2010年9月30日木曜日

田中宏著『在日外国人 新版―法の壁、心の壁』を読んで

この本は田中さんでなければ書けない本だと思いました。
「戦後に発生した「在日」差別」というタイトルで原稿の
依頼を受け、いろんな本を読み漁っているところでこの本
に出会い、多くのことを学びました。

佐藤勝己の『在日韓国・朝鮮人に問うー緊張から和解への
構想』(亜紀書房)も一応読んでおこうと思い目を通した
のですが、両者の立場に決定的な違いがあります。
日立闘争のときに私たちは佐藤さんに本当にお世話に
なりました。

田中さんは昔から顔をあわせれば挨拶する程度で、徹底的
に話しこんだことはありません。故李仁夏牧師と共同代表
で「戦後補償」など様々な活動をされていらしたことは
よく知っていました。佐藤さんと田中さんは風貌も似ており、
昔の佐藤さんの議論の進め方はどうなんでしょう、「日本人
の責任」ということでは、私は田中さんとそんなに違いが
あったとは思えませんが・・・

『日韓新たな始まりのために 20章』(田中宏/板垣竜太編、
岩波書店)は、<嫌韓流>に対して単なる批判にとどまらず、
日韓の「開かれた関係」をつくるための「思考の糧」を目指
したもので、錚々たるメンバーが執筆しています。ひとつ気
になったのは、田中さんがここでは「在日コリアン」とし、
前書では総称として「在日朝鮮人」としている点です。

私は「在日韓国・朝鮮」も「在日コリアン」も何か聞いていて
座り心地がよくないのです。最近マスコミは勿論、左翼系の
雑誌でも躊躇なく使っているようですが、両方の使い方、
もう一度よく論議してほしいですね。

ここには北(総連)からも南(民団)からも文句を言われ
ないようにという逃げ腰の「配慮」を感じます。

二人の決定的な違いは、佐藤さんは北の脅威と、「在日」の
実際の問題点をよく知りその上で議論を展開するのですが
(勿論、すぐに「在日」や韓国人について本質主義的な決め
付けをするのでそれは決定的に間違っていますし、「国民
国家」を絶対視しているという点では私と全く意見は違い
ますが)、田中さんは南北問題などには一切触れないで、
自分の体験から出発して、日本人社会の歴史認識(「心の溝」
)や国家の在り方(「法の壁」を具体的に明らかにして、
まさに「共生」を求める姿勢を明確にしています。学者として、
書かれていることに間違いはありません。その通りです。

しかし私はふと、田中さんはどろどろした「在日」の実態や、
市民運動の中身を知っているのか、そこで苦しんだことがある
のかと感じました。

田中さんの日立闘争の紹介の仕方を見て(133-134頁)
感じたのですが、これまでにない運動で日本の青年たちが
「自ら日本社会のあり方を自問する方向に発展」していった
のは事実ですが、その運動の中身はどうか、またその後の
地域活動にも触れていらっしゃいますが、そこでの私の
個人史で記したような内部のごたごたは恐らく見て見ぬ
振りをされるのでないか、鄭香均の闘いの最後の段階で,
運動の総括ができなかった内部のごたごたにも敢えて関与
されなかったのではないか(わかりませんが)と思いました。

田中さんが誠実に「在日外国人」問題に取り組んで
いらっしゃることは誰もが認めるでしょう。しかしそれを
生み出す日本社会の根底的な問題はどこにあるのか、
「在日外国人」問題は日本社会の歪みの結果出てくる
問題であると私は考えるのですが、それは何なのか、
日本人と「在日」はどこで対等な立場で一緒にその
「日本社会の根底的な問題」について歩むことができる
のか、一度じっくりと田中さんと話をしてみたいなと
思います。

田中さんは、著書にもある「花岡」事件の解決に関して
野田正彰から批判を受けられたようですが、野田さんの
これまでの本を読みいいかげんなことで他人を批判する人
でないと思っていたので、大変、意外です。反論もされて
いますが、「花岡」事件の、「解決金」をめぐるおかねが
からんだどろどろした問題に田中さんがどのように対応
されたのか、今後田中さんの批判者にどのように最後まで
向き合われるのか、この点も知りたいですね。


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崔 勝久
SK Choi

2010年9月28日火曜日

個人史―私の失敗談(その5、お母さんたちの問題提起)

私は慣れない自分の仕事のことに全力を尽くして鉄屑を運ぶトラックを乗り回していましたが、桜本ではじめた地域活動のことが気になっていました。保育園は公認保育園として社会的に認知され青丘社の中心だったのですが、同時に「在日」青年や日本人の青年が多く集まるようになりいつの間にか自分たちの問題意識で動き始め、何が中心なのか混沌とした状況になっていました。ボランティアから主事になった日本人青年や「在日」の主事たちにとっては既に日立闘争は「伝説」になっており、彼らは日立闘争から学ぶものはないと公言するようになっていたのです。

私はその状況に危機意識をもち、川崎市の奨学金制度における差別(国籍条項)問題があったことをきっかけに「民族差別とは何か」というティ―チインを提案し、青丘社に関わる職員とボランティ全員で民族差別と闘うことの意味について徹底的に話し合いました(「民族差別とは何かー青丘社での民族差別の本質を問うティ―チイン資料として」http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_16.htm)。

そのティ―チインがきっかけになり青丘社の中で保育園や学童保育・学習塾を統合して「民族差別と闘う砦づくり」をめざす運営委員会をつくることが、正式に理事会の承認をうけて発足しました。教会員の、それほど社会意識の強いとは言えない人たちを説得して、私たちの熱意や意欲を支えてくれたのは李仁夏牧師でした。日立闘争からの動きをじっと見守り支えてくれていた李牧師の、私への信頼はそれほど篤ったのです。

私はその運営委員会の委員長に選ばれました。月に1回、各現場の代表と社会人(私と、日立闘争後、川崎市役所に就職したY君)が加わり、各現場の報告を受け、現場の問題を議論するようにしました。妻は3人の子供を産み乳がんの手術をしたこともあり一度復職した後レストランを始めるにあたって退職していましたが、保育園の父母会の会長の悩みを聞くうちに、保育内容に関わると思いそのことを保育園に伝えようとしたのですが、彼らは「文句を言っている」と反発しはねつけるばかりでした。そこで「在日」と日本人のお母さんたちが一緒になって話し合い、保育園のあり方に問題を投げかけるようになりました(曺慶姫「『民族保育』の実践と問題」『日本における多文化共生とは何か』(新曜社)参照)。

その問題提起の内容を聞きながら、私たちが目指してきた民族主義的な運動と大きくなってきた組織のあり方に根本的な問題があると気付き、私は彼女たちの問題提起を受け留め青丘社内部全体の問題にしようとしました。保育園(青丘社)は差別と闘うことを掲げた「在日」のためのもので、「在日」が主になっており(民族保育)、日本人はそれを見守り支える存在となっていたため、日本人父兄は傍観者的な立場にならざるをえず、そのことの反発からいろんな問題が噴出して父母会会長は苦しんでいたのです。

民族や国籍に関わりなく子供一人ひとりを見守るというより、どうしても差別に負けない子供に育ってほしいという、運動をしてきた私たちの思いが保育内容や、組織の在り方にでてきていたのです。「在日」の大変さや差別の実態を聞かされても地域の日本人父兄からすれば、私たちの子供と私たちの生活の大変さはどうなるのよということにならざるをえません。

妻は元保母として保育内容の問題を根底から考え直さなければならないと考え、私は青丘社の存在意義、組織の在り方を捉え返さなければならないと認識するようになりました。いずれにしても自発的に地域のお母さんたちが提起した問題を青丘社全体が一人一人しっかりと受け留めることが先決であることを私は主事たちや職員、各ボランティに精力的に(時には徹夜をして)話しかけ説得を試み、各現場で問題提起のことを話しあうまで運営委の凍結を宣言しました。

保育園のお母さんたちが準備をして礼拝堂で問題提起をするという前日に、組織の混乱を引き起こしたという理由で、私は青丘社の主事や青年たちから糾弾を受けました。私たち夫婦は気が狂ったと叫ぶSさんは、その時のテープを問題提起したお母さんたちに送りつけてきました。糾弾される中で、それでも保育園のお母さんたちが青丘社に問題提起するという事実は残ると一言、私は何の弁解をすることなくみんなに話しました。

涙ながらに訴えたお母さんたちの問題提起の後、臨時の理事会が開かれ、何の議論も総括もなく、運営委員長の解任、同時に運営委員会の解散が多数決で決められましたが、その記録は一切公開されていません(「社会福祉法人青丘社理事長に宛てた公開書簡」http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_38.htm)。

私は保育園の園長は牧師が兼任するのでなく、それを専門職とするべきだというところまで踏み込んだので、NCC総幹事に選ばれ対外的な仕事に忙しかった李牧師は、信頼していた崔が自分を追放しようとしていると捉え、私を「過激派」とみなし、李牧師に批判的でありながら「身内の仲間づくり」を優先してお母さんたちの問題提起を受け留めようとしなかった主事や青年たちと一緒になることを選びました。青年たちの糾弾も理事会の決定も全て彼が承諾・実行したものだと思われます。

義母を含めた私たち家族は地域活動や教会からはじき出されるようにして離れることになるのですが、そのときの私たちの生活はまさに「地獄」でした。しかしまさかそのときの問題提起が30年後、現在の新自由主義下の「多文化共生」を批判する根源的な核になろうとは私たち自身、夢にも思ったことはありません。

2010年9月27日月曜日

個人史―私の失敗談(その4、素人のレストラン経営)

工場を解体するという決断をしたとき、義母と妻と3人の子供には車で伊豆の方に行ってもらいました。真っ暗闇の中を走り、小汚い民宿に泊まったときの心細かった話は後で妻から聞きました。家族が帰ってきたとき私は家にはおらず外で泊まり歩き、警察が家の周りをロープで張り巡らしている環境の中で、妻たちは夜でも電気をつけず、どこから電話がかかってきてもただ震えてじっとしているだけだったと言います。

しかし前回記したようになんとか、文字通り、「裏から手を回し」レストラン開業にこぎつけた私は、その間、リーズハウスは単なる焼肉屋ではだめだと思い、東京から横浜、千葉を回りどんなレストランにするのか考え、メニューに、キムチ・ピラフとかカルビ・スープ、鉄板の焼肉コースや韓国風ソーメンなど、私たちにしかできないものを入れた、小ぎれいなカフェレストランにすることを決めました。

あまり人手がかからず、素人でも作れる料理や喫茶ものを中心にしたのですが、お店で出す料理の経験のない義母は、私の尊敬する、在野の画家の呉炳学先生の経営する駅前の喫茶店で、ハンバーグなどの作り方を教えてもらっていました。リーズハウスは道路沿いとはいえ人の出入りが少ない場所でしたが、多くの人に愛される店になりました。

私たちがどのような生活をしていたのか、その当時、スクラップの仕事に関わるきっかけ、その仕事内容、警察の騒ぎ、レストランの開業の大変さは誰にも話すことがなかったので、多くの人は私たちが余裕でレストランを開業し保育園のことや地域活動に関わっていると思ったかもしれません。

しかし私は、亡くなった李仁夏牧師には事細かに報告をしていました。それを知る義母は、牧師が来て祈りの中で慰労し激励してくれることを願っていたようですが、祐天寺の総菜屋のときも、南加瀬でレストランを開業するまでの数年にわたる大変なときも、祈りに来てくれたことは一度もない、と失望していました。彼女はいつでもどんな時でも祈りに慰めを求める女性でした。

そのレストランも人手に渡り、間もなく解体が始まります。妻は非正規スタッフとして近くの公立保育園に復帰しもう8年になります。二度目の乳がん手術も受けたのですがすっかりと元気になり、今では還暦を過ぎた最古参ですがもっとも元気な保育士として同僚の尊敬を受け仕事に励んでいます。

そういえば最初の乳がんの手術の時彼女は20代で、義父が亡くなり私がスクラップを始めた翌年でした。医師からは3年の生存率は50%以下と言われ、自分一人の胸にしまっていたことを思い出します。その時の状況下で、彼女の気持ちを考えるとどうしても「真実」を告げることはできなかったのです。良性の腫瘍と説明したのですが、彼女はわかってだまされたふりをしていただけなのかもしれません。

私は彼女の手術方法について医師から説明を受け、転移しないため乳房全体を削ぎ落とすように切り取る、ハルステッド法といわれる手術方法を言われるがまま承諾しました。しかし後でわかったのですが、その当時すでに欧米ではそんな残酷なやり方は時代遅れとされていたのです。

私が医師の言うことをそのまま信じるのでなく、自分の納得できるまで調べなければならないと思うようになったのはその時の悔しさがあるからです。近藤誠の本を読んで、転移しないようにということで当たり前のように出された薬を止めるように彼女を説得し、本人は悩みに悩みその旨医師につげたところ、「ああそう、いいですよ」ということでした!

病院(医師)、医薬品メーカー、厚生省は一体となっており、ガン細胞を小さくし転移しないための薬というのは莫大な売り上げをあげながら、それは日本だけで使われている代物だったのです。私は近藤誠が一連の本で書いていることを納得しました。しかし彼は日本の医学界では異端児でした。

2010年9月24日金曜日

個人史―私の失敗談(その3、レストランを始める)

前回、娘の事故の話を記しましたが、当時3人の子供を遠く離れた桜本保育園に送り迎いしており、その事故は保育園から3人の子供をピックアップして家に帰ったときのことでした。目の前で娘が宙に浮くのを見て慌てふためいてトラックから降り娘を抱きかかえて家に飛び込んだ私は、トラックのブレークをかけず二人の息子を中に置いたまま飛び出したので、トラックはそのまま坂道を滑り下りました。

保育園の年長さんだった長男は、なんと自分と弟を守るためトラックのブレーキをかけ、木にぶっつかりトラックの正面ガラスは大破したものの、二人の息子は無事でした。本当に助かりました。

私は一人でスクラップの仕事を続け、4トン半のトラックで多いときには10トン以上の鉄屑を運んでいました。そのとき、会社のヤードをそのまま居抜きで借りたいと「在日」の同業者から話がありました。家賃が取れるし、引き取ってきたスクラップを買ってもらえるというので、私は即、承諾しました。ただし、いずれ、ヤードと倉庫を改造して家の者が食っていけるようなレストランでもと考えていた私は、そのときは出て行ってもらうという了解をもらっていました。

早くレストランを始めないと不渡りをだし義妹の結婚にも差し支えると危惧した私は、義妹の結婚式を早めてもらい無事に大阪に送ることができました。その後ヤードを戻してほしいという話をいくらしてもヤードを借りた同業者は一切返事をしなくなりました。そこで私は大晦日に、彼らの鉄屑300トンを運び出し、工場を解体する決心をしました。警察沙汰になることも予想されたので、家族はみんな旅行に行ってもらいました。

300トンの鉄屑というのは大型ダンプで50回以上も運ばなければならず、工場の解体は酸素で基礎のパイプを切らなければなりません。その手配をしてくれたのは、桜本保育園の「在日」の園児の父親で、夜中から朝にかけてやり続け、最後の鉄柱1本残ったところで警察が来ました。元従業員が通報したようです。

そこで立入禁止のロープが張り巡らされ、私は同業者から器物破損と窃盗容疑で訴えられました。勿論、300トンのスクラップは別の置き場に移しただけなので窃盗にはなりませんでした。何回か警察に呼ばれたとき、担当官から、お前ら朝鮮人同士が喧嘩しやがって迷惑だ、ということを言われたものですから、私は啖呵を切り、その足で、私を訴えた同業者の家に行きました。勿論、殴られるだろうという覚悟でした。

私を見た「同胞」は掴みかかってきましたが、一息置き、「サイ、お前は偉い」と言い始めたのです。私が家族のことを想い、こんな思いきったことをしたということを彼は理解してくれていたのでしょう。

賠償金を払うことで決着したのですが、その間、立入禁止のロープは張られたままで、時間のない私は張られたロープの反対側がちょうどマンション建設のために空き地になっていたのでそこから業者を入れて、お金はないので売り上げから支払うという条件でレストランをつくりはじめ、それから数カ月後、オープンにまでこぎつけました。メニューは全て手づくりで、徹夜で青丘社のボランティアの女性と作り上げたものです。店の名前は、義母の名字からリーズハウスLee’s Houseにしました。

コックさんは元私の同僚で今はふれあい館の理事長のB氏の紹介です。義母と妻は厨房、私はホールを受け持ち、それこそ家族総動員でまったくの素人がカフェレストランを始めたのです。2階にいた子供たちは、突然の環境の変化に戸惑い誰からもかまってもらえず、真中の娘は寂しいと泣いていたそうです。乳がんの手術後、それでも保育園で働いていた妻は保母の仕事に未練を残しながらもレストランのママになることを決断してくれました。35年前の話です。

家族でやっていた店ですが、週に何回か来てくれたコックさんを店が終わったあと、私が車で東京まで送ることになっていました。送り終えて帰宅途中、疲れきって何度も朝方まで車中で寝込んでしまいました。家の者は随分と心配したと思います。事故がなく本当に幸いでした。

2010年9月23日木曜日

個人史―私の失敗談(その2、スクラップの時の思い出―娘の事故)

造船場と公の施設から出るスクラップを扱う、私が義父から継いだ仕事はいずれも登録制で、入札によってスクラップを買い、それを細かくして問屋に収めることを主な業務にしていました。市場価格かそれより高い価格で入札するビジネスモデルはどうあがいても通常の仕方でやり続けることはできません。「談合」や「接待」、「超」重量オ―バの積載は当たり前のことでした。

義父と一緒にやってきた「在日」のベテラン従業員4人はある日、自分たちの条件を呑まなければ辞めると言い出しました。私のような素人、お坊ちゃんにはこの仕事はできないと踏んでの要求でした。私は即座に、呑めないと言い放ち、トラックがあれば彼らはスクラップで生活は続けられると思い、彼らに大型トラックすべてを退職金代わりに渡し、彼らの言葉通り辞めてもらいました。

残ったトラックは4トン半1台で、私の持つ普通免許で運転できたのです。自動車運転の得意でない私でしたが、義弟を助手席に乗せ、翌日から早朝、横須賀までスクラップを取りに行きました。手形が何かも知らないでスクラップの社会に飛び込み、従業員頼りだったのに、私が一人でトラックを運転してやっていくと言うので義母や妻の心配は大変なものだったでしょう。私はスクラップの仕事を3年半続けました。

いろんな思い出がありますが、なんと言っても娘の事故は忘れることはありません。当時、祐天寺で小さな惣菜屋を始めたこともあり、家族がみんな忙しく働いているときでした。3人の子供をトラックに乗せ家に帰ってきたときのことです。私が家の前の道路でヤードにトラックを入れるため駐車したとき、桜本保育園に通っていた娘が運転席の反対のドアから降り始めました。そのときバックミラーに後ろから来る自動車が見えたので思わず、危ない、と叫んだのですが、娘はトラックの前を横切り、そのまま後ろから来る車に跳ね飛ばされ、それこそ宙に舞い上がり道路に叩きつけられました。一瞬のことでした。

救急車を呼び、市立病院に運びましたが、医師は今日一日が山場、どうなるかわからないという判断でした。ぶっつかった車にはへっこみが見られ、娘はまともに顔と頭を打ったのですが、なんと顔にはかすり傷ひとつなかったのです。ぐったりとする娘を見て、私はどれほど後悔したかわかりません。しかし奇跡が起こりました。眠れない夜を過ごした翌日から娘は意識を取り戻し、その後数日入院しただけで、本当に何の怪我もなく退院できたのです。医師によると、小さな子供はマリのように衝撃を受けても飛ばされて何ともないことがあるということでした。

入院中、教会に通う私たち家族は娘が無事であったことを喜び神への感謝を捧げていたとき、神様のおかげで助かったという話を聞いた娘は、どうして同じ保育園の友達が交通事故で死んだのかと尋ねました。私は答えることができませんでした。

私はスクラップをしていたときのことを苦労と思ったことはありません。初めて経験した「在日」のなまの世界を、義父が経験したことを私もやっているという意識でした。そのときの経験を語り始めると、私は娘の事故のことを思い出すのです。

2010年9月19日日曜日

ここ3回連続で読者からの反応がありました

ここ3回連続で読者からの反応がありました。私としては勇気づけられる、うれしいお便りでした。読者からのお便りの内容を匿名で公開し、さらに議論を深めるきっかけになればと願いします。私自身は、もっとしっかりと思索を深め、自分のテーマを追求していきたいですね。

崔 勝久

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朝鮮王妃閔妃(ミンビ)の暗殺の真意って知ってます?http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/09/blog-post_18.html
●崔勝久 様 いつもメールをお送り下さり、ありがとうございます。今回の文章、とても良いですね。私も崔さんを通して、色々なことを学ばせていただきました。ゆっくりと力作と向き合うことが出来きず、情けないこの頃です。お礼旁々お返事まで。S.Lee

個人史―私の失敗談(その1)http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/09/blog-post_16.html
●崔さん是非書いてください。崔さんにしか書けない壮大なドラマであるだけでなく、日本と韓国・朝鮮の現代史の苦渋の歩みと未来の展望が展開されるのではと期待しています。
M. Kimura

「在日」のスクラップ(鉄くず)屋さんと出会ってhttp://anti-kyosei.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html
●貴兄の率直な一面を垣間見、感動しました。あなたの本質ー正直を見る思いです。MB
●印象深いお話を、ありがとうございました。QS
●ご無沙汰です、狂暑の如きこの夏、お変わりなき様子でなによりです。つい先日、今ベストセラー第1位。「母」 カンサンジュン著を読みました。オモニ ウ・スンナムさんが生きる為の流れで鉄クズ業を営み、一家の家計を支えていたことを知り、崔さんのこのメッセージが印象的に心に伝わりました。21世紀は人類が違いを認め合い協調して、それを乗り越えていかなければ地球が持続できぬと確信し、残り少ない時間を過ごそうと、決意しております。以上  では又・・・・TS

2010年9月18日土曜日

朝鮮王妃閔妃(ミンビ)の暗殺の真意って知ってます?

「韓国併合」100年を問う国際シンポジューム以降、中塚明『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠陥を問う』(高文研 2007)、角田房子『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮文庫 1988)、『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか』(高文研、2009)を読みました。

中塚明の本に関しては既にコメントをしました。植民地主義史観がいかに抜きがたく現代にまで影響を及ぼしているのか、改めて考えさせられた本でした。
(http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html)

さて、一度学問の道をあきらめ研究者の「落ちこぼれ」を自称する金文子が改めて職場復帰して、角田房子の本を読み10年をかけて書いた本がこれです。中塚教授の厳しくも温かい指導のもとで「職場復帰」して再度、研究者として歩み始めた力作です。今年の夏に韓国MBCが中塚教授への長時間インタビューを行ったとき、金文子の研究成果を高く評価する話をされたということを通訳者から直接聞きました。

角田房子との決定的な相違点、そして金文子の本の価値を高めた点は、角田が「どれほど自由に想像の翼を広げても、陸奥宗光が、また伊藤博文が、閔妃暗殺を企てたとは考えられない。閔妃暗殺事件と日本政府の間に直接の関係はない」と断定的な結論を下したことに対して、金は関係する日本人の背景を徹底的に調べ上げ、陸奥と伊藤という最高権力者が深く関わっていたことを明らかにしたことです。「日本政府は、朝鮮における「電信と駐兵問題の解決」を大本営と三浦梧楼に委ねたのである」(358頁)。

角田の結論だと、三浦梧楼特命全権公使が独断でやったということになります。彼女がいかに「申し訳ない」気持ちを強調して、韓国・北朝鮮への友好を謳おうとも、その贖罪意識的な認識では国家権力とは何か、なによりも今自分はどのような時代に生きているのか、そして何をすべきかという点で保守的な態度をとり植民地支配を根本的に批判する立場には立ち切れないと思われます。

私は金文子の本で初めて知ったことが多くありました。まずは「閔妃暗殺」の歴史的な意味、日本国家にとっての必然性です。福沢諭吉が「閔妃暗殺」を正当化するような発言をしていたこと、明治天皇の「事件」を知ったときの発言、また日本の新聞記者が日清戦争取材に同行して中国人商人12名を虐殺したことなどです。

人はいかに国家と自分の生き方を同一化していくのかを改めて思い知りました。自分の中に組み込まれたナショナル・アイデンティティを相対化する作業は大変であってもその事実を直視することから始めなければならない、この点を再認識させられました。

同時に、「歴史上古今未曾有の凶悪」事件として「閔妃暗殺」を記した内田定槌(当時の京城領事)のように、勇気ある発言をした人がいたことも重要なことを示唆してくれます。国籍や民族を超えた連帯の芽の可能性はこの耐えがたいまでの悲惨な事件の中にもありました。

2010年9月16日木曜日

個人史―私の失敗談(その1)

斎藤(私の父親―崔仁煥の通称名)はカレーショップやジャズ喫茶などを経営する事業家としても成功、終戦後のミナミを代表する「顔」の一人になった。だが、経済成長のレールを猛スピードで走りだした日本社会と逆行するように、彼は店を失い、ジムからも強いボクサーは生まれなくなった。「没落」という言葉を使う崔の目には、父親の成功と挫折は在日朝鮮人が歩んだ戦後の縮図のように映ったという。城島充『拳の漂流ー「神様」と呼ばれた男 ベビーゴステロの生涯』(講談社)20頁

私の父親がどういう男性であったか、上記の引用から読者は想像できるでしょうか。私のメールやブログを読む人はアンダーグランドに近い世界のことは恐らくほとんどわからないと思います。10歳のとき一人で来日し、宝塚のトップスターを愛人としていた父は、外車を乗り回す生活をしながら全てを失ったとき、故郷の北朝鮮に帰ろうと言い出したことがありました。私はいつか愛すべき父親のことは書こうと思っていますが、時間がかかりそうです。

昨日のメールでスクラップ(鉄屑)業のことを書きましたが、それは私の義父の仕事でした。韓国の山奥から密航で日本に渡って来た彼が川崎で従事した仕事がスクラップで、それ以来無骨にもずっとスクラップ一筋の一生でした。

私は日立闘争や地域活動に精を出し、いっぱしの民族運動の活動家として全力をつくしていたときです。私は自分のやってきた運動をさらに進めようと結婚後韓国留学までしていたのですが、「在日」問題を「日本社会の歪」と捉ながら、自分の最も身近にいた義父の苦しさやその心の痛みを知ることがありませんでした。

義父の訃報を聞き私が在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞めてスクラップ屋を継ごうとしたのは自分のふがいなさを悔い、自分で義父の生きた「在日」の世界に飛び込み、そこで生きようとしたからだと思います。

私は何も知らないスクラップの世界に飛び込み、無我夢中で働きました。しかし義父の作り上げた人脈と商売の方式は根本的な矛盾を抱え、まったく展望が見えないものであるということが徐々に私にも見えてきました。お金もなく、会社をつぶすこともできず、そこから脱却する途を私は探り続けました。

これまで私は川崎での運動を基盤にして小むつかしいことを書き連ねてきましたが、ここ数回は、30代の初めから35年間どのようにして飯を食ってきたのかを思い出しながら記したいと思うようになりました。

それは成功談ではありません。私もまた、ビジネスとしてはある時期の父のように全てを失い、多くの人に迷惑をかける、恥の多き結果になりました。しかし私には、どのような時にも私を支え、私と一緒になって悩み苦しみながら励ましてくれる妻が傍にいました。

私の「在日論」は自分で悩み、歩み経験したことをしっかりと見極め、開かれた社会を求めるものです。その歩みを確実に進めるために、私はもう一度、自分の過去を振り返ります。

2010年9月14日火曜日

「在日」のスクラップ(鉄くず)屋さんと出会って

今日、身内が手放した家を解体し引っ越すというので、解体屋さんが残されたクーラーや室外機を取りに来ました。どこにでも解体現場に駆けつけ、そこで金属ものをもらっていく仕事です。私と同年輩に見えたその解体屋さんは腰が低く、要らないものは何でももらっていくという話をしていました。私は、岳父のスクラップの仕事を継いでいたので、私もスクラップの仕事をしてたんですよと雑談の中で話しました。

そうすると誰もいなくなったところで、ハングサラミ(韓国人)ですか、スクラップの仕事をしていたと言われたので、と彼が言い出しました。そうですと答えて話がはずみました。奥さんを亡くされて、再婚をせず子供を育てたこと、数年前に焼肉屋を止め、昔やっていたスクラップ屋に戻ったということでした。ヤード(置き場)を持たず、解体現場を回って金属ものを集め、すぐに仲間に売っているのでしょう。ヤードがなければ家電にある銅線やレアメタルなどを取り出すことはできませんから。

私は30代の頃、在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞め、川崎での地域活動の現場を離れる決心をして、亡くなった岳父の小さなスクラップ屋を継ぎました。朝鮮人の従業員が4名の小さな会社でした。彼らは達者なもので、11トントラックに40トンの鉄くずを積み、運搬するのです。毎朝夜明け前にでかけ、造船場のスクラップを取りに行くのが主な仕事で、私の場合はヤードがあったので、その鉄くずを機械にかけててのひら大の大きさに切り、問屋に納入するのです。問屋はそれを電気炉をもつ会社に納め新たな鉄に生まれ変わります。そのスクラップ業は、戦後、ごみの収集と合わせ、在日朝鮮人が従事する仕事でした。

私は日本名を名乗る彼が東京の民族学校を出たことを知りました。映画「パッチギ」の世界の経験者でしょう。腰を低くし、解体現場を回り、家電や金属ものをもらう仕事の大変さに思い至り、これをきっかけにお付き合いしましょうねと言ったのですが、彼は何か解体物の処理で困ったときにはいつでも連絡ください、と答えました。それは商売にしたいというより、何か親近感を表す言葉だったのでしょう。

本名を名乗ることを日立闘争以来主張してきた私自身はどのビジネスの時でも本名を名乗り、3人の子供は日本名(日本読み)のない子として育てました。地域で本名を名乗る体制をつくることにも奔走してきました。しかし今、それでよかったのか、複雑な想いを抱くのです。

日本人と同じ権利、そう、それは当然です。しかし朝鮮人であることを当たり前のこととしては生きにくい現実を今日も目のあたりにして、私は日本のあるべき姿は正論を並べるのではなく、明治以来の国民国家づくりの過程でどれほど圧倒的な日本人が植民地主義を正当化する感性をもたされてきたのか(朝鮮人自身も)、その実態を知り、そこからの脱却はどうするのかという課題を自分の課題として取り組むことから始まると改めて思いました。

2010年9月5日日曜日

崔承喜っていう伝説のプリマ、知ってます?

残暑、お見舞い申し上げます。なんと京都は39.9度だったとか!みなさん、くれぐれも体調にはお気をつけください。

直木賞作家、西木正明の『さすらいの舞姫ー北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜』(光文社 2010)という900頁を一気に読みました。平凡パンチの編集であった著者が、川端康成との三島由紀夫の「事件」に関するインタビューで初めて川端が絶賛する戦前の朝鮮人バレリーナのことを聞き、そこから取材をして書き始めたとのことです。

私はしかしその崔承喜のことは、生前の父から聞いたことがあったのです。一度だけでしたが、その名前はずっと記憶していました。「アジアのイサドラ・ダンカン」とされる彼女のことは、父の言葉の所為か、その後の断片的な情報と共に妙に生々しく記憶に残っていました。しかし今、本を読み終え、不思議な気持ちになっています。

終章にあるように、もともと彼女が住んでいたのが、ソウル支庁に近い、参鶏湯(サムゲタン)料理で有名な土俗村は私がよく行く店であったこともあり、また何よりも、その本から「解放後」の朝鮮史、何よりも朝鮮戦争後の北朝鮮の政治状況が手に取るようにわかります。そして日本、中国の私のよく知る文化人・政治家とも深く関わった、歴史に翻弄された芸術家であるということがあまりに切実に迫ってくるのです。私の尊敬する周恩来が「アジアの至宝」と彼女の亡命に力を貸したことも妙に納得です。当分、彼女の夢を見そうです。

日本や中国ばかりか、アメリカやヨーロッパの当時の最も著名な人たちが絶賛してやまなかった崔承喜の、クラシックバレーと朝鮮の舞踊をひとつにしたモダンバレーの水準の高さとその美貌、私は必死にYOUTUBEで検索しましたが、映像はなく、ただ写真とレコードになった肉声を聞くのみでした。西木正明の小説がどれほど事実に基づくのか、彼の歴史観、思想、想いで書かれたものかの判断は慎重にすべきだということは言うまでもありません。

私はその本を読んでまったく関係がないのに、私の同世代の「在日」が民族的アイデンティティを求める中で社会主義国の「北」に限りない「幻想」を抱いたことを考えてしまいました。勿論、韓国政府のでっち上げもありました。しかし実際に、日本の「拉致事件」と同じ時期、「拉致」を実行した「北」のシステムに乗って「北」に行き韓国に渡り逮捕された「在日」は、民族の英雄として朝鮮史に残るということで済ませることができるのか、彼らは崔承喜を英雄視しながら結局は「殺害」した「北」の実態に対して、どうして観念的な理想を抱いたのか、その解明が必要だと痛感します。それは日本の戦後の左翼運動の総括とも関係するような予感がするのです。