昨日、東京駅から川崎に歩き始め、品川で川崎ナンバーのダンプに乗せてもらい、夕方から翌朝の4時までかかり川崎に着き、そこから自宅まで送ってもらった話を書きました。大げさではなく、42歳の、川崎南部に住む日本人のダンプの運転手は私の命の恩人です。私には関東大震災時の6000名もの朝鮮人虐殺を思い出すような恐怖は全くありませんでした。同じ災害に遭った者同士の心のつながりを強く感じています。
私の若い日本人の友人(博士課程の研究者)は、宮城県の、恐らくは壊滅したであろう田舎に住む家族を想いながらも、バイクで宮城に入り「従軍慰安婦」の宋神道ハルモニの安否が心配でそこに寄って確認するとメールを送ってくれました。私はこのような「新しい日本人」の友人を心から信頼し、共に歩みたいと願うのです。
しかし同時に、横国の加藤千香子さんからは、横浜市の中学歴史教科書をめぐる問題や外国人からの献金問題を取り上げるやり方から、国民国家を正当化し戦後作られた法律を大上段に掲げた、いびつなナショナリズムの台頭を危惧するメールをいただきました。私にはこの「新しい日本人」と、国民国家を絶対視するナショナリズムを掲げる人たちとのギャップが気になります。特に、後者の流れの強さが気になるのです。
中野剛志編『成長なき時代の「国家」を構想するー経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』にある大屋雄裕「配慮の範囲としての国民」という論文に注目しました。よく議論される外国人の政治参加という角度ではなく、今後低成長が予想される日本社会にあって経済の成長を前提にせずに「国民」の福祉を考えるとき、外国人の配慮される権利はどのようになるのかという問題提起です。そこには、参加の範囲と配慮の範囲は同一ではないだろうという冷徹な認識があります。政治参加しない外国人にも、豊かでなくなる時代の日本国家は(日本人と同じように)福祉の面で「配慮」するのか、それはどの範囲なのか、そのことをしっかりと考えておこうという、意欲的な論文です。
ニューカマーと言われる外国人が急増し、これまでのような小手先の政策では埒があかない時代になって、「国家がその福祉に対して配慮すべき国民の範囲に、外国出身の労働者のどこまで」を含めるのか、移民是非論ではなく、まずその定義をしっかりとすべきという主張です。
この定義に関して日本社会はこれまで議論をしてこず、最近になって「多文化共生」を言いだして、急増する外国人の日本社会への「統合」をもくろむようになりました。勿論、その中には、外国人の人権を強調し、多様性を評価する意見や、まじめな実践があることは事実です。川崎市は、「多文化共生社会の実現」、「かけがいのない隣人」を謳います。しかしそのような観念的でセンチメンタルな議論は、日本社会の成長を見込めない「成長なき時代」になったとき、どうなっていくのか予断を許さないでしょう。私は「多文化共生」は外国人を「二級市民」に落とし込める植民地主義イデオロギーだと考えます。
外国人の労働力だけ欲しい、というわけにはいかないのです。外国人は日本に住む限り家族をもつことになり、そこでは日本社会による生活と人格(人権)の保障は不可避です。当然のこととして自分の住む地域社会をよくするための政治参加を求めることになるでしょう。そのとき日本国籍を条件にするのか、二重国籍を認めるのか、永住権者だけに限定するのか、滞在年数で決めるのか、税金の納入という実績を重視するのか、国家(あるいは地域社会)の「配慮」の範囲についての定義は確かに必要になるでしょう。大屋のその主張は認めます。
しかしながら国家と地方自治体は同じなのか、住民・市民の定義は国家がするのか地方自治体がするのか、そもそも外国人対策の前提に、「住民主権に基づく地方自治」のあり方につてしっかりとした議論とその具体的なあり方が議論されるべき、というのが大屋論文についての私の感想です。なお、浦山聖子の「外国人労働者の受け入れは、日本社会にとってプラスかマイナスか」も問題点が整理されて記されているので一読を勧めます。
「在日」もまた、自分たちの政治参加の権利主張だけではやっていけない時代に突入していることをしっかりと認識すべきでしょう。自分たちは指紋押捺拒否の運動をしましたが、ニューカマーを取り締まりの対象にすると日本政府が言い出したとき、反対運動を組めませんでした。政治参加によって何を実現したいのか、どのような社会にしたいのか、そのようなヴィジョンもなく、ただ参政権が欲しい(非選挙権はなくともせめて選挙権でも)と言うだけでは、日本の矛盾ある社会にただただ埋没するしかないのです。
飛躍しますが(私の中では必然なのですが)、私は川崎や横浜(それに便乗した各地方自治体)の外国人市民代表者会議の解散を求めます。決定権もなく、討議する内容も外国人問題に制限されるようなものは不要です。そうでなく、例えば区単位の決定権ある協議会(または区民議会)で住民が自分で責任をもって運営していく「住民主権による地方自治」をはじめるとき、私たち「在日外国人」もまた、同じ住民として選挙権・被選挙権をもち、外国人問題もひとつの課題として議論すればいいのです。それは国会に諮らなくとも、各地方自治体の条例によって可能になります。
それは「在日」の権利の主張の問題ではなく、日本人の民主社会をどのようにつくり運営するかという「民度」の問題、歴史的課題だということを蛇足ながら記しておきましょう。
2011年3月12日土曜日
地震の経験談
みなさんどうされていますか?
地震の報道を見て、心配してメールを送って下さる方が多く、ありがたい話です。関西、アメリカ、香港,
イギリスなどから連絡がありました。
M8.8というとてつもない地震だったのですが、東北地方の悲惨さに言葉を失います。地震は天災ですが、原発事故は人災です。メルトダウンがはじまったとありますが、これは大変なことです。何重にもリスクヘッジをしていると強弁してきたのに、この事態は当然と言えば当然なのではないでしょうか。そもそも核処理に何万年もかかるというのが無理です。自然を甘くみてはいけません。
私は昨日、東京丸の内の丸善にいました。突然の揺れでとっさに思ったのが、先週訪れたイタリアのポンペイの遺跡のことでした。しばらくは様子を見ていたのですが、このままでは埒が明かないと思い、川崎まで歩こうと決めました。品川までまるで難民のように実に多くの人と、お互い無言で歩きました。寒くなり、足も痛く、渋滞している多くの車の中で川崎のナンバープレートのダンプ車に声をかけ、乗せてもらいました。
車は動かず、自宅に着いたのは朝の4時でした。なんと10時間かかったことになります。そのダンプの持ち主は川崎の南部の人で、いろんな話をしました。昔のスクラップをしていたときの経験、同業者のはなし、そこから話は臨海部のことや、川崎南部に横断バス路線をつくる話にまで及びました。42歳の彼は、日本人は自分で考えず人に従うことばかりやってるからだめだよと言ってましたが、いや、私はあきらめないでやっていきたいというようなことまで話しました。
私は途中適当なところで降ろしてもらうつもりだったのですが、彼はなんと私の自宅まで送ってくれました。朝の4時ですよ。教会に行っている者の言葉としてはどうかなと思いますが、まさに地獄に仏とはこのことですね。感謝に堪えません。世の中にはいろんな出会いがありますね。彼の名刺をもらったので、先ほど、お礼の電話をいれました。改めて川崎で会って、いろんな話をしたいと思っています。
地震の報道を見て、心配してメールを送って下さる方が多く、ありがたい話です。関西、アメリカ、香港,
イギリスなどから連絡がありました。
M8.8というとてつもない地震だったのですが、東北地方の悲惨さに言葉を失います。地震は天災ですが、原発事故は人災です。メルトダウンがはじまったとありますが、これは大変なことです。何重にもリスクヘッジをしていると強弁してきたのに、この事態は当然と言えば当然なのではないでしょうか。そもそも核処理に何万年もかかるというのが無理です。自然を甘くみてはいけません。
私は昨日、東京丸の内の丸善にいました。突然の揺れでとっさに思ったのが、先週訪れたイタリアのポンペイの遺跡のことでした。しばらくは様子を見ていたのですが、このままでは埒が明かないと思い、川崎まで歩こうと決めました。品川までまるで難民のように実に多くの人と、お互い無言で歩きました。寒くなり、足も痛く、渋滞している多くの車の中で川崎のナンバープレートのダンプ車に声をかけ、乗せてもらいました。
車は動かず、自宅に着いたのは朝の4時でした。なんと10時間かかったことになります。そのダンプの持ち主は川崎の南部の人で、いろんな話をしました。昔のスクラップをしていたときの経験、同業者のはなし、そこから話は臨海部のことや、川崎南部に横断バス路線をつくる話にまで及びました。42歳の彼は、日本人は自分で考えず人に従うことばかりやってるからだめだよと言ってましたが、いや、私はあきらめないでやっていきたいというようなことまで話しました。
私は途中適当なところで降ろしてもらうつもりだったのですが、彼はなんと私の自宅まで送ってくれました。朝の4時ですよ。教会に行っている者の言葉としてはどうかなと思いますが、まさに地獄に仏とはこのことですね。感謝に堪えません。世の中にはいろんな出会いがありますね。彼の名刺をもらったので、先ほど、お礼の電話をいれました。改めて川崎で会って、いろんな話をしたいと思っています。
2011年3月11日金曜日
橋下大阪府知事の朝鮮学校助成金打ち切り宣言批判ー金明秀ブログより
すっかりと時差ぼけはなくなりました。
石原が4選に打ってでるとか。日本の大都市の首長には本当に困った人が選ばれますね。これって、日本の民度の反映でしょうか?
橋下大阪府知事が猛烈にTwitterを活用したキャンペーンをはっています。大阪市長への面当ても多く、選挙を意識していますね。その橋下が朝鮮学校への支援打ち切りのTwitterに対して関西学院大学の金明秀教授が
反論しています。橋下の「共生」論、世論を背景にした強弁、反論することさえ嫌になりますね・・・
「恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下府知事の無責任なツイート」(金明秀の公式ブログ、whoso is not expressly included)よりhttp://han.org/blog/2011/03/post-152.html
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「恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下府知事の無責任なツイート」(金明秀の公式ブログ、whoso is not expressly included)より
橋下大阪府知事が精力的にツイッターに投稿を続けています。昨日3月9日、朝鮮学校に対する助成金支給についてツイートした内容が、各方面に反響を呼んでいます。ツイートの概要は、以下の通り。(見出し数字は引用者)
1.「日本人拉致問題、隣国である北朝鮮の現在の振る舞いを考えると、日本と北朝鮮の歴史的な経緯を踏まえてもなお大阪府民の多くは、朝鮮学校への補助金支出には納得できない。」
2.「今の大阪府の状況だと、このまま朝鮮学校に補助金を支出する方が学校にとっても不幸。だって大阪府民は腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続けるから。」
3.「多くの住民が補助金支給に納得していなければ、不満を抱いていれば、日本と朝鮮学校の共生は成り立たない。」
4.「僕は学校と北朝鮮国家の関係性が遮断されることを目的とした大阪府のルールを作りました。」
5.「僕が作ったルールに従ってくれれば大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれるはず。これで初めて共生となる。」
いかがでしょう。府知事ご本人も指摘されている通り、少なくとも政府による違法性の高い「高校無償化」除外よりは、ある意味で、筋が通っているように思われます。もちろん「ある意味で」とは、市民社会における公平と平等といった正義よりも、住民感情を重視する政治姿勢を明確に提示した点において、ということです。
まあ、わたし個人としても、朝鮮学校は国民教育を捨てて民族教育に特化することが経営的にも重要な生存戦略のはずだと思っていますが、しかし、それは朝鮮学校関係者が自己決定すべき問題であって、中等教育において絶大の権力を持つ府知事が、子どもを人質に踏み絵を踏ませるようなものであっていいはずがありません。
そして、それ以外にも、府知事のツイートにはいくつか重大な問題が含まれていますので、以下に指摘していきたいと思います。
第一の問題は、「大阪府においては、現状のままで朝鮮学校に補助金を支給することには納得できないとういのが大多数の意見」と論断しておられるが、じつは、その根拠をお持ちでない(ようだ)ということ。
根拠をお持ちでないようだというのは、府知事がツイートの中で、「メディアの皆さん」に世論調査の実施を請願していることからうかがえます。しかし、根拠のない印象論で、これほど重大な政治的意思決定をしたということは、はなはだ重大な問題だといえます。
印象論でよいというなら、賛成意見と反対意見が伯仲しているのが実態だろうというのが、わたしの印象です。ただし、排外主義的な要素を持つ反対意見は、排外主義の持つ権威主義的な性格により、より強硬な主張として表出するため、目立ってみえてしまう可能性はありますね。
第二の問題は、北朝鮮に対する悪感情は、植民地主義とレイシズムにルーツがあるという事実を無視していることです。
心理学分野には「感情温度計」という指標があり、偏見研究の文脈でこれを各外国人に適用した業績が多数あります。さまざまな人種・民族・外国人に対して、日本人の好悪感情を測定し、それを比較しているのですね。
それらの結果をみると、戦後すぐから一貫して、「朝鮮人」と「黒人」が最悪の感情の対象に位置付けられてきたことがわかります。
つまり、戦後についていえば、「日本人拉致問題」以前から、それどころか、おそらくは1948年に朝鮮民主主義人民共和国という国家が成立する以前から、恒常的に朝鮮人に対する悪感情は存在していたということなのです。
この悪感情の由来については諸説ありますが、「日本の属国だったくせに戦勝国然として傲慢なふるまいをする」ということに対する反感と、朝鮮人に対する蔑視感情があったということを否定する論者はほとんどいません。つまり、植民地主義とレイシズムです。
石原が4選に打ってでるとか。日本の大都市の首長には本当に困った人が選ばれますね。これって、日本の民度の反映でしょうか?
橋下大阪府知事が猛烈にTwitterを活用したキャンペーンをはっています。大阪市長への面当ても多く、選挙を意識していますね。その橋下が朝鮮学校への支援打ち切りのTwitterに対して関西学院大学の金明秀教授が
反論しています。橋下の「共生」論、世論を背景にした強弁、反論することさえ嫌になりますね・・・
「恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下府知事の無責任なツイート」(金明秀の公式ブログ、whoso is not expressly included)よりhttp://han.org/blog/2011/03/post-152.html
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「恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下府知事の無責任なツイート」(金明秀の公式ブログ、whoso is not expressly included)より
橋下大阪府知事が精力的にツイッターに投稿を続けています。昨日3月9日、朝鮮学校に対する助成金支給についてツイートした内容が、各方面に反響を呼んでいます。ツイートの概要は、以下の通り。(見出し数字は引用者)
1.「日本人拉致問題、隣国である北朝鮮の現在の振る舞いを考えると、日本と北朝鮮の歴史的な経緯を踏まえてもなお大阪府民の多くは、朝鮮学校への補助金支出には納得できない。」
2.「今の大阪府の状況だと、このまま朝鮮学校に補助金を支出する方が学校にとっても不幸。だって大阪府民は腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続けるから。」
3.「多くの住民が補助金支給に納得していなければ、不満を抱いていれば、日本と朝鮮学校の共生は成り立たない。」
4.「僕は学校と北朝鮮国家の関係性が遮断されることを目的とした大阪府のルールを作りました。」
5.「僕が作ったルールに従ってくれれば大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれるはず。これで初めて共生となる。」
いかがでしょう。府知事ご本人も指摘されている通り、少なくとも政府による違法性の高い「高校無償化」除外よりは、ある意味で、筋が通っているように思われます。もちろん「ある意味で」とは、市民社会における公平と平等といった正義よりも、住民感情を重視する政治姿勢を明確に提示した点において、ということです。
まあ、わたし個人としても、朝鮮学校は国民教育を捨てて民族教育に特化することが経営的にも重要な生存戦略のはずだと思っていますが、しかし、それは朝鮮学校関係者が自己決定すべき問題であって、中等教育において絶大の権力を持つ府知事が、子どもを人質に踏み絵を踏ませるようなものであっていいはずがありません。
そして、それ以外にも、府知事のツイートにはいくつか重大な問題が含まれていますので、以下に指摘していきたいと思います。
第一の問題は、「大阪府においては、現状のままで朝鮮学校に補助金を支給することには納得できないとういのが大多数の意見」と論断しておられるが、じつは、その根拠をお持ちでない(ようだ)ということ。
根拠をお持ちでないようだというのは、府知事がツイートの中で、「メディアの皆さん」に世論調査の実施を請願していることからうかがえます。しかし、根拠のない印象論で、これほど重大な政治的意思決定をしたということは、はなはだ重大な問題だといえます。
印象論でよいというなら、賛成意見と反対意見が伯仲しているのが実態だろうというのが、わたしの印象です。ただし、排外主義的な要素を持つ反対意見は、排外主義の持つ権威主義的な性格により、より強硬な主張として表出するため、目立ってみえてしまう可能性はありますね。
第二の問題は、北朝鮮に対する悪感情は、植民地主義とレイシズムにルーツがあるという事実を無視していることです。
心理学分野には「感情温度計」という指標があり、偏見研究の文脈でこれを各外国人に適用した業績が多数あります。さまざまな人種・民族・外国人に対して、日本人の好悪感情を測定し、それを比較しているのですね。
それらの結果をみると、戦後すぐから一貫して、「朝鮮人」と「黒人」が最悪の感情の対象に位置付けられてきたことがわかります。
つまり、戦後についていえば、「日本人拉致問題」以前から、それどころか、おそらくは1948年に朝鮮民主主義人民共和国という国家が成立する以前から、恒常的に朝鮮人に対する悪感情は存在していたということなのです。
この悪感情の由来については諸説ありますが、「日本の属国だったくせに戦勝国然として傲慢なふるまいをする」ということに対する反感と、朝鮮人に対する蔑視感情があったということを否定する論者はほとんどいません。つまり、植民地主義とレイシズムです。
「麗しのイタリア旅行9日間」で思うー②機内での読書感想、「松田優作」論
成田―ローマ、ミラノー成田いずれも12時間のフライトでした。イタリアでの移動は全てバスで、その間はただひらすら眠るのみ。飛行機に乗るときは、映画と本を読むことに徹します。
今回は、李建志『松田優作と七人の作家たち 『探偵物語』のミステリ』、ロマン・ローラン『ミケランジェロの生涯』、斎藤誠『競争の作法―いかに働き、投資するか』、中野剛志編『成長なき時代の「国家」を構想するー経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』をもっていきました。
李建志については私のブログで紹介しました(「新たな地平を切り開こうとする比較文学の学者、李建志に期待する 」http://t.co/Cuhaiw0)。『朝鮮近代文学とナショナリズムー抵抗のナショナリズム』批判』ではとても新鮮な印象を受けました。しかしそのナショナリズム批判は、2作目では「複数のアイデンティティ」を推奨するかたちになっており、アイデンティティとはそもそも何なのかという切り込みがなく、私には多少、不満でした。そこで今回は、どのように松田優作を取り上げるのか興味がありました。
李建志はTVドラマ「探偵物語」の脚本家7人を取り上げ、その人柄、考え方、時代背景に至るまで見事な分析をします。「探偵物語」はどのような視点から書かれたのかということがよくわかります。そして最後の章で松田優作をとりあげるのです。松田優作が「国籍」を明らかにしなかった時代背景、本人の思い、そして「ナニ人でもない松田優作への飛翔」、「探偵物語」が朝鮮人問題を「隠蔽」した意味などを的確に記します。
李は、「『けんじ』という日本の名前を自称しているのは、自分が韓国人でも、朝鮮人民でも、日本人でもないという意識を表明する意図があるから」という立場です。ナショナリズム批判者として李は書かれたものと映像だけを資料として取り上げて分析するのですが、私には7人の脚本家と松田優作の絡み合いが不十分であると感じました。崔洋一も助監督として関わっていたようだし、客観的な資料だけでなく、脚本家たちとのインタビューをしていればさらに違った松田優作を描くことができたのではないかと思いますがどうでしょうか。
あとがきで李は、「半ば革命家としての」「遺書」、「私のささやかな「闘い」の書」と記しているのですが、まだ早すぎませんか? 「「マイノリティ運動の問題として私が考えていることは、マジョリティのなかの「反体制的」な考え方のひとがマイノリティを『本尊』として祭りあげることで成立する運動、その政治性のことである」と一作目で喝破した人としては。李建志のさらなる「飛翔」を期待します。
今回は、李建志『松田優作と七人の作家たち 『探偵物語』のミステリ』、ロマン・ローラン『ミケランジェロの生涯』、斎藤誠『競争の作法―いかに働き、投資するか』、中野剛志編『成長なき時代の「国家」を構想するー経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』をもっていきました。
李建志については私のブログで紹介しました(「新たな地平を切り開こうとする比較文学の学者、李建志に期待する 」http://t.co/Cuhaiw0)。『朝鮮近代文学とナショナリズムー抵抗のナショナリズム』批判』ではとても新鮮な印象を受けました。しかしそのナショナリズム批判は、2作目では「複数のアイデンティティ」を推奨するかたちになっており、アイデンティティとはそもそも何なのかという切り込みがなく、私には多少、不満でした。そこで今回は、どのように松田優作を取り上げるのか興味がありました。
李建志はTVドラマ「探偵物語」の脚本家7人を取り上げ、その人柄、考え方、時代背景に至るまで見事な分析をします。「探偵物語」はどのような視点から書かれたのかということがよくわかります。そして最後の章で松田優作をとりあげるのです。松田優作が「国籍」を明らかにしなかった時代背景、本人の思い、そして「ナニ人でもない松田優作への飛翔」、「探偵物語」が朝鮮人問題を「隠蔽」した意味などを的確に記します。
李は、「『けんじ』という日本の名前を自称しているのは、自分が韓国人でも、朝鮮人民でも、日本人でもないという意識を表明する意図があるから」という立場です。ナショナリズム批判者として李は書かれたものと映像だけを資料として取り上げて分析するのですが、私には7人の脚本家と松田優作の絡み合いが不十分であると感じました。崔洋一も助監督として関わっていたようだし、客観的な資料だけでなく、脚本家たちとのインタビューをしていればさらに違った松田優作を描くことができたのではないかと思いますがどうでしょうか。
あとがきで李は、「半ば革命家としての」「遺書」、「私のささやかな「闘い」の書」と記しているのですが、まだ早すぎませんか? 「「マイノリティ運動の問題として私が考えていることは、マジョリティのなかの「反体制的」な考え方のひとがマイノリティを『本尊』として祭りあげることで成立する運動、その政治性のことである」と一作目で喝破した人としては。李建志のさらなる「飛翔」を期待します。
2011年3月10日木曜日
「麗しのイタリア旅行9日間」で思うー①ポンペイの遺跡と前原の辞任
「麗しのイタリア旅行9日間」で思うー①ポンペイの遺跡と前原の辞任
結婚40周年記念で「麗しのイタリア旅行9日間」を堪能してきました。駆け足でしたが、ローマ、フィレンツェ、ベローナ、ベネツェア、ミラノを回りました。帰りの飛行機の中で、外国人からの献金を受け前原外相辞任という大見出しを見て、私は、ポンペイの遺跡のことを急に思い出しました。
帰宅してみたら、M社から「前原外相への献金問題について」のコメント依頼が来ていました。「京都の在日韓国人が前原外相に献金した問題が報じられています。産経新聞はここぞとばかり永住外国人の地方参政権問題をたたき、韓国政府高官も影響を憂慮しているとの報道が出ています。しかし、子どものころからのつきあいで、しかも年間5万円、4年間で20万円という善意の献金なのに、政争の具にするべき問題なのかとの疑問がぬぐえません。M新聞16日付けでオピニオン特集を組みたいと思います。もしよろしければコメントをいただければ幸いです。」
それで急いで私は以下のコメントをM社に送りました。
――――――――――――――――――――――――――――
一昨日、イタリアからの帰りの飛行機の中で知りました。前原外相が外国人からの献金をもらったことで辞職とあり、私は京都出身の彼は、きっと地元の「在日」からもらったんだろうなと思いました。
年間5万円、4年間で20万円ばかりの献金をしたのは、おそらく企業をする人ではないでしょう。政治献金で政治家を利用しようとしたならばもっと多額の金を、それも他人(日本人)を介して出しているはずです。噂では地元の前原を子供のころから知っているハルモニとのことですが、前原外相も、そして何よりも篤い想いで前原外相にお金をだしたハルモニも、悔しいのと申し訳ないという思いで泣くに泣けない気持ちなのでしょう。その心情は察して余りあります。
しかし公職選挙法に外国人からお金を受け取ることを禁じている以上、その違法性を突かれるとこれは弁明しようがなく、前原外相も「将来の可能性」を期して、傷の浅いうちに辞職を決断したのでしょうか。
日本に住む外国人の政治参加をどの範囲まで認めるのか、それはその国の民主度を測るバロメータだと思います。既に条例によって外国人の住民投票を認めている地方自治体は、川崎をはじめいくつもあります。先の名古屋の選挙で、名古屋市議会でペンディングになっている外国人の住民投票について民団が積極的な運動を行わなかったことは残念なことでした。これは国会とか関わりなく、地方議会で決定すればいいのですから。
京都のハルモニの悔しさをどのように受けとめればいいのでしょうか。冷静になって考えてみると外国人の政治参加は、献金や、国会で決議されないことには何もできないというものではありません。これからの日本は地方自治の役割が大きくなります。その為には、「住民主権に基づく住民自治」が確立されていくことが何よりも重要な課題です。日本の民主主義が形骸化されずに立ちいくのかどうかの基本です。私たち「在日」は外国人住民としてまさに、そのあるべき住民自治確立を意識ある多くの日本人住民とともにめざすべきでしょう。勿論、そのときには国会決議とはまったく関わりなく、選挙権・被選挙権をもち、自分の住む地域社会に政治参加する道を切り開いていかなければなりません。
人はどこの国籍をもとうが、自分の住む地域社会で人としての権利を主張し、その地域社会をさらによくするために政治参加する義務と権利があるのです。
(以上)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ローマ郊外のポンペイは、火山噴火のため、8メートルもの火山灰に覆われていたものを掘り起こした古代都市国家です。野外の劇場、広大な広場、裁判所、公衆風呂、パン屋、酒屋、売春宿などがそのままありました。私が思ったのは、このような「質の高い」生活は何によって支えられていたのか、どうしてこのような生活が可能だったのかということでした。現地案内人に詳しく聞いたところ、それは交易によるということでした。
しかしその市民の質の高い生活は奴隷制度によって支えられていたのだと思います。海外から連れてきた外国人と、ポンペイの貧しい人が奴隷になっていたとのことです。勿論、売春宿の娼婦も奴隷でした。2階建の売春宿の壁にはいろんな体位を強いられる女性が描かれ、狭い部屋には石のベッドがそのままありました。浴場には運動をする場、温水の部屋やマッサージ室があり、自由人は無料だったのことでした。あの大きな裁判所があったということは、法律によって日々のもめ事が解決されていたのでしょう。奴隷は浴場や野外劇場へは入場できません。野獣と闘ったり、死ぬまで格闘を強いられるときだけ、彼らは劇場での主役(見世物)でした。その劇場に女性も見物が許されたのですが、最上階だけであったそうです。
古代ギリシャ、ローマの民主主義の時代からフランスの人権宣言にいたるまで、女と外国人、奴隷は「人権」は認められておらず、日本において女性の選挙権が認められたのは、敗戦後です。そして今やグローバル時代、世界各地から人が訪れ、居住するようになりましたが、国民国家の枠はそのままです。
外国人の人権は歴史上、未だにポンペイと同じく、認められていないのです。同じ地域社会で住む外国人もまたそこに住む者として政治参加をし、その社会に貢献していく、そんな歴史上実現されたことのない社会をつくる過程にいる、私はポンペイでそんな自分の課題を強く再認識して帰国の途につき、飛行機のなかで前原辞任の記事を見ました。
結婚40周年記念で「麗しのイタリア旅行9日間」を堪能してきました。駆け足でしたが、ローマ、フィレンツェ、ベローナ、ベネツェア、ミラノを回りました。帰りの飛行機の中で、外国人からの献金を受け前原外相辞任という大見出しを見て、私は、ポンペイの遺跡のことを急に思い出しました。
帰宅してみたら、M社から「前原外相への献金問題について」のコメント依頼が来ていました。「京都の在日韓国人が前原外相に献金した問題が報じられています。産経新聞はここぞとばかり永住外国人の地方参政権問題をたたき、韓国政府高官も影響を憂慮しているとの報道が出ています。しかし、子どものころからのつきあいで、しかも年間5万円、4年間で20万円という善意の献金なのに、政争の具にするべき問題なのかとの疑問がぬぐえません。M新聞16日付けでオピニオン特集を組みたいと思います。もしよろしければコメントをいただければ幸いです。」
それで急いで私は以下のコメントをM社に送りました。
――――――――――――――――――――――――――――
一昨日、イタリアからの帰りの飛行機の中で知りました。前原外相が外国人からの献金をもらったことで辞職とあり、私は京都出身の彼は、きっと地元の「在日」からもらったんだろうなと思いました。
年間5万円、4年間で20万円ばかりの献金をしたのは、おそらく企業をする人ではないでしょう。政治献金で政治家を利用しようとしたならばもっと多額の金を、それも他人(日本人)を介して出しているはずです。噂では地元の前原を子供のころから知っているハルモニとのことですが、前原外相も、そして何よりも篤い想いで前原外相にお金をだしたハルモニも、悔しいのと申し訳ないという思いで泣くに泣けない気持ちなのでしょう。その心情は察して余りあります。
しかし公職選挙法に外国人からお金を受け取ることを禁じている以上、その違法性を突かれるとこれは弁明しようがなく、前原外相も「将来の可能性」を期して、傷の浅いうちに辞職を決断したのでしょうか。
日本に住む外国人の政治参加をどの範囲まで認めるのか、それはその国の民主度を測るバロメータだと思います。既に条例によって外国人の住民投票を認めている地方自治体は、川崎をはじめいくつもあります。先の名古屋の選挙で、名古屋市議会でペンディングになっている外国人の住民投票について民団が積極的な運動を行わなかったことは残念なことでした。これは国会とか関わりなく、地方議会で決定すればいいのですから。
京都のハルモニの悔しさをどのように受けとめればいいのでしょうか。冷静になって考えてみると外国人の政治参加は、献金や、国会で決議されないことには何もできないというものではありません。これからの日本は地方自治の役割が大きくなります。その為には、「住民主権に基づく住民自治」が確立されていくことが何よりも重要な課題です。日本の民主主義が形骸化されずに立ちいくのかどうかの基本です。私たち「在日」は外国人住民としてまさに、そのあるべき住民自治確立を意識ある多くの日本人住民とともにめざすべきでしょう。勿論、そのときには国会決議とはまったく関わりなく、選挙権・被選挙権をもち、自分の住む地域社会に政治参加する道を切り開いていかなければなりません。
人はどこの国籍をもとうが、自分の住む地域社会で人としての権利を主張し、その地域社会をさらによくするために政治参加する義務と権利があるのです。
(以上)
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ローマ郊外のポンペイは、火山噴火のため、8メートルもの火山灰に覆われていたものを掘り起こした古代都市国家です。野外の劇場、広大な広場、裁判所、公衆風呂、パン屋、酒屋、売春宿などがそのままありました。私が思ったのは、このような「質の高い」生活は何によって支えられていたのか、どうしてこのような生活が可能だったのかということでした。現地案内人に詳しく聞いたところ、それは交易によるということでした。
しかしその市民の質の高い生活は奴隷制度によって支えられていたのだと思います。海外から連れてきた外国人と、ポンペイの貧しい人が奴隷になっていたとのことです。勿論、売春宿の娼婦も奴隷でした。2階建の売春宿の壁にはいろんな体位を強いられる女性が描かれ、狭い部屋には石のベッドがそのままありました。浴場には運動をする場、温水の部屋やマッサージ室があり、自由人は無料だったのことでした。あの大きな裁判所があったということは、法律によって日々のもめ事が解決されていたのでしょう。奴隷は浴場や野外劇場へは入場できません。野獣と闘ったり、死ぬまで格闘を強いられるときだけ、彼らは劇場での主役(見世物)でした。その劇場に女性も見物が許されたのですが、最上階だけであったそうです。
古代ギリシャ、ローマの民主主義の時代からフランスの人権宣言にいたるまで、女と外国人、奴隷は「人権」は認められておらず、日本において女性の選挙権が認められたのは、敗戦後です。そして今やグローバル時代、世界各地から人が訪れ、居住するようになりましたが、国民国家の枠はそのままです。
外国人の人権は歴史上、未だにポンペイと同じく、認められていないのです。同じ地域社会で住む外国人もまたそこに住む者として政治参加をし、その社会に貢献していく、そんな歴史上実現されたことのない社会をつくる過程にいる、私はポンペイでそんな自分の課題を強く再認識して帰国の途につき、飛行機のなかで前原辞任の記事を見ました。
2011年3月9日水曜日
「続日立闘争」から学んだこと (2) ー朴鐘碩
植民地支配から100年、日立就職差別裁判闘争から40年を迎へて
「続日立闘争」から学んだこと (2)ー朴鐘碩
果たして日立闘争は、植民地主義に繋がる同化裁判だったのか。貧困家庭で育ち日本名を名乗り、同化した朝鮮人青年を作り出した歴史、日本の戦争責任を問い、私自身の生き方も厳しく問われた。裁判から40年近く経過して民団新聞は、日立就職差別裁判と韓国籍のまま弁護士の道を開いた、2005年12月亡くなった金敬得(キム・キョンドク)氏に触れて、「果敢な挑戦者になろう 新成人の皆さんへ」「常識を覆した先輩たち 同胞たちが今日あるのは「動かざるごと山の如し」と思われた「日本の常識」を覆し厚い壁を突き崩した、多くの若者たちの果敢な挑戦があり、それが連鎖を生んだからだと言えましょう」(2007年1月17日)と社説で掲載した。
1974年6月の勝利判決から3ヶ月後の9月に私は職場に入った。入社当時、私は企業社会独特の雰囲気に押されて、業務に追われ、「民族」差別を同僚たちと話すことさえできない、仕事に没頭するだけの弱い人間になっていた。ある意味で、私は会社・組合に「包摂」されていたというか埋没していた。
「裁判までして日立に入った私は本当に仕事だけしていればいいのか?何かおかしい?」と感じるようになり、思い切って自分の立場を同僚たちに訴えた。その瞬間、目の前は真っ暗になった。間もなく胃潰瘍で1ヶ月入院することになった。入社して5年後の27歳の時だった。
何故、自分は入院する状況に追い込まれたのか?大企業で働く日本人労働者は、何故暑い時は暑いと空調を入れるように会社・組合に要求せず、額から汗を流し我慢して黙って働いているのか?おかしことはおかしいとはっきり言わないのだろうか?
経営者が倫理観を失って犯罪をしても、何故労働者は経営陣を批判しないのか?労働者の権利を守る組合は、労働者の立場になって労働条件の改善を経営者に要求しているか?と多くの疑問を感じ、民族差別と労働者の問題について考えざるを得ない状況になった。
企業・行政に就職すると、当事者の意思と無関係に頼みもしないのに組合に強制加入させられ、毎月、組合費の給与天引き、チェック・オフされる。組合活動に無関心、沈黙していた私は、組合は組合員の権利を守る砦として開かれた組織であるべきだと考え、職場集会で大きな声で発言するようになった。その後、組合は、突如組合員に説明もなく職場集会を中止した。私は支部委員長にも立候補した。組合、会社を無視して組合役員選挙に自分勝手に立候補することは、職場の「異端者」と見られる。
これまで6回挑戦して選挙に敗れ続けた。しかし、労働者の人権を標榜する企業内組合(連合)のいい加減さ、問題点、矛盾、労使協調の実態など見えたことがたくさんある。意外にも当初は予想を超える30%近い得票だった。組合、会社にとって相当な打撃だったようだ。選挙といっても、企業内組合役員選挙は予め役員を決定し、人事異動同様、会社と組合で当選確実な根回しがなされている。組合活動、労働者の人権に関心のない、沈黙している組合員が突如「自主的に立候補」させられて当選するようになっている。これは労使幹部が思い通りに、経営者にとって有利な労働条件を決定するのに役立つ。
組合幹部が提案した議案・方針は、既に会社側と話し合ったのか、結論となっている。それでも一応、民主主義を建前とした「選挙」によって選ばれた役員が集まって、形骸化した代議員制度の下で10億円以上の予算も満場一致で可決する。組合は、組合員の意見、要望を反映せず、春闘・一時金闘争など労働条件改善を求めて会社側に提出し、妥結すれば組合員に押し付ける。ちなみに彼らはこのようなやり方を「民主主義」と言っている。
表面上、組合員の声を反映すると謳い、職場の民衆である組合員の意見を一応聞くものの、予め決めた方針を採用し、最終的には組合員の意見を無視、排除するやり方である。これを包摂と排除という。
ものを言わない、組合を批判しない、抵抗しない組合員を各職場から委員として事前に決定し結論まで準備する周到な根回しは、行政主導の「市民参加」型の諮問会議・外国人市民代表者会議・タウンミ-ティングなどの委員選出と共通点がある。
批判する人間を排除する組織は、例外なく内部において必ず矛盾・問題がある。足元に存在する自らの生き方が問われる、「複雑で難しい」根本的課題を避け、利潤と効率を優先する。組織幹部は、矛盾・問題があってもそれを隠蔽し、弱い立場の人間を孤立するように追い込む。企業社会も弱者が常に虐げられる不条理な格差社会である。この現象は人権運動体含めて組織が肥大化するほど顕著に現れるようだ。
差別に抵抗して人権を求めることは、孤立に繋がる。孤立しても生き方を模索するしかない。孤立、批判を恐れていたら人権運動はできない。人間は孤立に耐えて鍛えられ人間的に成長するのではないだろうか。
選別と競争の中で日々利潤・効率向上を最優先に、絶えず生産工程に追われ、自分の生活を守る、家族を養う、企業社会で生きる労働者は、「人間らしく生きる」ために声を出せる状況ではない。ましてや「他人事」である民族差別・外国人差別を理解する余裕はない。人権研修が始まると業務から離れて「一時の解放感を味わい休息の時間」となって疲労感から居眠りする労働者もいる。現実と乖離した、眠たくなるような「人権研修」は、反発となり排外主義を強化することになる。
つまり、労働者はものが言えない、言わせない抑圧的な職場環境そのものが(民族)差別をつくっているのではないか、と私は気づいた。民族差別と労働者への抑圧は、表と裏で深く絡んでいる。国籍、民族を克服して企業、地域社会をどのように変革していくのか、私自身の課題である。
また、会社と組合の労使協調という「共生」の下で、おかしいことはおかしいとものが言えない、人間性を否定する職場環境と製品の偽装・不良あるいは人災事故は深く繋がっているのではないか。
新自由主義の下、市場原理に基づいた利潤追求、早期開発、経費・人員削減、効率向上など上からの押し付けは精神的負担となって労働者を追い込む。
矛盾や疑問を感じても沈黙して抵抗せず組織に従い、組織・幹部の指示が全てに優先するという風潮・価値観が企業はじめとするあらゆる組織の癒着・不祥事・事故を起こす原因になっているのではないか。組織、企業の不祥事、事故を防止するためには、会社経営・組織のあり方を根本から捉え直す必要がある。
健全な開かれた会社・組織するためには、属する人たちが「個」として自立し、立場を越えて不正・不義を訴え是正しなければならない。しかし、目に見えない、立ちはだかる厚い壁にぶち当たり、良心の呵責を感じ、悩み、妥協している人も少なくない。人間らしく生きるために最後まで何を失ってはいけないのか自問し、生き方に悩み、日々決断を迫られながら私は静かに働いている。
自らの足元で開かれた社会・組織を求めて具体的な闘いを、他人のためにやるのではなく自分のために孤立してでも地道に続けること、それが人間らしく生きるということであり、新しい歴史を作ることになるのではないかと自分を慰めるしかない。
たとえ失敗や後悔があったとしても、歴史の不条理に立ち向かい、日立闘争のように人権は上から与えられるものではなく勇気を奮い立たせて、自らの存在・生き方を賭けて獲得するものであるという開拓者精神で、胸を張って歩み続けることが大切である。西川長夫教授が言うように「戦後とは植民地であり、私たちは現在の植民地主義に対して闘わなければならない」と改めて強く思う。
民族差別の不当性を訴えた日立闘争というのは、結局は人間が人間として受け入れられる、開かれた組織、地域社会を求める闘いであった。これは私の「続日立闘争」から学んだ一つの成果である。
「続日立闘争」から学んだこと (2)ー朴鐘碩
果たして日立闘争は、植民地主義に繋がる同化裁判だったのか。貧困家庭で育ち日本名を名乗り、同化した朝鮮人青年を作り出した歴史、日本の戦争責任を問い、私自身の生き方も厳しく問われた。裁判から40年近く経過して民団新聞は、日立就職差別裁判と韓国籍のまま弁護士の道を開いた、2005年12月亡くなった金敬得(キム・キョンドク)氏に触れて、「果敢な挑戦者になろう 新成人の皆さんへ」「常識を覆した先輩たち 同胞たちが今日あるのは「動かざるごと山の如し」と思われた「日本の常識」を覆し厚い壁を突き崩した、多くの若者たちの果敢な挑戦があり、それが連鎖を生んだからだと言えましょう」(2007年1月17日)と社説で掲載した。
1974年6月の勝利判決から3ヶ月後の9月に私は職場に入った。入社当時、私は企業社会独特の雰囲気に押されて、業務に追われ、「民族」差別を同僚たちと話すことさえできない、仕事に没頭するだけの弱い人間になっていた。ある意味で、私は会社・組合に「包摂」されていたというか埋没していた。
「裁判までして日立に入った私は本当に仕事だけしていればいいのか?何かおかしい?」と感じるようになり、思い切って自分の立場を同僚たちに訴えた。その瞬間、目の前は真っ暗になった。間もなく胃潰瘍で1ヶ月入院することになった。入社して5年後の27歳の時だった。
何故、自分は入院する状況に追い込まれたのか?大企業で働く日本人労働者は、何故暑い時は暑いと空調を入れるように会社・組合に要求せず、額から汗を流し我慢して黙って働いているのか?おかしことはおかしいとはっきり言わないのだろうか?
経営者が倫理観を失って犯罪をしても、何故労働者は経営陣を批判しないのか?労働者の権利を守る組合は、労働者の立場になって労働条件の改善を経営者に要求しているか?と多くの疑問を感じ、民族差別と労働者の問題について考えざるを得ない状況になった。
企業・行政に就職すると、当事者の意思と無関係に頼みもしないのに組合に強制加入させられ、毎月、組合費の給与天引き、チェック・オフされる。組合活動に無関心、沈黙していた私は、組合は組合員の権利を守る砦として開かれた組織であるべきだと考え、職場集会で大きな声で発言するようになった。その後、組合は、突如組合員に説明もなく職場集会を中止した。私は支部委員長にも立候補した。組合、会社を無視して組合役員選挙に自分勝手に立候補することは、職場の「異端者」と見られる。
これまで6回挑戦して選挙に敗れ続けた。しかし、労働者の人権を標榜する企業内組合(連合)のいい加減さ、問題点、矛盾、労使協調の実態など見えたことがたくさんある。意外にも当初は予想を超える30%近い得票だった。組合、会社にとって相当な打撃だったようだ。選挙といっても、企業内組合役員選挙は予め役員を決定し、人事異動同様、会社と組合で当選確実な根回しがなされている。組合活動、労働者の人権に関心のない、沈黙している組合員が突如「自主的に立候補」させられて当選するようになっている。これは労使幹部が思い通りに、経営者にとって有利な労働条件を決定するのに役立つ。
組合幹部が提案した議案・方針は、既に会社側と話し合ったのか、結論となっている。それでも一応、民主主義を建前とした「選挙」によって選ばれた役員が集まって、形骸化した代議員制度の下で10億円以上の予算も満場一致で可決する。組合は、組合員の意見、要望を反映せず、春闘・一時金闘争など労働条件改善を求めて会社側に提出し、妥結すれば組合員に押し付ける。ちなみに彼らはこのようなやり方を「民主主義」と言っている。
表面上、組合員の声を反映すると謳い、職場の民衆である組合員の意見を一応聞くものの、予め決めた方針を採用し、最終的には組合員の意見を無視、排除するやり方である。これを包摂と排除という。
ものを言わない、組合を批判しない、抵抗しない組合員を各職場から委員として事前に決定し結論まで準備する周到な根回しは、行政主導の「市民参加」型の諮問会議・外国人市民代表者会議・タウンミ-ティングなどの委員選出と共通点がある。
批判する人間を排除する組織は、例外なく内部において必ず矛盾・問題がある。足元に存在する自らの生き方が問われる、「複雑で難しい」根本的課題を避け、利潤と効率を優先する。組織幹部は、矛盾・問題があってもそれを隠蔽し、弱い立場の人間を孤立するように追い込む。企業社会も弱者が常に虐げられる不条理な格差社会である。この現象は人権運動体含めて組織が肥大化するほど顕著に現れるようだ。
差別に抵抗して人権を求めることは、孤立に繋がる。孤立しても生き方を模索するしかない。孤立、批判を恐れていたら人権運動はできない。人間は孤立に耐えて鍛えられ人間的に成長するのではないだろうか。
選別と競争の中で日々利潤・効率向上を最優先に、絶えず生産工程に追われ、自分の生活を守る、家族を養う、企業社会で生きる労働者は、「人間らしく生きる」ために声を出せる状況ではない。ましてや「他人事」である民族差別・外国人差別を理解する余裕はない。人権研修が始まると業務から離れて「一時の解放感を味わい休息の時間」となって疲労感から居眠りする労働者もいる。現実と乖離した、眠たくなるような「人権研修」は、反発となり排外主義を強化することになる。
つまり、労働者はものが言えない、言わせない抑圧的な職場環境そのものが(民族)差別をつくっているのではないか、と私は気づいた。民族差別と労働者への抑圧は、表と裏で深く絡んでいる。国籍、民族を克服して企業、地域社会をどのように変革していくのか、私自身の課題である。
また、会社と組合の労使協調という「共生」の下で、おかしいことはおかしいとものが言えない、人間性を否定する職場環境と製品の偽装・不良あるいは人災事故は深く繋がっているのではないか。
新自由主義の下、市場原理に基づいた利潤追求、早期開発、経費・人員削減、効率向上など上からの押し付けは精神的負担となって労働者を追い込む。
矛盾や疑問を感じても沈黙して抵抗せず組織に従い、組織・幹部の指示が全てに優先するという風潮・価値観が企業はじめとするあらゆる組織の癒着・不祥事・事故を起こす原因になっているのではないか。組織、企業の不祥事、事故を防止するためには、会社経営・組織のあり方を根本から捉え直す必要がある。
健全な開かれた会社・組織するためには、属する人たちが「個」として自立し、立場を越えて不正・不義を訴え是正しなければならない。しかし、目に見えない、立ちはだかる厚い壁にぶち当たり、良心の呵責を感じ、悩み、妥協している人も少なくない。人間らしく生きるために最後まで何を失ってはいけないのか自問し、生き方に悩み、日々決断を迫られながら私は静かに働いている。
自らの足元で開かれた社会・組織を求めて具体的な闘いを、他人のためにやるのではなく自分のために孤立してでも地道に続けること、それが人間らしく生きるということであり、新しい歴史を作ることになるのではないかと自分を慰めるしかない。
たとえ失敗や後悔があったとしても、歴史の不条理に立ち向かい、日立闘争のように人権は上から与えられるものではなく勇気を奮い立たせて、自らの存在・生き方を賭けて獲得するものであるという開拓者精神で、胸を張って歩み続けることが大切である。西川長夫教授が言うように「戦後とは植民地であり、私たちは現在の植民地主義に対して闘わなければならない」と改めて強く思う。
民族差別の不当性を訴えた日立闘争というのは、結局は人間が人間として受け入れられる、開かれた組織、地域社会を求める闘いであった。これは私の「続日立闘争」から学んだ一つの成果である。
植民地支配から100年、日立就職差別裁判闘争から40年を迎へて 「続日立闘争」から学んだこと(1)-朴鐘碩
植民地支配から100年、日立就職差別裁判闘争から40年を迎へて
「続日立闘争」から学んだこと (1) 朴 鐘碩
朝鮮半島が日本の植民地となった1910年に創業した日立製作所は、久原鉱業所日立鉱山開発を出発点にした。植民地支配は日本の経済基盤となった。日立をはじめ日本企業は国策に沿って経営してきた。戦時中の企業は、労働力不足でも倒産することなく経営は続いた。軍需産業に関係したのか、戦時体制・国民総動員翼賛の下で経営者、労働者は徴兵を免れ生き延びたようだ。
日立製作所は、「戦争の渦のなかで」「1939年時点で約4万6,000人だった従業員は、1945年初めには約11万8,000人にまで拡大した」(開拓者たちの挑戦-日立100年の歩み-2010年6月)。強制連行された多くの朝鮮人が働いていた事実は、一切書かれていない。
「「日立鉱山史」、「日本鉱業株式会社五十年史」によると、日立鉱山は、久原鉱業の後身の日本鉱業株式会社の経営で、多くの鉱山や製錬所をもち、1945年以前には朝鮮の甲山、楽山、検徳や鎮南浦にまで進出していた。1943年現在、ここには、全従業員51,100名中21,800名の同胞(朝鮮人)がいた。また日立鉱山には、1940年2月頃から強制連行されるようになり、第1回は162名「移入」され、年内に500名を予定しており、1942年には1162名が働いていた。」(「朝鮮人強制連行の記録」 朴慶植 1971年 未来社)
戦時下の日本は、朝鮮人、中国人を強制連行し、労働力不足を補った。徴兵し、全国の土木工事現場などで多くの犠牲者が出た。日立労組は、戦後結成されたが植民地支配・戦争責任を問うことはなかった。現在も問うことはない。企業内組合を抱える連合も同じである。
日立製作所と日立労組は、100年間の経営の歴史で植民地支配、日立就職差別闘争に触れることは無かった。仲谷薫労組委員長は「次なる100年への挑戦-次なる飛躍と働きがいのある職場づくりをめざして-」、「労使でこの(経営業績)目標をなにが何でも達成しなければなりません。次の日立の100年の礎を皆さん(組合員)と共に築いていきたい」「ONE HITACHIを合言葉に」と労組機関紙で述べている。新自由主義路線に沿った、経営者の利潤追求論理に便乗している。組合は、労使協調の下で「次なる100年」も労働者にものを言わせない抑圧的な職場環境を維持して会社を支えていくのか。
戦後、1950年の朝鮮戦争、その後のベトナム戦争の軍需景気の恩恵にあずかり、日本経済は復興した。朝鮮戦争は、朝鮮半島を焼き尽くし朝鮮人民衆は覇権国の犠牲になった。北朝鮮、韓国に帰らず日本で生活する朝鮮人は、無権利状態のまま差別、抑圧の中で生きていた。日本社会で本名を名乗って生きることは困難であった。私は、高一の時、TVニュ-スで静岡県・寸又峡で起きた金嬉老の事件を知った。学生たちは、新たな価値観、生き方を求め、社会変革を目指し、ヘルメットを被り角材と火炎瓶で機動隊と衝突していた。
民族組織の視線は、民族を前提に祖国統一・解放を課題として本国に向けられていた。そんな中で多くの青年の悩みは就職であった。朝鮮人は日本企業に就職できない、差別の壁は厚く、生きる道は制限された。選択の余地はなかった。(就職)差別されるのは仕方ないと諦めていた。しかし、組織から外れ、民族を知ることなく同化して生きてきた多くの青年は、新たな生き方を求めて彷徨っていたのではないか。
私は、日本の高校を卒業後、自動車関連会社の末端の小さな工場でプレス工、現場で働きながら新聞の求人を眺めていた。日立製作所の中途採用を知った。履歴書に日本名、本籍欄に現住所を記入し、試験を受けて合格した。「韓国人です」と告げると採用を拒否され、つかの間の喜びは一瞬にして消えた。谷底に落とされた気持ちだった。「こんなことが許されるのか。自分の人生はこんなはずではなかった。このまま引き下がることはできない。何とかしなければならない。」と当時18歳であった私は怒りに燃えた。
現在勤務している横浜・戸塚の日立製作所(ソフトウエア事業部)との交渉が決裂した。横浜駅西口でヘルメットを被ってチラシを配っていたべ平連の学生たちと出会った。みすぼらしい身なりの朝鮮人青年から「日立製作所から就職差別された」と聞いて、学生は驚いたようだ。学生たちは弁護士を探し、横浜地裁に提訴することができた。その後、訴訟の新聞記事を見た、国際基督教大学の学生(ICU)だった崔勝久(チェ・スング)氏は、私が住んでいるアパートを探してきた。最初の出会いだった。植民地から60年、敗戦から25年経過した1970年に日立就職差別裁判(日立闘争)は始まった。
私は、9人姉兄の末っ子として貧困家庭で育った。同化した私に民族はなかった。自分は一体何者か、言葉、歴史を知らず、韓国の名前の読み方さえ知らなかった。生き方を厳しく問われ私は悩んだ。民族、アイデンティティ、主体性、人権、左翼用語など聴き慣れない言葉に圧倒された。私は、集会で日本人を告発し、糾弾した。挫折もしたが、同世代の学生たちは、じっと我慢し私を見守ってくれた。多くの人たちと出会い、生きる糧になった。
私は、本を読むようになった。というより読まなければいけなかった。私が提訴する2ヶ月前、1970年10月、早稲田の学生だった山村(梁)政明氏(25歳)が焼身自殺した。「私は在日朝鮮人として国に生を受けた。在日朝鮮人の存在そのものが歴史の不条理だ。その上、自らの意志によらずとはいえ、自民族と祖国を裏切り、日本籍に帰化したことは苦悩を倍増すること以外の何ものでもない。」と書き残した。遺稿集「いのち燃え尽きるとも」(山村政明 大和書房 1971年)を読んで、事件を知った。
1958年の小松川事件(李珍宇青年)を知った。李青年の減刑嘆願、金嬉老事件公判対策に携わった鈴木道彦教授に出会った。教授は、「越境の時 1960年代と在日」(集英社2007年)を出版された。
李少年は、「中学卒業後、朝鮮人であるために大手の会社から就職を断られ、臨時プレス工として働きながら」、小松川高校定時制に通っていた。「自分が中学卒業のときに、ある大きな会社へ勤めることになったとき、外国人、僕の場合、韓国人だというんで採用されなかったことがあるんです。」と法廷で述べている。「日立製作所と第二精工舎は、李が朝鮮人であることを知ってその国籍ゆえに彼の就職を拒んだのである。」事件から4年後の1962年宮城刑務所で刑が執行された。彼は22歳だった。
民族組織は、「日立就職差別裁判は同化に繋がる」と批判し共闘・支援を拒否した。(後に、崔勝久氏は在日大韓基督教会青年会の代表委員をリコールされた)裁判が進むに従い、日立就職差別闘争は、私ひとりの問題ではなくなり、次第に多くの青年、教師、教会の人たちが関わるようになった。組織、民族から外れた青年たちは生き方を求めて、日立闘争に関わるようになった。朝鮮人子弟の教育、就職に直面している日本人教師たちにとって切実な問題であった。クラス生徒を引率し、自らの生き方の問題として受け止め傍聴に来る教師もいた。
1973年11月、当時東京・丸の内にあった日立製作所本社への糾弾闘争が始まった。日本のマスコミは大々的に報道し始めた。当時、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権の戒厳令下で韓国の主要新聞は、日立本社糾弾の現場を一面トップで報道した。民主化を求める韓国キリスト教学生連盟(KSCF)は、「反日救国闘争を宣言」し、「日立で起こった就職差別など、日本国内での韓国人同胞に対する差別待遇を即時中止せよ」と日本政府と日立製作所を弾劾した。学生たちは、弾圧・逮捕されたが、韓国教会のオモニ(母親)たちが引継ぎ、韓国全土で日立製品不買運動を展開した。それは欧米にまで及んだ。74年6月19日、横浜地裁で勝利判決が出された。私は、3ヶ月後の9月(提訴から4年後) 、22歳で日立製作所に入社した。日立製作所本社糾弾闘争から入社するまで、韓国、日本のマスコミは大々的に、連日のように日立闘争を報道した。
韓国の民主化闘争に日立就職差別裁判が取り上げられたことによって、「日立闘争は同化に繋がる」と批判した民族組織が関心を示すようになった。
「続日立闘争」から学んだこと (1) 朴 鐘碩
朝鮮半島が日本の植民地となった1910年に創業した日立製作所は、久原鉱業所日立鉱山開発を出発点にした。植民地支配は日本の経済基盤となった。日立をはじめ日本企業は国策に沿って経営してきた。戦時中の企業は、労働力不足でも倒産することなく経営は続いた。軍需産業に関係したのか、戦時体制・国民総動員翼賛の下で経営者、労働者は徴兵を免れ生き延びたようだ。
日立製作所は、「戦争の渦のなかで」「1939年時点で約4万6,000人だった従業員は、1945年初めには約11万8,000人にまで拡大した」(開拓者たちの挑戦-日立100年の歩み-2010年6月)。強制連行された多くの朝鮮人が働いていた事実は、一切書かれていない。
「「日立鉱山史」、「日本鉱業株式会社五十年史」によると、日立鉱山は、久原鉱業の後身の日本鉱業株式会社の経営で、多くの鉱山や製錬所をもち、1945年以前には朝鮮の甲山、楽山、検徳や鎮南浦にまで進出していた。1943年現在、ここには、全従業員51,100名中21,800名の同胞(朝鮮人)がいた。また日立鉱山には、1940年2月頃から強制連行されるようになり、第1回は162名「移入」され、年内に500名を予定しており、1942年には1162名が働いていた。」(「朝鮮人強制連行の記録」 朴慶植 1971年 未来社)
戦時下の日本は、朝鮮人、中国人を強制連行し、労働力不足を補った。徴兵し、全国の土木工事現場などで多くの犠牲者が出た。日立労組は、戦後結成されたが植民地支配・戦争責任を問うことはなかった。現在も問うことはない。企業内組合を抱える連合も同じである。
日立製作所と日立労組は、100年間の経営の歴史で植民地支配、日立就職差別闘争に触れることは無かった。仲谷薫労組委員長は「次なる100年への挑戦-次なる飛躍と働きがいのある職場づくりをめざして-」、「労使でこの(経営業績)目標をなにが何でも達成しなければなりません。次の日立の100年の礎を皆さん(組合員)と共に築いていきたい」「ONE HITACHIを合言葉に」と労組機関紙で述べている。新自由主義路線に沿った、経営者の利潤追求論理に便乗している。組合は、労使協調の下で「次なる100年」も労働者にものを言わせない抑圧的な職場環境を維持して会社を支えていくのか。
戦後、1950年の朝鮮戦争、その後のベトナム戦争の軍需景気の恩恵にあずかり、日本経済は復興した。朝鮮戦争は、朝鮮半島を焼き尽くし朝鮮人民衆は覇権国の犠牲になった。北朝鮮、韓国に帰らず日本で生活する朝鮮人は、無権利状態のまま差別、抑圧の中で生きていた。日本社会で本名を名乗って生きることは困難であった。私は、高一の時、TVニュ-スで静岡県・寸又峡で起きた金嬉老の事件を知った。学生たちは、新たな価値観、生き方を求め、社会変革を目指し、ヘルメットを被り角材と火炎瓶で機動隊と衝突していた。
民族組織の視線は、民族を前提に祖国統一・解放を課題として本国に向けられていた。そんな中で多くの青年の悩みは就職であった。朝鮮人は日本企業に就職できない、差別の壁は厚く、生きる道は制限された。選択の余地はなかった。(就職)差別されるのは仕方ないと諦めていた。しかし、組織から外れ、民族を知ることなく同化して生きてきた多くの青年は、新たな生き方を求めて彷徨っていたのではないか。
私は、日本の高校を卒業後、自動車関連会社の末端の小さな工場でプレス工、現場で働きながら新聞の求人を眺めていた。日立製作所の中途採用を知った。履歴書に日本名、本籍欄に現住所を記入し、試験を受けて合格した。「韓国人です」と告げると採用を拒否され、つかの間の喜びは一瞬にして消えた。谷底に落とされた気持ちだった。「こんなことが許されるのか。自分の人生はこんなはずではなかった。このまま引き下がることはできない。何とかしなければならない。」と当時18歳であった私は怒りに燃えた。
現在勤務している横浜・戸塚の日立製作所(ソフトウエア事業部)との交渉が決裂した。横浜駅西口でヘルメットを被ってチラシを配っていたべ平連の学生たちと出会った。みすぼらしい身なりの朝鮮人青年から「日立製作所から就職差別された」と聞いて、学生は驚いたようだ。学生たちは弁護士を探し、横浜地裁に提訴することができた。その後、訴訟の新聞記事を見た、国際基督教大学の学生(ICU)だった崔勝久(チェ・スング)氏は、私が住んでいるアパートを探してきた。最初の出会いだった。植民地から60年、敗戦から25年経過した1970年に日立就職差別裁判(日立闘争)は始まった。
私は、9人姉兄の末っ子として貧困家庭で育った。同化した私に民族はなかった。自分は一体何者か、言葉、歴史を知らず、韓国の名前の読み方さえ知らなかった。生き方を厳しく問われ私は悩んだ。民族、アイデンティティ、主体性、人権、左翼用語など聴き慣れない言葉に圧倒された。私は、集会で日本人を告発し、糾弾した。挫折もしたが、同世代の学生たちは、じっと我慢し私を見守ってくれた。多くの人たちと出会い、生きる糧になった。
私は、本を読むようになった。というより読まなければいけなかった。私が提訴する2ヶ月前、1970年10月、早稲田の学生だった山村(梁)政明氏(25歳)が焼身自殺した。「私は在日朝鮮人として国に生を受けた。在日朝鮮人の存在そのものが歴史の不条理だ。その上、自らの意志によらずとはいえ、自民族と祖国を裏切り、日本籍に帰化したことは苦悩を倍増すること以外の何ものでもない。」と書き残した。遺稿集「いのち燃え尽きるとも」(山村政明 大和書房 1971年)を読んで、事件を知った。
1958年の小松川事件(李珍宇青年)を知った。李青年の減刑嘆願、金嬉老事件公判対策に携わった鈴木道彦教授に出会った。教授は、「越境の時 1960年代と在日」(集英社2007年)を出版された。
李少年は、「中学卒業後、朝鮮人であるために大手の会社から就職を断られ、臨時プレス工として働きながら」、小松川高校定時制に通っていた。「自分が中学卒業のときに、ある大きな会社へ勤めることになったとき、外国人、僕の場合、韓国人だというんで採用されなかったことがあるんです。」と法廷で述べている。「日立製作所と第二精工舎は、李が朝鮮人であることを知ってその国籍ゆえに彼の就職を拒んだのである。」事件から4年後の1962年宮城刑務所で刑が執行された。彼は22歳だった。
民族組織は、「日立就職差別裁判は同化に繋がる」と批判し共闘・支援を拒否した。(後に、崔勝久氏は在日大韓基督教会青年会の代表委員をリコールされた)裁判が進むに従い、日立就職差別闘争は、私ひとりの問題ではなくなり、次第に多くの青年、教師、教会の人たちが関わるようになった。組織、民族から外れた青年たちは生き方を求めて、日立闘争に関わるようになった。朝鮮人子弟の教育、就職に直面している日本人教師たちにとって切実な問題であった。クラス生徒を引率し、自らの生き方の問題として受け止め傍聴に来る教師もいた。
1973年11月、当時東京・丸の内にあった日立製作所本社への糾弾闘争が始まった。日本のマスコミは大々的に報道し始めた。当時、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権の戒厳令下で韓国の主要新聞は、日立本社糾弾の現場を一面トップで報道した。民主化を求める韓国キリスト教学生連盟(KSCF)は、「反日救国闘争を宣言」し、「日立で起こった就職差別など、日本国内での韓国人同胞に対する差別待遇を即時中止せよ」と日本政府と日立製作所を弾劾した。学生たちは、弾圧・逮捕されたが、韓国教会のオモニ(母親)たちが引継ぎ、韓国全土で日立製品不買運動を展開した。それは欧米にまで及んだ。74年6月19日、横浜地裁で勝利判決が出された。私は、3ヶ月後の9月(提訴から4年後) 、22歳で日立製作所に入社した。日立製作所本社糾弾闘争から入社するまで、韓国、日本のマスコミは大々的に、連日のように日立闘争を報道した。
韓国の民主化闘争に日立就職差別裁判が取り上げられたことによって、「日立闘争は同化に繋がる」と批判した民族組織が関心を示すようになった。
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