2007年10月25日木曜日

川崎市との直接交渉の日程、決定

川崎市との直接交渉の日程が決定しました。

日程は、11月22日(木) 14:00~16:00
場所は 川崎区休日急患診療所  4階 大会議室

今回は「運用規程」の「見直し」(私たちの言葉では、「改悪」)について
話し合いをすることになります。

「運用規程」の「見直し」、それは単なる実務的な作業だとして、組合も、
民闘連も問題にする考えはないようですが(事前に市当局が相談したとの
情報も入っています)、私たちの理解は違います。

「公権力の行使」をする職務は、すべて上司の決裁を得て執行するので
あれば、現場の職員の国籍が何故問われるのか、ということを今回、
突きつけたいと考えています。

また、前回の交渉で前人事課の課長は、鄭香均が東京では認められている
のに川崎では制限されていることのおかしさを指摘したところ、同じ法律
なのに地方自治体ごとに異なった対応をしているのはおかしい、
また外国籍公務員には将来のことを考えて職務にかかわらずいろんな
経験をしてもらいたいので、10年前の「運用規程」は見直すと、前向きな
発言をしました。今回の「見直し」を準備した現課長は、部長、局長から
市長までの決裁をとったそうです。そうであるならば、どこでその前課長の
前向きの発言はどこで否定されたのか、その論理は何か、市当局から
回答をもらいます。

というわけで、皆さんの参加をお願いします。今回はおもしろそうですよ!

崔 勝久

2007年10月24日水曜日

「共生」批判:ようやく川崎市の外国籍公務員から非難文がだされる!

ブログをご覧になっているみなさんへ

本日、川崎市の外国籍職員の承諾を得て、彼が作成し、マスメディアに
手渡した非難文を、ネット上で公表することことになりました。

彼はあくまでも「個人のスタンス」を崩さず、組合や運動体とは距離を
置きながら、自分個人の意見として市に匿名で非難文を出し、外国籍
職員の待遇などに関する交渉をしようとしているようです。

私個人の意見としては、
1.運動体は、彼の意思を尊重する。
2.個人的であれ、市との折衝の仲で約束させた内容は、公にして、
市の「空約束」にさせないようにする。

この2点を本人に申し入れています。

崔 勝久

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「外国籍職員の任用に関する運用規程」の見直し(2007年8月16日)を非難する

 川崎市人事課による標記見直し手続について、同市の外国籍職員に対して、あまりにもひどい差別的な取扱いがなされています。
 多民族の共生と豊かな人権のまちづくりを標榜する川崎市の職員人事を担う人事課の所業であることを思うと、黙ってはいられず、ぜひ日本、いや全世界にこの問題を明るみに出し、真相を知ってほしいと思い、非難をする次第です。

1 川崎市では、1996年度実施の職員採用試験から、消防士を除く全ての職種における国籍条項を撤廃し、翌97年4月、その具体的な内容を要綱で定めた(標記運用規程)。これにより、外国籍職員は、全職務の約20%を占める「公権力の行使」「公の意思形成への参画」に係る職務への配属が制限されることになった。職員の身分等に関しては、地方公務員法又は条例若しくはその個別委任を受けた規則、要綱によるべきであるにもかかわらず、「内閣法制局見解」(いわゆる当然の法理)を拠り所として白紙委任的に要綱が制定されたことに対して、あらためて問題として提起したい。

2 市人事課は、今回の見直しのポイントとして、市組織改編、法令の改正・廃止等の変更を理由に挙げているが、そもそも10年間放置されたこと自体、異常極まりない。足かせをはめられた対象職員に、さらに目隠しをするようなもので、これまでの市人事課の不作為についても糾弾したい。

3 今回の見直しにより、制限職務数が182から192となった。この間の機関委任事務の廃止といった地方分権の流れを汲んでおらず、職務の内容まで踏み込んだ「改善」がされたとは到底言えるものではない。

4 市人事課は「市民から望まれる職員」をどう考えているのだろうか。職務遂行能力や市民から信頼されるに足る誠実性が必要であるとするならば、それを持っていない者にこそ職務制限を設けるべきはなかろうか。それをせず、単に国籍だけを理由として制限を加えることには、合理性は見出せない。区別ではなく明らかな差別、労働基準法、国際人権規約違反である。

5 また、同見直しは、対象職員に対して事前説明が一切されずになされた。対象職務が増加するということは、対象職員の人事異動の機会を制限することと同義である。内部規則に当たる要綱に基づく行為であっても、それが職員の身分等を制限する場合には、その行為は行政行為に該当し、不利益変更に際しては、処分の相手方の意見を聴かなければならないのであって、その手続きを踏んでいない行為は当然無効となる。たとえ、人事事項に関しては任用権者に一定の裁量権が認められるとしても、その濫用の疑いは免れない。

6 対象職員に内容を伏せておきながらも、運用規程撤廃を叫ぶ市民団体に対しては、決裁前交渉の実施や、施行後直ちに文書を送付している本末転倒も甚だしい。運用規程のサブタイトルに謳われた「外国籍職員のためのいきいき人事」とは、市民団体にいい顔をし、市人事課がいきいきするという意味なのだろうか。

7 さらには、事前説明を怠った市人事課は、事後における対象職員からの問い合わせに対しても受身の姿勢を固持し、自らの説明責任を過小化しながら2週間以上も放置した。市人事課の言い分は、今回の見直しは、制度ではなく別表だけのものであり重要性が低く、また、来年度の人事異動の説明に間に合えばよしという、当事者意識の欠落した安易な考えによるものである。

 以上がこの間の事実関係です。最近、公務員による不祥事が多く市民からの信頼を失墜させています。とくに川崎市ではそれが目立ちます。そのような現象を考え合わせると、上記のような市人事課による市職員への思いやりのない対応が、職員の堕落を生む遠因になっているような気がしてなりません。
 この投稿によって、川崎市役所の心臓部たる人事課に温かい人間的な血が通い、それが職員へ行き渡ることができれば、きっと、いきいきとした、すばらしい川崎市に生まれ変わると信じたいです。

「外国籍職員の任用に関する運用規程」の差別強化を認めない! 
川崎市外国籍組合員

2007年10月22日月曜日

『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その3)ー朴鐘碩

『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その3)

【民族運動としての地域活動】
日立闘争から地域活動に導いたのは、既述したように青丘社初代主事の崔勝久氏です。川崎の地域活動を語るのに彼の存在を否定することは、歴史を歪曲・隠蔽することになります。私の青春時代は、「30年に及ぶ運動の蓄積」の基盤となった日立裁判と地域活動に費やしました。表に出ることなく裏で日立闘争を実質的に担った崔氏は、闘争に関わった青年たちを地域活動へと導きました。
彼は、私と出会う前から、「私達は、自分の所(教会)に人を集めるのではなく、自分から出て行くべきではないでしょうか?例えば、地域の学校の教師とか教育について具体的な話し合いをするというのもその一つでしょう。また、私達個人は生活の為、名前や就職の問題で妥協し、泣き寝入りしたかもわかりませんが、それらのことに教会が具体的に一つ一つ抗議し、なお、個人をも助けるということをやっていかなければならないでしょう。<差別社会の中でいかに生きるか>というのは、この人間と価値と尊厳(=人格)以外の金銭や才能が重んじられ、それらが人間を押しつぶしている社会の中で、いかに人間らしく生きようとするのかということです。現代の社会は、確かに、民族差別を行い、朝鮮人を朝鮮人として尊重していくということはありません。そういう中で、朝鮮人である自己を受けとめるには、民族意識を持つことが不可欠であるということは先に、何度も強調してきました。そして、また、差別というのは決して人間の意識の有無の問題ではなく、差別を生み出すような社会の構造の問題でもあるということも指摘してきました。」(「差別社会の中でいかに生きるか-われわれの教会と反省-」燈台1970年12月)と地域における教会の役割と<差別社会の中で青年はいかに生きるか>について教会青年会で語っていました。崔氏と私の出会いは、「『ルサンチマンとパラダイムの転換』-上野千鶴子をどう読むか-」参照。

崔氏は、「朴君を囲む会」結成、裁判資金集めのため川崎駅前のパチンコ店、桜本地域の韓国人家庭の訪問など当初から精力的に動き日立闘争、民闘連活動に生き方・生活を賭けました。
ソウル大留学中、本国が民主化闘争で激しく揺れる中、スラム街の教会活動から学んだことを川崎教会で実践し青年を指導しました。教会を拠点にして桜本・池上を中心にした子ども会活動が始まりました。
田島支所・外国人登録係に配属された山田職員は、自ずと多くの朝鮮人と接触することになり、地域のオモニたちから「やまださん!やまださん!」と呼ばれ親しまれ、「信頼」されていたようです。朝鮮人の多くは、日常的な差別に直面し、「明日の飯が食えるかどうか」という状況の中で彼は安定した地位を得ていました。彼に限らず、教会牧師・保母たちは一定収入が得られる、地域で「優遇」された立場でした。当時、子供会活動に関わる青年たちは、現在のふれあい館・青丘社のスタッフが一定の報酬を得る体制は無く、無報酬のボランティアでした。
が、差別によって屈折した自分を卑下することしかなかった、「礼儀・常識」を知らない青年たちの表情も明るくなり、次第に素直・謙虚さとあるがままの自分の姿を取り戻してきました。青年たちは、たとえ無報酬であっても「自分の存在価値を認めてくれる人がいる!場所がある!」ことを発見し、生きる喜びを心から実感しました。
私は「はっ!」と思いました。自分で変えようと思わなくても、運動は人間の性格を肯定的に変える、と。こうした一途な青年たちの姿に理解を示し、「息子、娘」のように暖かく家庭の食事に迎える教会のオモニもいました。

日立闘争後、「在日同胞の人権を守る会」を作り、韓国人青年が教会に集まり、地域活動、児童手当獲得集会などのビラ、ポスタ-を作り、故金敬得弁護士、作家高史明氏、詩人金時鐘氏を招いて生き方を話し合い、読書会、聖書研究など様々な活動を展開しています。
「崔勝久氏は韓国の貧民街で教会指導者たちの地域活動と家庭訪問を見聞体験し、この池上町においても可能であると自信持って青年たちを説得しました。彼は池上地区の地図を教会青年会室に貼り、針に各戸住民の名前を記入した紙を付け、青年たちをグル-プ編成し新年早々、『実態調査』を開始しました。
 年末に入念に計画した池上の子供たちの家庭訪問を、正月返上で教会青年と実施しました。原則として政治の話は絶対してはいけない、必ず靴を脱いで家の中に上がり込んで酒を酌み交わしながら、じっくりオモニ、アボジの話を聞くことを確認して青年たちは区分けされたブロック単位にチ-ム編成し、果たして順調に進むか、疑問と不安を抱きながら、家庭に入って行きました。予め酒を好むアボジの家に入り込んでいつまでも教会にもどらないチ-ム、当てずっぽうで断られて数軒目で部屋に上がったチ-ム、さまざまでしたが池上地区の実情が少しずつ判りました。教会青年会室に戻った私たちは、酒を匂わせ状況を報告し、資料(川崎における地域運動-民族運動としての地域活動をめざして-在日同胞の人権を守る会編)として纏め、教会で寝泊まりする日が多くなりました。運動は楽しむことであり、継続こそが力であると痛感しました。何かをしたくてたまらないほど生きることを求め、喜びに満たされ、充実した時期でした。
 私は、『あらゆる既成のものに疑問をいだき、たてまえではない、自分自身の腹の底から納得できる<民族>を求めた』のです。歴史を見て明らかなように、人間の解放運動は、
どうでもいいような、つまらないと思われた小さな活動から出発しています。」
(「韓日交流-過去を踏まえて未来への提言」『続日立闘争』1995年朴鐘碩)

「朴鐘碩さんと家族の生活史は川崎の『在日』の青年の姿そのものであったからである。」と山田は書いていますが、当時の記録が残っています。
「この教会と保育園を基盤にして、私たちは、日立の就職差別を糾弾するビラを地域の同胞家庭に配布し、過去に朴君がそうであったように、いや自分自身がそうであったように、朝鮮人であることを忌み嫌い、なんとか逃避したいと思っている同胞に対して、そうじゃない、私たちも朝鮮人として胸を張って生きようではないかと語りかけた。また、日本の学校で日本名を名乗っている多くの同胞子弟に再び同じような体験をさせまい、この子どもたちが韓国人として人間らしく生きることを願いつつ、私たちは子ども会活動をはじめた。
子ども会活動は夏休みに行い、私たちは教会の青年会室に泊まり込み、午前、午後、夜の3つのプログラムを計画した。下は幼児から上は中学生までの子どもたちが池上町の韓国会館に集まった。午前中、夏休みの宿題を教えたり、韓国語の歌を教え、午後はプ-ルや公園に連れて行き、野球をし、夜になれば花火大会、オバケ大会、幻燈、紙芝居というように、私たちはよき遊び相手となって、子どもとの関係を深めていった。しだいに子どもの名前を知るようになって、韓国語で読み方を教え、在日同胞の歴史、日本社会での韓国人の置かれている差別の実態、それに日立の就職差別の話をわかりやすく説明していった。日立の話となると、同胞の子どもたちは、真剣に耳を傾け、家に帰ってアボジやオモニに話す子どももいた。この地域に住む多くの同胞子弟は、すでにアボジやオモニの姿を見て、自ら生きることに希望を失い、自信をなくしていた。
私たちは、1ヶ月の夏休み中子ども会を通して、同胞家庭とのつながりを着実に進めた。日立闘争は、こうした子ども会活動ばかりでなく、川崎教会のあり方から桜本保育園の保育あり方まで大きな影響を与えた。保育園は、民族保育ということを打ち出し、質・量において発展し、より多くの子どもを抱え、同胞子弟だけの民族クラスをもつに至った。そして、無認可保育園から公認の保育園になった。
日立糾弾の地域集会が新たに作られた教会堂でもたれたとき、一人の保母から過去の保育園の歩みが涙を流しながら語られた。集会に参加した父(母)からは、韓国人が日本人と同じように税金を払いながら、児童手当をもらえないのは差別ではないかという行政による差別が訴えられた。私たちは、夏休み集中子ども会活動のあと、日立に諮問委員会を認めさせ、完全勝利によって、新たな闘いとして、『人権を守る会』を中心にしながら児童手当及び市営住宅入居の問題に取り組んだ。私たちは日本人と同じように税金を払っている。義務だけを強制し、権利を何一つ認めないのは明らかに民族差別であるという内容の公開質問状を市長に提出した。予期に反して、一発回答で児童手当の支給と市営住宅の入居が認められたため、運動そのものに盛り上がりがなかった。
しかし、行政からの回答があっても、市議会での条例変更(国籍条項の撤廃)がなされなければならないと知り、冬休みに池上町を中心にして署名活動を展開した。『人権を守る会』の青年たちは、池上町を四つのブロックに分け、4人グル-プで分担された区域を家庭訪問した。いままで民族差別を観念的にとらえていた私たちは、家庭訪問するなかで、独り暮らしの老人や同胞家庭の生活実態を知り、当惑せざるを得なかった。とにもかくにも区域で具体的な活動がなされなければならぬ、という実感をもちはじめたのである。」(「民族運動として地域活動」崔勝久1977年)

子ども会活動通じて見えたのは、日本経済を支える(京浜工業地帯の)企業の公害をまともに受け、社会から疎外・差別され、厳しい生活環境を強いられ、日本人の子どもが朝鮮人の子どもを、桜本の子どもが池上の子どもを、池上の子どもがより貧しい弱い子どもを差別し虐める、という子どもの世界において既に「強者と弱者」が選別されているということでした。差別が再生産され弱者である子どもが犠牲になっています。(学校でも)虐めを受ける子どもにグル-プのリ-ダとして自信を持たせる試みもしました。しかし、単純に民族差別として捉えきれない、弱者が弱者を虐めるということでした。この差別構造を子どもたちにどのようにわかり易く説明すればいいか?青年たちは、子どもたちから突き付けられた重い課題を生き方の問題として常に問わなければなりませんでした。

地域活動は、崔勝久氏の実践指導と理論・思想が基盤になっていることは、日立闘争から今日までの彼の論文を読めば理解できます。
「行政闘争は、在日朝鮮人に対する制度上の不平等をなくす闘いではない。不平等を無くす闘いを通して、生活と人格破壊をもたらしている社会的実態(それが差別の本質である!)を変えていく闘いである。行政における制度上の差別が問題であるならば、それをなくすればことは済む。しかし、行政の責任を追求するのは、在日朝鮮人の抑圧された社会的状況を放置することによって、ますます差別を拡大しているからである。
行政上の制度が変わることによって、在日朝鮮人の社会的実態がすべて変わる訳ではない。社会的実態を変えるのは、朝鮮人自身の力であり、それなくしていくら制度が改善されても、それは所詮、恩恵にしかすぎず、何の足しにもならない。・・・我々の目的は、在日朝鮮人の生活と人格破壊をもたらす民族差別に対して、多くの同胞と共に要求を出して闘い、そして、そのような民族差別が存在していること自体が、日本人民衆の解放を疎外していると考える日本の友人とともに、この地域全体の解放を志向するところにある。」(『民族差別とは何か』崔勝久1977年2月)これは、民族差別の裏に日本人民衆への抑圧があると記した、地域活動の体験から得た人間解放理論です。

日立闘争から生まれた川崎の「民族運動としての地域活動」は、既成組織の価値観を拒否し自ら生き方を求めた青年たちを惹きつけたと言えます。崔氏をリコ-ルした教会青年も地域活動を無視できず、川崎に来ました。在日韓国人の主体性を求める生き方を自分の足元から見つめることを提唱した崔氏のリコールに対する、組織としての総括がないのはどういうことでしょうか。

「とにかく民衆へという指向性のようなものは強くあった。それが実践に関わっているものの共感を持っている。だから川崎の場合、むしろ地域にいくことによって問題があるんだ、見えてくるんだ、そこに取り組む課題があるんだという形で、川崎へ川崎の地域へとなびいていった経緯があるんだけれども。」と、裵館長は「積極的に地域活動に参加した」ように語っていますが、彼は子ども会活動・現場に全く参加していません。「在日同胞の人権を守る会」の青年たちとの話し合い、活動にも参加していません。また、日立裁判を支援した「朴君を囲む会」から発展・解消した「民闘連」について李牧師・裵館長が語っていますが、2人は準備段階から消極的姿勢で、「大阪で第1回の全国交流集会を解放会館で開いた」(山田)が、参加していません。歴史を捏造してはいけません。

【まとめと課題】
ふれあい館は、市の施設です。対市交渉で明らかになりましたが、初期民闘連から分裂した「かながわ民闘連」の事務所および連絡先はふれあい館になっていました。サポ-タであった「連絡会議」の望月代表は、ふれあい館に赴いて会費を納め、金秀一 (は今年退いたらしい) 事務局長がその場で領収書を発行しました。また、「かながわ民闘連」の役員(李仁夏、裵重度)をはじめ関係者は、ふれあい館の(主要)スタッフの地位を占めています。つまり公共施設であるふれあい館は、「運動体(としての実態はなくなった?)」の事務所を兼ね、人事もそのメンバ-で構成されています。つまり、これは「人権運動」を担う一部の人間が利得権を得るという、明らかに行政と運動体の馴れ合い・癒着ではないか?という批判もあります。そもそも市の委託事業体となったふれあい館がどのように行政のあり方を批判する地域活動を展開できるのでしょうか。
行政の全面的な資金援助によって運営されるふれあい館などの人権施設は高く聳え、そこで働く職員は安定した収入を得ることができます。しかし、格差社会の下で暮らす、弱者である住民(庶民)・労働者の生活は「今日・明日の飯をどう調達するか?」と抑圧・差別を受け、厳しい状況の現実は変わりません。

山田職員は、「まとめと課題」で「川崎市の施策の推進力となったのは、やはり『在日』の30年に及ぶ運動と蓄積と支持者の広がりが挙げられる。」と、行政、組合、運動体・三位一体の「共生」の成果を賞賛していますが、結論として、川崎は共生の街ではありません。共生を悪用しているだけです。市は、運動体・組合を包摂し、批判する個人・「連絡会議」のような市民団体を排除し、問題を隠蔽しています。「共生」は、問題・矛盾を意図的に隠蔽することでもあります。「運用規程」は、権力と組合・運動体の妥協の産物であるということがこの本を読んで理解できました。
「地方自治体を巻き込ん」だのではなく、地元運動体・市職労は、権力である行政に巻き込まれたのです。川崎は、市民・住民を国民国家に統合するモデルケ-スとして最先端を歩んでいます。

李牧師は、「連絡会議」望月代表に「分派活動するな!」と語ったそうです。これは、「川崎の人権運動は、かながわ民闘連・ふれあい館が窓口になっている」ということを言いたかったのかも知れません。
裵館長は、「市に抗議するようなことはしないで、ふれあい館に来ればよい」と集会で発言しています。これは、行政を批判・糾弾しないふれあい館(職員)が「人権の窓口になっている」ことであり、住民の欲求不満を市にぶつけるのではなく、刈り取って処分するバッファ装置の役割を果たしているということです。これは、まさに私が職場で経験していることです。表面上、組合員の声を反映すると謳いながら「組合が窓口」となって、職場の民衆である組合員の欲求不満(解消のために組合員から集めた組合費を勝手に使い格安(海外)旅行・ゴルフ・スキ-・懇親会などを開く)・意見を一応聞くものの、最終的に組合員の意見を無視・排除して予め決めた組合幹部の方針を経営者と一体となって組合員に押し付けるやり方です。

「共生」の裏に、差別を制度化した「運用規程」、阿部市長の「準会員」発言、「共生」のシンボル・ガス抜き「外国人市民代表会議」、ふれあい館「わくわくプラザ」の人身事故、市・市職労・運動体の癒着など、川崎市は多くの問題・矛盾を抱えています。
しかし、こうした事実に「川崎の『共生』運動はどこかおかしい」と疑問を感じても、マスコミはじめ教会・牧師・信徒・教師・自治体職員など人権運動に関わる人たちは、共生を悪用している行政やふれあい館のあり方について批判しません。
個に戻って、「人間としておかしいことはおかしい」と疑問を素直に投げ、権力との「共生」(癒着)を告発し、批判することは、戦争に導く右傾化社会に歯止めをかけますが、日本社会は「共生」の仮面を被った人権運動に流れています。
権力の「共生」イデオロギ-に惑わされないために、「連絡会議」の「公開書簡」と「何故、私は『共生』を批判するか」(blog)を合わせて読むことを薦めます。
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_133.htm
(http://anti-kyosei.blogspot.com/

 次から次へと「共生」を賞賛する本が出版されるのは、国家、自治体、企業、組合、教会、運動体、学校などの多くの組織が個を潰し、息苦しい新たな戦前のナショナリズムを煽る社会状況だからこそそのニーズがあり、ビジネスになるという判断が出版社側にあるからです。

【最後に】
民族差別の不当性を訴えた日立闘争は、結局日本社会の日常性に潜む差別を取り除くこと、全ての人が、弱者が弱者のまま、主張し受け入れられる開かれた社会を求めることであった、ということが次第にわかってきました。
人間の解放は、「民族的独自性の虚構にいつか気付き、現在のあるがままの自分の姿に真の価値を見出」し、結局、集団や組織に頼るのではなく個に戻ることかも知れません。
朴鐘碩(パクチョンソク)という自分を見出し、30年以上日立に勤め、共に働く労働者の姿を見て、「そういうことだったのか!少し見えた!少しわかった!」という快感というか喜びを感じています。
自らの足元で開かれた社会・組織を求めて具体的な闘いを孤立してでも地道に続けること、それが自分にとってより一層人間的に生きるということであり、新しい時代を開くことになるかも知れません。
人間としての自立を妨げる「共生・人権運動」は、人間を潰し差別を助長します。組織の中に埋没していると、視野を狭くします。個よりも組織を優先・擁護する傾向になります。互いに顔色を覗い、効率を優先し楽な方向に流れていきます。
「共生」を偽装する社会、組織の価値観を批判すれば、人間は自ずと嫌われ孤立します。差別と向き合うということは他者から嫌われることかもしれません。
私は、企業社会の労働者への抑圧・差別に抵抗し、「おかしいことはおかしい」と訴え、開かれた社会・組織を求め、人間らしく生きたいと思います。
たとえ失敗や後悔があったとしても、歴史の不条理に立ち向かい、日立闘争のように人権は上から与えられるものではなく、弱者が主体となって生き方を賭けて獲得するものであるという開拓者精神で皆さんとの共闘を願い、連れ合いと3人の息子たちと共に新しい道を切り開き、私の「日立闘争」を歩み続けたいと思います。

朴鐘碩2007年10月22日

『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その2)ー朴鐘碩

「共生」の問題点を探る-『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その2)

【日立就職差別裁判闘争の抹消】
まもなく40年になる日立闘争の意味と歴史をどう評価するか?
これはいろんな角度から検証する必要があります。
「『ルサンチマンとパラダイムの転換』-上野千鶴子をどう読むか-」参照

山田職員が編集委を務めた市民向け啓発冊子「在日韓国・朝鮮人を理解するためのハンドブック」に、日立判決が掲載されていました(1990年12月、市民局刊)。ところが、国籍条項撤廃宣言(1996年)以降、市は人権資料から日立裁判を抹消しました。
撤廃宣言前まで、市職労・民闘連などの運動体は市役所前で派手なパフォ-マンスを演じ撤廃を叫んでいました。撤廃宣言後は、ピタッ!と止まりました。彼らは、問題があることを認識しながら、(当時の)高橋市長の「英断」を評価し、目頭が熱くなるほど歓迎しました。
外国人に門戸を閉ざしていたこれまでの地方自治体制度の撤廃宣言は、運動体にとって「成果」、行政にとって「英断」の図式を想定し、互いに祝杯を上げるシナリオができる筈でした。「もはやこの川崎・横浜・神奈川で市長の『英断』に抗議・批判する運動勢力はいない」という彼らの予測を裏切り、川崎の撤廃宣言は差別を固定化する、と私は市長に抗議文・公開質問状を提出しました。運動体の図式とシナリオは崩れました。抗議文と公開質問状は、「共生」の実態を暴露・批判する出発点になったと言えます。また、市長の「英断」はなく、国・自治省の事前承諾を得たことも明らかになっています。このような経過もあって、市・運動体・組合は、「運用規程」の問題分析に頭を使うべきなのに、「共生」の実態を次から次へと暴露し批判する「連絡会議」への反発を強めたと思います。

当然、これまで「人権・共生」の契機となった日立闘争を都合よく人権資料に掲載し、利用してきた市・運動体は、今後その扱いをどうするか、検討せざる得なくなったわけです。歴史を歪曲した「つくる会」の教科書が人権団体から厳しい批判を浴びていますが、市は「つくる会」と同じように、日立闘争の成果を都合よく人権施策で利用し抹消しました。
李牧師、裵館長、山田職員3人は日立闘争を語っていますが、ふれあい館に日立闘争の資料はありません。私が館長に資料を求めた時、彼は「どこにあるか知らない」と対応しています。資料がないということはふれあい館に集う人達やスタッフに、地域活動の出発点となった日立闘争の歴史・意味を伝えていないということです。市当局が人権資料から日立闘争を抹消したことも触れていません。
3人の発言は、日立闘争のかわりに指紋押捺拒否闘争を「共生」の起点にしたいようです。確かに、指紋押捺拒否闘争は「全国的な政治課題」となって「『在日』にとってはものすごい転換点」であり、「罪人扱いに等しい」指紋押捺を廃止させたことは、成果を得た闘いでした。
ところが米国の9・11事件以降、テロ対策の一つとして、政府は外国人の取り締まりを強化し、外登法(入管法)を改正しました。ニュ-カマ-と呼ばれる外国人の指紋押捺が義務付けられたのです。この時は「全国的な政治課題」とならず、人権運動体は抗議行動も起こさず沈黙しました。オールド・ニュ-カマ-ズの間で、外国人を差別・分断を生み出す結果になり、新たな問題が浮上しました。指紋押捺拒否闘争は何であったのか、人権運動のあり方・総括が改めて問われることになりました。
(李)「自治体の意識変化」は、「私はある意味で82年が境だと思います。」
(裵)「一般論としては、指紋の問題ぐらいから意識をしてくるというのが一つの見方です。」
(山田)「指紋押捺拒否闘争で、『在日』の問題が『在日』の多住地域だけの問題ではなく、やっと全国的な政治課題になった」
(裵)「91年というのは我々『在日』にとってはものすごい転換点だと思っているんですが意外とそういう認識はありません。」
(裵)「70年代に始まった(日立闘争と言わず)権益擁護闘争が、行政闘争に広がりを持っていくわけです。」
(李)「最後になるけれども、私個人に即していえば日立の就職差別と闘いながら『在日』の問題に関わってきました。」
こうした発言から、地域運動と日立闘争の繋がりを「できるだけ否定しよう」としているのではないか、と思います。彼らの思惑は別にして、生き方を賭けて作り上げた民衆の歴史を消すことはできません。

【地域と教育現場】
李仁夏・裵重度・山田貴夫・江橋崇・宇野豊・崔忠植・文京洙・姜恵楨の8氏が後半で座談しています。
「今の国旗国歌の法案の問題だとか、教科書の問題、そういうことにものすごい影響されて、やっぱり私は日本人なんだから日本の教育をきっちり受けたいと。・・地域の学校の卒業式では、来賓の人は喜んで立って、我が意を得んという感じで、君が代を歌うわけですよ。私は歌うのがいやだから終わってから入場するんです。それだけでもうやり玉ですよ。」と、東九条の崔園長は現場の状況を語っています。「共生」をめざす地域も右傾化とナショナリズムの問題を避けることはできません。
李牧師は「チマチョゴリを着た民族学校の子どもがいじめを受けるということは川崎ではないということが、朝鮮学校の尹日赫校長によって発言されているのを見ても、今おっしゃられた現象が川崎ではあまりない」と、競争を煽る受験戦争・ホームレスの人たちへの虐め・差別の現実を考慮せず、「共生」の成果を自慢しているようです。
李牧師がナショナリズムの問題にぶつかった時、どのような姿勢で臨むのか?公立学校に通う子どもを持ち、人権運動に関わる親は、国旗・国歌とどう向き合っているのか?校長・担任教師に中止を求めているか?という課題は避けています。企業もナショナリズムを煽っていますが、(連合)組合は黙認しています。

市が青丘社(ふれあい館)に委託しすべての児童を対象にした「わくわくプラザ」で小1児童が2階窓から転落し、頭蓋骨骨折の重傷を負った(2003年11月11日マスコミも大きく報道した)事件の根本原因は未だに究明されず、書類送検されたにも拘らず、理事長や館長をはじめ誰も責任をとっていません。民間(企業)ではありえないことです。
企業・組織の不祥事の内部告発、欠陥製品の暴露、無理なノルマから起こる人身事故が発生していますが、企業は、製品の不良が発覚すれば根本原因が判明するまで徹底的な原因追求・再発防止・責任が問われます。人身事故であればなおさらです。
(「拝啓 ふれあい館副館長 三浦知人様」崔勝久)参照。http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_78.htm

ふれあい館周辺の大ひん地区(桜本を中心とする7つの町)の公立学校、神奈川県の「ふれあい推進校」で「差別を克服する実践が公教育の現場で実施された」と書かれています。
しかし、事件(事故)の責任を現場の人間に押し付け、真の事故原因も解明できないのに「差別を克服する実践」ができると思えません。また教師自身が言いたいことも言えない、沈黙を余儀なくされている現場で他人の子どもの人権を本当に擁護できるか疑問です。管理職である校長・教頭は国から国旗・国歌を義務付けられ、教師に押し付け現場を監視する役目を担っています。反対・批判すれば厳しい処分を受けます。主任制導入、管理強化、負担増大の中で教師たちは声を発することも困難な状況です。

連合傘下の組合・組織は、自治体職員、教師、企業の労働者の個を認めず、「共生」を強制しています。民族差別・排外主義の裏に(教育)労働者への人権抑圧があり、差別を制度化した「運用規程」があります。許認可権のある管理職に外国人は就けないと明記しているわけです。韓国人は校長・教頭になれないということです。さらに教え子たちは非常勤になれても正式教員になれません。川崎市が「運用規程」を改悪し、職務制限(差別)している事実を、教師たちは教え子にどう説明しているのでしょうか?
地域のオモニ(母親)から「自分の子どもが就きたい職に就けず国籍を理由に(就職)差別されたらどうするか」と、問われた市の人事課長は、「諦めさせる」と応えています。この官僚職員の返事は、市長の「外国人は準会員」と同じ、つまり「外国人は2級市民だから差別に屈服しろ!」ということです。
また、川崎市は、国籍条項撤廃宣言、「運用規程」完成、外国人市民代表者会議発足後まもなく新たにポ-ルを設置して国旗を常時掲揚し、23年ぶりに中止していた自衛隊員募集を再開し、映画「南京1937」を上映する市民団体に対して妨害する右翼団体の行動に屈して会場変更を求める要請書まで出しています。さらに市(教委)は「つくる会」教科書採用を否定しませんでした。
李牧師、裵館長、山田職員3人は、「共生」と現実が乖離している一方でこうしたナショナリズムを煽る市(権力)とどう対峙するのか、座談で一切議論していません。

民族差別という狭い視点と「共生」スローガンだけでは、戦争に向かう国家権力・行政と対峙することはできません。社会全体が右傾化している中で、川崎市が配慮して弱者である外国人への差別・抑圧を緩和し、権利を拡大し強化することはありません。
あるとすれば、「パ-トナ-」である市職労組合、運動体を利用して、問題点、課題、矛盾を隠蔽し、表面的に飾った限定された範囲の「共生」を拡大するだけです。
李牧師自ら、「共生というのは上から行くと同化になってしまう。少数者の個別に生きる主体が発信することを受け止められる社会が本当の意味の共生で、そういうものを目指せる運動がこれから大事」「鄭大均氏の意見が地方参政権の中ですっかり権力に取り込まれてしまっていますね。それは非常にある意味で危ない」と語っているように、「共生」は、運動の「成果」を刈り取り、常に弱者を痛めつける権力の思想であり策略です。(鄭大均氏も後で述べる地域活動に一時的に参加しました。)
東九条の宇野氏は、「行政は権力です」「行政とのパ-トナ-シップ」とはっきり言っています。弱者を虐げる権力を批判・糾弾せず、何故運動体は行政と一体となって「共生」を賞賛・強調するのでしょうか?いくら当事者が「力のある側に自らを置く同化ではなく、社会的少数者側が発する共生への参画を呼びかけ」ても、権力は人権運動の「成果」を逆手にとって悪用し、組合・運動体を包摂し、社会的弱者を抑圧・分断・管理・統合します。運動側の成果を述べるだけでなく、その成果が為政者の立場からはどのように見えるのか、その両面を見ようとしない運動の評価は一面的です。ふれあい館建設の意義を語るとき、同時にそれが市の委託事業であり、市の民営化政策を担う施策であったことも押さえなければなりません。物事は多面的に評価しないとその全容が見えません。

【「多文化共生教育とアイデンティティ」】
「桜本保育園の開園」
「長女の公立幼稚園への入園手続きの際、“向こう岸の人がここに入っちゃいけません”と断られたのが、被差別体験の原型となる。あとで牧師の子どもであることから入園を認められたものの、この原体験が李仁夏牧師に対して在日同胞に目を向かせるきっかけかけとなった。」(P64)この文書を読んで「あれ?」と思いました。
李牧師は、「長女の入園差別」事件を、最近特に強調しているようですが、私が教会に出入りしていた頃、あまり聞かなかった話です。「在日同胞に目を向かせるきっかけとなった」のであれば、日立闘争以前から差別した幼稚園に抗議した(?)歴史があるということになります。
その歴史があるのに、当初、何故教会が就職差別に関心を示さなかったのか疑問です。礼拝後、崔氏は信徒から冷たい視線を浴びながら必死に日立裁判を訴えましたが、役員の中には教会が支援することに反対する人もいました。日立本社糾弾闘争の頃からマスコミが大々的に報道しても、「本当なのか?」と疑う雰囲気さえありました。
「牧師の子どもであることから入園を認められた」のであれば、「牧師の子」でない、差別に抗議もできない、弱い立場に置かれ不安定な生活を強いられている多くの朝鮮人の子どもが差別されていた当時、どうして地域で何のアクションを起こさなかったのか?という疑問が生じます。
日立闘争、地域活動のような人間解放を求める運動は、教会信徒の全面的な協力・支援を得るまでに紆余曲折を経て時間を要しています。
人権運動は「個」から始まります。当事者が「おかしいことはおかしい」と主権を訴えて闘いは始まるのです。運動体・組織は沈黙、静観するだけです。私は、普通に生活していたおばさん、あのアメリカの公民権運動の発端となったおばさん・ロ-ザ・パ-クスが座席移動を拒否した時、彼女はどのような考えで拒否したのか?を考えます。彼女は、人間として「おかしことはおかしい」という単純な怒りと疑問から行動を起こしたのではないでしょうか。

日立闘争の意味を訴えた崔氏が、教会青年から「同化論者である。日立闘争は同化に繋がる。」と青年会の代表委員をリコ-ルされた時、「長女の入園差別」を体験し、日立闘争を支援した李牧師は、自分の信徒である崔氏をリコ-ルした「事件」にどのような対応をしたのか、在日韓国教会はその後、リコ-ル事件をどのように総括するのようになったのでしょうか、気になります。

「桜本学園の前身-池上町子供会」
「子供会は、1974年8月から週2回、町内会館・民団韓国会館を借りてその実践が始まる」と誰が語ったのか?「週2回」は間違っています。
全く何もない状態から始めた子供会は、まずチラシを作成し子どもたちに配布することから始めました。それは、子供会と言える内容ではありません。土木作業、ダンプ運転手、水商売などきつい不安定な職で生計を立てる親を持つ、迷路のような細い路地で遊んでいる子どもたちにとって、青年たちは、「良きお兄さん、お姉さん」であり子守役でした。予測したようにオモニ(母親)から出た言葉は、「総連なの?民団なの? えっ!教会の人なの。あんたたちももの好きな青年だね」と皮肉られ、毎日顔を合わせるようになると「信頼」関係ができるようになったのです。
教会は、差別に苦しむ地域住民の実態、社会問題に目を向けない信仰理解とは何か?と問われていました。観念として理解するもののいざその問題に直面した時、李牧師はじめ教会役員、保母たちから「新築されたばかりの教会・保育園が汚れる。子どもたちが暴れて教材・設備を壊したら誰が責任持つのか?」という子どもたちへの偏見・反発が当然のように出てきました。教会・保育園は使用できませんでした。それでも青年たちは外で子どもたちの遊び相手となり「週2回」(と決めることはできる筈もない)でなく毎日プール、炎天下でソフトボール、夜は空き地で花火をしました。教会を開放するように関係者を説得したのは(後の青丘社の初代主事)崔勝久氏です。青年たちは、夜・反省会で出会った子どものこと、その子どもの親は何をして生活しているかを話し合い、翌日のプログラム・教会から池上町まで歩いて子どもを集める準備に追われ、教会青年会室で寝泊りしていました。翌年から町内会館です。

李仁夏牧師は、「同化ではなく共生を-『在日外国人の住民自治』出版にあたって」「二つの地域運動(川崎・桜本と京都・東九条)は力のある側に自らを置く同化ではなく、社会的少数者側が発する共生への参画を呼びかける。それは少数者側が責任主体となることを意味する。」と書いています。「共生」は運動体を包摂する権力のイデオロギ-である、と主張する「連絡会議」の批判を意識し反論しているようです。
しかし、呼びかける主体が少数者(「共生」批判する市民団体「連絡会議」)を排除しています。批判・問題・矛盾を隠蔽し、自分たち組織にとって都合のいい、仲間内の意見・成果だけを取り上げ「共生」を賞賛・賛美することは、馴れ合い・癒着・寄生であって共生と言えません。李牧師の「共生」は明らかに偽装です。
そもそも弱者との「共生」を求める人たちが、「感情的な反発」で意図的に真摯な議論・対話を避け、権力者(強者)と同じ手法で、何故批判(者)を無視し、排除するのでしょうか? 弱者である外国人の声を「市政に反映」するために外国人市民代表者会議を求めた人たちが、何故批判(者)を排除するのでしょうか?人間性、信仰理解、理性が問われます。

「共生」の問題点を探る-『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その1)ー朴鐘碩

「共生」の問題点を探る-『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで (その1)

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」(「連絡会議」)は、昨年11月、「共生」を批判した「李仁夏青丘社理事長への公開書簡」(「公開書簡」)発行しましたが、川崎市は挑戦するかのように「外国籍職員の任用に関する運用規程-外国籍職員のいきいき人事をめざして-」(「運用規程」)を改悪し、外国籍職員の職務制限を182から192に拡大しました(2007年9月)。
今年2月20日『在日外国人の住民自治』(富坂キリスト教センタ- 在日朝鮮人の生活と住民自治研究会 編)に続いて、「共生」を賛美する『多文化共生教育とアイデンティティ』(金侖貞著9月7日)が刊行されています。

日立就職差別裁判闘争(1974年6月勝利判決)から生まれた在日大韓基督教川崎教会を拠点にした、池上・桜本の子供会(同年7月)を出発点とする地域活動から30年以上経過しました。多くの人たちが生活のため沈黙を余儀なくされ、「(就職)差別されても仕方がない。諦めるしかない。」と泣き寝入りしていたのですが、裁判勝利判決は「やればできる!」と、これまでの在日朝鮮人の価値観を覆しました。
礼拝堂で開かれた「裁判の結審前に開かれた勝利判決獲得をめざした地域集会で、あるアボジ(お父さんの意味)から児童手当と市営住宅の国籍条項を撤廃してほしいという意見が出され」(山田)、川崎市はこれを認めました。マスコミは、これを川崎方式として報道しました。
日立闘争を支援した「朴君を囲む会」は発展・解消し、日立本社糾弾闘争で繋がった各地の韓国人・日本人青年が教会に集まり、「民族差別と闘う連絡協議会」(民闘連)を結成しました。川崎方式は民闘連を通じて全国に波及しました。子供会活動は、桜本学園から学童保育・ロバの会、たんぽぽの会、中学生グループに発展しました。
こうした地域活動は、生き方を求めている20歳前後韓国人・日本人青年たちの魅力となり、無償ボランティアの青年たちが増え、教育中心の活動となっていきました。
また日立闘争から生まれた「在日同胞の人権を守る会」に韓国人青年が集まり、地域で様々な活動を取り組みました。

結婚と同時に、私は地域(運動)を離れ(1981年)ましたが、その後、青丘社、教会を中心にした(青年たちの)活動は、指紋押捺拒否者不告発(1985年)、ふれあい館建設(1988年)、国籍条項撤廃(1996年5月)、外国人市民代表者会議(1996年11月)の発足などの成果を得ています。その効果もあり、川崎市は、市職労・人権運動体と共に「要求から参加」をスローガンに「共生」の道を歩み、「人権・共生」の街として全国に喧伝されるようになりました。「川崎市の施策の推進力となったのは、やはり『在日』の30年に及ぶ運動の蓄積と支持者の広がりが挙げられ」(山田)ます。様々な問題・課題があるものの、兎にも角にもここまで辿り着く道のりは、決して平坦でなかったと思います。

これまでの「在日朝鮮人と日本人の協働の実践が歩みだしたなかに、地方自治体をいかに巻き込んでいったのか、そして参画させていったのかを報告することにより、共生社会の形成に資することを念じている。」と、裵重度ふれあい館長が「あとがき」で書いています。しかし、青丘者・ふれあい館を中心とした運動体は、本当に自治体(川崎市)を「巻き込ん」だのか、「30年に及ぶ運動の蓄積」の結果、問題はないのか、何が見えてきたのか、今後の課題は何か、どのような「共生社会の形成」を目指すのか、私は検証したいと思います。
川崎の「共生」をテーマにする場合、差別を制度化した「運用規程」、阿部市長の「外国人は準会員」発言は、避けて通れない問題です。

【阿部市長の「外国人は準会員」発言】
「日本政府をはじめ地方自治体の在日外国人に対する施策は遅れに遅れている。のみならず、排外的行為や言動が後を絶たない。」と、裵館長は「あとがき」で書いていますが、彼は市長の発言をどのように受け止めたのでしょうか?
外国人市民代表者会議委員長をした李仁夏、中村ノーマンの両氏が市長と会い(2002年4月8日)謝罪・撤廃を求めるのではなく、李牧師は「社会構成員を極端に排除すると、テロが入り込む可能性がある」と「脅迫じみた」言葉で「準会員」発言を「口封じ」しています。李牧師の発言は、「外国人=テロリスト」と誤解されます。
その後、市長は言わなくなりましたがそれはあくまでも市長の政治的な判断です。それをあたかも李牧師は、自分の「口封じ」によって発言がなくなったかのように誇示していますが、それは、李牧師の驕慢です。「『口封じ』で発言をしなくなったからいいではないか」と李牧師は誇らしく言うのですが、そうではなく、民族差別と闘う運動の先頭に立ってきた者として、自治体首長である市長に「準会員」発言の撤回と謝罪を求めなければなりません。
川崎・横浜・神奈川の人権運動体・組合・教会は、抗議文でなく「申入書」を市長に提出しました。しかし、市長から「準会員」発言に関する謝罪・撤回がないにも関わらず、従来どおり「共生」施策を続けるという回答の後、彼らは沈黙しています。
革新市政の時、「市民」に全ての外国人を含めようとしましたが、現在の阿部市長は最終的に外国人をどのように位置付けたのか、市長の「準会員」発言は何だったのか、川崎に住む外国人は市民なのか、住民なのか、市のいう「外国人市民」とは何なのか、日本籍をもつ市民とどのように違うのか、それ自体曖昧です。

【「共生」を推進する川崎市の問題点について】
川崎市は、法律ではなく単なる国(自治省)の見解にすぎない「当然の法理」を理由に、採用した外国籍職員に職務制限する「運用規程」を作成し、差別を制度化しました。市はこれまで交渉で「制限した182職務を見直しする」と言っていましたが、制限する職務を削減・緩和するのではなく逆に拡大(192職務)しました。
市は、自治省の見解である「当然の法理」を「命令・処分等を通じて、対象となる市民の自由の意思にかかわらず、権利・自由を制限する職務」と解釈・規定しています。職員は、上司の許可も無く勝手に「市民の権利・自由を制限する」ことできません。いかなる職務も法律に基づいて上司の許認可を受けて執行します。民間(企業)の従業員も必ず上司の許可を得て業務を遂行しています。国籍で職務を制限すれば労基法違反になります。何故、上司の許可を得て法律に従って業務遂行する職務を国籍で制限するのでしょうか?例えば、墓地、納骨堂への立入検査、理容師、美容師、クリ-ニング、公衆浴場などの開設、営業停止に関する職務まで外国籍職員に制限しています。

市職労は、市当局が外国籍職員の職務制限を182から192に拡大したことに沈黙していますが、差別を正当化した「運用規程」の副題は、「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっています。しかし、これは全職員を対象にした人員削減(合理化)を盛り込んだマニュアルです。

市は、職員の中長期の合理化のために、民営化を推進し、廃止する部署には職員を配置せず、現状人員で賄い配置転換します。そのキ-ワ-ドは「能力の活用」という建前の「ジョブ・ロ-テ-ション」です。今年100名、次年以降約1,000名規模の削減も計画しているようです。こうした人員削減計画は、2010プラン(第二次中期計画)に向けた全体の「いきいき人事システム」の具体化の中で、その1コマを支える形で「運用規程」を、市は完成させたのですが、これに関しては一切不問に付されています。
市職労は、そもそもこの全体の構造を検証することなく、「外国籍職員のいきいき人事」ということで、[いいことであるから]とそのまま黙認しました。市当局は、「外国籍職員のいきいき人事」と謳いながら、実は職員削減のために外国人を出しに使った、ということが対市交渉で分ってきました。外国人の「門戸開放」があれば、それが全体としてどのような流れの中で提案されても、それは運動の「成果・勝利」として評価されるのでしょうか?

山田職員は、「日立闘争の与えたインパクト-地域活動の開始」の中で「日本人側の運動-日立闘争後・・・やはり『在日』と恒常的に接点をもてる教員(日立闘争を『在日』の高校生の進路保障の問題として取り組んだ県立高等学校教職員組合)と自治体職員(川崎市職労)の運動だけが続いているといって過言ではない。川崎では日本人の労働運動が先に課題を発見し、『在日』の運動と教育が成立した」と運動体と教師・市職員組合との共闘を書いています。
市職労傘下組織で華々しく発足しながら、今は全く機能せず解体状態の「外国籍組合員交流会(外交流)」があります。「民族差別撤廃の取り組み」を謳う彼らは、自らの権利を侵害している「運用規程」に沈黙しています。
本名問題や民族差別発言には積極的な外国籍公務員は、「運用規程」改悪や大規模な組合員削減計画で外国籍職員を利用し、市当局と一体化する組合執行部にものが言えないのでしょうか?これこそが「共生」の実態を示すものなのではないでしょうか?

「指紋押捺反対闘争は地域活動から出発」し、「運動の全国への波及には自治労の果たした役割も大きかった。自治体の職員がカウンタ-の向こうに立つ外国人がどのような思いで指紋を押捺していたのかを実感し、『なんとなくおかしい制度』と感じていた職員を制度の廃止へと運動化した功績は大きい」と書いています。
そうすると市職労は、労基法に違反する「運用規程」は差別であると見解を出しているのに、組合員である山田はじめ自治労は「なんとなくおかしい制度」を、何故「運用規程」の「廃止へと運動化」しないのでしょうか?

「日本の労働運動の民族排外主義との闘いは十分な広がりも深まりもみられなかった。不況下でさらに保守化していることが危惧される」のは市職労も同じです。組合執行部が組合員の権利侵害を黙認することは、「民族排外主義」以前の問題です。「川崎市の先進的な取り組みに熱い期待を寄せて就職した二十台の若手職員等、層の厚さも他都市に比較すると誇れる財産であろう」、一体、山田氏は何を見てこのようなことを記すのでしょうか。市当局、市の組合を「共生」への関心、関り(その内容こそが問題であるが)
を基準にして評価する山田氏の根本的な姿勢が問われるところです。
また、日立闘争を経て川崎市役所に入った山田職員は、外国人登録業務を携わり、韓国・富川市との文化交流を推進しました。「一部制限付きであるが一般事務職の国籍条項撤廃等の先駆的な外国人市民施策を展開するようになった」「日本の帝国主義的な侵略と植民地支配の歴史が何をもたらしたのかを知ること、その歴史を批判的に顧みることなく、戦後補償を放棄していることが、歴史を創造する主体としての日本人一人一人にどれほどのマイナスをもたらしているのかを深く自覚することだ。」(世界1998.10)と書いていますが、職場の「運用規程」の問題に関しては一言も触れていません。
「一般事務職の制限付国籍条項の撤廃」は、「『当然の法理』を制限した『川崎方式』の限界と問題点はすでに研究者や運動団体が指摘しているのでここでは割愛する。」(「在日外国人の住民自治」)と、組合員である山田は「運用規程」の問題を展開すべきなのにここでも避けています。彼は、自分の生き方・価値観が問われるいちばんしんどい問題と向き合うことから逃避しています。
「共生」を批判する-川崎市職員組合に問う(http://anti-kyosei.blogspot.com/)参照。
市民団体である「連絡会議」が結成されて10年になり、対市交渉は18回に及びます。依然として粘り強く「運用規程」廃棄、「準会員発言」の撤回と謝罪を求めています。
常に「先に課題を発見して」、http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html、「連絡会議ニュース」で公開しています。

【外国人市民代表者会議】
阿部市長は、「マイノリティである在住外国人が暮らしやすいまちづくりは、すなわち市民誰もが暮らしやすいまちづくりに他ならない・・・この(外国人市民代表者)会議のキ-ワ-ドのひとつとして『要求から参加へ』が謳われています」(自治体国際化フォ-ラム2003年1月)。
しかし、外国人市民代表者会議も「運用規程」と同じように、弱者が強者に凭れかかる寄生であり、パタ-ナリズム(温情主義)です。外国人の「市政に参加」するという建前だけで、市はみせかけの「共生」をアピ-ルしたいために外国人を利用したにすぎません。実態は市政に「外国人市民」の声を反映しない市長の御用機関であることは初めから分っていました。「資料の作成、議事録のまとめ方、提言の文章化等では教科書のように厳しい点検を受けた」と山田が書いていますが、代表者会議は市長の御用機関であるからこそ、たとえ拘束力のない提言であっても都合よく捏造します。
市政に外国人住民の声を反映するという、誰もが信じて疑わない「共生・民主主義」を建前にしながら、実態は市(事務局)の越権行為によって都合の悪い、行政を批判する意見を潰し、削除していることは対市交渉で明らかになっています。
市当局のホ-ムレスの人たちへの対応・施策を見れば明らかですが、日本人住民の声を反映しない行政が、外国人住民の要求に応じることはありません。「連絡会議」が提起している「運用規程」、市長の「外国人は準会員(2級市民)」発言を代表者会議で取り上げることもありません。これは労使協調(「共生」)を名目にした、組合員の声を反映しない連合の企業内組合幹部と経営者の関係と同じです。

李牧師は「外国人市民代表者会議が、市長の諮問機関として設置されて、そこの26名の委員の中に『在日』は今現在6名です。当時7名から発足して、今は朝鮮籍が3名で韓国籍が3名という形です。」語っていますが、そもそも公募で、「市民代表者会議」なのに何故民族組織・運動体(青丘社・民闘連)から委員を選出したのか極めて疑問です。
1997年1月26日「国籍条項完全撤廃を求めて・川崎集会」の準備過程で、私は「初代の事務局を努めた」山田に会い、「公募と謳いながら、何故既成民族組織・運動体から予め委員を選出するのか?日立闘争の時、民族組織がどのような姿勢であったか、山田はその組織の実態をよく知っている筈だ。」と問いましたが、彼は頷くものの沈黙し、応えませんでした。その後、市は理由を明らかにしないまま組織からの選出を辞めて「公募」に変更しました。しかし、委員の中には青丘社・ふれあい館と関係する人物が必ず含まれています。
「同化でなく共生を」求める李牧師、裵館長2人は本当にこのような外国人市民の声を無視し、現実と乖離した代表者会議を望んだのでしょうか?「人権運動」のやり方、その「成果」に問題はなかったのか?という反省と点検作業が一切なされていません。
外国人市民代表者会議は「共生」のシンボルになっていますが、市長の御用機関であり、ガス抜きであることは明らかです。上野千鶴子さんも「共生を考える」集会(7月15日)で語っています。

2007年10月19日金曜日

親愛なる後輩のEさんへー朴一著『<在日>という生き方を』読んで

親愛なる後輩のEさんへ

朴一著『<在日>という生き方』(講談社)をペラペラ読んでみました。
なるほど、まとめるとこういう風になるのかと思いましたね。

まあ、8年前の本ですから、今から見ると、足りない部分がありますが、
<在日>の流れはそのとおりかもしれません。
(しかし彼はどうして在日コリアンと記すのでしょうね、私はまずこの表記の
仕方が好きでありません。)

民団や総連という既存の組織に依存せず、市民(個人)の中から、日本人
との共闘という形態をとりながら始まった初めての運動として日立闘争を
取り上げています。

「日立闘争から公民権運動へ」「第三の道」(帰国、帰化、定住)という
タイトルからどのような位置付けかはわかります。日立闘争以降、「民族
運動としての地域活動」という動きがあったことには触れられていません。
八尾の動向の記述はあるので、分析用に集めた資料が十分でなかった
のか、地域活動の視点が著者にはなかったということでしょうか。

また、入管法の改悪でニューカマーに対する指紋押捺が始まるという事態
を許してしまった「在日」の動きを、私は重視していますが、外国人の分断
統治を図る日本政府の戦略(注1)を考えたとき、「在日」の生き方は、
「在日」だけで完結できません。この視点の萌芽さえ9年前の著者には
ないですね。

昔、韓国の活動家が日本に来て、韓国教会の青年と私が会ったとき、その
青年が「地域活動がどうして民族運動になるのか」と反問してきたことを
思いだします。同じように、川崎でも、姜博のような日立闘争以降の世代が、
悩み、反発していました。その後、主事になった李相皓のときに川崎では、
指紋押捺闘争で一挙に盛り上がり、ふれあい館設立と進むのですが、地域
活動と民族運動の位置付けが曖昧なまま残ったと私は見ています。

ふれあい館建設によって、「共生」のメッカと言われるようになってきたの
ですが、市の委託事業(現在は、指定管理者)をすることは、教育や福祉の
分野を中心に、本来市がすべき活動を、民営化の方針の下、さらに効率
よく事業を進めることになります。そのことによって、これまでのように
在日朝鮮人として展開してきた「民族運動としての地域活動」をどのように
していくのか、もっと具体的には、市の委託を受けている事業体が、川崎市
に対して自由に批判することができるのか、疑問です。

脱線しました。この事業体になった青丘社は、「在日」の運動体という立場
をどのように考えたのか、これはこれで問題を整理したいと考えています。
(このことを、あなたは私の主張する「共生」批判は、「内部批判が究極の
目的」と危惧したようですが、それは違います。)
私は日立闘争以降の民闘連の発足、ふれあい館の設立、地方自治体との
共同作業(⇔「在日」を二級市民として捉える)をどのようにとらえればいい
のか、考えているのです。今、それらの日立闘争以降の流れは全て「共生」
に収斂されています。その「共生」は全面的に肯定すべきことなのでしょう
か? 私は「内部批判」でなく、「共生」批判を通して、日立闘争及びそれ
以降の「在日」の運動を総括したいと考えているのです。

外国人住民を二級市民として位置付けることになる「共生」批判を通して
(=「共生」の脱構築)、新植民地主義を批判する視点を地域の足元で
明確にして、定住化か、本国への係りと東北アジアのあり方を求める
主体形成か、という二項対立ではない生き方が模索できると思います。

この点が徐京植たちの主張との違いになるでしょう。彼は日立闘争を
単なる差別企業への闘い・勝利とみて、「民族運動としての地域活動」
へと進んだことを理解していないように見えます。この方向はナショナ
リズムそのものの相対化、批判となるでしょう。

脱線が続きました。今回のメールの目的は、著者の見解についてです。
日立闘争、教会での私の主張、リコールに際しての金哲顕との論争、
それらをすべて紹介した上で、彼はこうまとめます。

日立闘争を支援した崔氏は「同化を助長する」という理由で会長(ママ
解任されることになった。とはいえ在日コリアンの運動体のなかで
この問題がじゅうぶんに吟味されないまま、日立就職裁判をきっかけ
就職差別・行政差別撤廃運動が各地で個別に展開されていった
ことは、 70年代の在日民族運動の方向性に大きな亀裂をもたらす
原因になった ように思われる。

日立闘争、地域活動、民闘連、教会の動きを知るあなたに直接、「共生」
をどのようにとらえるのか、見解を聞きたいという意味は、理解してくれる
でしょうか。日本で生まれ、地域で育ち、地域活動をしたうえで、海外での
生活を続けてきたあなたに、私たちの「共生」批判の目指すものがどの
ような 質を持つべきと考えるのか、継続して厳しい意見を聞かせてほしい
と願って います。お元気で。

崔 勝久

(注1)『在日外国人の住民自治ー川崎と京都から考える』のなかで、
文京洙氏は「出入国管理計画(第二次)」の内容から以下のように
「日本国民の外延の拡大」というべき方向を指摘します。
「いわば生粋の「日本人」を内包として、日本にゆかりのある者
(定住者、 日本人の配偶者、旧植民地出身者など)を「日本国民」
の外延として 組み入れ、さらにその外側にいわば使い捨て外国人
労働者を置くという、 階層的な秩序が描かれている。」

この『在日外国人・・・』はこれまでの地域での外国人施策がどのように
なされたきたのかを、京都と川崎を事例として論文と座談会形式で明らか
にしようとした労作だが、残念ながら多くの点で賛同できない部分がある。
現状認識や過去の出来事に対する明らかに誤った点が見られる。
この点は改めてあきらかにしたい。

2007年10月18日木曜日

やはりあった「事務決裁規程」

昨日の「決裁」のシステムに関して、確認のために人事課に連絡をしたとこ
ろ、 案の定、「川崎市事務決裁規程」があることがわかり、ネットから市の
HPで確認しました。

昭和41年4月25日制定されていますから、当然、「当然の法理」や「公権力
の行使」などとは関係なく、組織の運営上のシステムとして作られている
訳です。

「公権力の行使」はこの規程の中では、「許可、認可、承認、取消し等
の行政処分その他法令、条例等の規定による権限の行使及び指導、
勧告等の行政指導に関すること。」と記されている内容に該当するものと
思われます。

「市長決裁」「副市長専決」「局長専決」「部長専決」「課長専決」となって
おり、その中身は、それぞれ「特に重要なもの」「重要なもの」「通例的な
もの」「局長専決を要しないもの」「軽易又は反復継続的なもの」と決裁
内容を記しています。

しかし各具体的な職務においてどの場合は、どこが決裁するとは明記
されておらず、「重要若しくは異例と認められる事案又は疑義ある事案
については、上司の決裁を受けなければならない」となっており、組織
運営上、実態としては「公権力の行使」にかかわる事項は、必ず、現場
の執行者の判断でなく、管理職の決裁をうけていたということになります。

これからしても、「公権力の行使」に係る職務に外国籍公務員は就いては
いけないとする「川崎方式」の論理は破綻しています。上司の命令で
動く職員にどうして国籍が問題になりえましょうか。恐らくここで市は、
それは「当然の法理」に従ったからと、トートロジーに陥ります。
現場の実態に合わないこと、同じ法令に基づきながら各地方自治体毎に
判断が異なるという実態になっていること、それにもかかわらずどうして、
政府見解である「当然の法理」に従うのか、これはもう各地方自治体の
判断による、ということになります。

即ち、川崎市は自ら、「当然の法理」を盾にして、外国籍公務員を
差別することを選んだということです。前回の直接交渉で、前人事課の
課長は「運用規程」の問題を認識し、その改正をほのめかせたのですが、
何故、今回の「運用規程」の見直しにあたって彼の意見は無視されたのか、
市長決裁で実行されたということですから、その決定過程を明らかに
させたいと思います。

崔 勝久