2010年4月29日木曜日

戦後日本の製鉄業が大都市圏の臨海工業地帯に立地したわけは?

戦後日本の製鉄業が大都市圏の臨海工業地帯に立地したわけは?

横浜国大の中村剛治郎教授の講義で興味深いことがわかりました。農業・工業・サービス業が成り立つ立地についてのドイツ学者の研究を説明した後、日本の製鉄業の立地についてのお話です。

戦前は石炭・鉄鉱石原料に近いところで製鉄所は作られた(八幡製鉄、室蘭等)が、戦後は太平洋側の大都市臨海工業地帯(堺、君津等)に作られた理由は何かという問いがありました。答えは、原料が海外からの輸出に頼るようになったからです。輸入に便利だということで太平洋側の消費地である大都市の臨海部工業地帯に製鉄所を作り、そこからすぐに国内消費だけでなく、輸出できるようにしたのです。日本の製鉄業は、世界のほとんどの国は国内用なのに輸出の比率が高いそうです(ここまでは講義になかったのですが)。

では何故、本来地価の高い大都市ではなく、地方の活性化も可能になるのに地方に製鉄所を作らなかったのか? これは臨海工業地帯というのは埋め立て地だからです。新たに土地を「作る」のですから、ただに近いものになります。それによって太平洋ベルトと言われるくらい、ほとんどの大都市で製鉄所は作られ、それができなくなって瀬戸内海や、九州の大分あたりまで広がったというわけです。これに石油コンビナートが重なります。

東京湾にはもう三番瀬を除いては自然のwater frontはありません。川崎の臨海部はまさに人の住めない、モンスターのような工業地帯です。公害がおこったのも起こるべきして起こったのです。またその臨海部では学者は触れませんが、多くの「在日」や「未開放部落」の集落が残っています。川崎の臨海部に隣接するところにも「在日」の集落が残っています。しかし川崎の公害から「環境再生」やSustainable Communityを訴える学者も「在日」の歴史と現実には一切言及していません(『環境再生』(有斐閣))。

海はもともと誰のものでしょう、公共のものではないのでしょうか。埋め立て地を安く購入した大企業は、今はその土地も値上がりし簿価とはまったく違う高い価格になっており、その含み資産たるや大変なものになっているでしょう。しかし高い技術を誇る日本の高炉もいつまでもつでしょうか。川崎の臨海部の6割はJFEの土地だそうです。石油会社は統合がはじまり大きな空き地になりはじめています。その土地を市場価格で売るということが果たして許されるのか、というのが中村教授の主張で(『地域政治経済学』(有斐閣))、
まったくその通りだと思います。

川崎の埋め立ての起源は江戸時代ですが、本格的な埋め立て地の上での工業化がはじまったのは「韓国併合」と同じ100年前です。100年かかって「化け物」を作ったのですから、100年先を見越したグランド・デザインが求められるのです。今がまさに歴史的なチャンスだというのが中村教授の主張です。まったくそうだと私は思います。行政ははたして中村教授の本を読んでいるのか、私には疑問です。まさに市民が声をあげなければいけない瀬戸際だと思います。

2010年4月26日月曜日

「グローバリゼーションとケア~外国人労働者はケアの現場をどう変えるか」を読んで

東京女子大学社会学紀要題38号(2010年3月3日)は、上野千鶴子さんの基調報告を元に福祉関係者とインドネシアの関わる人たちが参加し、参加者からの発言も記載された読み応えのあるいい小冊子です。私自身知らなかった事実も多くあり、また学生の発言の中に、外国人問題を考えるときの視点はどうあるべきかについて、重要な示唆がありました。「多文化共生」が外国人施策の政策用語となり、当事者抜きに、或いは外国人問題というカテゴリーに入れその範囲で、問題解決を図ろうとする行政の姿勢に疑問を感じてきた私は、外国人介護士の問題と「多文化共生」を推進する問題が通底すると考えます。

事実として押さえておくべきことは、インドネシアの労働者(介護士)を日本に入れたのは、日本市場での働き手がないということではなく、また日本政府は輸出促進の一環としてインドネシア政府とEPA(経済連携協定)を結び労働者を受け入れたということです。最低賃金の保障も実態は定かでなく、将来は現代の奴隷制度である研修制度と似たものになる可能性もあるとのことです。漢字を習得しなければ試験に通らず、4年後は帰国する(その間雇い主は労働力を確保できる)、そのような現実に対して、漢字のルビ化というような具体的な提案もなされています。

私自身、一番納得したことは、最後の締めで司会者が学生の意見を紹介する形で「外国人差別はいけない。労働者として人権も守られるべきだ。でも日本の介護現場の実態を放置していては外国人受け入れの是非に結論をだせない」というくだりです。勿論、上野さんはその前に「外国人が入る入らない以前に、すでに日本人のワーカーさんの置かれた職場の環境が悪すぎる」(P223)と話しています。

この構造は、まさに「在日」問題についても全く同じです。マイノリティのためになることがマジョリティのためになるとか、権利をあげるという視点に対して私たちは、マジョリティの問題そのものにまずしっかりと取り組めよ、私たちも一緒にやるぞ、と言います。外国人の現場を知れば知るほど、外国人への取り組み(その必要性と熱意には敬意を払いつつ)がパターナリズムに陥る危険性があることに多くの人は気付いていません。

しかし地域の問題に「在日」が本気で関わることを疎外しているのは、私たち自身に即して考えると、国民国家を元にしたナショナリズムではないのか、日本人の問題は第一義的には日本人が解決すべきと考える限り、日本人と「在日」の対等な関係構築と地域変革の「共同」作業は不可能です。徐京植と花崎論争は実はまだ終わっていないと思います。「在日」にとっての民族主体論をどのように相対化するのか、この論議を始める時期が来たと思います。みなさんはいかがですか?

「1970年代日本の「民族差別」をめぐる運動―「日立闘争」を中心に」を聴いて

「1970年代日本の「民族差別」をめぐる運動―「日立闘争」を中心に」を聴いて

横浜国大の加藤千香子教授が、東京歴史科学研究会44回大会で、上記タイトルの発題をしました。新自由主義を<「自由」と「競争」の歴史的文脈>という観点から批判しようとする今日の大会には若い研究者が多く参加し、二次会も大盛会でした。私も大いに楽しませてもらいました。

加藤さんは、この40年間の膨大な資料にあたり70年代の社会背景を説明しながら、日立闘争そのもの、特に、「在日」と日本人が「共同」するということがどういうことであったのか、「在日」の民族主体性回復と日本人の「自己変革」と総括されることが多かったこれまでの通説に疑問を抱くところから話を始め、顕在化された両者の違いを説明しました。「在日」側の日立闘争以降の地域活動が現在の青丘社・「ふれあい館」の基盤をつくるものの、日立闘争を中心的に担った「在日」が現場を離れるなかで、行政政策に収斂していった過程と、「「民族」の枠組みを超える権利の拡大や社会参画は依然として制限」されている実態を指摘しました。

加藤さんの仮説で説明できる部分は多いものの、私には十分であるとは思えませんでした。まず、川崎での地域活動は行政と一体化して「多文化共生」を掲げるようになり、川崎の現場を離れた「在日」は「多文化共生」を批判するようになったことの意味、また「多文化共生」が90年代以降、新自由主義とグローバリズムの世の中でどのようなイデオロギーとしての役割を担っているのか、この解明につながる視点の提示が必要であったのではないかと思います。

かつて日立闘争を担うなかで模索された「共同」は、「多文化共生」に収斂され、日本人は日本社会の抱える問題点を対外国人との関係に矮小化し、「多文化共生」社会を実現するところに自己のレーゾンデートルを見出すようになってきたというおかしさを加藤さんは指摘しませんでした。その取り組みは本当に日本人のレーゾンデートルたるのか、そのようなパターナリズム的な視点からの取り組みによってマイノリティ問題を生みだした社会の根本的な変革が可能になるのか、疑問です。

私見では、日本社会100年の工業化の過程で起こるべくして起こった「公害」と「在日」問題は、「在日」と日本人の「共同」によって時間をかけ解決していくべきものでしょう。ポスト工業化の社会はどのようなものであるべきか、その経済的な仕組みの再構築と介護や福祉・教育における豊かなまち作りを求め、まさに日本人住民が「在日」と一緒になって住民主権の地域社会の実現を目指すべきでしょう。「私たち」住民の抱える問題の根本的な解決には、行政と企業が一体化している現状において、市民が参加して政策過程に関わる仕組みをつくるしかないと、私には思われます。それが「共同」の具体的な展望です。

2010年4月19日月曜日

『鉄条網に咲いたツルバラ』を読んでー朴鐘碩

『鉄条網に咲いたツルバラ』韓国女性8人のライフスト-リ- 
朴敏那(パク・ミンナ)著 2007年 同時代社

1970年代の朴正熙(パク・チョンヒ)軍事独裁政治の頃、大統領が銃弾で倒れた後も続いた「暗黒の時代」に「田舎から風呂敷包みを胸に上京した幼い少女たちは、ホコリが立ち込める工場」で働いた。基本的人権さえ保障されず、過酷な労働条件にじっと耐えるだけだった。

「勤労基準法を守れ!われわれは機械ではない!日曜日は休ませろ!僕の死を無駄にするな!」と叫んだ22歳の全泰壱(チョン・テイル)青年の焼身抗議(70年)に続いた清渓被服労組運動、東一紡織糞尿汚物事件(78年)、YH貿易廃業撤廃新民党舎闘争(79年)、韓国スミダ電機(日本遠征)闘争(89年)、テヤンゴム偽装廃業闘争(93年)、世昌物産偽装廃業反対闘争(89年)など韓国で労働者の権利を求める声が拡大し、運動の現場で先頭に立って闘った女性たちの記録である。

彼女たちは、脅迫・逮捕・拷問・死を覚悟し、闘争歌である「愛国歌」を合唱しながら、建物に篭城した。御用組合を民主的な組織に変革し、新たな組合を結成し、労働者の権利を求めて闘った。側面から支えたのは、都市産業宣教会であった。また、「当時、学生運動家は、工場に行って労働運動をすることが公式のようになって」いた。「会社は、偽装就業者捜索に血眼になった。」貧しい家庭で育った少女たちは、生活を支えるために中学・高等教育をあきらめた。田舎から都会・ソウルに家出した少女が働く、零細縫製工場が密集する清渓地区の「長時間、低賃金、強制労働」の実態と偽装就労者の闘いは、『兄弟の江』(李憙雨(イ・ヒウ) 2009年 竹書房) に描写されている。

学生と暴力団の対峙。
いまにも死にそうなほど弱っていた学生が、最後の力を振り絞って英九(愛国団体リーダ)に噛みついた。「民主主義の時代は必ず来る。そのときお前は、どこでどう生きるつもりだ。」・・・しばらく、英九の脳裡から、この血まみれの学生の顔と言葉が離れず、彼は政界と手を切ることを決断する。

9人兄弟の末っ子として生まれた私は、貧困から逃れるため、中学2年(65年)の夏休みが終わる頃、家出した。朝夕の新聞配達で稼いだ貯金を下ろして、名古屋から夜行列車に乗った。愛知県の田舎から教科書だけ風呂敷に包み上京した。早朝到着した品川駅で下車し、スポ-ツ新聞を買い、新聞配達の仕事を探した。「中学卒業したばかりです」と誤魔化して大森の新聞販売店で住込み、2ヶ月間働いた。求人広告で書かれていた給与より安かったが、朝夕新聞を配達したことを思い出した。その5年後、新聞広告で日立製作所の募集要項を見て、試験を受けた。

あれから40年が過ぎた。企業、自治体、教職員など労働者から構成される民主党の票田である連合は、御用組合となっている。日立労組と同じように組合役員は、事前に労使双方で決めているようだ。組合幹部は、議案を勝手に決定し、組合員に押し付ける。組合員は上からの指示に従うだけである。組合員はものが言えず、黙って業務に励んでいる。組合費を給与天引きされているが、組合活動に関心はない。

組合活動の原点は組合員である。しかし、組合は、春闘・一時金闘争になると組合員の声も聞かず、労使双方の幹部が労働条件を決める。その代わり組合は、格安の保険、共済制度、海外旅行、スキ-、ゴルフ、労働金庫のマイホ-ム・マイカ-・教育費など労働金庫融資の案内チラシを配布する。春闘・一時金闘争が終われば、「闘争」はなくなり、組合の活動は、福利厚生制度紹介がメインとなる。

職場はものが言えなくても労使一体の「共生」方針に黙って便乗していれば、生活は保障される。「民主主義」はなくても、家族を養い、生活できる。非民主的な御用組合であっても、不満があっても定年退職まで我慢すればいい。ものが言えないから、経営者の不祥事を語ることもない。組合を批判することもない。存在意義を問うこともない。

韓国は、朝鮮戦争で荒廃したが、「漢江の奇跡」を起こした。日立就職差別裁判が始まった1970年、韓国は、「馬山と裡里に輸出自由地域を設置して外国資本に開放した(馬山では誘致した工場の9割以上を日本企業が占めていた)」。

韓日併合、植民地から100年経過した。組合は、「組合と関係ない」戦争責任、「当然の法理」、非正規・派遣労働者の問題など、「他者」の人権に取り組むことはない。しかし、公職選挙になれば、幹部の裁量で民主党候補者を決め、組織全体で応援する。

韓国の労働運動を支援する日本の良識ある友人たちは、自治体が「当然の法理」で外国籍公務員に職務を制限し、労働者の人権を侵害している問題をどう受け止めるのか?連合傘下の自治労、教職員組合の労働者は、戦後続いている排外思想・「当然の法理」を打破できるか?「民主主義は存在しない」御用組合・連合の体質から開かれた組合に変革できるか?それよりも本当に企業社会に民主主義を実現できるだろうか?個々の労働者の主体(生き方)が常に問われている。

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」
掲示板より:http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html

2010年4月17日土曜日

「韓国併合」って?

「韓国併合」って?

昨日、ある大学のゼミに行きました。簡単に自己紹介をしたのですが、20数名の学生に、「韓国併合を知らない人はいますか」と問いかけたら、なんと、半分くらいが手をあげました!

いやはや、驚きました。かく言う私も、45年前、大阪の(一流という受験校)をでて大学に入ったものの、寄宿舎で先輩に「3・1万歳事件」って何ですか、と話して失笑を買いました。まあ、それでも「韓国併合」「日韓併合」の歴史は知っていましたが。

横浜では、自由社の中学の歴史教科書が市内全域で使われるのは時間の問題となっています。本来は、教育委員会、首長、議会と何段階ものチェック機能が働いたはずなのに、中田元横浜市長の策略で自由社を推す教育委員長が置かれたことがきっかけで、こんなみっともない事態になりました。東南アジアで日本軍を「解放軍」として現地の人が歓迎したとの解説付きで写真が載せられるような教科書が、近隣のアジア諸国からどのように見られるのか、まったく許せない教科書です。

横浜国大の加藤教授をはじめとした学者が「自由社版 『新編 新しい歴史教科書』をどう教えるか?」という小冊子をだし、現状への危機感を表明されています。しかし、かのゼミの学生も私も、自由社の教科書を学んだわけではありません。私は、今、日本はとてつもない間違った方向に突き進んでいるように感じるのです。野田正彰が喝破したように、戦争責任を受け止めようとしてこなかったことが日本をとんでもない社会にしている(『戦争と罪責』(岩波書店))、と私もまた強く思います。

司馬遼太郎の「坂本竜馬」がNHKで多くの人に見られ、一部の批判があるものの、司馬の歴史観は圧倒的に多くの人から支持されています。格差の拡大、非正規社員の増大、就職難という閉塞状況の中で、日本の「恥部」を直視することなく、過去を美化した歴史観にしがみついてこれから日本はどうなるのでしょうか。

ゼミの大学生に見られるように、過去の侵略の歴史さえ知らない若者が大量に作られ、漫画やネットからまさに一部を拡大、歪曲した歴史を知って今の日本の大変さは在日朝鮮人の所為だと短絡的に考え、「在日」を攻撃し、基本的人権である政治参加でさえ、亡国につながると反対する人が多くなっているということに、私は大きな危機感を抱きます。

2010年4月15日木曜日

『イエスの現場―苦しみの共有』を読んで

『イエスの現場―苦しみの共有』を読んで

滝澤武人著『『イエスの現場―苦しみの共有』(世界思想社)を読みました。10年前には『福音書作家マルコの思想』を読んだことがあります。大阪の桃山学院大学の教授で、随分、熱い人だなという印象がありました。しかし私は田川建三の本を読んでいたからか、著者の独自の視点については印象に残ることはありませんでした。

この本では、田川さんの引用は少なく語り口が似ているところがところどころあるものの、自分らしさをだしていると感じました。まず、プロローグ(課題と方法)で、「イエスを語ることは自分自身を語ることにほかならない」と学者らしくない、勇気ある記述があり(失礼)、聖書学会については、「「学問と「実践」とが互いに遊離したまま、それぞれの道をつづけてきたというのが全般的な状況である」と書いています。率直な人だなと思い、著者の姿勢に好感を持ちました。

引用する新約聖書学者もいろいろと違いがあるのに、著者はこの「業界」ではめずらしく批判的なタッチはなく、ひたすら自分の追い求める、イエスのイメージを描くのに多くの研究者の引用をします。普通のクリスチャンからすれば眉をひそめて怒り狂うような内容であっても、彼は淡々とキリスト教教義や教会に挑戦をするのでなく、あくまでもイエスがどのように生きたのか、何を語ったのか、どのように行動したのかを書いています。

イエスは徹底して虐げられた、差別された側に付き、当時の正統的な信仰者を批判しながら、「神の国」に入ることは許されないとされていた彼らこそ「神の国」に入ると、信仰深い人には思いもよらない、しかし「現場」の人たちにはよくわかる比喩で語るイエスの像を鮮やかに描きます。滝澤イエスは自分の殺されることをわかっていながら、人間らしく生きることを貫徹します。「神の国」とは人間の生きる現実的な可能性だというのです。

普遍的な生き方論になる危険性を感じつつ、私は著者の主張に共鳴します。本の最後にイエスに関する本のリストがありますが、関心をもった人には、40年ぶりに大きく書き加えられて出版された、田川建三『批判的主体の形成』(洋泉社)をお勧めします。日本の大学や教会からパージされながら、キリスト教については、クリスチャンでない人に読まれているということでは比類のない「貢献」をしている田川さんの鋭さは群を抜いています。

彼がどこまで、聖書と取り組みながら、宗教批判を通して社会批判を深めるのか、私は楽しみにしています。そこからまた多くを学びたいと願っているのです。『イエスという男―逆説的反抗者の生と死』(作品社)のあとがきにあるように、彼もまたイエスに「とり憑かれた」人なのでしょう。こんなに人を引き付けてやまないイエスって、どんな人だったんでしょうか。私もまたイエスに従う人になりたいと思います。

2010年4月10日土曜日

地域主権? 覚悟はあるのですか(石弘光氏 朝日新聞 4月10日)

地域主権? 覚悟はあるのですか(石弘光氏 朝日新聞 4月10日)

元一橋大学長で、ながく政府の諮問委員会に関わってきた石弘光氏が「異議あり」というコラムで取り上げられています。

彼は、民主党がいう「地域主権」には懐疑的で、本当に霞が関、各自治体、それに住民にその覚悟があるのかと問います。昨今の「地域主権」は上からのものであり、住民側からだされたものではない、市民革命を経ていない日本で地域主権が合うのかわからない、というのが氏の主張です。霞が関は自分の既得権を離したがらない、自治体はお金を集めること、20万人にもなる国家公務員を地方で受け入れる覚悟があるのかとも問います。

「政府や地域主権の推進論者は、本当の主権者は地域住民だ、住民が自ら地域のことを担うんだと、言っています。地域住民のみなさんは、仕事や家事を休んででも、地域のために役割を担うだけの情熱がありますか」と言うのです。

しかし何度かブログに書いたように、名古屋では既に河村市長が地域委員会を試験的に始め、昨年の京都と川崎の市長選でも区を行政単位とした政治の仕組みが公約として掲げられました。4年後は待ったなしです。特に川崎の場合は、連合と民主党で分裂して阿部市長に負けたものの、4年後は統一戦線を組み、福田候補は間違いなく、区民会議を公約とするでしょう。

鶏が先か卵か先か、(市民革命もなく)市民の住民自治の意識のないところで「地域主権」が可能か、これはいくら話してもキリがありません。しかし政府だけでなく、地方自治体内での分権論も待ったなしで進められようとしています。私は、地域住民の政治参加の仕組みが作られると、(一朝一夕ではなく)住民の意識も変わると考えています。失敗を繰り返しながらも、自分で責任を負って物事を決めていくことが自分の生活に直結する、代議員の先生に任せ4年に1回の選挙投票が政治参加ではない、という意識が芽生えると信じます。

時間はかかりますが、そのような住民の自立の過程で初めて、歴史責任や植民地支配の清算の必要性が住民の中で取り上げられるのだと考えるのです。社会学、地方経済学、地方自治や思想(哲学)の研究家のみなさん、どうぞ力を貸して下さい。右翼的な流れが急ピッチになっていると実感します。横浜市の中学生の歴史教科書も全て自由社のものに変えられるのも時間の問題です。これは横浜だけのことではなく、全国的な傾向だと思います。

私のような者にも「在特会」の「脅迫」がなされる時代になりました。このままでは本当に日本は困った社会になります。みなさん、なんとか一致協力し合おうではありませんか。

2010年4月7日水曜日

外国人の参政権 知事会に慎重論(朝日4・7)

外国人の参政権 知事会に慎重論(朝日4・7)

鳩山内閣が今国会提出をめざしている永住外国人への地方参政権付与案について、全国知事会で意見交換がなされ、賛成したのはわずか熊本、三重、滋賀の3知事だけだったそうです。圧倒的に反対派が多数を占めたということです。

「国民的な議論が必要」という慎重論は、逆に前向きに、外国人の地方参政権のメリットと問題点をしっかりとした資料を作り、自治体内で配布し議論をする場を確保するというのならまだ話しは理解できます。しかしそのような議論の場の設定や、話し合う元になる資料さえ作られていない現状では、結局、参政権反対だけで終わります。

まあ彼らの発言を逆手にとって、しっかりとした資料を市民側が作成し、行政と一緒になって市民間の議論の場を求めていくことは可能と思われます。そういう意味で、前回の近藤敦教授をお呼びしての学習会での講演録を資料化し、全国で学習材料に使いながら行政に公開の議論の場を求めていくことはできると思います。みなさん、協力してやりましょうね。

石原慎太郎・東京都市知事は「民主党は地方主権と言うが、地方行政が外国人に左右されかねない仕組みを言い出すことは全く矛盾している」と発言していますが、私にはどうして矛盾なのか、理解できません。どなたか解説をしてくれませんか。

政令都市など、基礎自治体内の分権化が進められるべきときに、河村名古屋市長は、地方委員会(小学校区)に国籍条項を設定しました。政令都市である京都と川崎では前回の市長選で、区を単位とする地方自治の仕組みが公約として提示されました。

川崎の場合、市民と住民の規定に国籍という概念を明記していません。どこの地方自治体でも同じでしょう。国会の法律を必要としない、地方(住民)自治の仕組みを各地方自治体が条例で作ることは可能で、早晩、各地で具体化されるでしょう。ここで国籍条項を明示させることは断じて許すべきではありません。このままでは知事会の流れが、地方の分権化の内容にまで影響を与え、国籍条項を条件とする流れになることを恐れます。

川崎では民主党から立候補した福田が次の市長選の準備をしています。彼は区を単位にした政治の仕組みを公約しました。早稲田大学大学院で学びながら、次回、さらに詳しい案をだすでしょう。次回は民主党と連合(市職労)の分裂はないと思われます。市民が中心となって住民自治を保障する具体案を準備しなければなりません。みなさん、よろしくお願いします。お互いの違いを乗り越え、外国人を含む、住民自治の仕組みを作りましょう。

2010年4月4日日曜日

民族主体とか、「多文化共生」の中身は何なのでしょうか

「コスメティック・マルチカルチャラリズム」と「多文化共生」批判は同じですか?

「コスメティック・マルチカルチャラリズム」は「うわっつらだけの多文化主義」と訳すことを友人からアドバイスされました。ウム、言い得て妙ですね。これはテッサ・モーリス・スズキが言い出した言説です(『批判的想像力のためにーグローバル化時代の日本』(平凡社、2002)。私は不覚にしてモリス・スズキのこの概念と本のことを最近知りました。川崎市民フォーラムで外国人地方参政権のことが話し合われたとき、発題者の、そのときはまだ市の職員だった、山田氏の話で知りました。

「コスメティック・マルチカルチャラリズム」とは何なのか、早速彼女の本を買い内容を確認しました。まさに「うわっつらだけの多文化主義」ということで、日本の外国人政策を批判しています。明治以来、外国人を「出入国管理」の対象にして、日本の政治・経済の骨格(構造)に影響を与えない範囲で、(沖縄を含めた)外国の文化を受け入れるが、生活者としての外国人が日本社会の課題を担うことは受け入れていないという批判です。これと、私たちが80年代の半ばから展開してきた「共生」「多文化共生」批判とは同じなのでしょうか、どこかがちがうのでしょうか。皆さんのご意見はいかがですか。

山田氏はモーリス・スズキに共鳴したと言ってましたから、「当然の法理」を前提にしながら「門戸の開放」を実現し外国人市民会議などを具体化した「川崎方式」という、「多文化共生」施策を「妥協」と自覚しつつ、川崎にも問題はそのまま残っていると知りつつ、「多文化共生」を全国各地で講演してしてきたのでしょう。彼は恐らく地方公務員の中では外国人問題にもっとも精通した人物だと思われます。彼は私たちと学生のころから一緒に日立闘争を担い、川崎での地域活動を提唱した私たち「在日」の運動に共鳴して市の職員になった人物なのです。

日本の「コスメティック・マルチカルチャラリズム」は問題だが、川崎の「多文化共生」は正しいということだったのでしょうか、それとも両者は同じく問題だが、日本政府の姿勢が変わらない以上、「妥協」しながらも「川崎方式」の水準まで到達することの重要性を各運動体や地方自治体に情宣してきたのでしょうか?

私たちは、「門戸の開放」を実現しつつ、中に入った外国籍公務員の職務を限定し、昇進を認めない川崎市のあり方を批判し続け、「当然の法理」のもつ問題は何か、この15年間考え続けてきました。そのことで私たちの考えそのものが深まり変わってきたと自覚しています。民族的主体性なるものを提唱していたが、その内実は、実は民族的主体性なる概念を超えなければならないということであったと理解するにいたっています。

「多文化共生」を謳う川崎市や桜本などの地域では、アジア祭りや地域の祭りで朝鮮の踊り(農楽)が普及し、祭りのフィナーレを飾るまでになっています。しかし一方、外国籍公務員の昇進・職務は市長判断ですべて解決可能な問題なのに、そのことは市長選でも一切問題にされず、また参政権や民族学校排除の問題が地域や市議会でも乗り越えるべき問題としては取り上げられませんでした。むしろそれらのことは寝た子を起こすなとばかり、市議会では継続審議になり、地域社会ではまったく触れられずに来ています。

これはまさに、「コスメティック・マルチカルチャラリズム」でなく何なのでしょうか。私たちは、地域の問題を正面から直視し変革する当事者として生きていきたいと考えています。「在日」は参政権で何をしたいのか、民族主体や「多文化共生」の内容は何のか、外国籍住民・市民の概念の中身は何なのか、このことを明確にすべき時期になったのではないでしょうか。

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崔 勝久
SK Choi

2010年4月1日木曜日

「在特会」支持者はどうして、私たちを非難するのでしょうか?

この1週間、「在特会」支持者だと名乗る男からの電話が続き、「朝鮮人」非難を繰り返しています。「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」事務局への電話です。彼は、この会は朝鮮人によって運営されていると思い込んでいるようです。

彼の電話での話の内容は以下のものです。
1.自分は法政大学を出たが、地方国家公務員の試験に落ちた。これは能力差別である。お前たちは朝鮮人差別を問題にしているが、能力差別については何の行動もおこさないのか。
2.日本人の就職が困難なのは朝鮮人が運動を起こして自分たちの職を奪っているからだ。
3.自分は、「在特会」支持者で、日本は日本人のものだと思っている。

このようなことで延々と私と言いあっています。私は、外国人は3Kの、日本人のやらない仕事をしているではないか、「研修」制度によって超低賃金で働かされているではないか、就職できないことの不満は私たちに向けられるべきではない、世界どこでも自分が行きたい会社に無条件に入れるところなどないではないか、競争社会で生きられないと思うのならば生活保護を申請するか、新たな道を模索するしかないではないか、などと話すものの先方は、そもそも私と議論をしたいのでなく、朝鮮人はけしからんと言いたいがために電話をしてきているのです。

日本社会は明らかに変容しています。外国人の地方参政権に反対する地方自治体が賛成する自治体をはるかに超えました。河村名古屋市長は、地元の小さな地域での政治参加(地方自治)にさえ、国籍条項を持ち込みました。そしてこの市長をこれまでの政治を変えてくれる人だと賛美する人が増えています。彼はまるでヒーローです。私は、彼は大変危険な人物だと考えています。

近藤敦さんが指摘されたように、確かに「在特会」の勢力は大したものではないでしょう。しかし彼らの強調するナショナリズムは実に多くの人に影響を与えると危惧するのです。我が家では、電話がかかってきてからは必ず絶えず自宅玄関の鍵をかけるようになりました。こんな電話がかかるようでは、進歩的な人も発言を躊躇するかもしれません。

しかし私が本当に憂うのは、彼らの動向ではなく、実は、彼らを疎ましく思いながらもそれぞれが自分の党派や、仲間で固まり、結集すること、連帯することに心を砕かなくなった、「われわれ陣営」の質です。どうすればそれが可能になるのか、みなさんの助言を求めます。