「韓国併合」100年を問う国際シンポジューム以降、中塚明『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠陥を問う』(高文研 2007)、角田房子『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮文庫 1988)、『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか』(高文研、2009)を読みました。
中塚明の本に関しては既にコメントをしました。植民地主義史観がいかに抜きがたく現代にまで影響を及ぼしているのか、改めて考えさせられた本でした。
(http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html)
さて、一度学問の道をあきらめ研究者の「落ちこぼれ」を自称する金文子が改めて職場復帰して、角田房子の本を読み10年をかけて書いた本がこれです。中塚教授の厳しくも温かい指導のもとで「職場復帰」して再度、研究者として歩み始めた力作です。今年の夏に韓国MBCが中塚教授への長時間インタビューを行ったとき、金文子の研究成果を高く評価する話をされたということを通訳者から直接聞きました。
角田房子との決定的な相違点、そして金文子の本の価値を高めた点は、角田が「どれほど自由に想像の翼を広げても、陸奥宗光が、また伊藤博文が、閔妃暗殺を企てたとは考えられない。閔妃暗殺事件と日本政府の間に直接の関係はない」と断定的な結論を下したことに対して、金は関係する日本人の背景を徹底的に調べ上げ、陸奥と伊藤という最高権力者が深く関わっていたことを明らかにしたことです。「日本政府は、朝鮮における「電信と駐兵問題の解決」を大本営と三浦梧楼に委ねたのである」(358頁)。
角田の結論だと、三浦梧楼特命全権公使が独断でやったということになります。彼女がいかに「申し訳ない」気持ちを強調して、韓国・北朝鮮への友好を謳おうとも、その贖罪意識的な認識では国家権力とは何か、なによりも今自分はどのような時代に生きているのか、そして何をすべきかという点で保守的な態度をとり植民地支配を根本的に批判する立場には立ち切れないと思われます。
私は金文子の本で初めて知ったことが多くありました。まずは「閔妃暗殺」の歴史的な意味、日本国家にとっての必然性です。福沢諭吉が「閔妃暗殺」を正当化するような発言をしていたこと、明治天皇の「事件」を知ったときの発言、また日本の新聞記者が日清戦争取材に同行して中国人商人12名を虐殺したことなどです。
人はいかに国家と自分の生き方を同一化していくのかを改めて思い知りました。自分の中に組み込まれたナショナル・アイデンティティを相対化する作業は大変であってもその事実を直視することから始めなければならない、この点を再認識させられました。
同時に、「歴史上古今未曾有の凶悪」事件として「閔妃暗殺」を記した内田定槌(当時の京城領事)のように、勇気ある発言をした人がいたことも重要なことを示唆してくれます。国籍や民族を超えた連帯の芽の可能性はこの耐えがたいまでの悲惨な事件の中にもありました。
2010年9月18日土曜日
2010年9月16日木曜日
個人史―私の失敗談(その1)
斎藤(私の父親―崔仁煥の通称名)はカレーショップやジャズ喫茶などを経営する事業家としても成功、終戦後のミナミを代表する「顔」の一人になった。だが、経済成長のレールを猛スピードで走りだした日本社会と逆行するように、彼は店を失い、ジムからも強いボクサーは生まれなくなった。「没落」という言葉を使う崔の目には、父親の成功と挫折は在日朝鮮人が歩んだ戦後の縮図のように映ったという。城島充『拳の漂流ー「神様」と呼ばれた男 ベビーゴステロの生涯』(講談社)20頁
私の父親がどういう男性であったか、上記の引用から読者は想像できるでしょうか。私のメールやブログを読む人はアンダーグランドに近い世界のことは恐らくほとんどわからないと思います。10歳のとき一人で来日し、宝塚のトップスターを愛人としていた父は、外車を乗り回す生活をしながら全てを失ったとき、故郷の北朝鮮に帰ろうと言い出したことがありました。私はいつか愛すべき父親のことは書こうと思っていますが、時間がかかりそうです。
昨日のメールでスクラップ(鉄屑)業のことを書きましたが、それは私の義父の仕事でした。韓国の山奥から密航で日本に渡って来た彼が川崎で従事した仕事がスクラップで、それ以来無骨にもずっとスクラップ一筋の一生でした。
私は日立闘争や地域活動に精を出し、いっぱしの民族運動の活動家として全力をつくしていたときです。私は自分のやってきた運動をさらに進めようと結婚後韓国留学までしていたのですが、「在日」問題を「日本社会の歪」と捉ながら、自分の最も身近にいた義父の苦しさやその心の痛みを知ることがありませんでした。
義父の訃報を聞き私が在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞めてスクラップ屋を継ごうとしたのは自分のふがいなさを悔い、自分で義父の生きた「在日」の世界に飛び込み、そこで生きようとしたからだと思います。
私は何も知らないスクラップの世界に飛び込み、無我夢中で働きました。しかし義父の作り上げた人脈と商売の方式は根本的な矛盾を抱え、まったく展望が見えないものであるということが徐々に私にも見えてきました。お金もなく、会社をつぶすこともできず、そこから脱却する途を私は探り続けました。
これまで私は川崎での運動を基盤にして小むつかしいことを書き連ねてきましたが、ここ数回は、30代の初めから35年間どのようにして飯を食ってきたのかを思い出しながら記したいと思うようになりました。
それは成功談ではありません。私もまた、ビジネスとしてはある時期の父のように全てを失い、多くの人に迷惑をかける、恥の多き結果になりました。しかし私には、どのような時にも私を支え、私と一緒になって悩み苦しみながら励ましてくれる妻が傍にいました。
私の「在日論」は自分で悩み、歩み経験したことをしっかりと見極め、開かれた社会を求めるものです。その歩みを確実に進めるために、私はもう一度、自分の過去を振り返ります。
私の父親がどういう男性であったか、上記の引用から読者は想像できるでしょうか。私のメールやブログを読む人はアンダーグランドに近い世界のことは恐らくほとんどわからないと思います。10歳のとき一人で来日し、宝塚のトップスターを愛人としていた父は、外車を乗り回す生活をしながら全てを失ったとき、故郷の北朝鮮に帰ろうと言い出したことがありました。私はいつか愛すべき父親のことは書こうと思っていますが、時間がかかりそうです。
昨日のメールでスクラップ(鉄屑)業のことを書きましたが、それは私の義父の仕事でした。韓国の山奥から密航で日本に渡って来た彼が川崎で従事した仕事がスクラップで、それ以来無骨にもずっとスクラップ一筋の一生でした。
私は日立闘争や地域活動に精を出し、いっぱしの民族運動の活動家として全力をつくしていたときです。私は自分のやってきた運動をさらに進めようと結婚後韓国留学までしていたのですが、「在日」問題を「日本社会の歪」と捉ながら、自分の最も身近にいた義父の苦しさやその心の痛みを知ることがありませんでした。
義父の訃報を聞き私が在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞めてスクラップ屋を継ごうとしたのは自分のふがいなさを悔い、自分で義父の生きた「在日」の世界に飛び込み、そこで生きようとしたからだと思います。
私は何も知らないスクラップの世界に飛び込み、無我夢中で働きました。しかし義父の作り上げた人脈と商売の方式は根本的な矛盾を抱え、まったく展望が見えないものであるということが徐々に私にも見えてきました。お金もなく、会社をつぶすこともできず、そこから脱却する途を私は探り続けました。
これまで私は川崎での運動を基盤にして小むつかしいことを書き連ねてきましたが、ここ数回は、30代の初めから35年間どのようにして飯を食ってきたのかを思い出しながら記したいと思うようになりました。
それは成功談ではありません。私もまた、ビジネスとしてはある時期の父のように全てを失い、多くの人に迷惑をかける、恥の多き結果になりました。しかし私には、どのような時にも私を支え、私と一緒になって悩み苦しみながら励ましてくれる妻が傍にいました。
私の「在日論」は自分で悩み、歩み経験したことをしっかりと見極め、開かれた社会を求めるものです。その歩みを確実に進めるために、私はもう一度、自分の過去を振り返ります。
2010年9月14日火曜日
「在日」のスクラップ(鉄くず)屋さんと出会って
今日、身内が手放した家を解体し引っ越すというので、解体屋さんが残されたクーラーや室外機を取りに来ました。どこにでも解体現場に駆けつけ、そこで金属ものをもらっていく仕事です。私と同年輩に見えたその解体屋さんは腰が低く、要らないものは何でももらっていくという話をしていました。私は、岳父のスクラップの仕事を継いでいたので、私もスクラップの仕事をしてたんですよと雑談の中で話しました。
そうすると誰もいなくなったところで、ハングサラミ(韓国人)ですか、スクラップの仕事をしていたと言われたので、と彼が言い出しました。そうですと答えて話がはずみました。奥さんを亡くされて、再婚をせず子供を育てたこと、数年前に焼肉屋を止め、昔やっていたスクラップ屋に戻ったということでした。ヤード(置き場)を持たず、解体現場を回って金属ものを集め、すぐに仲間に売っているのでしょう。ヤードがなければ家電にある銅線やレアメタルなどを取り出すことはできませんから。
私は30代の頃、在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞め、川崎での地域活動の現場を離れる決心をして、亡くなった岳父の小さなスクラップ屋を継ぎました。朝鮮人の従業員が4名の小さな会社でした。彼らは達者なもので、11トントラックに40トンの鉄くずを積み、運搬するのです。毎朝夜明け前にでかけ、造船場のスクラップを取りに行くのが主な仕事で、私の場合はヤードがあったので、その鉄くずを機械にかけててのひら大の大きさに切り、問屋に納入するのです。問屋はそれを電気炉をもつ会社に納め新たな鉄に生まれ変わります。そのスクラップ業は、戦後、ごみの収集と合わせ、在日朝鮮人が従事する仕事でした。
私は日本名を名乗る彼が東京の民族学校を出たことを知りました。映画「パッチギ」の世界の経験者でしょう。腰を低くし、解体現場を回り、家電や金属ものをもらう仕事の大変さに思い至り、これをきっかけにお付き合いしましょうねと言ったのですが、彼は何か解体物の処理で困ったときにはいつでも連絡ください、と答えました。それは商売にしたいというより、何か親近感を表す言葉だったのでしょう。
本名を名乗ることを日立闘争以来主張してきた私自身はどのビジネスの時でも本名を名乗り、3人の子供は日本名(日本読み)のない子として育てました。地域で本名を名乗る体制をつくることにも奔走してきました。しかし今、それでよかったのか、複雑な想いを抱くのです。
日本人と同じ権利、そう、それは当然です。しかし朝鮮人であることを当たり前のこととしては生きにくい現実を今日も目のあたりにして、私は日本のあるべき姿は正論を並べるのではなく、明治以来の国民国家づくりの過程でどれほど圧倒的な日本人が植民地主義を正当化する感性をもたされてきたのか(朝鮮人自身も)、その実態を知り、そこからの脱却はどうするのかという課題を自分の課題として取り組むことから始まると改めて思いました。
そうすると誰もいなくなったところで、ハングサラミ(韓国人)ですか、スクラップの仕事をしていたと言われたので、と彼が言い出しました。そうですと答えて話がはずみました。奥さんを亡くされて、再婚をせず子供を育てたこと、数年前に焼肉屋を止め、昔やっていたスクラップ屋に戻ったということでした。ヤード(置き場)を持たず、解体現場を回って金属ものを集め、すぐに仲間に売っているのでしょう。ヤードがなければ家電にある銅線やレアメタルなどを取り出すことはできませんから。
私は30代の頃、在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞め、川崎での地域活動の現場を離れる決心をして、亡くなった岳父の小さなスクラップ屋を継ぎました。朝鮮人の従業員が4名の小さな会社でした。彼らは達者なもので、11トントラックに40トンの鉄くずを積み、運搬するのです。毎朝夜明け前にでかけ、造船場のスクラップを取りに行くのが主な仕事で、私の場合はヤードがあったので、その鉄くずを機械にかけててのひら大の大きさに切り、問屋に納入するのです。問屋はそれを電気炉をもつ会社に納め新たな鉄に生まれ変わります。そのスクラップ業は、戦後、ごみの収集と合わせ、在日朝鮮人が従事する仕事でした。
私は日本名を名乗る彼が東京の民族学校を出たことを知りました。映画「パッチギ」の世界の経験者でしょう。腰を低くし、解体現場を回り、家電や金属ものをもらう仕事の大変さに思い至り、これをきっかけにお付き合いしましょうねと言ったのですが、彼は何か解体物の処理で困ったときにはいつでも連絡ください、と答えました。それは商売にしたいというより、何か親近感を表す言葉だったのでしょう。
本名を名乗ることを日立闘争以来主張してきた私自身はどのビジネスの時でも本名を名乗り、3人の子供は日本名(日本読み)のない子として育てました。地域で本名を名乗る体制をつくることにも奔走してきました。しかし今、それでよかったのか、複雑な想いを抱くのです。
日本人と同じ権利、そう、それは当然です。しかし朝鮮人であることを当たり前のこととしては生きにくい現実を今日も目のあたりにして、私は日本のあるべき姿は正論を並べるのではなく、明治以来の国民国家づくりの過程でどれほど圧倒的な日本人が植民地主義を正当化する感性をもたされてきたのか(朝鮮人自身も)、その実態を知り、そこからの脱却はどうするのかという課題を自分の課題として取り組むことから始まると改めて思いました。
2010年9月5日日曜日
崔承喜っていう伝説のプリマ、知ってます?
残暑、お見舞い申し上げます。なんと京都は39.9度だったとか!みなさん、くれぐれも体調にはお気をつけください。
直木賞作家、西木正明の『さすらいの舞姫ー北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜』(光文社 2010)という900頁を一気に読みました。平凡パンチの編集であった著者が、川端康成との三島由紀夫の「事件」に関するインタビューで初めて川端が絶賛する戦前の朝鮮人バレリーナのことを聞き、そこから取材をして書き始めたとのことです。
私はしかしその崔承喜のことは、生前の父から聞いたことがあったのです。一度だけでしたが、その名前はずっと記憶していました。「アジアのイサドラ・ダンカン」とされる彼女のことは、父の言葉の所為か、その後の断片的な情報と共に妙に生々しく記憶に残っていました。しかし今、本を読み終え、不思議な気持ちになっています。
終章にあるように、もともと彼女が住んでいたのが、ソウル支庁に近い、参鶏湯(サムゲタン)料理で有名な土俗村は私がよく行く店であったこともあり、また何よりも、その本から「解放後」の朝鮮史、何よりも朝鮮戦争後の北朝鮮の政治状況が手に取るようにわかります。そして日本、中国の私のよく知る文化人・政治家とも深く関わった、歴史に翻弄された芸術家であるということがあまりに切実に迫ってくるのです。私の尊敬する周恩来が「アジアの至宝」と彼女の亡命に力を貸したことも妙に納得です。当分、彼女の夢を見そうです。
日本や中国ばかりか、アメリカやヨーロッパの当時の最も著名な人たちが絶賛してやまなかった崔承喜の、クラシックバレーと朝鮮の舞踊をひとつにしたモダンバレーの水準の高さとその美貌、私は必死にYOUTUBEで検索しましたが、映像はなく、ただ写真とレコードになった肉声を聞くのみでした。西木正明の小説がどれほど事実に基づくのか、彼の歴史観、思想、想いで書かれたものかの判断は慎重にすべきだということは言うまでもありません。
私はその本を読んでまったく関係がないのに、私の同世代の「在日」が民族的アイデンティティを求める中で社会主義国の「北」に限りない「幻想」を抱いたことを考えてしまいました。勿論、韓国政府のでっち上げもありました。しかし実際に、日本の「拉致事件」と同じ時期、「拉致」を実行した「北」のシステムに乗って「北」に行き韓国に渡り逮捕された「在日」は、民族の英雄として朝鮮史に残るということで済ませることができるのか、彼らは崔承喜を英雄視しながら結局は「殺害」した「北」の実態に対して、どうして観念的な理想を抱いたのか、その解明が必要だと痛感します。それは日本の戦後の左翼運動の総括とも関係するような予感がするのです。
直木賞作家、西木正明の『さすらいの舞姫ー北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜』(光文社 2010)という900頁を一気に読みました。平凡パンチの編集であった著者が、川端康成との三島由紀夫の「事件」に関するインタビューで初めて川端が絶賛する戦前の朝鮮人バレリーナのことを聞き、そこから取材をして書き始めたとのことです。
私はしかしその崔承喜のことは、生前の父から聞いたことがあったのです。一度だけでしたが、その名前はずっと記憶していました。「アジアのイサドラ・ダンカン」とされる彼女のことは、父の言葉の所為か、その後の断片的な情報と共に妙に生々しく記憶に残っていました。しかし今、本を読み終え、不思議な気持ちになっています。
終章にあるように、もともと彼女が住んでいたのが、ソウル支庁に近い、参鶏湯(サムゲタン)料理で有名な土俗村は私がよく行く店であったこともあり、また何よりも、その本から「解放後」の朝鮮史、何よりも朝鮮戦争後の北朝鮮の政治状況が手に取るようにわかります。そして日本、中国の私のよく知る文化人・政治家とも深く関わった、歴史に翻弄された芸術家であるということがあまりに切実に迫ってくるのです。私の尊敬する周恩来が「アジアの至宝」と彼女の亡命に力を貸したことも妙に納得です。当分、彼女の夢を見そうです。
日本や中国ばかりか、アメリカやヨーロッパの当時の最も著名な人たちが絶賛してやまなかった崔承喜の、クラシックバレーと朝鮮の舞踊をひとつにしたモダンバレーの水準の高さとその美貌、私は必死にYOUTUBEで検索しましたが、映像はなく、ただ写真とレコードになった肉声を聞くのみでした。西木正明の小説がどれほど事実に基づくのか、彼の歴史観、思想、想いで書かれたものかの判断は慎重にすべきだということは言うまでもありません。
私はその本を読んでまったく関係がないのに、私の同世代の「在日」が民族的アイデンティティを求める中で社会主義国の「北」に限りない「幻想」を抱いたことを考えてしまいました。勿論、韓国政府のでっち上げもありました。しかし実際に、日本の「拉致事件」と同じ時期、「拉致」を実行した「北」のシステムに乗って「北」に行き韓国に渡り逮捕された「在日」は、民族の英雄として朝鮮史に残るということで済ませることができるのか、彼らは崔承喜を英雄視しながら結局は「殺害」した「北」の実態に対して、どうして観念的な理想を抱いたのか、その解明が必要だと痛感します。それは日本の戦後の左翼運動の総括とも関係するような予感がするのです。
2010年8月23日月曜日
驚くべき数字、日本は「韓国併合」が悪かったは20%-中央日報
韓国の大手新聞である中央日報が日経と「韓日強制併合100年を迎え、両国国民を対象に共同で電話質問をした分析結果」として、「韓日強制併合」が悪かったという回答が、韓国では78.9%(あれっ、もっと高いと思いましたが)、日本では「悪かった」は20%、「悪い点もあるが良い点もあった」(60%)そうです。そうか、そうすると日本でも「悪かった」と認識しているのは一応、80%になりますね。
私は基本的にこのような数字は信用できないと考えています。質問の仕方、特に電話であれば誘導の仕方で応え方は随分と違ってくると思われるからです。
問題は、「悪い点もあるが良い点もあった」という認識です。これは日韓会談の最初のときからの日本側代表の発言内容であり、遡ってみると、中塚明さんの本では、1946年5月号『世界』に掲載した鈴木武雄さん(元京城帝国大学教授)が朝鮮問題を最初に取り上げたそうです(その後、4年間の空白!)。そこでも鈴木さんは米の朝鮮での増産を取り上げ、日本の生産技術(近代化)が大きく寄与した点を強調し、植民地支配の正当化をしているそうです(中塚明『現代日本の歴認認識―その自覚せざる欠落を問う』(高文研、89-104)。
植民地支配に問題があっただろうが良い点もあったという認識は、日本が朝鮮の近代化に貢献したということであり、「日露戦争前後から専ら言われてきた「朝鮮停滞論・落語論」」(中塚、103ページ)を前提にして成り立つのだと思われます。
韓流フアンが増え、多くの日本市民が韓国に関心を持ち始め、スポーツ界・経済界においては韓国から学ぶべきという声も台頭しているようです。しかし同時に、北朝鮮の貧困、金正日の独裁など「拉致」事件を犯したとんでもない国というイメージも広がり、私は北朝鮮認識の中に植民地歴史観がそのまま繋げられているように思います。
中央日報はFTAが締結されれば、「両国の明るい未来のための基盤が構築されると期待される」と楽観的ですが、対北朝鮮に対しては「制裁」を重視する日本の対応を考えると、私は全く楽観的にはなれません。一体過去の歴史を直視しないでどうして真実の交流がなりたつでしょうか。横浜市では全市中学で自由社版歴史教科書が使われる危険性がとりざたされています。
(http://antiーkyosei.blogspot.com/2010/07/blog-post_28.html)
その教科書では、日本軍が一部のアジア地域で解放軍として迎えられたという写真が載っています。「韓国併合」さえ知らない大学生も多くおり、またそんな教科書を日本の若い人が学んで育つのですよ、私はどう考えても楽観的になれません。
私は基本的にこのような数字は信用できないと考えています。質問の仕方、特に電話であれば誘導の仕方で応え方は随分と違ってくると思われるからです。
問題は、「悪い点もあるが良い点もあった」という認識です。これは日韓会談の最初のときからの日本側代表の発言内容であり、遡ってみると、中塚明さんの本では、1946年5月号『世界』に掲載した鈴木武雄さん(元京城帝国大学教授)が朝鮮問題を最初に取り上げたそうです(その後、4年間の空白!)。そこでも鈴木さんは米の朝鮮での増産を取り上げ、日本の生産技術(近代化)が大きく寄与した点を強調し、植民地支配の正当化をしているそうです(中塚明『現代日本の歴認認識―その自覚せざる欠落を問う』(高文研、89-104)。
植民地支配に問題があっただろうが良い点もあったという認識は、日本が朝鮮の近代化に貢献したということであり、「日露戦争前後から専ら言われてきた「朝鮮停滞論・落語論」」(中塚、103ページ)を前提にして成り立つのだと思われます。
韓流フアンが増え、多くの日本市民が韓国に関心を持ち始め、スポーツ界・経済界においては韓国から学ぶべきという声も台頭しているようです。しかし同時に、北朝鮮の貧困、金正日の独裁など「拉致」事件を犯したとんでもない国というイメージも広がり、私は北朝鮮認識の中に植民地歴史観がそのまま繋げられているように思います。
中央日報はFTAが締結されれば、「両国の明るい未来のための基盤が構築されると期待される」と楽観的ですが、対北朝鮮に対しては「制裁」を重視する日本の対応を考えると、私は全く楽観的にはなれません。一体過去の歴史を直視しないでどうして真実の交流がなりたつでしょうか。横浜市では全市中学で自由社版歴史教科書が使われる危険性がとりざたされています。
(http://antiーkyosei.blogspot.com/2010/07/blog-post_28.html)
その教科書では、日本軍が一部のアジア地域で解放軍として迎えられたという写真が載っています。「韓国併合」さえ知らない大学生も多くおり、またそんな教科書を日本の若い人が学んで育つのですよ、私はどう考えても楽観的になれません。
2010年8月22日日曜日
中塚明著『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠落を問う』を読んで
先日の「韓国併合」100年を問うシンポジュームでの中塚明教授の基調報告を聴き、会場で教授の著作を買いました。『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠落を問う』(高文研、2007)という本です。その本が第1版であることに驚きました。こんないい本がどうしてもっと多くの人に読まれないのかと思ったからです。
著書は4章で構成されています。第1章「明治の日本」を讃える“常識”を疑う。第2章「明治栄光論」で隠蔽される歴足の事実。第3章 歴史の偽造・3例を検証する。(1.江華島事件はなぜ起きたか。2.日清戦争はどうしてはじまったのか。3.日本政府・軍がひた隠しした東学農民軍の抗日闘争)。第4章 韓国にみる過去の問い返しと歴史認識の深まり。この目次を見ただけで、先生の意気込み、気迫が伝わってくるような気がします。
NHKの坂本竜馬が放送されていますが、作者の司馬遼太郎は「明治の時代」を最大限称賛し、戦争に突き進んだ昭和の時代は「非連続の時代」と解釈します。この「明治はよき時代」であったという認識は現代の知識人といわれる、例えば反藤一利、寺島実郎だけでなく、鶴見俊輔、藤原彰までにも影響を与えているようです。
かつて5000円札の顔であった新渡戸稲造、岡倉天心、矢内原忠雄が植民地朝鮮をどのようにみていたのかも明らかにされます。さらに、雑誌『世界』で朝鮮のことをとりあげたのは、1946年5月号であり(丸山真男の有名な論文「超国家主義の論理と心理」と同じ号)それも朝鮮支配を近代化という観点から正当化する内容で、それ以後の無関心状況から、中塚教授は、「戦後日本の知識人の責任」を厳しく問います。
日清戦争に至る日本の暴力的な侵略の事実を最新の研究成果を取り上げて実証しながら、それらの事実を日本政府が軍人を動かしどのように隠蔽していったのかを明らかにして、「明治のよき時代」幻想は完全に覆えります。中塚教授の歴史観は明確で、明治以降日本人が積み上げてきた朝鮮に対する見方は「今日でもいぜんとして変わっていません。変わっていないばかりか、日々、再生産されて」いると喝破します。
韓国における「東学乱」の位置付けも、韓国での民主化闘争の過程で大きくかわってきており、その「農民革命」には農民の男だけでなく女性、子供も参加し、そのモニュメントの作り方まで「新たな歴史観」に基づき変化してきたことを教授は説明されます。教授とで会った韓国の研究者は、「国家主義」「民族主義」という「狭い垣根から解き放つ」体験をしたという新たな可能性、地平まで示唆して終わります。
日本の教育の現場で、近現代の歴史がしっかりと教えられるべきだと痛感します。また植民地主義史観の克服は、日韓両国においてもいかに困難なことか改めて認識しました。みなさんに一読をお勧めします。
著書は4章で構成されています。第1章「明治の日本」を讃える“常識”を疑う。第2章「明治栄光論」で隠蔽される歴足の事実。第3章 歴史の偽造・3例を検証する。(1.江華島事件はなぜ起きたか。2.日清戦争はどうしてはじまったのか。3.日本政府・軍がひた隠しした東学農民軍の抗日闘争)。第4章 韓国にみる過去の問い返しと歴史認識の深まり。この目次を見ただけで、先生の意気込み、気迫が伝わってくるような気がします。
NHKの坂本竜馬が放送されていますが、作者の司馬遼太郎は「明治の時代」を最大限称賛し、戦争に突き進んだ昭和の時代は「非連続の時代」と解釈します。この「明治はよき時代」であったという認識は現代の知識人といわれる、例えば反藤一利、寺島実郎だけでなく、鶴見俊輔、藤原彰までにも影響を与えているようです。
かつて5000円札の顔であった新渡戸稲造、岡倉天心、矢内原忠雄が植民地朝鮮をどのようにみていたのかも明らかにされます。さらに、雑誌『世界』で朝鮮のことをとりあげたのは、1946年5月号であり(丸山真男の有名な論文「超国家主義の論理と心理」と同じ号)それも朝鮮支配を近代化という観点から正当化する内容で、それ以後の無関心状況から、中塚教授は、「戦後日本の知識人の責任」を厳しく問います。
日清戦争に至る日本の暴力的な侵略の事実を最新の研究成果を取り上げて実証しながら、それらの事実を日本政府が軍人を動かしどのように隠蔽していったのかを明らかにして、「明治のよき時代」幻想は完全に覆えります。中塚教授の歴史観は明確で、明治以降日本人が積み上げてきた朝鮮に対する見方は「今日でもいぜんとして変わっていません。変わっていないばかりか、日々、再生産されて」いると喝破します。
韓国における「東学乱」の位置付けも、韓国での民主化闘争の過程で大きくかわってきており、その「農民革命」には農民の男だけでなく女性、子供も参加し、そのモニュメントの作り方まで「新たな歴史観」に基づき変化してきたことを教授は説明されます。教授とで会った韓国の研究者は、「国家主義」「民族主義」という「狭い垣根から解き放つ」体験をしたという新たな可能性、地平まで示唆して終わります。
日本の教育の現場で、近現代の歴史がしっかりと教えられるべきだと痛感します。また植民地主義史観の克服は、日韓両国においてもいかに困難なことか改めて認識しました。みなさんに一読をお勧めします。
2010年8月18日水曜日
国民栄誉賞受賞者、王貞治の国籍についてー王選手は例外
お久し振りです。
高橋先生のお別れ会にはお出でくださりありがとうございました。
王選手の「台湾」国籍は知ってましたが、彼ほどの英雄になると
どこの国籍であろうと関係なく「おらが王」であってほしいと
ファンは思っているようです。
ただ、これは全くの例外であって、一般人はたとえ国籍を日本に
変更しても住み難い国であろことはもうすまでもありませんね。
また、王選手であっても、長島選手に匹敵する実力をもちながら
外国人であるがゆいに不当に扱われているということで彼の為に
国民栄誉賞が考えられたといわれております。
坂内宗男、
高橋先生のお別れ会にはお出でくださりありがとうございました。
王選手の「台湾」国籍は知ってましたが、彼ほどの英雄になると
どこの国籍であろうと関係なく「おらが王」であってほしいと
ファンは思っているようです。
ただ、これは全くの例外であって、一般人はたとえ国籍を日本に
変更しても住み難い国であろことはもうすまでもありませんね。
また、王選手であっても、長島選手に匹敵する実力をもちながら
外国人であるがゆいに不当に扱われているということで彼の為に
国民栄誉賞が考えられたといわれております。
坂内宗男、
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