2010年11月16日火曜日

日韓併合100年と「新植民地主義」―新しい政治倫理への対話―を読んで(望月文雄)

韓国の京郷新聞で掲載された、西川長夫立命館名誉教授と尹海東・韓国成均館大学教授の対談が、立命館大学の『東アジアの思想と文化』(第3号、2010年10月、アジア思想文化研究所)で翻訳され大幅に修正・添削されて掲載されています。同研究所の承諾を得て、広く多くの方にその対談を読んでいただくべく、望月文雄さん(「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議代表」のHP(Syndrome)に転載をお願いしました。対談についての望月さんの感想文を紹介いたします。日韓の知識人が「併合」の違法性に抗議したことを批判し、現在の国民国家による「植民地主義」を正面からとりあげるべきだとする対談内容に注目したいと思います。http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_%20page_206.htm

崔 勝久

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日韓併合100年と「新植民地主義」―新しい政治倫理への対話―を読んで

               望月 文雄

2010年1月4日韓国の京郷新聞掲載記事「韓・日併合100年、現在と未来を問う」の日本語訳を読んでの感想です。自分の認識不足を少なからず指摘され、変革を促されている時代の中での在り方を啓発されるものでした。

1、1989年の歴史的認識
 「グローバル化と2010年」という項のなかでの尹教授の発言1989年の社会主義陣営の崩壊が「近代の終焉」または「新しい時代への移行」のきっかけになったと思う、という発言に西川教授は、1989年はフランス革命200周年と重なり、「天安門事件」があり、ベルリンの壁が崩壊したその年です、とその年の重要性を語り、「フランス革命とは何か」と設題して「フランス革命については人権宣言を含め、会報的な側面のみが注目を引いてきたが、革命が植民地主義を乗り越えることはなく、革命を受け継いだ共和政は、むしろ植民地主義を推進し、アルジャリアやベトナムなどを含む一大植民地帝国を形成したと述べる、現在のフランスが「植民地主義」をいまだに身解決であることを指摘しています。

 このことは現在の世界的強硬の原因を産んでいる「新植民地主義」の根幹と同一であると宣言します。新植民地主義は「勝者の独り占め社会」両極化(勝者と敗者)社会への現象に象徴されると両者は論じます。西川教授は植民地主義とは資本と国家による搾取と抑圧のグローバル化された形態であり、1989年は新しい植民地主義の始まりでもあると提言しています。

2、歴史意識の問題
 この項でわたしが考えさせられたのは「併合」という言葉に対する西川教授の見解です。「併合」という言葉は条約を締結する当時に新しく作られたもので、AとBが一つになるという意味で、朝鮮を徹底的に従属的な地位に置くことを露骨に示しながら、同時に「併合」という言葉から感じられる平等なニュアンスをあたえるために考案されたものだと指摘します。これに対し尹教授は韓国では「強占」という言葉が使われるがこのことばでは植民地の包括的問題を盛り込めないといいます。両社は植民地じだいについての歴史教科書に記述について「民族の英雄的な抵抗運動のみを打ち出すのであれば、植民地化が植民地支配者をいかに野蛮にし、植民地化された人々の悲惨と堕落について等の問題は欠落してしまうという指摘は強烈です。そして、両者は「内面化された植民地主義を各自が見直す必要を強調します。

3、新たな東アジア共同体をめぐって
 日本の韓流ブームの功罪に触れていますが、西川教授の「わたしは一般に韓流と言われているものに疑問をもっています。ユン様に熱狂するのはどのような階層の人々で、何に熱狂しているのでしょうか。わたしが見たところでは、かって小泉首相を追っかけていた女の子やおばさんたちが、今度はユン様のファンとなっているような気がしますね」と述べている部分は正論でしょう。教授はさらに「ヨン様を賛美することは、韓国人に対する差別の感覚が下敷きになっているのではないか、そんな印象を受けます」と私見を追加しています。これを受けて尹教授は「健全な市民社会が成立しなければ、健康な東アジア共同体はありえないということ」と同調しています。

4、普遍的な共同体の構築のために
 西川教授の「西洋近代の歴史をたどれば、市民社会というのは、決していいものでも、ありがたいものでもなく、公共性も同様です」という発言は注目すべきでなないでしょうか。教授は公共性について「アングローサクソン的な脈略と、フランスの公共性の概念との間には、大きな違いがあるといい、フランスでの教強制の現れとしてイスラム教徒に対するブルカの着用禁止にふれます」が、「アングローサクソン的な脈略」に関しては言及しません。これは一寸理解が不足するように思えます。

しかし、市民社会を構築するには避けて通れない問題が話合われています。尹教授の「わたしは、ハンナ・アレントの公共性の概念と、東アジアに「おける儒教的な公共性の概念を作ってみたかった」という発言からどのような市民社会が望ましいのかと「定住者でなく移民と難民が中心となるような市民社会がモデルですとテーゼを展開し、メルチの「問題があると集まって来るが、それが解決されればまた散らばっていくという、移動しつづける不定形の共同体、フランスの文学者モーリス・ブランショのいう「国籍や年齢、身分や職業の異なる、多様な人々による集まりの『コミュニケーションの爆発』に通じる共同体」を提示する西川教授。これらの裏面には古語の市民の強い独立意識が前提されるという意味合いが含まれるのでしょう。

5、未来に向けて
 尹教授のオバマ大統領のノーベル賞受賞演説での「正義の戦争」発言への失望感に同調して西川教授はオバマ発言の問題点を解明して言います。「オバマは、就任演説でアメリカの建国者たちの名を挙げながらかれらに帰らなければならない。その理想を継承すべきだということをしゃべりました。オバマは、アメリカが今までやってきた戦争をすべて肯定したのです。「正義の戦争」というのは、その延長線上で出されたものです。わたしはオバマの演説を聞きながらすごくいらいらしました。アメリカの建国者といわれる人々こそが、先住民である「インディアン」を暴力的に追い出して国家を建てた張本人ですね」と。

 自分の市民としての自覚をどのように確立すべきかという観点から、非常に激越な示唆に富む対談記事でした。

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