2007年10月22日月曜日

『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その3)ー朴鐘碩

『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』を読んで(その3)

【民族運動としての地域活動】
日立闘争から地域活動に導いたのは、既述したように青丘社初代主事の崔勝久氏です。川崎の地域活動を語るのに彼の存在を否定することは、歴史を歪曲・隠蔽することになります。私の青春時代は、「30年に及ぶ運動の蓄積」の基盤となった日立裁判と地域活動に費やしました。表に出ることなく裏で日立闘争を実質的に担った崔氏は、闘争に関わった青年たちを地域活動へと導きました。
彼は、私と出会う前から、「私達は、自分の所(教会)に人を集めるのではなく、自分から出て行くべきではないでしょうか?例えば、地域の学校の教師とか教育について具体的な話し合いをするというのもその一つでしょう。また、私達個人は生活の為、名前や就職の問題で妥協し、泣き寝入りしたかもわかりませんが、それらのことに教会が具体的に一つ一つ抗議し、なお、個人をも助けるということをやっていかなければならないでしょう。<差別社会の中でいかに生きるか>というのは、この人間と価値と尊厳(=人格)以外の金銭や才能が重んじられ、それらが人間を押しつぶしている社会の中で、いかに人間らしく生きようとするのかということです。現代の社会は、確かに、民族差別を行い、朝鮮人を朝鮮人として尊重していくということはありません。そういう中で、朝鮮人である自己を受けとめるには、民族意識を持つことが不可欠であるということは先に、何度も強調してきました。そして、また、差別というのは決して人間の意識の有無の問題ではなく、差別を生み出すような社会の構造の問題でもあるということも指摘してきました。」(「差別社会の中でいかに生きるか-われわれの教会と反省-」燈台1970年12月)と地域における教会の役割と<差別社会の中で青年はいかに生きるか>について教会青年会で語っていました。崔氏と私の出会いは、「『ルサンチマンとパラダイムの転換』-上野千鶴子をどう読むか-」参照。

崔氏は、「朴君を囲む会」結成、裁判資金集めのため川崎駅前のパチンコ店、桜本地域の韓国人家庭の訪問など当初から精力的に動き日立闘争、民闘連活動に生き方・生活を賭けました。
ソウル大留学中、本国が民主化闘争で激しく揺れる中、スラム街の教会活動から学んだことを川崎教会で実践し青年を指導しました。教会を拠点にして桜本・池上を中心にした子ども会活動が始まりました。
田島支所・外国人登録係に配属された山田職員は、自ずと多くの朝鮮人と接触することになり、地域のオモニたちから「やまださん!やまださん!」と呼ばれ親しまれ、「信頼」されていたようです。朝鮮人の多くは、日常的な差別に直面し、「明日の飯が食えるかどうか」という状況の中で彼は安定した地位を得ていました。彼に限らず、教会牧師・保母たちは一定収入が得られる、地域で「優遇」された立場でした。当時、子供会活動に関わる青年たちは、現在のふれあい館・青丘社のスタッフが一定の報酬を得る体制は無く、無報酬のボランティアでした。
が、差別によって屈折した自分を卑下することしかなかった、「礼儀・常識」を知らない青年たちの表情も明るくなり、次第に素直・謙虚さとあるがままの自分の姿を取り戻してきました。青年たちは、たとえ無報酬であっても「自分の存在価値を認めてくれる人がいる!場所がある!」ことを発見し、生きる喜びを心から実感しました。
私は「はっ!」と思いました。自分で変えようと思わなくても、運動は人間の性格を肯定的に変える、と。こうした一途な青年たちの姿に理解を示し、「息子、娘」のように暖かく家庭の食事に迎える教会のオモニもいました。

日立闘争後、「在日同胞の人権を守る会」を作り、韓国人青年が教会に集まり、地域活動、児童手当獲得集会などのビラ、ポスタ-を作り、故金敬得弁護士、作家高史明氏、詩人金時鐘氏を招いて生き方を話し合い、読書会、聖書研究など様々な活動を展開しています。
「崔勝久氏は韓国の貧民街で教会指導者たちの地域活動と家庭訪問を見聞体験し、この池上町においても可能であると自信持って青年たちを説得しました。彼は池上地区の地図を教会青年会室に貼り、針に各戸住民の名前を記入した紙を付け、青年たちをグル-プ編成し新年早々、『実態調査』を開始しました。
 年末に入念に計画した池上の子供たちの家庭訪問を、正月返上で教会青年と実施しました。原則として政治の話は絶対してはいけない、必ず靴を脱いで家の中に上がり込んで酒を酌み交わしながら、じっくりオモニ、アボジの話を聞くことを確認して青年たちは区分けされたブロック単位にチ-ム編成し、果たして順調に進むか、疑問と不安を抱きながら、家庭に入って行きました。予め酒を好むアボジの家に入り込んでいつまでも教会にもどらないチ-ム、当てずっぽうで断られて数軒目で部屋に上がったチ-ム、さまざまでしたが池上地区の実情が少しずつ判りました。教会青年会室に戻った私たちは、酒を匂わせ状況を報告し、資料(川崎における地域運動-民族運動としての地域活動をめざして-在日同胞の人権を守る会編)として纏め、教会で寝泊まりする日が多くなりました。運動は楽しむことであり、継続こそが力であると痛感しました。何かをしたくてたまらないほど生きることを求め、喜びに満たされ、充実した時期でした。
 私は、『あらゆる既成のものに疑問をいだき、たてまえではない、自分自身の腹の底から納得できる<民族>を求めた』のです。歴史を見て明らかなように、人間の解放運動は、
どうでもいいような、つまらないと思われた小さな活動から出発しています。」
(「韓日交流-過去を踏まえて未来への提言」『続日立闘争』1995年朴鐘碩)

「朴鐘碩さんと家族の生活史は川崎の『在日』の青年の姿そのものであったからである。」と山田は書いていますが、当時の記録が残っています。
「この教会と保育園を基盤にして、私たちは、日立の就職差別を糾弾するビラを地域の同胞家庭に配布し、過去に朴君がそうであったように、いや自分自身がそうであったように、朝鮮人であることを忌み嫌い、なんとか逃避したいと思っている同胞に対して、そうじゃない、私たちも朝鮮人として胸を張って生きようではないかと語りかけた。また、日本の学校で日本名を名乗っている多くの同胞子弟に再び同じような体験をさせまい、この子どもたちが韓国人として人間らしく生きることを願いつつ、私たちは子ども会活動をはじめた。
子ども会活動は夏休みに行い、私たちは教会の青年会室に泊まり込み、午前、午後、夜の3つのプログラムを計画した。下は幼児から上は中学生までの子どもたちが池上町の韓国会館に集まった。午前中、夏休みの宿題を教えたり、韓国語の歌を教え、午後はプ-ルや公園に連れて行き、野球をし、夜になれば花火大会、オバケ大会、幻燈、紙芝居というように、私たちはよき遊び相手となって、子どもとの関係を深めていった。しだいに子どもの名前を知るようになって、韓国語で読み方を教え、在日同胞の歴史、日本社会での韓国人の置かれている差別の実態、それに日立の就職差別の話をわかりやすく説明していった。日立の話となると、同胞の子どもたちは、真剣に耳を傾け、家に帰ってアボジやオモニに話す子どももいた。この地域に住む多くの同胞子弟は、すでにアボジやオモニの姿を見て、自ら生きることに希望を失い、自信をなくしていた。
私たちは、1ヶ月の夏休み中子ども会を通して、同胞家庭とのつながりを着実に進めた。日立闘争は、こうした子ども会活動ばかりでなく、川崎教会のあり方から桜本保育園の保育あり方まで大きな影響を与えた。保育園は、民族保育ということを打ち出し、質・量において発展し、より多くの子どもを抱え、同胞子弟だけの民族クラスをもつに至った。そして、無認可保育園から公認の保育園になった。
日立糾弾の地域集会が新たに作られた教会堂でもたれたとき、一人の保母から過去の保育園の歩みが涙を流しながら語られた。集会に参加した父(母)からは、韓国人が日本人と同じように税金を払いながら、児童手当をもらえないのは差別ではないかという行政による差別が訴えられた。私たちは、夏休み集中子ども会活動のあと、日立に諮問委員会を認めさせ、完全勝利によって、新たな闘いとして、『人権を守る会』を中心にしながら児童手当及び市営住宅入居の問題に取り組んだ。私たちは日本人と同じように税金を払っている。義務だけを強制し、権利を何一つ認めないのは明らかに民族差別であるという内容の公開質問状を市長に提出した。予期に反して、一発回答で児童手当の支給と市営住宅の入居が認められたため、運動そのものに盛り上がりがなかった。
しかし、行政からの回答があっても、市議会での条例変更(国籍条項の撤廃)がなされなければならないと知り、冬休みに池上町を中心にして署名活動を展開した。『人権を守る会』の青年たちは、池上町を四つのブロックに分け、4人グル-プで分担された区域を家庭訪問した。いままで民族差別を観念的にとらえていた私たちは、家庭訪問するなかで、独り暮らしの老人や同胞家庭の生活実態を知り、当惑せざるを得なかった。とにもかくにも区域で具体的な活動がなされなければならぬ、という実感をもちはじめたのである。」(「民族運動として地域活動」崔勝久1977年)

子ども会活動通じて見えたのは、日本経済を支える(京浜工業地帯の)企業の公害をまともに受け、社会から疎外・差別され、厳しい生活環境を強いられ、日本人の子どもが朝鮮人の子どもを、桜本の子どもが池上の子どもを、池上の子どもがより貧しい弱い子どもを差別し虐める、という子どもの世界において既に「強者と弱者」が選別されているということでした。差別が再生産され弱者である子どもが犠牲になっています。(学校でも)虐めを受ける子どもにグル-プのリ-ダとして自信を持たせる試みもしました。しかし、単純に民族差別として捉えきれない、弱者が弱者を虐めるということでした。この差別構造を子どもたちにどのようにわかり易く説明すればいいか?青年たちは、子どもたちから突き付けられた重い課題を生き方の問題として常に問わなければなりませんでした。

地域活動は、崔勝久氏の実践指導と理論・思想が基盤になっていることは、日立闘争から今日までの彼の論文を読めば理解できます。
「行政闘争は、在日朝鮮人に対する制度上の不平等をなくす闘いではない。不平等を無くす闘いを通して、生活と人格破壊をもたらしている社会的実態(それが差別の本質である!)を変えていく闘いである。行政における制度上の差別が問題であるならば、それをなくすればことは済む。しかし、行政の責任を追求するのは、在日朝鮮人の抑圧された社会的状況を放置することによって、ますます差別を拡大しているからである。
行政上の制度が変わることによって、在日朝鮮人の社会的実態がすべて変わる訳ではない。社会的実態を変えるのは、朝鮮人自身の力であり、それなくしていくら制度が改善されても、それは所詮、恩恵にしかすぎず、何の足しにもならない。・・・我々の目的は、在日朝鮮人の生活と人格破壊をもたらす民族差別に対して、多くの同胞と共に要求を出して闘い、そして、そのような民族差別が存在していること自体が、日本人民衆の解放を疎外していると考える日本の友人とともに、この地域全体の解放を志向するところにある。」(『民族差別とは何か』崔勝久1977年2月)これは、民族差別の裏に日本人民衆への抑圧があると記した、地域活動の体験から得た人間解放理論です。

日立闘争から生まれた川崎の「民族運動としての地域活動」は、既成組織の価値観を拒否し自ら生き方を求めた青年たちを惹きつけたと言えます。崔氏をリコ-ルした教会青年も地域活動を無視できず、川崎に来ました。在日韓国人の主体性を求める生き方を自分の足元から見つめることを提唱した崔氏のリコールに対する、組織としての総括がないのはどういうことでしょうか。

「とにかく民衆へという指向性のようなものは強くあった。それが実践に関わっているものの共感を持っている。だから川崎の場合、むしろ地域にいくことによって問題があるんだ、見えてくるんだ、そこに取り組む課題があるんだという形で、川崎へ川崎の地域へとなびいていった経緯があるんだけれども。」と、裵館長は「積極的に地域活動に参加した」ように語っていますが、彼は子ども会活動・現場に全く参加していません。「在日同胞の人権を守る会」の青年たちとの話し合い、活動にも参加していません。また、日立裁判を支援した「朴君を囲む会」から発展・解消した「民闘連」について李牧師・裵館長が語っていますが、2人は準備段階から消極的姿勢で、「大阪で第1回の全国交流集会を解放会館で開いた」(山田)が、参加していません。歴史を捏造してはいけません。

【まとめと課題】
ふれあい館は、市の施設です。対市交渉で明らかになりましたが、初期民闘連から分裂した「かながわ民闘連」の事務所および連絡先はふれあい館になっていました。サポ-タであった「連絡会議」の望月代表は、ふれあい館に赴いて会費を納め、金秀一 (は今年退いたらしい) 事務局長がその場で領収書を発行しました。また、「かながわ民闘連」の役員(李仁夏、裵重度)をはじめ関係者は、ふれあい館の(主要)スタッフの地位を占めています。つまり公共施設であるふれあい館は、「運動体(としての実態はなくなった?)」の事務所を兼ね、人事もそのメンバ-で構成されています。つまり、これは「人権運動」を担う一部の人間が利得権を得るという、明らかに行政と運動体の馴れ合い・癒着ではないか?という批判もあります。そもそも市の委託事業体となったふれあい館がどのように行政のあり方を批判する地域活動を展開できるのでしょうか。
行政の全面的な資金援助によって運営されるふれあい館などの人権施設は高く聳え、そこで働く職員は安定した収入を得ることができます。しかし、格差社会の下で暮らす、弱者である住民(庶民)・労働者の生活は「今日・明日の飯をどう調達するか?」と抑圧・差別を受け、厳しい状況の現実は変わりません。

山田職員は、「まとめと課題」で「川崎市の施策の推進力となったのは、やはり『在日』の30年に及ぶ運動と蓄積と支持者の広がりが挙げられる。」と、行政、組合、運動体・三位一体の「共生」の成果を賞賛していますが、結論として、川崎は共生の街ではありません。共生を悪用しているだけです。市は、運動体・組合を包摂し、批判する個人・「連絡会議」のような市民団体を排除し、問題を隠蔽しています。「共生」は、問題・矛盾を意図的に隠蔽することでもあります。「運用規程」は、権力と組合・運動体の妥協の産物であるということがこの本を読んで理解できました。
「地方自治体を巻き込ん」だのではなく、地元運動体・市職労は、権力である行政に巻き込まれたのです。川崎は、市民・住民を国民国家に統合するモデルケ-スとして最先端を歩んでいます。

李牧師は、「連絡会議」望月代表に「分派活動するな!」と語ったそうです。これは、「川崎の人権運動は、かながわ民闘連・ふれあい館が窓口になっている」ということを言いたかったのかも知れません。
裵館長は、「市に抗議するようなことはしないで、ふれあい館に来ればよい」と集会で発言しています。これは、行政を批判・糾弾しないふれあい館(職員)が「人権の窓口になっている」ことであり、住民の欲求不満を市にぶつけるのではなく、刈り取って処分するバッファ装置の役割を果たしているということです。これは、まさに私が職場で経験していることです。表面上、組合員の声を反映すると謳いながら「組合が窓口」となって、職場の民衆である組合員の欲求不満(解消のために組合員から集めた組合費を勝手に使い格安(海外)旅行・ゴルフ・スキ-・懇親会などを開く)・意見を一応聞くものの、最終的に組合員の意見を無視・排除して予め決めた組合幹部の方針を経営者と一体となって組合員に押し付けるやり方です。

「共生」の裏に、差別を制度化した「運用規程」、阿部市長の「準会員」発言、「共生」のシンボル・ガス抜き「外国人市民代表会議」、ふれあい館「わくわくプラザ」の人身事故、市・市職労・運動体の癒着など、川崎市は多くの問題・矛盾を抱えています。
しかし、こうした事実に「川崎の『共生』運動はどこかおかしい」と疑問を感じても、マスコミはじめ教会・牧師・信徒・教師・自治体職員など人権運動に関わる人たちは、共生を悪用している行政やふれあい館のあり方について批判しません。
個に戻って、「人間としておかしいことはおかしい」と疑問を素直に投げ、権力との「共生」(癒着)を告発し、批判することは、戦争に導く右傾化社会に歯止めをかけますが、日本社会は「共生」の仮面を被った人権運動に流れています。
権力の「共生」イデオロギ-に惑わされないために、「連絡会議」の「公開書簡」と「何故、私は『共生』を批判するか」(blog)を合わせて読むことを薦めます。
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_133.htm
(http://anti-kyosei.blogspot.com/

 次から次へと「共生」を賞賛する本が出版されるのは、国家、自治体、企業、組合、教会、運動体、学校などの多くの組織が個を潰し、息苦しい新たな戦前のナショナリズムを煽る社会状況だからこそそのニーズがあり、ビジネスになるという判断が出版社側にあるからです。

【最後に】
民族差別の不当性を訴えた日立闘争は、結局日本社会の日常性に潜む差別を取り除くこと、全ての人が、弱者が弱者のまま、主張し受け入れられる開かれた社会を求めることであった、ということが次第にわかってきました。
人間の解放は、「民族的独自性の虚構にいつか気付き、現在のあるがままの自分の姿に真の価値を見出」し、結局、集団や組織に頼るのではなく個に戻ることかも知れません。
朴鐘碩(パクチョンソク)という自分を見出し、30年以上日立に勤め、共に働く労働者の姿を見て、「そういうことだったのか!少し見えた!少しわかった!」という快感というか喜びを感じています。
自らの足元で開かれた社会・組織を求めて具体的な闘いを孤立してでも地道に続けること、それが自分にとってより一層人間的に生きるということであり、新しい時代を開くことになるかも知れません。
人間としての自立を妨げる「共生・人権運動」は、人間を潰し差別を助長します。組織の中に埋没していると、視野を狭くします。個よりも組織を優先・擁護する傾向になります。互いに顔色を覗い、効率を優先し楽な方向に流れていきます。
「共生」を偽装する社会、組織の価値観を批判すれば、人間は自ずと嫌われ孤立します。差別と向き合うということは他者から嫌われることかもしれません。
私は、企業社会の労働者への抑圧・差別に抵抗し、「おかしいことはおかしい」と訴え、開かれた社会・組織を求め、人間らしく生きたいと思います。
たとえ失敗や後悔があったとしても、歴史の不条理に立ち向かい、日立闘争のように人権は上から与えられるものではなく、弱者が主体となって生き方を賭けて獲得するものであるという開拓者精神で皆さんとの共闘を願い、連れ合いと3人の息子たちと共に新しい道を切り開き、私の「日立闘争」を歩み続けたいと思います。

朴鐘碩2007年10月22日

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