとがきだけ少し読ませていただきました。


本全体を読まずに感想でもないのですが、「共生」という言葉が使われ出してもう20年を超えるでしょうか? 帯に書かれているように、「多文化共生」とは、「原理的にマイノリティのナショナリズムを肯定するものでありながら、マジョリティのナショナリズムとも融和的」というご指摘は、Bく言い当てているのではと感じます。「共生」と言えば、とりあえずは誰も反対しない言葉ですが、それを可能とする前提には、異なる文化(あるいは民族や価値観や宗教など)が形式的にも実体的にも平等あるいは同等の権利や立場を持っていることが、最低限必要ではないでしょうか。差別―被差別、抑圧―被抑圧の関係を解決することなしに「共生」を唱えることは、あたかもマイノリティの存在を認めるかのように装いながら、結局の所、マジョリティ・多数者・権力を持つものへの融和をしか8 2たらさないと思います。


崔さんは、新自由主義・格差社会から「共生」を捉え直す視点で見直そうとされておられるようですが、これは大変重要な視点と思っております。新自由主義の下で、規制緩和、民営化、市場原理にゆだねた「自由競争」は、誰がどう言おうと、弱肉強食を是とする価値観であり、それに「破れた」者は「自己責任」の名の下に投げ捨てられる以外にありません。「格差を是とする」価値観は、「差別を是とする」価値観です。格差社会の拡大とは差別社会の拡大です。こ=E 3で言う差別とは、民族に限らずあらゆる差別です。「共生」とは、それを覆い隠す「イチジクの葉」の役割ではないでしょうか。


新聞報道ですでにご承知かと思いますが、自民党外国人人材交流推進議員連盟が中心となって、今年の秋の臨時国会に、政府・自民党・公明党によって、1000万人の「移民受入法案」の提出が準備されています。もちろん、紆余曲折はあるでしょうが、この中心に座っているのが、中川秀直前幹事長と、かの坂中英徳です。こうした動きも、「多文化共生」「多B 0族共生」のかけ声の下に進められていくのではと思います。


とりあえず、本全体を読む前に、少し感じたことを述べさせていただきました。じっくり読ませていただき、あらためて感想を送らせていただきます。


その上で私は、差別・抑圧・排外の具体的現実に真正面から向き合って、それと闘って打ち破っていくことが、やはり何よりも一貫して中心のテーマではないかと思っております。関西では、微力ながら、そう考え、これまでも、そしてこれからも、闘いを作っていこうと思3ております。そのあたりのことは、関西交流会ニュースをお読みいただければと思います。


また、あらためて感想を送らせていただきます。また、出版記念会の詳細な模様をお知らせ下さりありがとうございました。夏本番でうだるような暑さが続きますが、くれぐれもお体をご自愛ください。

2008年7月24日木曜日

反応がではじめています

皆様

今日、たまたま町田の本屋(LIBRO)に行ったら、新刊本の
コーナーに平積みになっていました。上野さんの他の本と一緒の
コーナーなので、上野さんのお名前のせいかもしれません。

献本の返事も届き始めています。

研究者には「共生」を案外ナイーブにとらえている方が多いのでは
ないかと思います。挑発的刺激的であるのは確かかと。

また、ネットで本の題名を入れて検索していたら、以下のブログで
「おすすめ」されていました。(どなたでしょう?)
http://blogs.yahoo.co.jp/ma_tsu_w/13210865.html

加藤

Yahooのブログに私たちの本に対する感想がありました。

みなさんへ

Yahooのブログに私たちの本に対する感想がありました。
「おすすめ」だそうです!
http://blogs.yahoo.co.jp/ma_tsu_w/13210865.html

崔 勝久


『日本における多文化共生とは何か』
傑作(0)
2008/7/19(土) 午後 11:46

その他文化活動
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仕事から戻ってくると
昨日、出版されたばかりの本が
ポストの中に入っていた。



『日本における多文化共生とは何か―在日の経験から―』
朴鐘碩(パク・チョンソク)・上野千鶴子 ほか著



福田首相が就任時に
「自立と共生」という言葉を口にしたが
ぼくが思っているものとは、
自立にしても、
0A共生にしても
ちがうんじゃないかという感覚を
はっきりと説明できないけどもっていた。



P.52
「共生」は責任の所在、問題の本質を曖昧にするものと私は考えていますが、「共生」が獏とした状況のなかから社会変革に向かう言葉として活用されるのか、外国人を二級市民として受け入れる、新たな植民地主義の地固めの、イデオロギーの役割を果たすようになるのか、しっかりと検証する必要があります。



ぼくは
「共生」という言葉が
日本の卑屈なナショナリズムの肯定8 1
結びつくものだとは考えていなかった。



他者との関係を自己省察することなく、
認めたふりをし、
社会変革することのない共生というものは、
他者と自分のおかれた(差別的・抑圧的)関係を
固定化しているに過ぎないということ。



「あわれな国、日本」(富永さとる氏)について
もう一つ同じ項から引用する。
国籍にかかわりなく、個人が尊重されず、人権が成立しておらず、法の支配と正義が不在で、個人が自身の矜持なき自己保身ゆえにかえって脆弱であり、民主主義=E 3成立しない、個人と社会が国家に従属的・受動的な国、それゆえに住民全体の福祉水準の沈降を運命づけられている国である今の日本――そのあり方が、国民を含むすべての住民にとってあわれであることはもはや言を要しないでしょう。――



ぼくは
「あわれな国、日本」に住む
「普通の日本人」の当事者性を
もっと意識化(言語化)していきたい。



まだ、最後まで読んでいないけど、おすすめです!

2008年7月23日水曜日

7月21日出版記念会のメモ   

今日は崔さんから詳細なコメントのメールが発送されました。私も促されましたので、メモを纏めてみました。皆様の感じられたことを比較してみてください。
総合司会の小山さん、ジスパネ司会の上野教授についってのコメントは書きませんでしたが、とても素晴らしかったと私は感じております。ありがとうございました。メモは下記しました。
皆様へ
         08・07・23      望月

7月21日出版記念会のメモ   

             2008年7月23日      望月文雄


高史明 特別講演「戦後の根本課題について」

日本人・歴代日本政府が避けてきた諸植民地戦後処理に対する戦後処理によって生じている問題の提起を小田実が作品「河」によって行っており、丸山真男も1980年岩波出版の「日本思想体系」31で提起している。彼はそこで日本の国体の基本的問題として明治憲法と教育勅語の問題を提起しているが、政治界を始め日本社会がそれを逃避してき、経済大国化のみを目標としてきた。その目標も朝鮮動乱で漁夫の利を占めなければ達成できなかった。

この事実を踏まえなければ、美しい言葉である「共生」も内実の伴わない形骸にすぎない。


小沢弘明 「新自由主義の世界的位置―ヘゲモニーの観点から」

サッチャー・レーガンによって標榜され世界の政治に台頭したネオリベ(新自由主義)は小さい政府という名目で福祉・労働者保護政策の切り捨てを講じてきた。日本では中曽根内閣による国鉄民営化・小泉内閣による郵政民営化が巨大目標として実行されたが、ネオリベが行使する用語や思想に、我々が無意識に共鳴する場合があるにも関わらず、意識されていない。問題を感じ批判しながら、無意識にネオリベ随行の道を踏み歩いている。ネオリベの本質とその具体的戦略であるグローバリズムの本質・目的を理解して問題把握を試みなかればならない。


塩原良和 「連帯としての多文化共生」に向けて―試論的考察

多文化共生とは従来マイノリティの運動体の言葉であったが、いつのまにか政府・体制側によって流用さて現在に至っている。私はオーストラリアで2年間ヘッジ・ガッサンというレバノン系オーストラリアン教授の屋根裏部屋に厄介になり、彼に指導をうけ、彼の論文に示唆されてマイノリティ・マジョリティの現象を調査しました。現在はふれあい館との関係のうちに研究を行っています。福祉多文化主義が特定のグループに適用されるのではなく、広い連帯としての運用の必要が考慮されなければならない。


パネラーの個別発言

上野千鶴子 昨年7月15日集会のとき、崔さんの「共生批判」を伺ってショックをうけた。塩原さんの著書は参考になった。小沢発言で共鳴することは、ネオリベの思想・用語を無意識に納得、使用している自分の状態を反省し、個からネオルベの矛盾を正すように努めるべきでしょう。グローバリゼイションでは無くなって当然であるべき国境が、新しい国家論によって再構成されている。


崔勝久 川崎市の国籍条項撤廃の陰に秘められた「当然の法理」順守思想で造られた「運用規程」の差別は廃止すべきであり、阿倍市長が就任時に明言した「準会員」発言は糾弾され、撤回されるべきだ。日の丸親方的な忠告で濁すべきものではない。


朴鐘碩 昨年7月15日の上野さんの講演で「ネオリベ」という言葉が使われ、意味が分からず困った。こういうレベルなので、大学教授の人々と論議を交えることはできません。自分が日立に入社して今年まで5回の組合委員長に立候補した経験から得たことを話します。

社内で働く人々には自由に物が言えないという現実があります。私が立候補して理由を説明しても、言葉での反応はなされず、目配せで合図するのが精一杯という状況です。会社は「協創」という言葉を作って企業での人権用語にしていますが、企業内では労働者に物を言わせない。


質疑応答(高史明さんの発言要旨のみ)

高史明 (1)小沢・塩原両教授への意見。研究の成果が上がらなければ落とされる(教授を辞めさせられる)との危惧を表明されておられますが、落とされても良いじゃありませんか。

(2)親が子を、子が親をという殺人が多発している現代社会の中で、研究者はそれらの事態をどのように消化しているのか、先生方の話を聞いていると、日本の現状を見ていないと思える。労働は「他社への働き、戴いているものをお返しするのだという、感性の有無」が問われていると思います。

2008年7月22日火曜日

アンケートより

●高史明さんの特別講演についてのご感想をお聞かせください。
高史明さんの主要なテーゼは、「丸山真男の提出した問題を我々は克服しえたのか」ということかと受け取りましたが、時間が足りず、十分にお話を聞けなかったのが残念です。

●パネルディスカションはどうでしたか。
小沢先生と塩原先生のお話は大変参考になりました。学者さんの間では当然のことなのでしょうが、今の世の中で起きていることがらがどういう考え方でどのような方向に動いているのかということが一つの理論として理解できました。
一般の市民にはなかなか伝わってこない話で、知らない間に時の権力に都合のよい方向に思考・意識を向けさせられていく怖さを感じました。
今回の共生という概念にしても、本来つべき語義を離れて、新自由主義に主導された統治に都合のよい概念として使用され、知らず知らずのうちに、それが自分の意識下に忍びこむ危険を感じました。

●集会への感想、今後への希望など、ご自由にお書きください。
第一の感想は、主催者の意図はどこにあったのか、やや疑問を感じました。「出版記念」の集いだから大げさに考えることもないのかもしれませんが、運動の実践者と学者さんの間に十分な理解によりキャッチボールがなかったように思います。
第二に、今回の運動の実践者は在日の方です。しかし、川崎市における在日の方の運動は、日本人市民と無縁であるはずはなく、新自由主義に基づく政策を実践している阿部市長の市政に対しては、日本人市民もまた重大な関心をもっているはずです。そうだとすれば、政策の一つとして行われている川崎市における多文化共生政策に対して、日本人市民がいかに対応していくのかということが、私たちに問われているはずです。
一般論的に学者さんの話を聞いて終わりでなく、我々市民がこの問題にどうかかわっていくのかが議されてべきだったと思います。
実践と学問の問題で、学者さんをせめるのではなかう、その指針なり、ヒントを学者の先生に教示していただくようなことが必要だったと感じました。

7.21出版記念会の報告

みなさんへ

昨日、『日本における多文化共生とは何かー在日の立場から』の出版
記念会が川崎市教育文化会館にてもたれました。2-6時の予定が
大幅に延期され、7時まで続きましたが、110名の方が参加され、
最後まで熱心な議論が続きました。

1.朴鐘碩から執筆者全員の紹介があり、開会の挨拶をする
日立闘争から40年たつも今も変わらない日本社会の問題性を指摘

2.高史明さんの講演
小田実、布施辰治、丸山真男を例にあげながら、日本を変えなければ
ならないということを力説。

3.パネルディスカション
a. 小沢弘明さんの発題ー「新自由主義について」
新自由主義が全世界で同時進行的に進められており、その結果、
格差の拡大が日本は勿論、全世界的に見られる。しかしその政策が
広く支持されているのはなぜかということを、ヘゲモニーの問題
として説明。

b.塩原良和さんの発題ー「多文化共生」について
オーストラリアの実例から、「多文化共生」事業に携わっている
人たちの実態を知った上で、「共生」を「運動」の言葉として
取り戻すために、民族・文化・社会階層を超えた「連帯」を促す
理念として再定義することを提案。

c. 上野千鶴子さんのコメント
大企業に勤めながらも闘いを続ける朴鐘碩を称えながら、
新自由主義が分断をもたらしていることの指摘と、国境をなくす
方向性に行かない(人は、カネ・ものとは違っている)のは
どうしてかと小沢さんに質問

d.崔勝久のコメント
差別・抑圧は個別、具体的であり、その実例として川崎の「共生」
施策の実態を説明。市長の「外国人は準会員」発言「当然の法理」
の問題、「門戸の開放」のまやかしについて説明。

e. 朴鐘碩の意見
大企業は経営者と組合が「協創」(=「共生」)によって一般
労働者が自由にものを言えないようにしいてる実態と、日立を
はじめ大企業は「人権養護」ということで組織を作るが形式的な
対応にとどまっていることを説明。停年退職まで後3年、組合
委員長に立候補することを貫徹させたいと宣言。

f.フロアーからの意見
・塩原さんの「働かざるもの、食うべからず」は資本主義的常識
 という説明に対して、元来は社会主義世界における常識であった
 との指摘→本人認める
・農業に従事している人から、新自由主義施策の問題点の指摘
・大学関係者から、学問と実践を対立的にとりあげることの問題点
 の指摘
・国鉄労働者が200名自殺して抵抗したこく国鉄の民営化のなかで、
 それに抵抗し自殺者をださないで闘ってきた例をあげ、「抵抗が
 なかった」と断定的に話した発題者への疑問→上野千鶴子さんから、
 野田正彰の著作を取り上げ、血を流すことのなかった「改革」では
 なかったという解説
・地方の民族団体に属す人から、参政権の意義を説明してそれに対する
 崔への質問→論議されている参政権には被被選挙権はなく、北朝鮮「籍」
 者は除外されている事実を指摘、自分は民族主義イデオロギーを克服
 する立場であることを説明。

4.閉会の挨拶(伊藤晃さん)
今回の本は川崎を事例として「在日」当事者から個別・具体的な問題を
提起しているのであり、一般論として「共生」の問題を観念的に論議する
ことの危険性を指摘。最後におそくまで論議に参加してくれE3人への感謝
で閉める。

5.懇親会 35名が参加。、韓国から、昨年『和解』で大仏次郎賞を
取った朴裕河さんが参加。二次会にも10名が残り熱い論議を継続。

出版記念会を主催した事務局員としては、予想より多くの人が参加して
くれたこと、十分な準備をして臨んでくださった発題者、特別講演者の
高史明さんに感謝いたします。

特に「批判されることを覚悟」して参加したという塩原さんの謙虚で
前向き、誠実な姿勢には感動を覚えました。これからのご活躍を祈ります。
加藤さ2、横浜国大の学生、及び多くの裏方のみなさん、御苦労さまでした。

最後に、アンケートの中からひとつ選び、ここに記します。今後の活動の
在り方ついて参考にさせていただきます。

崔 勝久

2008年7月7日月曜日

謝辞

みなさんへ

『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社)が
いよいよ10日に見本があがり、20日ころには一般の書店で販売
されます。

皆さんの職場、サークルや、大学の授業などで使っていただければ
幸いです。

はやくお読みになりたい方は、私のほうにお申し込みください。

崔 勝久

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謝辞

この度、『日本における多文化共生とは何か――在日の経験から』が新曜社から出版され、最初に印刷された本を献本としてみなさまにお送りできますことを心より感謝いたします。
新自由主義の時代においてますます格差が拡大される中、多様化を謳った「多文化共生」が各界、各層において強調されるようになっています。
本書では、日立闘争を経験してきた在日朝鮮人当事者が地域と企業において経験してきたことから、川崎市と日立製作所及び「民族保育」の「共生」の実態を事例として取り上げました。また上野千鶴子さんは、フェミニズムの立場から歴史的、社会的に「共生」の問題をどのように捉えるべきかを論じました。この本は、「在日」の現場における経験と日本人学者の研究に基く共作と言えましょう。
みなさまの忌憚のないご意見、ご批判を受け、さらに運動と研究の両面で、新自由主義の時代における「共生」のあり方を問うていく所存でございます。
なお、別紙のように出版記念集会を予定いたしましたので、あわせてご案内申し上げます。ご都合お繰り合わせのうえ、こちらにもご出席いただければ幸いです。

  2008年7月

     編者 崔 勝久 Skchoi7@aol.com
加藤千香子 YQS02036@nifty.ne.jp

                        
 

2008年7月1日火曜日

李仁夏牧師の死を悼む

みなさんへ

今日の朝日の夕刊に李仁夏牧師の死亡記事が出ていました。

在日外国人のための人権活動を続け、川崎市外国人市民代表者会議
の初代委員長に選ばれた。98年度の朝日社会福祉賞を受賞した。

昨日の22時に永眠されたとの連絡を受けました。
その前日、関田牧師が病院をおとづれ、偶然、病院にいた家族と一緒に
祈りを捧げたところ、李先生は目を開け、頷かれたとのこと。50年の
川崎における交わりに李先生に感謝するという関田先生も、もうあまり長く
はないかもしれないと思いつつ、まさかその翌日になくなるとは想像も
されていない御様子でした。

川崎教会での献花による前夜祭は2日の6時より、告別式は3日の11時で、
お別れ会は12日東京教会で行うとこのとです。

振り返ると、私が李先生にお目にかかったのは大学の1年生の時、もう
すでに40年以上も前のこととなります。三鷹の寮から毎週土曜日に教会で
泊り翌日の礼拝をするという、自分でも考えてもいなかった生活がはじまり
ました。ある日李先生から、神学校に行って牧師になって川崎教会で自分の
後継者にならないかと言われたときには、胸を衝かれる思いでした。

その後の日立闘争の時には、運動を理解する人たちが圧倒的に少ない
中で李先生は、全面的に私たちを支援し後ろ盾になってくださいました。
当時20代初めの若い私たちが120%の力を出し、闘争に邁進できた
のも李先生の御理解と、私たちに対する深い信頼、愛情があったからだと
思います。

その日立闘争から「在日」の新しい歴史がはじまり、李先生は先頭に立ち、
マイノリティの人権の回復を願う地域活動を展開されました。
李先生なくては、今の川崎での「共生」運動の基盤は作られなかったでしょう。
李先生は最後まで、その信仰による自分たちの叫びが為政者をも動かし、
夢にも思っていなかった地域での運動になってきたと信じていらしたのでしょう。

晩年は私は「共生」の旗手となられた李先生とは立場が異なり、私たちは
「共生」を批判する論理を展開するようになりました。それでも、昨年の
7月15日の「共生を考える研究集会」では呼びかけ人になり、開会の
あいさつをしてくださいました。立場は違っても、後は君たちに
委ねる、思い切ってやりなさいというお気持ちであったのでしょう。

健康さえ許せば、7月21日の出版記念会にも参加し、また開会のあいさつを
引き受けてくださったことでしょう。開かれた「地域社会」を求めよ、私は
その目標は完全に李先生と一致するものと信じます。これからもわたしたちの
動きを見守ってくださるものと信じます。

今回出版される『日本において多文化共生とは何かー在日の経験から』を
李仁夏牧師に捧げます。

李仁夏先生、安らかにお休みください。ありがとうございました。

崔 勝久

2008年6月26日木曜日

本田哲郎神父からのメッセージ

こんにちは。

みなさんの「集い」から、力強い
メッセージが発信されることを
おおいに期待しています。

「多文化共生」「ちがいを認め合おう」
「多様性の一致」「ナンバーワンより
オンリーワンだよ」・・・は、強者
側、体制側から語られるとき、それは「切り捨て」
以外のなにものでもありませんね。

いずれも格差社会を肯定し助長させるキーワード
として使われています。

「集い」の成功をいのります。

釜ヶ崎  本田哲郎

2008年6月12日木曜日

出版記念会のご案内

みなさんへ おかわりございませんか。

小生も半年の腰痛から解放され、ようやく動き始めました。

7月21日の出版記念会の準備をしています。
会の趣旨や本を紹介するビラを添付資料でお送りします。
高史明氏の特別講演「戦後の根本課題について」(仮題)
パネルディスカション「新自由主義の時代における多文化共生について」を
予定しています。
発題:小沢弘明(千葉大学)、塩原良和(東京外国語大学)
パネラー参加者、上野千鶴子(東京大学)、朴鐘碩(日立闘争当該)、
崔勝久(「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」事務局
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index.html)

官製「多文化共生」が国、県、市によって広く宣伝されています。
川崎市でも集会がもたれるようですが、阿部川崎市長の、
外国人は「準会員」発言、門戸開放の裏で差別を固定化する制度を
作っていることなど、後援してくれる
行政に関してしっかりとものを言えるのでしょうか、楽しみですね。

まず私たちの本を早く出版したいものです。「共生」賛美者にも
購入して読んでもらい、きっちりとした議論をしたいですね。

崔 勝久 Skchoi7@aol.com

2008年5月30日金曜日

地方参政権について

皆さんへ

お変わりありませんか。

遅まきながら、28日の民団新聞の地方参政権に関する記事を読み、
地方参政権のあほらしさを感じ、他紙で確認しました。

19日の毎日は、民主党の「在日韓国人をはじめとする永住外国人
住民の法的地位向上を推進する議員連盟」(会長=岡田克也副代表)
がまとめた提言を記しています。

「推進議連が20日にまとめる提言は、選挙権付与の対象を朝鮮(北朝鮮)籍
以外の永住者とし、行使の範囲を地方の首長選と議員選に限定。被選挙権は
付与しない内容だ」とのことです。

まあ、民主党の中でも70-80名くらいは外国人への地方参政権付与反対の
連盟を作ったということなので、どうなることかわかりませんが、今国会の
法案提出を目指しているそうです。だめでしょう。

しかし被選挙権のない参政権って何?
また、日本に住む外国人の権利と考えるべきものなのに、朝鮮籍は日本と
外交関係がないというので、はずすというのはどういうことなのでしょうね。
まあ、私は公明党が熱心なのを知り、各政党の選挙目当てと昔から感じていましたが・・・
あまりに露骨すぎますね。またまた「在日」を利用しようとするのでしょうね。

参政権の話がでると今度は自民党の方からは、外国籍のままの参政権を嫌い、
帰化が簡単にできる段取りをしているとのこと、どこまで愚劣なことをし続けるのか、
見てみましょう。

「植民地支配の責任」「戦後責任」ということが言われていますが、
ますます遠ーくなりますね・・・

独り言です。

2008年5月24日土曜日

出版の経過と、出版記念会への参加のお願い

皆さんへ



お変わりありませんか。

小生、この半年、坐骨神経痛・腰痛に悩みましたが、ようやく立ち直れそうです。いろいろとご心配おかけしました。社会復帰宣言です!



昨年の7月15日に、「共生」を考える研究集会を行いましたが、そのときの発題と議論をベースにして位置付けを明確にして、この6月末か、7月はじめに出版のめどがたちましたので、ご報告いたします。



タイトル:日本社会における多文化共生とは何か(内定)

目次:

 序論 「多文化共生」への道程と新自由主義の時代―加藤千香子

第一部 「在日」当事者が問う「共生」

 「日立闘争」とは何であったのかー崔 勝久

 続「日立闘争」-職場組織の中でー朴 鐘碩

 「民族保育」の実践と問題   -曺 慶姫

 「共生の街」川崎市を問う   -崔 勝久

第二部 上野千鶴子が問う「共生」

 「共生」を考えるー上野千鶴子

 コメンテーターとして

     「当事者」ということについてー伊藤 晃

     日本社会と「共生」の再定義 ―加藤千香子

 

    編集:加藤千香子、崔勝久

    出版社:新曜社



 お願いがあります。出版記念会を7月21日(月―休日)を予定しています。

 場所は、川崎の教育文化会館を予約しています。

 当日の出版記念会の持ち方は現在、検討中ですが、格差社会が拡大するこの

 新自由主義の時代にあって「多文化共生」について様々な角度から実践と

 学問の両分野から論議するような場にしたいと考えています。ご期待下さい。

 事前にお知らせして、まず、その日の午後、ご参加いただけるように予定を
 組んでいただければ幸いです。



  崔 勝久
  SK Choi

2008年4月18日金曜日

民団新聞の記事の紹介

みなさんへ

過日、ブログで紹介した、横浜国大の授業での、日立闘争のスライドと朴鐘碩の話しの詳細が、
以下、4月16日の民団新聞で紹介されていますので、紹介します。

崔 勝久

今も生きる「日立闘争」 貧困・差別・抑圧の国際比較社会学 2008-04-16

約300人の学生を前に「日立闘争」と日立入社後に見えてきた日本社会の実情を語る朴鐘碩さん
横浜国大の総合科目で採用
共生とは 授業のテーマに

 【神奈川】横浜国立大学で10日からスタートした総合科目授業「貧困・差別・抑圧の国際比較社会学」の第1回テーマとして、70年代初頭の「日立就職差別闘争」が取り上げられた。300人を収容できる大教室はほぼ満杯。学生たちは当時の裁判闘争を記録したスライドと当事者の朴鐘碩さん(56)の肉声を通して民族差別の過酷な実態を知り、あらためて衝撃を受けていた。

朴鐘碩さんが講演

 横浜国大の講座はアジアの国々の問題を取り上げながら「共生」とはなにかを考えるシリーズ企画。第1回「現代日本」は教育人間科学部国際共生社会課程教授の加藤知香子さんが、「高度成長期の日本社会と『貧困・差別・抑圧』への抵抗‐マイノリティーの位置から」と題して準備した。

 日本の高度経済成長のまっただ中、学校教育を終えていざ社会人としてはばたこうというとき、「国籍」という大きな壁にぶつかった象徴的な例が在日2世の朴鐘碩さんだった。新自由主義の風潮がはびこる現在の日本社会はまさしくこの「貧困・差別・抑圧」の時代の再来ともいえると言う加藤教授は、「誰もが朴さんと同じような当事者になりうる」と提起し、足元にある問題として現在における「日立闘争」の意味を考えさせることに主眼を置いた。

 スライド上映に続いて教壇に立った朴さんは、「40年近くも前のことなのに当時のことはいまでも鮮明に記憶している。自分はなんのために生まれてきたのか、こんな不条理は許されない」と裁判闘争を決意した経緯を述べた。さらに日立入社後に見えてきた日本社会の実情、その中で「人間らしく生きる」とはどのようなことなのかについて、自らの経験に照らして語った。

衝撃と共感が交差

 学生たちには朴さんのメッセージがストレートに伝わっていたようだ。

 加藤教授は「いままでの授業を振り返ってみても、これほど問題に真剣に向き合ったことはそれほど多くはない」と、提出された感想文を手に確かな手応えをつかんでいた。

 戸塚区出身で、バスに乗ってよく日立製作所の前を通っていたという学生は「意外に身近なところで差別が起きている」と、戸惑いを露わにしていた。

 そうしたなか、多くの学生たちが、民族差別に敢然と立ち向かった朴さんの勇気をたたえていた。ある学生は「差別が当たり前だった時代に自分から行動を始めた。朴さんはすごく勇気のある方なんだと思った」と話す。

 なかでも、在日4世というある女性は、「現在の恵まれた境遇」と朴さんの育った当時との違いに思いを馳せながら、「きょうの授業は感情移入せずには聞けませんでした」と、次のように心境を明かしていた。

 「私は友人や先生に国籍の話をするにも、抵抗を感じませんでした。私が国籍を負の境遇ととらえず生きていけるのは、朴さんをはじめとする上の世代の方々が社会に対して理解を求め、働きかけてきてくださったおかげだと感謝しています。未だに残っている就職差別(意識)を少しでも薄めることに少なからず義務感を感じています」

 また、在日中国人のある学生は、幼いころから日本の学校に通い、朴さんほどではないにしてもたくさんの差別を受けてきた。そのためか、朴さんの話には素直に共感したという。「朴氏にお会いできたのは、私の宝物です。私も差別や偏見と闘いながら頑張っていきます」と前向きだった。

 一方、韓国人留学生の男女は「在日同胞の存在は知っていたが、これほど厳しい環境の中で生きてきたなんて」と衝撃を隠せない表情で語った。 授業を傍聴していた当時の支援者の一人、崔勝久さん(63)=元「朴君を囲む会」事務局員=は「日立闘争とは何であったのか。いまの時点においてどのように捉えるのか考えることの重要性を知った。それは同胞青年にも言えることだろう」と感想を語った。

 この連続講座は前・後期の1年間を通して続けられる。

■□
「日立闘争」とは

 朴鐘碩さんは70年に愛知県の高校を卒業。地元の中小企業にしばらく勤めた後、新聞広告で見た日立ソフトウエア戸塚工場の採用試験を受け、合格。履歴書には通称名、本籍欄は愛知県と記した。会社側は採用通知を発送し、戸籍謄本の提出を指示。朴さんが在日韓国人のため戸籍謄本を取ることができない旨を連絡したところ、会社側は「一般外国人は雇わない方針だ。迷惑したのはこちらのほう」と一方的に採用を取り消したため70年12月8日、横浜地裁に提訴した。

 裁判の争点は2点。採用取り消しが労働契約成立後の解雇にあたるのかどうか、朴さんが韓国籍を隠したことを解雇の理由としたことが在日韓国人の歴史的な背景と民族差別の実態を考慮したときに合理性を有するのかどうか。提訴から4年後、判決は大企業による就職差別を断罪し、朴さんは「完全勝利」を勝ち取る。

 裁判闘争を通して朴さんは民族の魂を取り戻そうと韓国語の勉強を始め、民族的に生きる決意を固めていった。日立闘争をきっかけに「民族差別と闘う連絡協議会」が結成され、80年代の指紋押捺撤廃闘争へと運動がつながっていった。

(2008.4.16 民団新聞)

2008年4月13日日曜日

横浜国大における連続講義に参加して

皆さんへ

4月10日、横浜国大の連続講義「貧困・差別・抑圧の国際比較社会学」
の第一回目を、加藤千香子さんが受け持ち、「高度成長期の日本社会
と「貧困・差別・抑圧」への抵抗ーマイノリティの位置からー」というタイトル
で準備されました。加藤さんのレジュメは、本人の許可をいただき、
添付資料にしました。

「国際共生」という教育課程をもつ横浜国大の連続講座で、アジアの
国々の問題を取り上げ、「共生」とは何かを考えるという企画にあって、
外の、自分たちの知らない問題を知らせるということでなく、それらの問題
が自分の住む日本といかに関っているのか、自分自身の生き方の問題
としてとらえ考えて欲しいという趣旨であったと聞いています。

加藤教授は、日立闘争のスライドと当該の朴鐘碩に話をしてもらうという
企画をたて、300名集まる大教室にほぼ一杯であった学生にぶっつけ
ようと考えたようですが、その計画を聞いた私は当初、そんなことに今の
若い人たちは関心を示すのかといぶかしく思っていました。

しかしその「授業」に参加した私は、多くの学生が40年前の日立闘争の
スライドと、朴鐘碩自身の裁判を起こした当時の考えと、日立入社後に
見えてきた日本社会の実情、そのなかで「人間らしく生きる」とはどの
ようなことなのかという彼自身の経験に基いた話に、こちらが驚くほど、
真剣に受け止めたようでした。

加藤さんはこのようなメールを私に送ってくれました。
>学生の感想にあらためて目を通しましたが、朴さんのメッセージが、実に
>ストレートに多くの学生のもとに届いたことが分かります。
>今まで授業をやって書いてもらった感想で、これほど真剣に向き合って
>書かれたものが多いことは、実はそうありません。
>国際共生社会課程に入った学生には、まさに考えてほしかったことで、
>それが短時間で伝わったことに驚き、喜んでいます。

今の若い人は社会問題に関心がないなどと安易に言うことが多いのですが、
彼らの対応を見ていると、事実と、自分の生き方の問題として考えている
人のメッセージが正確に伝われば、しっかりと考えようとする人が多くいた
ということに私は、逆に教えられました。

若い人との対話は、新鮮でもありました。


崔 勝久
SK Choi
Skchoi7@aol.com
090-4067-9352



総合科目「貧困・差別・抑圧の国際比較社会学」第1回              2008/04/10 加藤

       高度成長期の日本社会と「貧困・差別・抑圧」への抵抗
                       ――マイノリティの位置から――


はじめに
  私たちの足元にある問題としての「貧困・差別・抑圧」
  「当事者」     


1. 高度成長期(1955~73)の日本
「貧困」・開発途上国から「豊かな国」・先進国へ
敗戦→占領→戦後復興→朝鮮戦争(1950~53)を契機とする特需→経済成長
  60年安保闘争後、「政治の季節」の終焉 「経済の季節」へ 高度成長
  「国民」対象の福祉制度の整備 (1961 「国民皆保険」・「国民皆年金」)
「完全雇用」と「国民所得の倍増」 (1960 「国民所得倍増計画」 池田隼人首相)
 

2.「国民」から外された者―在日朝鮮人
  戦前:日本への渡航・定住者 植民地支配下で「帝国臣民」(しかし二級臣民)
  戦後:植民地解放→郷里への帰国者と日本残留者(「第三国人」呼称)
      1952 講和独立 外国人登録法施行(「外国人」として管理対象に、指紋押捺)
      1959~67 北朝鮮帰国事業
      1965 日韓基本条約(韓国籍にのみ永住権)
  高度成長期:日本で生まれ育った在日二世が学校教育を終え、社会人となる時期
            → 「国籍」という大きな壁  


3.「日立就職差別闘争」
  1970 朴鐘碩さんの採用取り消し、日立を相手取った裁判提訴 →74 勝訴
  日本人・在日朝鮮人の支援者による運動:「朴君を囲む会」


4.「日立闘争」で問われたもの、成し遂げられたこと     “パラダイムの転換”



5.そして現在の日本社会で・・
   「新自由主義」の時代:「貧困・差別・抑圧」の時代の再来?!
   現在における「日立闘争」の意味



◆ もっとよく知るために・・

朴君を囲む会編『民族差別――日立就職差別糾弾』亜紀書房、1974
鈴木道彦『越境の時――1960年代と在日』集英社新書、2007
鄭香均編『正義なき国――「当然の法理」を問い続けて』明石書房、2006
徐 京植『皇民化政策から指紋押捺まで――在日朝鮮人の「昭和史」』岩波ブックレット、1989
尹 健次『「在日」を考える』平凡社同時代ライブラリー、2001
姜 尚中『在日』集英社文庫、2008
上野千鶴子・中西正司『当事者主権』岩波新書、2003
テッサ・モーリス-スズキ『北朝鮮へのエクソダス――「帰国事業」の影をたどる』朝日新聞社、2007
富坂キリスト教センター在日朝鮮人の生活と住民自治研究会編『在日外国人の住民自治』新幹社、
2007
金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』明石書店、2007

「日立就職差別裁判とは」(外国人の差別を許すな連絡会議HPより)
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html
朴鐘碩のページ 
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_90.htm
崔勝久・曺慶姫夫妻のページ 
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_89.htm

2008年4月3日木曜日

悲しいお知らせ、今、確認すべきこと

みなさんへ

「在日」の運動の良心、リーダーとも言うべき李仁夏牧師が入院され
ました。川崎教会を引退された後、名誉牧師として公害の街のど真ん中に
住まわれ、結果としてはそのことが遠因となって肺の病から倒れられ、
今は無意識の中で治療を受けられているとのことです。李先生のご回復を
心から願います。

李先生は、川崎の地で牧師として、また教会が設立した社会福祉法人
青丘社の理事長として、全身全霊をあげて地域の「在日」の問題に
取り組まれました。

李仁夏牧師の『寄留の民』は、「在日」の神学としては不朽の名作であり、
「在日」神学として「在日」の教会は勿論、日本の教会における必読書で
あると確信します。昨今、キリスト教会が社会の中で弱者の立場に立つ
ことの存在意義を問うより、「霊魂の救い」を表に掲げた教会勢力の拡大
に奔走しているとき、特に李仁夏牧師の追い求めてきた信仰理解は注目
され、追体験され、それを乗り越えていく視点が求められる所以です。

4月10日に横浜国大の加藤千香子さんの講義の中で、日立闘争が
取り上げられ、当該の朴鐘碩が日立闘争と日立入社後の自分の生きてきた
過程から見出した意味性について話すことになったということは昨日、
ブログで報告をしました。

この日立闘争は、まさに李先生の支えがあってはじめて可能であったと
言っても過言ではありません。生意気盛りな私や、将来への不安から
「問題児」であった朴鐘碩が日本人青年と一緒になって日立闘争に取り
組むのに、李先生はある時は表に立ち、またある時は、私たちの背後から、
祈り、支えてくださったのです。そこから川崎でのすべての実践が
はじまりました。

日立闘争の後の、指紋押捺闘争、地域での諸活動、川崎市との折衝など、
まさに李先生なくしてはありえなかったものであったと私は思います。
「共生」を掲げ、自分たち少数者の願い、訴えが多くの人に感動を与え、
それが市当局まで巻き込んだ大きな流れになったのだと李先生は確信
されていたのでしょう。

キリスト者である李先生は、その歴史の流れの背後に神の意思を見て
おられたのだと思います。自分もカルヴァンのようにキリスト者として
政治に参加したいと本気で思われ、外国人市民会議の設立に奔走され、
第1、2期の議長を務め、川崎市長の個人的な信頼をも得てきた
のでしょう。

私は李先生の信仰、模索、具体的な諸活動を尊敬します。
今年の6月に上野千鶴子さん、伊藤晃さん、加藤千香子さん
と一緒に、私たち「在日」が当事者としてこの40年生活の中で模索
してきたことを記した本を出版し、そこでは、「多文化共生」の問題点
とともに、「共生」運動の提唱者、実行者である李先生に対する批判の
箇所もあります。しかしそれらの批判は、「共生」の道程があったから
こそ成り立つ論議であり、その必然性、それを可能にせしめた李先生の
最大限の評価が根底にあるということを、ここに明らかにして、皆さんと
確認すべきだと、私は思います。

新自由主義という世の中を李先生が賛成されるはずがありません。
格差社会の激化が愛国心によってカモフラージュされ、個人がないがしろ
にされる社会をなんとかしなければならないと考えておられたであろう
ことは、私は十分に理解します。

しかし、悲しいことに、「多文化共生」はそれらの社会矛盾を隠蔽する
ような働きをするようになってきています。これは李先生の意図したもの
ではないということは明らかです。しかし時代は、その「多文化共生」と
いう言説を自分の陣営に入れそれを骨抜き、形骸化しようとしています。
私たちの出版もその社会の傾向に対する警告です。

李先生は昨年の、「共生」を考える研究集会にも参加され、開会の挨拶を
されました。自分が批判される対象であることをわかったうえで、
それでもなおかつ、問題点は一緒になって考えるという生き方を貫徹された
のです。私は李先生の勇気、生き方に心から感謝するとともに、最大の敬意
を表します。

李先生への批判、「共生」批判は、私たちがこの矛盾ある社会でどの
ように生きればいいのかを模索するのにどうしても経なければならない
過程であり、李先生はそのことの意味を十二分にご理解されていたと
確信します。だから、李先生は、私への最後の電話で、勝久(スング)も
がんばりなさい、と話して下さったのでしょう。

私は、「在日」として民族主義を乗り越えること、開かれた社会を求める
ことを出版のなかであきらかにしました。李先生もそのことを支持されると
思います。そういう意味では、私は李先生の不肖の弟子、「息子」であった
のです。不肖の「弟子」である私は、李先生の本来の意思を引継ぎたいと
心から願います。

李仁夏牧師のご回復を心から祈り、今の社会をどう見ればいいのか、
じっくりとお話を伺い、私たちの今後のことで多くの示唆を受けたい
ものです。




崔 勝久
SK Choi
Skchoi7@aol.com
090-4067-9352

2008年4月2日水曜日

最近の川崎市の動向と報告

みなさんへ

すっかり春めいてきましたが、皆さん、お変わりありませんか。
1月初めから体調が思わしくなく、外出するときは鎮痛剤で痛みを治めると
いう生活を3ヶ月も続けています。

ブログの更新もままならず、3月一杯はすっかりご無沙汰になりました。
最低限の報告ということになります。精力的に動けるようになるまで、
今しばらくお待ちください。

報告ーその①
川崎市は、韓国籍公務員であるK君の四度目のケースワーカ転職願いを
却下してきました。これは明らかに、阿部市長の決断と思われます。
人事課の方では、なんとかK君の思いを具体化するように努めた気配も
ありますが、最終的に、ケースワーカーの職務として、生活保護が必要だと
判断し、その処理をすることが「公権力の行使」にあたり、「当然の法理」に
反するということにしたのです。従って人事課はK君にケースワーカーは
断念し、他のところへ転職届けをだすように助言しているそうです。
私はこれは完全にこれは阿部市長の開き直りだと思います。

外国人の参政権のことが話題になっていますが、公明党、民主党が
賛成し、一部自民党議員も賛同していますが、今の政治状況下で、
実現されるかどうかは全くも未知数だと思われます。

参政権の獲得ということだけがスローガン化されていますが、その内容は
議論されていません。参政権はあっても被参政権は当然、ないでしょう。
まあ、参政権が具体化されるのであれば、外国人は「準会員」と公言する
阿部市長の罷免をいの一番に提案したいものです。

報告ーその②
4月10日、10時半より、横浜国大の加藤千香子さんの講義があり、
総合科目「貧困・差別・抑圧の国際比較社会学」 の第一回目の授業で、
日立闘争のスライドと朴鐘碩の話しがあるそうです。
200名くらいの学生が参加するので、もし参加されたい方がいらっしゃったら、
連絡ください。加藤さんは、大丈夫とおっしゃっていますので。
40年前の日立闘争のスライドをごらんになってご自分の授業に使おうと
判断されたようなのですが、今観ても新鮮だということは、40年、日本社会は
大きく変わっていないことでもあり、複雑な心境です。

しかしほとんど何も知らない学生がどのような反応をし、どのように「在日」
の問題と自分の生きかたと関連させて考えるのか、楽しみでもあります。
政治的なしがらみのない「無垢な」学生が、「多文化共生」が当たり前の
ように、現在の格差社会の激化の中でしらっと、語られる不思議さに気付いて
くれればいいのですが。


崔 勝久
SK Choi

2008年2月12日火曜日

参画室への打診

皆さんへ

お変わりありませんか。
私は、今年の正月から椎間板ヘルニアで動くことができず、まる1ヶ月、
ほぼ寝て過ごしました。ようやくこのところ歩けるようになり、そろそろ
本格的に動き出しました! その第一弾。

思うところがあり、川崎市民局男女・人権参画室に電話をいれました。
行政と市民とで、川崎市の外国人施策に関して、現状の問題点を探り、
中長期的な具体案を考える学習会を計画しないかという打診です。

日本国憲法の戦争放棄は、日本国として守っていかなければならない
テーゼですが、川崎市にとって、「公権力の行使」の川崎市の独自の
解釈は、一時的なものでずっと守っていくべきものではないはずです。
そうだとすれば、外国人施策に関心をもつ個人・市民団体を網羅し、
行政と一緒に考えていくことが必要ではないかと強調しました。当事者が
一緒に考えていかないと、いくら行政がよかれと思ったとしても
パターナリズムに終わります。この点を詳しく、訴えました。

民主党党首の発言によって、外国人の地方参政権の実現も可能性が
でてきました。そうすると、応募者が当初の十分の一に落ち込んでいる
外国人市民代表者会議はどうなるのか、根本的にそのあり方を捉え直す
必要があるのではないか、もっと外国人市民代表者会議の「代表」の
選び方、その権限を根底から捉え直す必要があるのではないか・・・

また参画室によると、今回、韓国籍公務員の4回目のケースワーカー
異動依頼について、川崎市は最終的に拒否したとのことでした。しかし
川崎市の「公権力の行使」の独自の解釈で、ケースワーカーを希望する
外国籍公務員を拒む論理、その思想の是非について、もっと根本的に
検討する必要があると思われます。「市民の自由と権限の制限」という
解釈が、ケースワーカーにも本当にあてはまるのでしょうか。

地方分権という流れの中で、どのような状況になれば「人事」の独立は
可能になるのでしょうか。その時にはどのような論理・思想で「当然の法理」
の限界を打ち破るのでしょうか。国の決定を待つのでなく、足下から、市民が
考えていく、そこに行政も一緒に参加し、協議していく、こんなことを夢見たの
です。

「連絡会議」は過激で、10年も市を批判し続けているので一緒にできないと
いうのであれば、どのような形であっても、市が乗れる形態を考えましょう・・・

一応、課長への打診があったことは、部長にも報告してほしいと伝えましたが、
さて、どうなることになりますか。

私の活動第一弾でした。

崔 勝久
SK Choi
Skchoi7@aol.com
090-4067-9352

2008年1月23日水曜日

明けましておめでとうございます

みなさん

明けましておめでとうございます。
昨年の、7・15「共生」を考える研究集会での上野千鶴子さんの基調報告、
加藤千香子さん、伊藤晃さん、朴鐘碩3人のコメント、質疑応答を文字化
したものに、「在日」当事者の論文を加え、出版する計画です。
出版社はまだ未定ですが、夏前には実現させたいと考えていますので、
その節はよろしくお願いします。

ネオ・リベラリズムの時代において「多文化共生」が強調されているのは
何故なのか、このことを問題意識の一つとしながら、川崎を事例として、
展開しています。朴鐘碩は、日立入社40年の経験から見えてきたことを
記しています。

「共生」が無条件で賛美される風潮の中で、「共生」の実態を検証し、
この10年、川崎市との交渉から知るようになってきた実態が意味する
ことは何なのか、世界史的にどのような問題として考えればいいのか
という問題意識です。単なる、川崎市批判で終わってはいません。

「在日」当事者の意見としては、民族主義イデオロギーを克服していく
視点で、日立闘争を総括しました。「共生」を乗り越える視点は
どのように獲得できるのか、それは現実の問題を直視し、その克服を
追い続けるしかありません。

この数ヶ月、原稿に追われブログの方は疎かになっているのですが、
もう少しブログに戻るには時間がかかりそうです。
それではみなさん、今年もいい年でありますように!


崔 勝久
SK Choi
Skchoi7@aol.com
090-4067-9352

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上野千鶴子さんから以下のメールがありました。
ご協力お願いします。以下の内容は、川崎においても同じことが
ありました。戦争批判の映画上映を一旦、市が許可・決定しながら
右翼の反対があったので、治安上、中止にするというのです。川崎では
残念ながら、十分な抗議ができずに終わりました。
以下の闘いには協力したいと思います。

崔 勝久

抗議の署名をお願いします。
>>
>> 抗議文
>> つくばみらい市における平川和子さんの講演会直前中止に抗議し、
>> 改めて実施を求めます
>>
>>   1/20につくばみらい市主催で予定されていた平川和子さん(東京フェ
>> ミニストセラピーセンター所長)の「ドメスティックバイオレンス(D
>> V)」をテーマにした男女共同参画講演会(タイトル「自分さえガマンす
>> ればいいの?―DV被害実態の理解と支援の実際」)が、直前の1/16に
>> なって、市によって中止を決定されていたことが、毎日新聞ほか(注1)
>> で報道されました。報道によれば、1/16にDV防止法に反対する民間団体
>> が、市役所前で「数人が拡声器を使って抗議する騒ぎ」を起こしたため、
>> 市の担当者が「混乱を招く」(毎日新聞1/18)「市民に危険が及ぶ恐れが
>> ある」(産経新聞1/17)と中止を決定したものです。抗議した団体の代表
>> (男性)は、「市長直訴の抗議により、中止が正式に決定された」、「少
>> 数が巨大な行政を圧倒・屈服させた」と発言されたと伝えられています
>> (注2)。
>>
>>  講師予定者の平川さんが直ちに市長宛に送った抗議文によれば、市側の
>> 説明では「西村と名乗る男性と他に数名の女性が、役所内に拡声器を持っ
>> て押しかけ、職員に対する誹謗中傷などを大声でまくしたて、講演会の中
>> 止を求めて詰めより、そのうえ講演会の当日には街宣活動を行うとの予告
>> をしたため、講演会の参加者に危険が及ぶ恐れがあるとの判断のもと、や
>> むなく中止した」とあります。平川さんはこれを「講演会主催者と私に対
>> する暴力であり、参加市民に対する暴力」にほかならないと認識してお
>> り、私たちも彼女の認識に全面的に同意します。
>>
>>   改正DV防止法(2007年制定本年1月11日施行)によれば「主務大臣(法
>> 務大臣と厚生労働大臣)は都道府県又は市町村に対し、都道府県基本計画
>> 又は市町村基本計画の作成のために必要な助言その他の援助を行うように
>> 努めなければならない」(第2条の3、5項)とされています。改正前に
>> すでに茨城県が策定したDV対策基本計画の関係文書によれば、「県民一人
>> ひとりが「DVは許さない」といった認識を強く持っていただくことが、何
>> よりも大切なことです。このため、県では、今後とも学校や家庭、地域、
>> 職場などにおいて、人権意識を高める教育や男女平等の理念に基づく教育
>> を促進していきます」とあります。つくばみらい市が計画していた講演会
>> は、まさに県が推進している「地域における人権意識を高める教育」その
>> ものといえます。そのような事業が少数の暴力によって妨害されること
>> を、見過ごすわけにはいきません。
>>
>>   中止の報道に接してわたしたちは大きな衝撃を受け、あってはならな
>> いことが起きたとふかく憂慮しています。市の行事が少数の人々の暴力的
>> な行動によってくつがえされたことそのものが問題であるだけでなく、DV
>> という暴力に対する人権を守るための事業が、少数の人々の暴力によって
>> 実施不可能になるとすれば、DV被害者および支援者を暴力から守るべき責
>> 務を負う、自治体の姿勢に対する信頼もゆらがざるをえません。このよう
>> な暴挙がまかりとおるなら、今後他の自治体においても、DV関連の事業が
>> いちじるしい不安にさらされるだけでなく、講演や学習会等の啓発事業に
>> ついても「混乱をおそれて」自主規制する自治体が続出しないともかぎり
>> ません。
>>
>>  このような暴力に対して、市がとるべき態度は、きぜんとしてこれを退
>> け、安全を確保したうえで、予定通り事業を実施すること以外にありませ
>> ん。市当局が、暴力に屈して出した今回の中止決定をすみやかに取り消
>> し、あらためて日程を調整して、平川さんの講演会を実施することを、わ
>> たしたちは心から求めます。また平川さんおよび関係者の身辺の安全に配
>> 慮することをも要望いたします。
>>
>> (注1)「DV防止法:反対団体の抗議で講演会中止 つくばみらい市」
>> @毎日新聞(1/18)
>> http://mainichi.jp/select/today/news/20080118k0000e040081000c.html
>> 「抗議受け市の講演会中止に DV被害支援めぐり」@MSN産経(1/17)
>> http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080117/crm0801171225014-n1.htm
>> 「DV防止法講演会 団体抗議で中止に つくばみらい」@東京新聞茨城
>> 版(1/18)
>> http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20080118/
>> CK2008011802080348.html
>> (注2)http://seaside-office.at.webry.info/200801/article_15.html
>>
>> 呼びかけ人(敬称略・50音順・08.01.21現在);
>> 青山薫・赤石千衣子・麻鳥澄江・有村順子・石田邦子・市場恵子・伊田広
>> 行・伊藤公雄・稲邑恭子・井上輝子・上野千鶴子・小川真知子・戒能民
>> 江・木村涼子・熊田一雄・黒岩秩子・小島妙子・今大地はるみ・坂上香・
>> 早苗麻子・佐藤明子・さとうももよ・出納いずみ・鈴木隆文・鈴木ふみ・
>> 土橋博子・角田由紀子・寺町知正・寺町みどり・内藤和美・中原道子・中
>> 村彰・西野瑠美子・丹羽雅代・沼崎一郎・橋本育・長谷川京子・姫岡とし
>> 子・弘田しずえ・福沢恵子・フックス真理子・船橋邦子・細谷実・堀田哲
>> 一郎・皆川満寿美・三井富美代・米田佐代子
>>
>> 署名フォームへのリンクページ(ダイレクトリンク)
>> http://www.againstgfb.com/tsukubamirai_shomei.html
>>
>> 第1次〆切り 1/28