2007年9月14日金曜日

「共生」を考える研究集会の開催にあたってー事務局の見解

「共生」を考える研究集会の開催にあたってー事務局の見解

 現在、日本の植民地支配によって日本社会で居住するようになった在日朝鮮人をはじめ、いわゆるニューカマーとされる外国人が急増し、日本社会は外国人住民とどのように生きていくのかという課題に直面しています。その課題を解決していく目標として「共生」ということが強調されるようになっていますが、「共生」の社会的背景やその根本的な意味及び「共生」の両義性について、運動と学問の両面から広く討議をしたいというのが、今回の研究集会の目的です。事務局の問題意識と見解を議論の叩き台として提示させていただきます。

(一)「共生」が語られる社会について
 「共生」ということが外国人住民を受け入れる日本社会であるべきであるという観点から強調されるということは、もはや外国人住民なくして日本社会は成り立たず、これまでの日本社会の慣行、あり方を根本的に見直さざるをえなくなってきているということを意味します。そして今やこの「共生」は外国人住民の問題としてだけではなく、自然環境と人間、障害の有無、世代、ジェンダーなどにおける問題解決のあるべき姿として語られるようになり、その単語は発言者の立場のいかんにかかわらず、政界、経済界、教育界、NPOなどの市民の運動体、マスコミなどあらゆる分野において使われています。しかしこの「共生」がもてはやされる事態はそのことによって日本社会の状況がよくなってきているということより、むしろ、「共生」を語らざるをえないほどに、各分野における差別や格差・矛盾の問題が顕在化し、これ以上放置できない深刻な事態になってきていることを意味すると私たちは考えます。

(二)学問と運動の共同作業の必要性
 この度、多くの呼びかけ人によって具体化された「共生」を考える研究集会は、「共生」が語られる社会に危機意識をもち、「共生」とは何なのか、「共生」が強調される社会とはどのような社会なのか、その実態、その背景と思想について学問と運動の両面から検討し、考えようとするものです。学問の世界においては、「共生」「多文化共生」という問題は日本社会の現実を意識しながらも、欧米、カナダ、オーストラリアの分析、検討が主流になっています。
 運動の面では、現実の課題に追われ、その「共生」を語らざるをえない現実の社会的背景の分析・研究に時間を割くよりは現場の実践を最重要課題と考える傾向が強く、必ずしも学問と運動が現実の課題を共同して考える関係になってはいません。しかし新植民地主義といわれるグローバリズムが世界を跋扈し資本と人間が国境を越える時代にあって、今やこの「共生」「多文化共生」というのは世界中が直面している問題です。それは国民国家の本質を見極め、将来に向けて英知を集め克服していかなければならない現実的な課題でもあります。

(三)川崎における「外国人市民」についてーその(1)「運用規程」
 川崎市は地方自治体の中にあって「共生」を正面から打ち出し、外国人施策において最も先取的であると評価されています。ケーススタディとして「共生」の問題を考えるのに最もふさわしい都市であると思われます。実際に、指紋押捺拒否者を国の方針に反して起訴しない処置をとった英断、国籍を理由にして外国人市民の権利を阻害してきた(国民健康保険の適用、市営住宅入居資格、児童手当支給など)いわゆる国籍条項の撤廃、外国人には制限されていた地方公務員採用試験における門戸の開放、外国人市民代表者会議の設立などその施策(注1)は高く評価されています。一方、市民の中では日立闘争以降、地域において「共生」をスローガンにした活動の歴史があります。現在はふれあい館によって川崎市とNPOが協力するという形が定着し、その中で在日とニューカマーの教育問題にとどまらず、国籍を超えて高齢者や障害者の問題が取り組まれるようになってきています。

 川崎市は外国人住民について「かけがえのない一員」(注2)として位置付け「外国人市民」という概念を提示しました。しかし「外国人市民」とは日本国籍をもつ市民とどのように異なるのか、市民とは国民であり、「外国人市民」は住民のことで、住民とは国籍によって差別されない存在なのかということは明確ではありません。ふたつ例をあげてみましょう。ひとつは「外国人市民」の地方公務員就職の問題です。川崎市は10年前、外国人に門戸を開放しました。しかし採用された外国籍公務員は国籍を理由に昇進と職務の制限を受けています。「外国人市民」は差別があってしかるべきということになります。

 川崎市は市職員労働組合と市民運動体と一緒になって外国人の門戸の開放のための方策を考え、日本政府の「当然の法理」(注3)に抵触しないように「外国籍職員の任用に関する運用規程」(以下、「運用規程」)(注4)を作り、その中で「公権力の行使」を独自に解釈することで門戸開放を実現しました。日本政府が国策として持ち続けてきた、外国人を排斥する思想と歴史を具現化した「当然の法理」を地方自治体としてどのように克服するのかということより、むしろ政府との対決を避け、政府の「当然の法理」の方針を遵守した上で政治的決着をつけたといえるでしょう。このことの功罪は地方自治体のあり方、運動体のあり方、思想の問題として今後論議されるでしょう。この問題は外国人を排斥する「当然の法理」の根拠、思想的な背景、及び国民国家における「公権力」とは何か、それを正当化する憲法・象徴天皇の問題についても深く見極めなければならないということを示唆します。

(四)川崎における「外国人市民」についてーその(2)「準会員」発言
 もうひとつ「外国人市民」について考えてみるべきことは、川崎市長の外国人は「準会員」という発言です。阿部市長の当選当時からの発言(注5)で、公の場での発言(注6)もあり多くの民族団体、市民運動体から批判されましたが、私的な発言として処理され幕引きされました。川崎市は「共生」を掲げた外国人施策の集大成として2005年に「川崎市多文化共生社会推進指針」を発表しています。
 しかし「外国人市民」を「かけがいのない一員」としながらも、選挙権の有無にかかわらずいざというときに戦争にいくことのない外国人を「準会員」としたこの発言のもつ意味は、国民国家の本質を突くもので、単なる放言として看過できないものです。国民国家の本質として国民というものはいざというときは国家に命を捧げ他国の人間を殺害しに戦争に行くものだという阿部市長の考え方は、戦争そのものを禁じる憲法が現存する日本社会にあって、単なる抽象論で済ますことのできない重要かつ非常に危険な考え方です。憲法改悪が具体的に検討されはじめ、いざという場合に、地域住民に戦争に協力させることを地方自治体に求めた有事法制が制定されている状況を考えるとき、「外国人市民」を対象に語られてきた「共生」が「人権・共生のまちづくりをめざして」「川崎市人権施策推進指針」の制定によって、川崎市民全体が「共生」の対象になり、「共生」の概念が拡大されてきていることも注目すべきでしょう。

(五)「共生」を訴える側の問題
 一方、外国人住民の人権擁護の立場から「共生」運動を進めるスローガンとして「要求から参加へ」「少数者にいいことは多数者にとっていいこと」が外国人当事者から提示され定着しはじめています。しかしナショナリズムを強化して21世紀に向けた国民国家としてどのように日本社会を再編していくのかということが画策されている大状況にあって、在日を中心として「共生」の旗印の下「要求より参加」を求めるということは、日本社会の変革につながるのか、日本社会への埋没につながり国民国家の再編成に取り込まれることになるのか、広く論議する必要があるでしょう。
 「参加」の要求から実現された外国人市民代表者会議についても、その存在のアピールだけでなく、外国人住民の意見を吸い上げる仕組みになっているのか、少数者である外国人住民のための施策とされたものが日本社会の大きな方向性のなかでどのような位置付けによって実現されてきたものなのか、検証されるべきでありましょう。「外国人市民」のための施策が市の合理化、民営化のためにあるいは、市民の権利擁護より市民の責務として市政参加を求める方向性の中で位置付けられてはいないか、注目する必要があると考えます。
 このように川崎における「共生」の問題を捉え直すとき、「共生」のスローガンの下、外国人住民は「かけがえのない一員」とされながらも、その実態は日本社会における二級市民として位置付けられているのではないか、外国人を差別し、常に弱者を切り捨てることを本質とする国民国家にあって、様々な差別や格差・矛盾を隠蔽するために「共生」という言葉が広まってきたのではないか、という見解があることに私たちは注目をしたいと思います。

(六)上野千鶴子教授への基調報告の依頼
 第一回目の「共生」を考える研究集会の基調報告を上野千鶴子教授にお願いし承諾していただいたことは私たちの大きな喜びです。上野さんは社会科学者としてジェンダー問題の理論構築だけでなく実践においても第一線で活躍されてきた方です。その当事者主権を重要視する視線は、ジェンダー問題だけでなく、障害者や高齢者にまで向けられています。また上野さんは従軍慰安婦の問題に関する発言で、日本人の立場性(責任)をわきまえないという批判を受けてきました。国民国家の原理的な問題を考え現実の問題を直視し具体案を提示する、或いは他者を批判するに際して、その人の属する国家・民族の歴史、社会的な責任をどのように踏まえた上での発言かを問うことは正しいと思われます。しかしその追及が提示された内容を不問に付して個人の倫理性、立場性を問うことにとどまり、内容の深まりと実際の運動の広がりに繋がらないケースが多いということはないでしょうか。私たちの問題意識に応えるかたちで、上野さんご自身の課題を踏まえて、基調報告をしていただけるものと期待します。

(七)最後に
 事務局で検討した見解を読んでいただき、上野千鶴子教授の基調報告、それについてのコメンテータの発言・質問を参考にされて、参加者の方々から自由にご自分の意見、質問を出していただくことを願います。
 「共生」が植民地のない植民地主義とされるグローバリズムのイデオロギーとして国民国家の再編を支えるものであるならば、その本質的な問題に正面から立ち向かうのに、自己批判、相互批判はなくてはならないものでありましょう。私たちはそのような場を保証したいと思います。今回の研究集会が、国籍、民族や所属する場を越え、参加する人一人ひとり自分の意見を述べ、基調報告者だけでなく他の参加者とも十分な意見の交換ができる場になることを期待します。連休中にもかかわらず遠方から来ていただいた皆さんに心からの敬意を表し、歓迎いたします。

2007年7月15日
「共生」を考える研究集会事務局

(注1) 「外国人市民・多文化共生施策」これまでの川崎市の取り組み」参照
http://www.city.kawasaki.jp/25/25zinken/home/gaikoku/shisaku.htm
(注2) 1996年外国人市民代表者会議条例の制定の際に使われた言葉。
(注3) 国家公務員法や地方公務員法には国籍要件についての規定はなされていない。昭和28年に内閣法制局は、「一般にわが国籍の保有がわが国の公務員の就任に必要とされる能力要件である旨の法の明文の規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使、又は国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とするものと解すべき」であるとの見解を示している。
(注4) 川崎市は内閣法制局において「当然の法理」として示された「公権力の行使」について独自の解釈・判断を行い、1996年に政令指定都市として全国に先がけて一般事務職採用試験での国籍条項撤廃を発表した。その内容は、
(1)「公権力の行使」については、国は明確な判断基準を示していない。
(2)国会答弁において、「公権力の行使」に関する判断は、地方公共団体の事情に応じ、地方公共団体が行うとしている。
従って「公権力の行使」に関する判断は、本市が自律的に行うことになるが、
このためには、市の実情に応じた明確な判断基準を事前に設定する必要がある
(川崎市の「外国籍職員の任用に関する運用規程」より引用)という判断の下、
「命令・処分等を通じて、対象になる市民の意思にかかわらず権利・自由を制
限することとなる職務」を川崎全体の3509職務から182職務を一律的に
選び出し、この職務に外国籍公務員を就かせず、同じくその職務に関係する管
理職への昇進を制限した。
しかしながら公務員が「市民の意思にかかわらず権利・自由を制限する」こと
が自由に許されるはずはなく、その制限できる範囲はあくまでも法律で定めら
れている。従って公務員はあくまでも法律に基づいて市民の「権利・自由を制
限」することが許されるのであるが、その職務の執行に際して公務員の国籍が
問題になり職務に就くことが制限されるというのは明らかに国籍による差別を
禁じた労働基準法に反している。しかし川崎市側は「当然の法理」は政府見解
として従わなくてはならず、憲法や法律より上位概念だと主張している(「外国
人への差別を許すな・川崎連絡会議」と資料集参照)。
(注5) 月刊「正論」2002年1月号のインタビュー記事
(注6) 2002年2月6日、第15回「地方新時代」市町村シンポジュウム全体会における阿部市長の外国人市民に係る発言

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