2010年12月31日金曜日

今年最後のメッセージ、「労働者にものを言わせない「企業内植民地主義」 朴鐘碩

みなさんへ

いよいよ今日は大晦日、速かったですね、この1年。
来年定年を迎える日立の朴鐘碩が、「外国人への差別を許すな・
川崎連絡会議」HPの掲示板に、今年最後のメッセージを発しています。
彼の報告をみなさんにお知らせして、ことし最後のメールにいたします。
どうぞ、よいお年をお迎えください。

崔 勝久
SK Choi

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労働者にものを言わせない「企業内植民地主義」 朴鐘碩
2010年12月31日

日立製作所労働組合は、2010年12月、「2011年春闘の基本方針」(機関紙)を組合員に配布した。また私が属する支部は、来年4月実施の統一地方選挙で同地区の組合書記長を横浜市会議員候補として「委員会で擁立を確認」し、その「組合ニュ-ス」を無言(説明なし)で組合員に配布した。

「春闘の基本方針」を決めた中央執行委員会は、「委員会で議案の提案、審議の全会一致」「職場組合員の意見収集等を行ってきた」「組合員からの意見にも配慮がなされている」と見解を機関紙に載せている。これを読むと、日立労組は組合員の意見を反映する「民主的な組織」であると誤解する。

書記長が市会議員に立候補することは、組合員は全く知らないことであり、「関心もない、どうでもいい」ことである。個人で立候補すればいいことであるが、組合費を使っている。組合員に情報を隠蔽し、結論だけ通知する「組合ニュ-ス」は、「候補者支援の入会申込書」まで付いている。さらに組合掲示板には候補者のポスタ-まで貼ってある。

「春闘の基本方針」は、「委員会で議案の提案、審議の全会一致」したこと、つまり、これも「結論」だけが組合員に通知される。「職場組合員の意見収集等を行ってきた」「組合員からの意見にも配慮がなされている」ことは、一切ない。

組合員たちは、職場で何も話し合っていない。(事前に会社側と協議した内容を)執行部役員は、議案、方針とする。組合の活動、運営に都合のいい、何も言わない、えない、指名されて「選ばれた」評議員が集まる「評議員会」で「全会一致」となり、執行部の意向がそのまま反映され承認される。執行部への批判、反論は一切ない。

組合員に議案、方針の説明はなく、組合員不在時に「組合ニュ-ス」、機関紙が机上に置かれる。「組合ニュ-ス」、有料の組合機関紙は読まれることなく、そのまま廃棄処分になる。私は、質問、意見を執行部、評議員、組合員に送っている。私のe-mailを読んで、チラシ、機関紙の内容を確認する組合員も時々いる。
私のe-mailを読まない組合員も数名いるが、ほとんど読んでいるようだ。質問、意見を出しても、執行部から回答はなく無視されているのが現状である。

執行部は、結論だけを組合員に押し付ける。何も知らされないし、話し合うこともない。理由を明らかにせず、執行部は職場集会を中止(私が職場で大きな声で質問、意見、組合を批判したから?) して 10年以上になる。執行部(と経営者幹部)は、組合員にものを言わせない。元組合員であった経営者幹部、管理職は、このような事実は十分承知しているが、「組合のことだから。何も言えない。わからない。知らない。」とうそぶいている。組合員がものを言う、話し合う場はない。つまり、戦後、65年経過するのに企業社会に「言論の自由」はない、ということになる。こうした状況(日常)は2011年も続くだろう。

組合員は、毎月、半日分の労働時間を組合費として強制的に給与天引きされている。ものが言えなくても、家族のため、自分のため、生きるために我慢して、組合員は働いている。ものが言えなくても、労働者は、企業社会で「生活できる」。組織に問題、矛盾があっても、沈黙し自分だけは長生きしたい、と思うのが本音かも知れない。

企業社会、組織で人間らしく生きるとはどういうことなのか、問われ、悩み続けた2010年だった。おかしいことはおかしいとものを言わせない、抑圧的な経営(環境)は、労働者に重くのしかかり精神を蝕む。(民族)差別、排外主義を生み出している。

果たして企業社会に民主主義は生まれるか、脱「企業内植民地主義」を目指して、定年退職する予定の2011年も「続日立闘争」は続く。

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」掲示板より、
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html

2010年12月30日木曜日

今年一年の、文字通りの総決算の論文をお送りします。

今年の私のブログのなかで一番反応が大きかったのが、「個人史―私の失敗談(その6、全てを失い新たな旅路へ)」でした。
(http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/10/blog-post_18.html)

その失意と新たな決意のなかで今年最後に書いた論文が『季刊 ピープルズ・プラン』52号で掲載されました。http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage29.html
「民族差別とは何か、対話と協働を求める立場からの考察」というタイトルは、今の私の正直な気持ちを表したものです。ご一読いただき、御批判や御意見をいただければ幸いです。


昨夜は、妻と銀ブラを楽しみ、カンヌ賞をとったドイツ映画の「白いリボン」を鑑賞し、俳優の息子のバイト先で食事をしました。「白いリボン」は白黒の写実的な描写で、背景と人の心理を描ききります。戦前のドイツの片田舎で起こった事件が次から次と展開されるのですが、家父長制社会の実態、その中での女性の位置、性差別、階級社会の実態(農民と男爵)を何の感傷もなく暴き、その不気味さがナチスドイツの戦争の始まりの告知と見事に一致しています。「善き人のためのソナタ」で好演した俳優も出ており、子供たちの演技もすばらしかったです。何よりも脚本と監督のミヒャエル・ハネケの社会と人間を見る冷徹な目には感心しました。来年の1月16日までテアトル銀座でやっています。どうぞご鑑賞ください。

ついでに食事をされる方には、女性客が8割という韓国料理店を紹介します(千山苑、http://r.gnavi.co.jp/e083200/)。サイ・ホージンに会いたいと言っていただければ何かサービスがあるかもしれません(笑い)。

映画と言えば、加納美紀代さん原作の「青燕」、戦前日本でパイロットになり箱根で死んだ韓国人女性の話で日本でもDVDをご覧になることができますが、愚息はその映画で司会役として好演しています。

同じく韓国俳優が熱演する「力道山」もDVDでの鑑賞をお勧めします。村松友視『力道山がいた』(朝日文庫)がプロレスファンとして、最後に力道山が朝鮮人であることをどのように受けとめたかを感動深く書いていますが、その実態を映画はしっかりと描き出しています。正月休みにどうぞ。ついでに、亡くなった私の父は、力道山と同郷(北朝鮮)で、彼の相撲時代からの谷町の一人でした。ボクシングオーナーとしての父を力道山は兄さん、兄さんと呼んでいたことを今も鮮明に覚えています。戦前、戦後を生き切った「在日」のしたたかな面、ダーティな部分と人間臭さをぷんぷん匂わせていた一世たちです。

私は「在日」2世として、正面から日本社会の「変革」に挑戦していくつもりです。みなさんの温かいご支援とご協力をお願いします。今年も後2日、どうぞよい正月をお迎えください。これが今年最後のメッセージです。来年もよろしくご愛読ください。


崔 勝久

2010年12月24日金曜日

Merry Christmas & A Happy New Year!



Merry Christmas & A Happy New Year!

今年はお世話になりました。心から感謝いたします。おかげさまで、期せずして、自分のやるべきことに没頭できるようになりました。

今日は休日、クリスマスを前にして聖書に関する本を紹介します。
本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店)と
田川建三『イエスという男』(作品社)の2冊です。

田川さんの本は「逆説的反抗者の生と死」について世界的な聖書学者が記したもので、漠然とキリスト教にロマンチックなイメージをもっている人は、彼の描くイエス像に驚くでしょう。「存在しない神に祈るーシモ―ヌ・ヴェーユと現代」『批判的主体の形成』(洋泉社)は、上野千鶴子さんが何かのあとがきで社会を変えたいという熱い想いを持ちつつ「自分は祈らない」とあった内容と通底しています。

本田さんはSPYSEEでは、「大阪釜ケ崎にて,日雇労働者に学びつつ聖書を読み直し,また「釜ケ崎反失業連絡会」などの活動に取り組んでいる」と紹介されています。もっともオーソドックスな神信仰の上で現実の釜ケ崎から「いちばんちいさくされた者とはだれか」「どこに立って聖書を読むのか」を問い、圧倒的な説得力をもって人間としての生き方を説きます。

「罪からの救い」を求めるクリスチャンにとっては受け入れがたい立場でしょうが、本田さんは自分の実存を賭けて聖書を読み解きます。そこまでいくと、カソリックやプロテスタント、いや宗教の枠さえ超えて訴えるものをもちます。お二人の健康を願い、後世に残る著作の完成という大業が成就されることを祈るばかりです。

みなさんはクリスマス祝会をもたれるのでしょうか。みなさんのご健康と、ますますのご活躍を祈ります。来年はお互い、少しでもよりよい社会に向けて歩めますように。よいお年をお迎えください。

メリークリスマス!


崔 勝久
SK Choi

「植民地主義」研究会に参加してーその2   朴鐘碩

「植民地主義」研究会に参加してーその2 朴鐘碩

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」HP掲示版より
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.htm

思い出深い、研究会でした。

西川長夫教授は、青年、学生たちが不況社会でどのような生き方をするのか、展望は持てるのか、重要な課題であると思われたようです。「この問題は奥が深い。考えれば考えるほど行き詰まって泥沼に入る。出口が見つかるのか。参加した学生、若い人たちの声、感想を聞かせて欲しい。」と語られていました。

加藤千香子教授は、「続日立闘争」と「植民地主義」との関係に注目されたようです。

翌日、西川長夫教授は、19歳で始めた裁判に触れ、「よく学生たちに声をかけたね。学生たちもよく応えた。」と笑顔で話され、「今の時代だったら裁判できたかどうか?わかりません。」と当時を思いながら私は応えました。

西川先生ご夫妻、パ-トナ-の大学時代の友人2人、それに私たち6人で昼食を共にしました。友人とパ-トナ-は、このような機会が得られたことを喜んでいました。研究会に参加した友人は、「昨日、学生たちは身を乗り出すように真剣に聞いていましたね。今の世の中、学生の就職は深刻な問題です。パクさんの話と本(「日本における多文化共生とは何か」)を読んで「多文化共生」の意味が理解できました。とても分かりやすかった。パクさん変わりましたね。」と感想を語ってくれました。

西川祐子さんは、「長夫さんの理論は、現場で鍛えられる必要があると思います」と述べられていました。2日間でお別れするのは辛い京都での研究会でした。
私は、研究会で学んだことを支えとして、新たな気持ちで翌日から現場に向かいました。

現場は、日立労組が組合員の声も聞かず、すでに「2011年春闘の基本方針」を決めていました。相変わらず組合員に説明せず、組合員が不在時、机上にチラシ置いていました。それでも組合員は沈黙しています。企業内植民地主義は、待ったなしで容赦なく、ものが言えない労働者に重くのしかかっています。

2010年12月23日木曜日

崔さん、情報ありがとうございます。

さすがに健康に関する関心は高いようで、TMさんから以下の
メールをいただきました。

坂内さんからは、「大事な本紹介いただき有難うございました。」
という『あなたの癌は、がんもどき』についてのメールがありました。
また、香港のICさんからもからも「この本面白そうだね」という
コメントをいただきました。

今朝は、若い研究者のメールで、ノロウイルスで気分が悪くなった
とありました。くれぐれも解熱剤やその他の薬を一緒に呑まないように。
近藤誠によると、ワクチンも絶対的なものでなく、若干の「有効性」は
あっても、「有用性」には疑問とあります。ワクチンは翌年にはもう
効かず、免疫性を持てなくなるので、子供や老人に流行りだと言うので
ワクチンに頼るのは止めた方がいいようですよ。

ワクチンはタンパクから作るので、アレルギーを起こす人もあるようです。
特に小さなお子さんをお持ちの方は、子供は40度(正確には41度)の
熱であれば脳は大丈夫だそうなので、慌てて解熱剤や医師の言うとおり、
なんでも薬に頼るのは止めましょう。

それではみなさん、年末、呑みすぎないように、お体には注意しましょうね。

崔 勝久

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崔さん、情報ありがとうございます。

コレストロールや血圧については医師の浜六郎さんも本で指摘してますね。

「コレステロールに薬はいらない!」読書メモ
http://tu-ta.at.webry.info/200812/article_5.html
から
==
コレステロールを薬で下げなければならないようなことはほとんどなく、コレステロール値が240~260の人が最も健康で長生きでき、薬で無理に下げると、免疫力が低下し、かえって死亡率が高くなるという話。この値は要治療とかの基準で薬を売りたい製薬業界を儲けさせているという指摘
===

2010年12月22日水曜日

近藤誠『成人病の真実』のお薦めーこれは絶対です!

先週、近藤誠の癌に関する新書の紹介をしました(「近藤誠は生きていた!-「がんもどき」理論の最終見解について」http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/12/blog-post_17.html。
私自身の体調がよくなく(何故か、血圧が高くなった)、2週間、降圧剤を呑むなかで、改めて近藤誠の成人病に関する本を読みました。癌と合わせ、成人病の本は是非、みなさんにお薦めします。この休みの間にお読みください。これほど「役に立つ」本はありません!

近藤誠の主張は明確で揺るぎがありません。私たちがもたされていた「病」についての誤った情報、それに基づく考え、行動に警鐘を鳴らします。彼の思いとか、主張でなく、大変実証的で、実際の内外の学術論文の分析から始まり、その誤謬を指摘し、データの正しい読み方を説明する論理的(科学的)なものです。ちなみに、医師は薬品会社のパンフは読んでも、臨床に忙しく不勉強なのです。ですから医者だからといって出す薬をそのまま信用して呑んではいけません。

もう一度、癌について。癌細胞とは、3-4万個の遺伝子をもつ細胞が、複数の遺伝子の突然変異によって癌化されたものをいいます。癌病巣には、直径1ミリでも100万個、1センチなら10億個の癌細胞があるのです。自己細胞ですから、免疫に効くとかいう食品などは相手にしないでおきましょう。そんなことはありえないのです。遺伝子の変異の理由は様々で、まだ完全には突き止められていません。従って、癌は発見された時既に転移しているかどうかの見極めが重要です。また手術後の抗がん剤治療は実際、転移とは関係がなく、患者が苦しむだけです。

近藤誠は癌だけでなく、高血圧、コレステロール、糖尿など、「生活習慣病」と言い直された「成人病」についてもこれまでの私たちの知っていることがいかに間違っているのかを記します。彼によると、無症状で発見された「病」は基本的に治療を受けるべきではないというのです。従って、集団検診、人間ドックによって発見された「病」は、「本物の病気」ではなく、医師や日本の医療システムが作り出した「観念の病」ということになります。

例えば、私は高血圧(200近かった)でしたが、一体「基準値」とは何かから説明します。「基準」とは統計的な処置ですから、原理的に全体の5%の「患者」予備軍を作り出すものなのです。いくつもの検査が実施されれば、何もなくてもどこか「問題」がある人が出てくるしかけです。1998年に厚生省が発表した基準値は、(160/95mm HG)以上でしたが、2000年には(140/90)に引き下げられたのです。

これによって2100万人の人が高血圧と診断され、合計、3700万人の人が高血圧になってしまいました。高血圧の原因は9割以上不明です(これを「本態性」と言うらしい)。しかし血圧を下げることによって死亡率が下がったり、心血管病が減るという実証的なデータは一切ないとのことです。これはコレステロールや糖尿も同じで、数値を下げることと、インシュリンを打つことで延命は実証されず、総死亡数が減ることはないのです。

もっと衝撃的なのは、フィンランドの追跡調査によると、40-55歳の会社管理職をふたつのグループに分け(「くじ引き」試験といい、これがないと実証的に証明されたことにならないそうです)、約600名づつ、何もアドバイスもせず本人の自由にさせとく「放置群」と、医師が徹底的にライフスタイルに介入し定期的に食事内容、運動量、投薬などをする「介入群」に分け、試験期間の5年とその後の10年の追跡調査の結果、心臓死と死総数においては統計学的に意味のある差はでなかったらしいのです。ただし癌死には差があり、喫煙などのライフスタイルの変更による意味があるとの解釈です。

近藤さんによると、絶えざる「介入」によるストレスが問題ということです。絶えず、自分の数値を気にして(私なども日に何回、血圧計を使い出したかわかりません)、それが総死数が同じという結果につながるらしいのです。なんということでしょうか、癌にしても基本的には「老化」と受けとめ、どこか悪くなったら検査を受ける、しかしやたらに手術や投薬に応じないで様子を見るのが一番いいらしいのです。

ポリープは放置しても大部分は大きくならないし、検査で発見された、無症状の癌は大部分、転移しない「がんもどき」であり、「成人病」(「生活習慣病)という言い方は、訂正すべきらしいですね)もまた同じく、「健診をすれば病気が早く発見できて、役に立つ」という「先入観」によるもので、それらは、医者と一般人のあいだの医療に対する「過度の期待」と、思考と行動面における「非科学性」と医師たちの「営利主義」が生み出したものだと断定します。健康診断と人間ドックは健康な人でも5%が「基準値外」になるように
「基準値」を前提にしているのです。そのために人間ドックで8割もの人が「病気」や「異常」のレッテルをはられます。

「検診」には近寄らないこと、もし会社などの集団検診で「異常」が見つかったら、「延命率」と「治癒率」のデータを求めましょう。何もせず、普段通りの生活をして(ただし、タバコはやめましょう)、どこか悪いところがあれば検査を受けるようにしましょう。いかがですか、みなさん、是非この本は読んでください。多くの本を紹介してきましたが、間違いなくこんな役に立つ本はないと思いますよ。

2010年12月21日火曜日

臨海部論争についての感想ー佐無田 光

「新しい川崎をつくる市民の会」では今年になって、臨海部についての2回の学習会を持ちました。第1回目は横浜国大の中村剛治郎さんの講演で、「市民参加による地域再生を目指して」というタイトルでお話しいただきました(http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage21.html、http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage30.html)。

二回目は川崎市の経済労働局産業政策部部長の伊藤和良さんから、臨海部と中小企業の将来についての熱い想いを伺いました(http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage31.html)。伊藤さんとの対話を続けたいという考えを、中村さん、伊藤さんのご意見を踏まえてブログで記したところ、金沢大学の佐無田 光さんから投書をいただきました。ご本人の承諾を得て、掲載させていただきます。

佐無田さんは、『環境再生』(有斐閣)や『地域経済学』(有斐閣)、「京浜臨海部の再生と地域経済ー地域比較の観点から」(http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage34.html)など多くの臨海部に関する論文を書かれています。

これらを踏まえて、行政から伊藤さんあるいは、総合企画室の方、或いは地元選出の議員の方、あるいは研究者や市民の方からのご意見をいただき、議論を深めていければと願います。

崔 勝久

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崔さんへ

金沢の佐無田です。
いつもメールをありがとうございます。リプライせずに失礼しておりましたが、ようやく時間を取れましたので、感想などお伝えしようと思います。

先般の伊藤部長との学習会について。こうした場に出てくる伊藤部長の姿勢には感心しますし、地域産業政策に関して市民の参加する議論の場を作って行こうとする崔さんらの努力にたいへん敬意を覚えます。継続的な住民学習と開かれた地方行政の関係へとつながっていければ何よりなのですが。

伊藤部長の提起する「川崎を研究開発都市にする」「中小企業の製造業の技術力を活かしていく」方向に私も賛同します。問題は、それをどのような全体構想あるいは都市像の下で実現していくか。この点が伊藤さんと崔さんの間でも議論がかみ合わなかった点のようでした。

私なりにいくつかの論点を整理すると、

1. JFEなどの大企業の工場に残ってもらうことと、研究開発機能の集積や中小企業の技術力との連携を図ることが、どうつながるのかという関係性が明瞭に見えないこと。両者を「工業集積」と括ってしまうと、地域内での産業連関が見えなくなってしまいます。日本の大企業は研究開発を内製化し、外部調達しませんから、そのままでは、最新鋭製鉄所が地域にあっても、地元の研究開発型中小企業にとってはメリットがありません。

THINKのような施設は、JFE都市開発の事業であって、JFEにとっては
不動産の有効活用ではあっても、THINKの入居企業の研究成果をJFEが柔軟に調達して製鉄所の競争力を高めるような関係には、(以前調査したときには)なっていませんでした。もしこのような関係が形成され高度化するならば、JFEは簡単に地域から出て行かないでしょうが、現状では川崎立地のメリットは不動産と設備が残っているということだけで、同じ大都市圏立地の千葉県蘇我に機能集約すると、いつ判断されてもおかしくないと懸念されます。この点で、川崎市の産業政策が、臨海部大企業と地元中小企業との関係構築(とくに研究開発面での分業関係)にどう携わってきたのか、産業政策の具体的な中身のお話はどうだったのでしょうか?

2.中小企業再生の条件と地域労働政策について。
伊藤さんも指摘されているように、中小企業の問題は高齢化と後継ぎがいないことです。なぜそうなるのか。現在の日本の労働市場は階層的で、大企業からの離職・転職は生涯所得の大幅な減少を不可避とするので、優秀な人材ほど大企業志向で、大企業に囲い込まれる傾向にあります。しかも、グローバル競争のもとで、大企業は下請け中小企業の選別を進めたので、コスト削減圧力が高まって中小企業の労働条件はさらに悪化し、資金繰りも厳しく、技術開発に投資するような余力がなくなっていくという悪循環にあります。

こういう構造をそのままにして、地域の中小企業再生策はどのくらいリアリティがあるのか、という論点です。実際に、川崎市の企業数はどんどん減少しているわけです。日本でアメリカのような流動化した労働市場を展望することは現実的ではないですが、北欧やドイツのように、地域レベルの職業訓練政策、創業に失敗した場合の再雇用保障制度、大企業と中小企業の垣根を越えた地域的な労働組合の連帯運動など、地域労働政策の進展がなければ、現在の地域産業政策だけでは中小企業の再生というのは難しいのではないか。

3.製造業とサービス産業との関係について。
伊藤さんは、「設計、計量検査、エンジニアリング、給与計算、在庫管理と原価計算、財務と保険、輸送、設備機械の修繕と保全、検査」などの高付加価値サービス産業は製造業の生産がなくなればなくなってしまうと言っていますが、それは現状維持の視点で、私はサービス産業についてはもっと戦略的な位置づけが必要ではないかと思っています。大企業に依存する垂直分業ではなく、研究開発型中小企業を主体にした技術力の強みを活かす地域経済を展望するならば、経済仲介機能を発揮するビジネスサービスの発展が不可欠です。

いい技術があっても売れなければ意味はなく、売れても安く買いたたかれていては地域経済は発展しません。グローバル経済におけるモジュール生産が進展し、すり合わせ的な下請け系列関係が揺らぐ中で、日本の中小企業の課題として、いくら技術力があっても、大企業以外のチャンネルでそれを国際的な技術市場に「売り込む力」が弱いということがあります。

しかし、技術開発力に強みを持つ職人的な中小企業が、個々に国際的に自ら売り込むことまで期待するのは無理があります。技術の売り込みに関しては分業し、経済仲介機能を担うビジネスサービスを身近に調達できるのが理想です。海外から地元企業への投資の仲介、技術の海外移転の契約の仲介、海外市場とつながるための人材の仲介などを、大企業に頼らず、地域企業の損にならないように交渉できる信頼に足るビジネスサービスを戦略的に地域に育てる必要があるのではないか。そして、これを実現する上で「都市の国際化」が条件の1つとなるのではないかという論点につながります。

都市の中で国際化に対応できるビジネスサービスが育つには、まず都市の国際化が必要であり、外国人起業家が次々出てくるような社会風土があるかどうか。川崎市は国際化に熱心な自治体で、アジア起業家村などの政策もありますが、上記のような国際的なビジネスサービスの集積につながり得るものなのか、もう少し検証が必要かなと思っています。

4.臨海部に遊休地が発生して跡地利用を考えるときに、産業立地で埋めるべきかどうか。装置型重化学工業の立地から、高付加価値な研究開発型産業へと変わっていくならば、従来と比べて広大な産業用地は必要でなくなり、もっと生活条件をも考慮した空間編成がされてもよいはずが、そうならないのはなぜか。1つは民間企業の私有地だからという土地所有の問題があります。民間企業の取引に任せていれば、バラバラでしかも低付加価値な土地利用になってしまう恐れがあるので、川崎市側としてもそれはまずいと考えて、できるだけ一体的な土地利用転換を促すようにずいぶん苦労されているという印象です。

しかし、もう1つには、一体的な土地利用転換のための道筋をつける話し合いの場を設けたとしても、まず地権者である企業の意向を無視するわけにはいかず、国や県の支援も必要であって、そうしたメンバー中心に臨海部再編を協議するので、産業立地以外の発想が出てこないという問題です。(直接的に固定資産税収を求める市行政の利害もあるかもしれません)臨海部の将来像を描くときに、産業の発展を展望することはもちろん1つの大事な見識ですが、そればかりではなく、生活の質を求める住民の素朴な要求というのも大事な要素で、お互いが鋭く対立しあいながらも、独自の解決策を見出していくプロセスにこそ地域発展のダイナミズムがあるのではないかと思っています。

しかし、川崎の臨海部では、対抗的な市民運動の主体も、その意思決定に関与するチャンネルも弱いというのが難しさです。世界各地のサステイナブルな地域づくりを見ても、市民運動側から環境とか人権とか非経済的な価値を求める力が強く、それを受けて産業サイドがそうした非経済的な価値を活かした新しいビジネスモデルを開発するという関係性が見られます。はじめから産業優先だと思考が既存の構造にとらわれて斬新な発想が生まれないわけです。

産業政策を否定するのではなく、しかしそればかりで臨海部を考えるのでもなく、環境再生や市民生活の再生を大事にする見識と産業政策的思考が交わる場をどう設定するかという、政策統合の論点があるのではないか。このあたりが崔さんが提起したかったところなのではないかと思います。

その他にも論点はあるかと思いますが、とりあえずここまでの感想をかねて、考えを整理してみました。また時間を取れたときにしかご返事できないかもしれませんが、崔さんのお考えもお伺いできればと存じます。

今後のご活動も期待しております。

2010年12月20日月曜日

「植民地主義」研究会に参加して  朴鐘碩

「植民地主義」研究会に参加して  朴鐘碩

私と私のパ-トナ-は、12月18日、立命館大学大学院西川長夫名誉教授の「植民地主義」研究会に招待されました。パ-トナ-が大学時代下宿していた京都大学に近い場所でした。

参加者は主催者である西川教授、立命館大学の(留)学生はじめ西川祐子教授、横浜国立大学学生、「日本における多文化共生とは何か」編著者である加藤千香子教授、中部大学教授、パートナ-の大学時代の友人など15名程でした。

1975年に製作された「日立就職差別裁判」(日立闘争)、20分のDVDを観たあと、参加者の自己紹介、「植民地主義」研究会の趣旨説明がありました。
私は、1974年の勝利判決後、日立製作所に入社し、40年近い職場での体験、見えたこと、残り1年となった来年11月に定年退職を迎えるにあたっての心境など「続日立闘争」と「植民地主義」をテ-マに話しました。

加藤教授から「「1968」と「日立闘争」、そしてその後」についてコメントをいただきました。日立闘争(1970~74)「1970年代日本の『民族差別』をめぐる運動」『人民の歴史学』(2010.9) http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage18.html参照。
私の「続日立闘争」の意味は、「協調」「共生」を揚げながら「自由にものが言えない」「労働者のものを言わせない」日立の職場環境を問うことになった。

その後、西川長夫教授から私を支えた「パ-トナ-の話を聞きたい」との要請があり、参加者は私の話しよりもパ-トナの話に強い関心があったようです。彼女は、私との出会い、3人の息子たちのこと、日常生活のことを話しました。

学生たちの関心は、卒業後の直面する就職問題でした。企業社会(日立)の様子、組合の実態を聞いてやはり驚いたようです。真剣な眼差しで聞いてくれました。パ-トナ-の友人は、何度も頷いていました。中部大学教授は、授業で「日立闘争」を扱い、「(碧南)高校の先輩が日立という大企業を相手に闘ったことはすごい、誇りの思う、と発言した学生がいた」ことを教えてくれました。

大学院生から「民族差別」から「労働者の問題」に意識が変わった経過について、具体的に話して欲しい」、西川長夫教授から「仕事の内容」「職場で一人なのか、同僚との関係は?」などの質問がありました。

私は、組合との関係、職場での具体的なエピソ-ドを正直にありのまま話しました。参加者の皆さんの驚きを見て、閉鎖的な企業社会の実態は、公に知らされていない、と私は思いました。
西川祐子教授は、自らの体験から「裁判で闘っているときより、職場に入ってからの方が実際もっとしんどい」と話されていました。40年近い体験は、全くその通りでした。

4時間近い研究会は、あっという間で短く感じました。終了後、西川祐子教授の手料理による、1年前倒しの「退職記念」パ-ティとなり、参加者の皆さんから祝っていただきました。

西川教授ご夫妻の家族的な暖かい雰囲気に包まれ、パ-トナ-も私も「研究会に参加できてよかった」と帰宅する新幹線の中で余韻に浸っていました。西川教授ご夫妻はじめ参加された皆さんに心より感謝申し上げます。

なお、私の「続日立闘争」と「植民地主義」の内容は、後日整理でき次第公開します。

2010年12月17日金曜日

近藤誠は生きていた!-「がんもどき」理論の最終見解について

私は妻の乳がん手術の経験から、近藤誠の本を読み、彼への信頼は高かったのですが、彼が乳房の全摘切除(ハルスレッド手術)から乳房温存療法を日本において実施しはじめ、信頼する同級生に2000以上の患者を紹介してきたのに、その同僚が巨大な診療報酬詐欺を働いていたため(著書の最後に言及)、彼の社会的信用も堕ちたと聞いていたので、新刊の『あなたの癌は、がんもどき』(梧桐書院)は待ち遠しかった本でした。


期待通り、著書の主張は明快で、かつ説得力があります。恐らく、癌に関してはこれが彼の最後の本になるような気がします。


癌の手術を受けたら誰でも、転移しないようにということで医師から薦められる薬は呑もうとするでしょう。しかし私は妻の手術後、彼の本から意味のない抗がん剤のリストの中に彼女が呑み続けている薬があることを知り、彼女に呑むことを止めるように話をしました。躊躇と恐怖からその話を医師に出せずにいた彼女が思いきって話をしたら、「ああ、止めてもいいですよ」ということでした。


私の知人にも、胃がんの手術の後の抗がん剤の使用をやめた方がいいと助言したことがあります。彼女はとても元気だったのですが検診で胃がんであることが判明し、すぐに手術を受け、その後抗がん剤を呑む中で、何カ月もいかずに亡くなりました。

近藤誠は、日本の製薬メーカーが海外での否定的な実験結果を無視し(承認を受け)販売していることに対して、データを分析しその偽りのからくりを暴きだし、何百億円のヒット商品の「息の根」を止めています。

近藤誠は、あらゆる集団検診、人間ドックなどは受けないようにと言います。そこで癌の兆候が発見されても、何もしなかった人と比べて死亡率に違いがないというのです。小さなポリープが発見されても、それが癌になり、転移すると言われていますが、それは仮説に過ぎないと断言します。


癌には転移をする(している)本物の癌と、転移をしない「がんもどき」があるというのです。後者が圧倒的に多いということは言うまでもありません。前者であれば、何をしてもだめ、後者であれば、そのまま何もしないで様子を見ることを薦めます。集団検診や人間ドックで癌患者は急速に増えているのですが、それによって死亡率が下がることもなく、検診などをしない群(グループ)とほぼ同じだというのです。


免疫を高めるなどという話の欺瞞性についても、癌とは何か、それがどのようなメカニズムで転移するのかという説明から始まり、むしろ細胞の抵抗力が重要とのことです。体にメスを入れることによって、転移しないはずの腹膜などがかえって手術によってそこから癌細胞が浸透していくということも、なるほどと納得です。

癌で人が死ぬのではありません。転移によって臓器の機能が低下して死ぬのです。近藤誠は、癌に怖がることはないと素人に語りかけながら、癌の専門家、現場の医師にも最後の挑戦状をたたきつけたと思いました。

私に癌が見つかったら、還暦を過ぎ未だに慶応大学医学部の講師である近藤誠に相談にのってもらおうと思っています。是非、一読を薦めます。

2010年12月16日木曜日

名古屋で実施される住民投票に外国人は参加できるのか?

この間私は何度も名古屋の河村市長の唱える住民自治は外国人を排除するものであることを指摘してきました(「名古屋の「地域委員会」でも、国籍条項」、「地域主権? 覚悟はあるのですか(石弘光氏 朝日新聞4月10日)」。
http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/02/blog-post_12.html
http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/04/blog-post_10.html

名古屋市の住民投票では現在のところ、外国人の参加を認めていません。新潟市においても同じです。川崎では認めています(川崎市の住民投票制度には問題がありますが)。このように政令都市内においても、あるいは地方自治体においても、住民投票に外国人を認めるかどうかでは違いがあります。

民主党が外国人の地方参政権を認めて法案を国会にだすと言いながら、結局は流れました。民主党内部や、自民党を含め、大きな反対があったからです。中国や北朝鮮との外交問題が表面化するや、一挙に参政権どころか、最終的に決定された、朝鮮学校への高校無償化も保留にされ、大阪や神奈川のようにこれまでの資金援助も見直す動きさえ出て来ました。

これに対して一般市民も愛国心を刺激されたのか、このような動きを歓迎しているようです。あんな過激な「在特会」に賛同する人は多くないと言ってきた学者も多かったですが、やっぱり彼らはフロントランナーの働きをしていたのです。

ネット上では、ウヨクが地方自治体は条例で実質的に外国人の政治参加を認めているという声を上げ始めています。日本の新サヨクは観念的で、植民地支配の清算を言いますが、実際に地域でどのようなことが起こっているのか、どのように外国人の政治参加の権利を排除しているのかということには全く無知であり、知ろうともしていません。

既成サヨクは党の勢力拡大に一生懸命で、地域ではこれまでの「連帯・友好」路線の継続で、せいぜい、総連(北朝鮮)だけでなく民団(韓国)にまで広げようとするくらいです。せめて今の「名古屋ブーム」にあって、住民投票に外国人が参加できないのはおかしいという声くらいあげられないものでしょうか? 私の知る限り、このような発言をしている人を私は知りませんが、この声が広がることを願うばかりです。みなさんの御協力を請います。

2010年12月14日火曜日

自由主義経済学を根底的に批判する本を読んで

『世界経済を破綻させる23の嘘』(徳間書店、原題は「23 things they do not tell you about capitalism」2010, by Ha-Joon Chang)をお薦めします。この30年間、世界を席巻してきた新自由主義政策を支えてきた自由主義経済学の価値観、問題点を徹底的に、しかも脚注をつけることなく優しく説明したいい本です。表紙にはマーティン・ウルフ、チョムスキーやスティグリッドからの賛辞があります。世界的にも注目されている新鋭の学者のようです(参照、http://www.youtube.com/watch?v=whVftuVbus )。

日本語タイトルは何か、やすっぽい感じがしますが、中身は濃く、経済学の学者としての見識と社会をよくする意欲をもつ著者の、人間としての質の高さを感じますし、実際、この本から多くのことを学びました。

最初のページには「本書の七つの読み方」として、読者の問題意識に応じた読み方を記しています(私は、それは不要だと思うのですが)。そして「経済の「常識」を疑ってみよう」という「はじめに」に続いて、23個の「常識」として、例えば、「市場は自由でなければいけない」、「インターネットは世界を根本的に変えた」、「富者をさらに富ませれば他の者たちも潤う」、「教育こそ繁栄の鍵だ」などということに対して、それは真実ではないと、具体的な例証を挙げながら反論します。そして最後に「世界経済はどう再建すればいいのか」として8個の原則を明示します。

今年の5月のブログで「『経済学は人間を幸せにできるのか』の斎藤貴男は大丈夫か?」(http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/05/blog-post_20.html)と書きましたが、この著者は、自由主義経済の影響で一般の人が常識として受け入れている価値観を、歴史的に根底的に反論、批判し、政府による政策の重要性とその原則を明らかにするのです。

なるほどと思ったことはいくつもありますが、「貧しい国が発展できないのは起業家精神の欠如のせいだ」のところで、小額の金を妥当な金利で貸す(マイクロクレジット)でノーベル賞を受賞した、バングラデシュのユヌスがどうして「うまくいかない」のかと知り、驚きました。しかし説明を受けるとその通りで、小額のお金で牛を買ったり、携帯電話を貸すビジネスをはじめても、多くの人が同じようにし始めるともう利益を上がられなくなる(合成の誤謬)という現実に直面せざるをえなくなります。結局、「「起業家ヒロイックな個人」という神話をはねつけ、起業家精神を集団的に発揮させられる制度と組織をつくりあげる手助けをしなければ、貧しい国々が貧困から抜け出し、その状態を維持することは決してない」のです。

ここから想像できるように、著者は資本主義経済においては、この30年の自由主義経済が誤っていると断言し、政府による金融規制を強調しながら、社会保障の充実(しかしそのあり方は各国の状況に応じて異なる)、公正な社会実現は、「私たちの目標、価値、信念次第」と具体的なことは読者に投げかけます。経済は専門家でなければわからないのでなく、食品や環境と同じように、普通の市民が「活動的経済市民権」を行使して、「重要な原則」と「基本的事実」を把握すればいいというのです。

「脱工業化」という「常識」にも著者は批判的で、インターネットやサービスを過大評価しているとしながら、ものづくりの重要性を強調します。そこで「研究開発」と「職業訓練」の重要性を彼は何度も取り上げています。

私は川崎のことを思い浮かべました。工業化ということで素材・装置産業を推進して臨海部を作ってきた産業政策を見直し、中小企業がものづくりを続け生きて行けるようにするには、地方政府が中小企業と一緒になって(資金援助をして)、研究開発の機関をつくるしかないと、再確認しました。この点は川崎の中小企業が研究開発を今後継続して自力でやっていけると思っているのか、自分たちも一緒になりながら地方政府の支援を受けて研究開発機関を作ってほしいと思っているのか、確認していきたいと思います。

「伊藤部長との対話を求めてー臨海部と中小企業の将来について」
http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/11/blog-post_24.html

2010年12月13日月曜日

12・5女性国際戦犯法廷から10年の集会の報告記事への投稿の紹介

本当に一年、はやかったですね。なんか、毎年、はやくなるような
気がします。

12月9日の報告記事に対して、ふたつのメールがありましたので、
御紹介します。

崔 勝久

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この記事を送ってくださり感謝です。
知っている人の名前を見つけて「頑張っているね」と思いました。
女性たち(とこころある男性たち)の粘り強い闘いが
少しずづでも流れを変えていっていることを信じます。

大阪のSYさんより

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この活動は、とても大事です。次の機会には必ず出席します。

世界の到るところで、現に人間狩りが(戦争などと共に)公然と行われ、
主に子供・女性を売り飛ばす、グローバルな奴隷貿易が世界的に展開
されています。

そして例えば、コーヒーやバナナなど農業分野では、飢餓賃金で死の
労働をさせられ、その「有機」産品が「フェアトレード」と推奨されている。
先進国の消費者が歓迎する! 

私達は、飢餓するひと達の上で踊る、あやつり人形のようです。
つまり、黒幕が居るわけで、しかしそれは人間の顔をしていない。

こうした現実の、多面的なリンクを、きちんと見て行かないと、と
痛感します。

現代の植民地主義の一現実、その課題に対して、自分に何が出来るか、
きちんと対面して行きたい。

川崎の伊藤さんより

2010年12月6日月曜日

「市民の会」の一年noを振り返って

みなさんへ
12月に入ったなと思ったら、もう第二週ですね。既に忘年会や集会などでみなさん、お忙しいと思います。私のように呑み過ぎにはご注意ください(笑い)。

「市民の会」とは、「新しい川崎をつくる市民の会」のことです。昨年の市長選で、阿部市長候補に対抗する候補者をお呼びして1000名集会を企画しました。しかし3名の候補者は全員、まるで言い合わせたように、集会当日、午後になって集会参加をキャンセルしてきました。それでも70名以上の人が会場に集まり、「新しい川崎をつくる市民の会」を作るべきだという声に応えてつくったのがこの会です。

この一年で「市民の会」がどのような歩みをしてきたのか、「市民の会」事務局の最長年者が「市民の会」記録のHPを作成し、学習会の実施、ブックレットの発行、市議会への陳情書の作成、臨海部や「国内植民地主義」や「多文化共生」に関係する論文などを整理してくれました。4-5時間にわたる学習会のテープ起こしも大変な作業だったのですが、公表できることを心より感謝します。是非、一読下さい。
「新しい川崎をつくる市民の会」の記録:http://www.justmystage.com/home/fmtajima/

なお、「市民の会」の公式のHPは別途、この一年の歩みを総括し、中長期的にどのようなことをなすべきなのかを思想的に、実践的に模索していきながら公表したいと思います。いずれにしても3年後の市長選には、臨海部の産業政策、外国人の政治参加(国籍条項の撤廃)、住民主権に基づく地方自治の具体的なあり方などについて、私たちの意向を反映させることができる市長候補を擁立したいものです。

川崎における多くの市民運動に携わっているグループ、個人との連携を深め、違いよりは共通点を見つけ出し、3年後に備えたいとねがってやみません。みなさん、よろしくお願いいたします。

「市民の会」の一年の歩みをを振り返って

みなさんへ

12月に入ったなと思ったら、もう第二週ですね。既に忘年会や集会などでお忙しいと思います。私のように呑み過ぎにはご注意ください(笑い)。

「市民の会」とは、「新しい川崎をつくる市民の会」のことです。昨年の市長選で、阿部市長候補に対抗する候補者をお呼びして1000名集会を企画しました。しかし3名の候補者は全員、まるで言い合わせたように、集会当日、午後になって集会参加をキャンセルしてきました。それでも70名以上の人が会場に集まり、「新しい川崎をつくる市民の会」を作るべきだという声に応えてつくったのがこの会です。

この一年で「市民の会」がどのような歩みをしてきたのか、「市民の会」事務局の最長年者が「市民の会」記録のHPを作成し、学習会の内容、ブックレットの発行、市議会への陳情書の作成、臨海部や「国内植民地主義」や「多文化共生」に関係する論文などを整理してくれました。4-5時間にわたる学習会のテープ起こしも大変な作業だったのですが、公表できることを心より感謝します。是非、一読下さい。
「新しい川崎をつくる市民の会」の記録:http://www.justmystage.com/home/fmtajima/

なお、「市民の会」の公式のHPは別途、この一年の歩みを総括し、中長期的にどのようなことをなすべきなのかを思想的に、実践的に模索していきながら公表したいと思います。いずれにしても3年後の市長選には、臨海部の産業政策、外国人の政治参加(国籍条項の撤廃)、住民主権に基づく地方自治の具体的なあり方などについて、私たちの意向を反映させることができる市長候補を擁立したいものです。

川崎における多くの市民運動に携わっているグループ、個人との連携を深め、違いよりは共通点を見つけ出しながら、3年後に備えたいとねがってやみません。みなさん、よろしくお願いいたします。

2010年12月1日水曜日

「植民地主義の再発見」(西川長夫著)を読んでー朴鐘碩

みなさんへ

はやいものですね、もう、師走になりました。あっと言う間の1年でした。
みなさんはどのような1年をお過ごしになられたでしょうか。

立命館大学の名誉教授の西川長夫さんが『長周新聞』で連載された文章に加筆・訂正した「新植民地主義の発見」の感想文を朴鐘碩が、「外国人への差別を許すな川崎・連絡会議」の掲示板に発表していますので、下記に紹介します。西川論文:http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage15.html

朴は日立闘争で入社し40年経った今、来年の定年退職を前にして、西川論文が展開する「新植民地主義」に触発されながら、日立製作所という大企業と組合組織の実態を描き、「自分の置かれている状況に合わせて・・・西川論文を理解・解釈」しようとしています。(朴一編『在日コリアン辞典』(明石書店、2010)の「日立就職差別裁判闘争」の項を私が書いています)

同じく、韓国の京郷新聞で掲載された、西川長夫立命館名誉教授と尹海東・韓国成均館大学教授の対談「日韓併合100年と「新植民地主義」―新しい政治倫理への対話―を読んで」について望月文雄さんが感想文を書いているので、合わせてお読みください(http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/11/blog-post_7217.html)。対談:http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage14.html

崔 勝久

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「植民地主義の再発見」(西川長夫著)を読んで 朴鐘碩
             
多国籍企業・「HITACHI」のロゴは、世界の主要都市にあります。今年創立100年を迎えた日立製作所は、31,000人の正規所員、グル-プ全体で約36万人の労働者が働いています。1910年に朝鮮半島は日本の植民地となりましたが、日立は、技術躍進の歴史を記念イベントとして展開しています。技術を誇る記念誌「開拓者たちの挑戦-日立100年の歩み1910~2010-」に日立就職差別裁判は記載されませんでした。技術は進歩しても労働者への「抑圧」は変わりません。日帝の朝鮮植民地化と国策に沿った日立経営100年の歩みは無関係ではないはずです。

植民地から60年(「解放」から25年)経過した1970年、日立就職差別裁判(日立闘争)が始まりました。74年横浜地裁で勝利判決が出され、日立製作所に正規所員として私は入社しました。この裁判は、民族団体から「同化に繋がる」と厳しい批判を受けました。しかし、私は19歳で始まった日立闘争、その後川崎南部(池上・桜本)で始まった子ども会(地域運動)を経験し、「民族」と人間らしく生きることを学びました。日立闘争は、同化への道ではありませんでした。植民地主義に繋がる「同化裁判であったか?」関心ある人たちがどのように判断するでしょうか。「就職差別されて当たり前」の風潮・価値観があった中で、多くの人たちの支援、世界的な運動の力で差別の壁を崩しました。「日立に入ったら、何が起きようとも一人でやるしかない」と覚悟したのです。

2011年11月、(裁判期間を含め)41年間勤めた日立製作所で定年を迎え、私自身の「続日立闘争」は、一旦「終わる」ことになります。悩み、解のない生き方を問い続けているうちに40年が過ぎてしまいました。開かれた民主的な会社・組合組織を目指し、企業で人間らしい生き方を求めて組合活動をやってきました。役員選挙にも自分勝手に立候補しました。自分の置かれている状況に合わせて西川長夫立命館大学教授の「植民地主義の再発見」(http://www.justmystage.com/home/fmtajima/newpage15.html)を理解・解釈しました。

「植民地主義の再発見」を読んで、私の「続日立闘争」は、ものが言えない企業社会、組合組織の「労働者の植民地化」を問うことになると更なる自信を深めました。(日本人)労働者にとって「民族差別は関係ない、どうでもいい問題」のようです。また組合(幹部)の組合員への人権無視は日常茶飯事です。差別・排外と沈黙を強いられている労働者の問題は表裏一体です。これは日立の経営方針、職場環境、組織のあり方など全て繋がっています。

「植民地主義」の陰険な「隠蔽の方法は、逆に触れることなく意識下に抑圧するやり方です。人種差別や植民地主義の隠蔽はその代表例で、差別する側の人間がそれを自覚することは決して容易ではない。また仮にそれを自覚したとしても、私たちの思考や感覚や身体的な反応から、内面化された植民地主義を摘出し排除することは極めて難しい。」

組合幹部は、労働者にものを言わせない(言わない)暗い職場環境を作っています。組合員エンジニアたちは、おかしいあるいは疑問に感じることがあっても誰一人「触れることなく」、「抑圧されている」のが実態です。「ものが言えなくてもいい。労使幹部が一方的に労働条件を決定してもいい。生活できればそれでいい」という「思考や感覚や身体的な反応から、内面化された植民地主義を摘出し排除することは極めて難しい」ようです。

どこの世界でも言えることですが、人間らしく生きるために生き方をかけて、自ら属する組織を批判することは並大抵のことではありません。しかし、「堕落を救ったのは抵抗運動でした。だが抵抗運動があったがゆえに、その堕落さの深刻さに対する考察が弱められるということが起こりえたのではないでしょうか。」「堕落」は、植民地主義を補強します。

「植民地化は、住民やその土地を変えてしまう」が、企業社会における「植民地化」は経営者幹部・エンジニア(労働者)の理性や倫理観、人格まで「会社人間」に変えてしまいます。そのために様々な矛盾・問題・事件が起こりますが、根本解決するために互いに議論することはありません。「植民地主義は、私たちが社会や様々な集団の中で占める位置によって姿を変え、あるいは姿を隠して現れ」ています。労働者を「擁護する」連合あるいは「人権」を標榜する運動体にも言えるのではないでしょうか。

毎年11月は、人権週間があります。(東京)人企連主催で、加盟企業は人権標語募集の案内を全従業員にmail展開します。優秀作品は表彰されます。人企連および運動体との関係の詳細は「日本における多文化共生とは何か」を参照してください。

「新植民地主義の本質は、その下にある国家は、理論的には独立しており、国際法上の主権のあらゆる外面上の装飾を有しているということである。現実には、経済体制・政治体制は外部から指揮されている。」民主党現政権を支える連合傘下の企業内組合はじめ多くの組合は、労働者の人権を「外面上」「装飾」し、「独立」しているようですが経営者に「支配」されています。「組合を裏返せば会社になる」ことは、「沈黙している」組合員は十分承知しているようです。

「独立した国の内部には植民地や植民地主義はありえないとする民族主義的な前提が、国内における植民地的状況、収奪や抑圧、差別や格差、等々、などの存在を見えなくしていることは事実です。」これはまさに「共生」を標榜する川崎市の「外国籍職員の任用に関する運用規程」(「当然の法理」を理由に外国籍職員に許認可の職務・決裁権ある管理職に就くことを制限するマニュアル)、阿部現市長の「準会員」発言、戦争責任を問わない組合幹部の「労働運動」を厳しく批判しています。

西川教授は2009年2月2日横浜国大で「多文化共生と国内植民地主義」をテ-マに講演し、翌日、「川崎連絡会議」との交流会において「小生がこの2,30年間、書いたりしゃべってきたこと(いわゆる国民国家論)は、一口で言えば、この「当然の法理」に対する闘いであったと思います。」と結んだ言葉が印象的で今も脳裏から離れません。「私たちは現在の植民地主義に対して闘わなければならないとおもいます。」

日立闘争がそうであったように自分の置かれている現場で、個別・具体的な活動を通じて、思想・信条を乗り越えて対話を継続し共に歩むことが人類の永遠なる課題である「植民地主義」を克服し、歴史の和解を目指す近道であるような気がします。

2010年11月27日土曜日

(アスベストの)なにが危険であるかの評価基準もないのに、安全も危険もない!ー渡辺治

皆さんへ

この週末はどのようにお過ごしですか。

今日は、「臨海部の未来を本気で考える会」の渡辺さんのHPのブログの内容を紹介いたします。アスベストが危険で多くの問題を抱えていることは知っていましたが、「評価基準」がないということは初めて知りました。



同様に、二酸化窒素の数値ももまた公害問題の大きな評価基準になるのですが、これも現在設定されている基準が何に基づくものなのか、どうして基準の変更がなされたのかということは曖昧です。

研究者によっていろんな説があるようですが、問題は、現在、川崎の小児喘息の罹患率は全国平均をはるかに超えているという事実です。川崎北部では小学校区でなんと17%のところがあります。児童100名のうち17名が喘息だというのです。

これも二酸化窒素だけが原因ではないと言われていますが、二酸化窒素がその大きな原因のひとつであることは間違いありません。小児喘息が自動車の排気ガスによるものなのか、臨海部の工場から発生するものなのか(臨海部の高い煙突から出される公害物質が海風に乗って北部に流されているという説もある)、それらの複合的なものなのか断定はできません。

しかしこの罹患率の高さは何を意味するのか、それに対してどのように対処するのか、この問題も、行政・企業・市民による調査、研究、具体的な提案が急務だと思われます。川崎の公害運動に関わってきた人たちのご意見をお願いいたします。

崔 勝久

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なにが危険であるかの評価基準もないのに、安全も危険もない!

今、日本のアスベストのレベルというのは世界から本当に立ち後れている。

それもそのはず、いったいどういった状況が危険であるのか、安全であるのかの判定する基準さえもうけておらず、それなのに、安全だとか危険だとか論じている世界で、これ以上が危険という数値を決めていないのに、そんな論述はなりたたない。

これを、ばかみたいに時間をかけてやっているといおうか、ただ、問題をなかったことにするのに、政府や行政がうまく使っているだけである。

例えば、亜硫酸ガスが危険かどうかとうことを論じるのに、何PPM以上を危険とする、ということを決めていないのに判定が不可能であることと同じように、アスベストでは、まったく決められていない。

これが、アスベスト問題を解決する上で、また、被害の拡大を防ぐ上のさまたげになっている。

最近の、水戸参議院議員の国会答弁でも、最後に、基準値を検討して定める必要があるとした主張に対して、環境省は、まったく答えなかった。

つまり、アスベスト問題を解決したくないのである。その間に被害は出続け、人はどんどん亡くなっているのに、それを知らないふりをしているということでもある。

もし、このまま中皮腫や、肺がんが増え続け、そしてその責任が、基準値をもうけなかった環境局の「不作為」となれば、環境省の責任はまぬがれない。

今、求められているのは、スレートが粉々になった時にはどのように飛散して危険なのか、また、湿潤したらどれほど安全であるかの、科学的データだろう。

これをまったく知らずに、スレートが安全かどうかの論議もなりたたないのがなぜ分からないのだろうか。多分、論議すらしたくないのだろう。

アスベスト問題は、まさに国や自治体の「不作為」他ならない。

渡辺治 「本気で臨海部の未来を考える会」HPより
http://www.owat.net/rinkaibu-mirai/rinkaiblog.html

2010年11月24日水曜日

伊藤部長との対話を求めてー臨海部と中小企業の将来について

みなさんへ

昨日、私が臨海部の、事務局の責任においてテープ起こしした質疑応答資料をみなさんにお送りしました。

当日の講演者の伊藤和良、川崎市経済労働局産業政策部長から私のコメントに対して注意がありました。その内容は、私が引用した伊藤さんの「川崎は工業化のなかでしかやっていけない」という発言は、前後の説明がないので誤解される恐れがあるというものでした。

そのため伊藤さんの当日のプレゼン資料の核心部分を添付資料にしてみなさんに公開させていただきます。なお、さらに詳しい資料を望まれる方は私に連絡ください。大変熱のこもった、貴重な資料だと思います。

★伊藤さんの講演の趣旨は3点です。
1.脱工業化とは異なる、工業都市としてのDNAを受け継いだ「新たな世界モデル」を作りたい

2.京浜臨海部が競争力を失うことは、日本全体の問題であり、京浜臨海部は首都圏に隣接し好立地にあり、研究開発の拠点として次世代製品を開発する最適の苗床として活かしていきたい。

3.ものづくりの夢を壊さないでほしい

★私の意見と伊藤さんとがすれ違っているのは次の2点です。

1.脱工業化は先進国の歴史的な流れであり、そのため臨海部の6-8割の面積を占める素材・装置産業(石油、鉄鋼業など)はこの10年で統合・縮小を余儀なくされると予想されるが、伊藤さんはこの点に関しては一切、触れていませんし、行政としても市民、企業、研究者と一緒になってそのための準備をしようとしていません。市長選でもこの数十年、産業政策論が闘わされたことがありません。これは川崎の未来に関することで避けてはならない問題です。

2.臨海部や中小企業が世界的に競争力を失わないように、活性化させること(及びものづくり)の重要性は認識しますが、問題は行政がそのためにどのような政策を出すのかという点と、経済の問題は経済だけで終わらず、自治の在り方、教育、福祉全てと関係し、世界に誇る国際都市・川崎にするには、まず国籍における差別を行政自らがなくさなければならないという視点です。この点でも伊藤さんのご意見は伺うことができませんでしたし、現市長も沈黙を守っています。

★私は、伊藤さんが中小企業に貢献したいという思いを強く持たれているようなので、例えば市として、中小企業のものづくりに役立つように、研究開発の拠点を作るように、伊藤さんが自ら、行政内部で強く働きかけるようにされれば、私たちも協力したいと思います。

★川崎に研究開発の拠点は200以上あると、伊藤さんは報告されていますが、これは大企業が独自にやっているもので、中小企業のものづくりを残し、発展させるには、そして新たな産業を興すには研究開発が不可避です。これまで、中小企業は大企業の下請けであったのですが、独自に生き残るには、市が研究開発の場を作りそれを彼らが自由に活用できるようにすることが、市としてやるべきことだと思います。数多い必要な政策の中で、市がやるべき最大の政策はこの点だと思います。


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崔 勝久
SK Choi

2010年11月16日火曜日

日韓併合100年と「新植民地主義」―新しい政治倫理への対話―を読んで(望月文雄)

韓国の京郷新聞で掲載された、西川長夫立命館名誉教授と尹海東・韓国成均館大学教授の対談が、立命館大学の『東アジアの思想と文化』(第3号、2010年10月、アジア思想文化研究所)で翻訳され大幅に修正・添削されて掲載されています。同研究所の承諾を得て、広く多くの方にその対談を読んでいただくべく、望月文雄さん(「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議代表」のHP(Syndrome)に転載をお願いしました。対談についての望月さんの感想文を紹介いたします。日韓の知識人が「併合」の違法性に抗議したことを批判し、現在の国民国家による「植民地主義」を正面からとりあげるべきだとする対談内容に注目したいと思います。http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_%20page_206.htm

崔 勝久

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日韓併合100年と「新植民地主義」―新しい政治倫理への対話―を読んで

               望月 文雄

2010年1月4日韓国の京郷新聞掲載記事「韓・日併合100年、現在と未来を問う」の日本語訳を読んでの感想です。自分の認識不足を少なからず指摘され、変革を促されている時代の中での在り方を啓発されるものでした。

1、1989年の歴史的認識
 「グローバル化と2010年」という項のなかでの尹教授の発言1989年の社会主義陣営の崩壊が「近代の終焉」または「新しい時代への移行」のきっかけになったと思う、という発言に西川教授は、1989年はフランス革命200周年と重なり、「天安門事件」があり、ベルリンの壁が崩壊したその年です、とその年の重要性を語り、「フランス革命とは何か」と設題して「フランス革命については人権宣言を含め、会報的な側面のみが注目を引いてきたが、革命が植民地主義を乗り越えることはなく、革命を受け継いだ共和政は、むしろ植民地主義を推進し、アルジャリアやベトナムなどを含む一大植民地帝国を形成したと述べる、現在のフランスが「植民地主義」をいまだに身解決であることを指摘しています。

 このことは現在の世界的強硬の原因を産んでいる「新植民地主義」の根幹と同一であると宣言します。新植民地主義は「勝者の独り占め社会」両極化(勝者と敗者)社会への現象に象徴されると両者は論じます。西川教授は植民地主義とは資本と国家による搾取と抑圧のグローバル化された形態であり、1989年は新しい植民地主義の始まりでもあると提言しています。

2、歴史意識の問題
 この項でわたしが考えさせられたのは「併合」という言葉に対する西川教授の見解です。「併合」という言葉は条約を締結する当時に新しく作られたもので、AとBが一つになるという意味で、朝鮮を徹底的に従属的な地位に置くことを露骨に示しながら、同時に「併合」という言葉から感じられる平等なニュアンスをあたえるために考案されたものだと指摘します。これに対し尹教授は韓国では「強占」という言葉が使われるがこのことばでは植民地の包括的問題を盛り込めないといいます。両社は植民地じだいについての歴史教科書に記述について「民族の英雄的な抵抗運動のみを打ち出すのであれば、植民地化が植民地支配者をいかに野蛮にし、植民地化された人々の悲惨と堕落について等の問題は欠落してしまうという指摘は強烈です。そして、両者は「内面化された植民地主義を各自が見直す必要を強調します。

3、新たな東アジア共同体をめぐって
 日本の韓流ブームの功罪に触れていますが、西川教授の「わたしは一般に韓流と言われているものに疑問をもっています。ユン様に熱狂するのはどのような階層の人々で、何に熱狂しているのでしょうか。わたしが見たところでは、かって小泉首相を追っかけていた女の子やおばさんたちが、今度はユン様のファンとなっているような気がしますね」と述べている部分は正論でしょう。教授はさらに「ヨン様を賛美することは、韓国人に対する差別の感覚が下敷きになっているのではないか、そんな印象を受けます」と私見を追加しています。これを受けて尹教授は「健全な市民社会が成立しなければ、健康な東アジア共同体はありえないということ」と同調しています。

4、普遍的な共同体の構築のために
 西川教授の「西洋近代の歴史をたどれば、市民社会というのは、決していいものでも、ありがたいものでもなく、公共性も同様です」という発言は注目すべきでなないでしょうか。教授は公共性について「アングローサクソン的な脈略と、フランスの公共性の概念との間には、大きな違いがあるといい、フランスでの教強制の現れとしてイスラム教徒に対するブルカの着用禁止にふれます」が、「アングローサクソン的な脈略」に関しては言及しません。これは一寸理解が不足するように思えます。

しかし、市民社会を構築するには避けて通れない問題が話合われています。尹教授の「わたしは、ハンナ・アレントの公共性の概念と、東アジアに「おける儒教的な公共性の概念を作ってみたかった」という発言からどのような市民社会が望ましいのかと「定住者でなく移民と難民が中心となるような市民社会がモデルですとテーゼを展開し、メルチの「問題があると集まって来るが、それが解決されればまた散らばっていくという、移動しつづける不定形の共同体、フランスの文学者モーリス・ブランショのいう「国籍や年齢、身分や職業の異なる、多様な人々による集まりの『コミュニケーションの爆発』に通じる共同体」を提示する西川教授。これらの裏面には古語の市民の強い独立意識が前提されるという意味合いが含まれるのでしょう。

5、未来に向けて
 尹教授のオバマ大統領のノーベル賞受賞演説での「正義の戦争」発言への失望感に同調して西川教授はオバマ発言の問題点を解明して言います。「オバマは、就任演説でアメリカの建国者たちの名を挙げながらかれらに帰らなければならない。その理想を継承すべきだということをしゃべりました。オバマは、アメリカが今までやってきた戦争をすべて肯定したのです。「正義の戦争」というのは、その延長線上で出されたものです。わたしはオバマの演説を聞きながらすごくいらいらしました。アメリカの建国者といわれる人々こそが、先住民である「インディアン」を暴力的に追い出して国家を建てた張本人ですね」と。

 自分の市民としての自覚をどのように確立すべきかという観点から、非常に激越な示唆に富む対談記事でした。

ソウルのタクシー運転手の話し

先週、私は大阪の高校の同級生家族と3泊4日の韓国旅行を楽しんできました。今回は、韓国で一番食べ物がおいしいといわれている全羅道、全州と木浦を回りました。マッコリ(どぶろく)を頼むとヤカンででてきて、そこに10種類以上のおかずがつきます。そしてそのおかずはお代り自由なのです。それでも1000円くらいでした。

木浦は人口30万人ほどの港町で、海辺のすぐ傍に山があり、そこからは植民地時代に開港された街並みが一望できます。海に面した一等地は大きな道路が交差する日本人街で、山の後ろには朝鮮人の居住地が見えます。そこは人が二人並んで歩くのさえ困難な狭い道が曲がりくねっています。悪名高い東洋拓殖の建物が歴史館になっており、植民地時代の写真が多く見られます。歴史に関心がある人、韓国料理が好きな人には是非、訪問されることをお勧めいたします。

韓国併合によって韓国の近代化に寄与したという話しの嘘は、その山の上から見回せばすぐにわかります。日本が、全部、自分たちにいいように搾取するためにしたこと、鉄道もその為のものであることは一目瞭然でした。その木浦でタクシーの運転手が、ここは大韓民国で一番過ごしやすいところだと自慢げに言っていました。海と山があり、食べ物がおいしいのですから、その気持ちもわかるような気がしました。

私は同級生一行とは別にソウルにもう1泊したのですが、そのときに乗ったタクシー運転手は74,5歳で、梨泰院を通りかかったときに、ここは若い人がお酒をよく呑みに来るという話になり、最近の男は、草食系で頼りないと言い出しました。ある日、若い男がべろんべろんに酔った女の娘を介抱しながら、自分にタバコの火をくれと言ったので、お前の親父はわしより年下で、そんな年長者にタバコの火をくれとは何事か、すぐにその女と一緒にタクシーから降りろとどなった、という話でした。

御存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、韓国は儒教社会で、年長者への敬語は絶対的で、年長者の前ではタバコは吸ってはいけないということが常識化されているのです。ですから、タバコの火をせがんだその男の子は、ハラボジ(お爺さん)タクシー運転手に怒鳴られ、急いでタクシーを降りたのでしょう。まだそのような価値観が生きているということですね。

翌日の最終便で成田に着いた私は、G20の厳しい警備で1時間くらい遅れてソウルを出発し、東京への列車は最終便になっていました。へとへとに疲れ、腰も痛く、荷物も多かったので乗換えた列車の中で座りたかったのですが、あの「優先席」に若い女の子が3人座って話しこみ、化粧をしながら笑いこけていました。ちょっと、あんたら、ここは「優先席」でこの私に席を譲ろうとは思わないのか(都合のいいときに、老人になるのですが・・・)と言いかけましたが、やめました。

私がそのとき思い出したのが、ソウルでの年配のタクシー運転手の自慢話でした。そうか、あそこではお爺さんに怒鳴られて若い人は黙って降りても、ここでは、私が怒鳴ったらなんでそんなことで言われるのかと却って反発をうけるだろうなと思いながら・・・

権威主義、年長者への敬意、疲れた私はいろんなことを考えながら多くの荷物を抱えて新川崎駅を降りました。いかが思われますか、みなさんは。

2010年11月14日日曜日

政府の「多文化共生」政策の思惑と地域における実態、その乖離―「同時代史学会」で想ったこと

昨日、立教大学で「同時代史学会」研究会がありました。発表者は、一橋の博士課程の和田圭弘さんと、立命館の非常勤講師の山本崇記さんの二人でした。和田さんは「1960年代の在日朝鮮人朝鮮語文学圏の金石範―比較リアリズム文学」に向けて」、山本さんは「高度成長期における在日朝鮮人と福祉運動―都市下層社会の変容から考える」という内容の研究発表でした。

金石範は在日を代表する作家であることは間違いなく、その作家の文学論を「リアリズム」と本人が主張している背景を中心にした発表だったのですが、コメンテーターの説明から、「リアリズム」論は北朝鮮の金日成体制の確立過程と在日の組織との関係、またその組織から離脱する本人の立ち位置との政治的な絡みの中で考えられ、文学論としてのみ捉えるべきではないということを知り、納得です。

私としては、まず「在日文学」というカテゴリーの設定が気にかかりました。金達寿以降の在日作家を「在日」というくくりでカテゴライズできるのか、私には疑問です。また、金石範に関しては、在日社会における彼の果たした役割をプラスの面だけでなく、マイナス面を含めてさらに徹底した研究がなされればと思いました。

山本さんの発題は、京都の非差別部落の中の朝鮮人がどのような位置にいるのかについて知ることができる、大変興味深いものでした。「多文化共生」という単語さえ、地域においてはハレーションをおこすという発表者の意見で、地域に住む「在日」が本名で権利の主張をして、被差別部落の運動の中にある民族差別や差別意識と対峙する活動が簡単でないこと、地域運動として地域の変革に関わる「在日」の主体がどのような意識をもっているのか、それと既存の民族団体との関係、在日韓国教会との関係、またその地域出身の「在日」が労働者と自己規定し運動を進める場合の地域社会との関わりなど、さらに意見交換を続け交流を深めたいと思いました。

今日のタイトルは、平成21年4月1日の総務省自治行政局国際室調査による「多文化共生の推進に係る指針・計画の策定状況」(参考資料4)と山本さんの話し、及びその地域の中でカソリックの司祭がはじめた「地域福祉センター」が発行した資料を合わせて付けたものです。

地域としては、被差別部落の中で「多文化共生」という単語さえハレーションを起こし、「在日」としての自己主張が簡単ではないという状況下で、そのセンターの記念誌では、「真の多文化共生」は「異なる多様な国籍や出自の者」だけでなく、「さらに異なる多様な心身の状態にある者」が「お互い尊厳ある人間として認めあいながら、地域社会の構成員として豊かに生活すること」と、もはや「多文化共生」という言説を超えるような位置付けがどうしてなされているのか、その背景を考えると、総務省が強調してきた「多文化共生」施策に対して、1847(都道府県47、市町村1777、特別区23)のうち、「多文化共生」を策定していない、今後もその予定がないが、77%を占めている実態が見えてきます。

すなわち、政府は「多文化共生」という旗を振るのですが、実際の地方自治体においては、予算や首長の意識から、その施策は具体化されるどころか、関心さえもたれていないということです。しかし予算がつくので、外国人の居住地域では「多文化共生」という名で「事業」を展開することが模索されているということのようです。「多文化共生」施策が、本当に地域社会の変革につながるのか、外国人施策として特化されて終わるのか、「多文化共生」という単語に惑わされないで、地域社会の実態を直視する必要があると痛感します。

また西川長夫さんの本を読みなおすなかで(『<新>植民地主義論―グローバル化時代の植民地主義を問う』)、「多文化共生」の「文化」とは何か、それは国民国家の成りたちとも関係し、国家・民族の独自性の強調で異なる者の排除を前提にしたものであった経緯を考えると、安易にこの言質を使うことは慎まなければならないのではないのか、改めて考えさせられます。みなさん、いかがでしょうか。

それと若い研究者が中心の学会であったのに、私のような「在日」の現場からものを言い、具体的な行動を考えている者に対する関心がないようで残念でした。アカデミニズムの世界で生きようとすれば、現場に関わるべきであるということでなく、生きている現実の世界への関心を持って研究を深めてほしいなと思いました。これは私が歳をとってきたということなのかしら・・・

2010年11月1日月曜日

(オキナワ那覇司教からのメッセージー正義と平和全国大会開会ミサ説教

みなさんへ

たまたま『ウシがゆくー植民地主義を探検し、私を探す旅』(知念ウシ、沖縄タイムス)を読んでいるところに、九州の知人から、沖縄那覇でもたれた「正義と平和全国大会」での開会ミサの説教の内容が送られてきました。

沖縄、「在日」、ジェンダー、外国人労働者、多文化共生、格差の拡大、これらをトータルに、現在の問題として捉える必要を痛感します。「韓国併合100年」の今年、それを問題にするのであれば、過去の「併合」の国際法上の合法性ではなく、まさにこの社会が過去の植民地支配を払拭することなく、今、植民地支配を継続してきているという事実ではないでしょうか。

沖縄の声に耳を傾けたいと思います。

崔 勝久


(オキナワ那覇司教からのメッセージ
2010年9月

《守礼の邦は踏みにじられて》
オキナワは戦後と日本復帰を未だ実感していません。沖縄の司教も司祭、助祭団も修道者も信徒も当然のことながら基地反対です。このオキナワ問題の根源に目を向けないで、「反対」、「平和」、だけを唱えて沖縄に連帯にしていると嘘ぶいている政府と日本国民の無関心と偏見と差別意識に対して沖縄は単なる基地反対そのもの以上に苛立ち、抗議しています。

沖縄の空にはハトがふさわしい。鉄の翼が轟音を立てて、我が物顔で飛び交う空、それは本来あるべき南国沖縄の紺碧の空には異様な光景です。一日240数回も、轟音とともに軍事訓練の離着陸をする戦闘機、しかも岩国基地所属やグアム、ハワイ所属の最新鋭F22や、F15機も大量に飛来しての訓練です。空だけではなく、地上では町、村、山地を無差別に夜昼関係なく基地に絡む様々な弊害、米兵による人権無視の犯罪行為等、数え上げるときりがない。そのために綱紀粛正を唱えているが空しいばかり。

ヌチドゥタカラを生きる沖縄は琉球王国時代から、平和と守礼を重んじる邦だ。チムグルイを敏感に生きるウチナーンチュには、人間の尊厳を肝に銘じ平和を求める心が今も根強く生きています。

平和を甘受している日本の皆さん、皆さんの今日ある経済的発展と、「平和ボケ」の裏には、沖縄が「捨て石」同然、65年間、今日にいたるまで、戦後処理の犠牲にさらされている現実に目を向けてください。この平和の地を、沖縄の心、県民の声を無視し続けて、戦争に備え、「太平洋の要石」として基地を押し付けている日本国民と日米両政府に沖縄全県民は強く抗議し続けています。日本人は沖縄差別の潜在意識に自ら目覚めて欲しい。これが那覇教区を含め、沖縄県全宗教者が終始一貫して発言し続けている祈りです。

那覇教区民も沖縄県民と心を一つにして行動し、宗派を超えた「沖縄宗教者の会」とともに、基地反対・平和と祈りの集会を毎年行なっています。政派、宗派を越えて、沖縄は不当な基地には反対のスタンスをとっています。心のこもらない机上で捏ね上げた文書や、行動の伴わない声明文などたいした意味をもたないと感じられてなりません。

《今頃、普天間を取り上げる中央のメディア》
「アメとムチ」に翻弄され、莫大な振興事業も本土企業に吸い上げられるだけで、基地絡みの補助金や交付金は何ら経済発展に結び付きません。沖縄の人々の誰一人として基地を容認するものはおりません。私たちは沖縄の信徒も県民も、日本人(敢えて沖縄県民以外のヤマトンチューを指す)が、沖縄をどのように考え、取り扱ってきたか、正しい歴史認識を見極めた上で沖縄問題に取り組んでもらいたいと主張しています。

最近、普天間飛行場問題が政治の場だけでなく、社会問題としても注目を集めているが、これに対して日本人は皮相的な同情論や現実離れした意見を述べ、連帯などと申して、ほんの一部の人々が来県し、発言しているのを見受けますが、日常の生活では「沖縄の問題」として胡坐をかいているだけと感じられてなりません。沖縄で基地を囲み米軍に声を張り上げてご満悦してどれほどの意味、効果があるのか、これで沖縄の痛みに連帯したなどと自己満足に陥っているのではないかと疑わざるを得ません。それよりも永田町で日本人に向かって、政治家と民衆に沖縄問題を問いかけるべきです。

「安全保障」、「外交政策」、「日米同盟」、「国益優先」などを理由に、日本政府と国民は沖縄だけに基地の固定化を図ってはばかりません。戦後の経済発展と平和維持を甘受している日本。そのために沖縄だけに基地問題を押し付け、「配分正義」などどこの県も真剣に取り上げてはくれません。安保を堅持しようという全国の知事たちにして、基地を受け入れない。日米安保の前提が崩れています。他の県が受け入れないから沖縄が受け入れる以外にないと、一種の差別を平気で固辞しています。日本政府は政権が変わろうと、琉球処分以降、東京政府がもってきた体質が根底に流れていると沖縄県民は感じています。

《千の談話・声明文より行動を!》
基地反対とか平和アピールとか、声明文など机上で捏ねた作文を発するより、沖縄がやっている民衆による大集会を、その万分の一の規模でもいい、東京で行ってください。日本国民の関心がどの程度のものか、誰も読まないような作文より目に見える行動、汗を流す皆さんの行動からのうねりこそ、沖縄と連帯、人々に基地の問題を意識させるものだと思います。「平和」の反対は「戦争」ではない。平和と戦争に関して、「無関心」であること。愛の反対が憎しみではなく無関心だ、とのマザーテレサの言葉と同じです。

沖縄の目線で普天間報道を行わない日本本土のメディアにも日本人の無関心はあらわれている。それは、今年のJCJ賞に沖縄の二地方紙「沖縄タイムス」と「琉球新報」が選ばれたことでも表れています。受賞の選考理由として全国紙が米国一辺倒の報道に終始する中で、「沖縄県民の怒り、悲しみを伝えるとともに、日米同盟の種々の問題を掘り起こした」ことを指摘しています。

《カトリック正義と平和委員会に提案と要望》
基地反対を呼び掛け、沖縄に連帯して不正義に基づく沖縄の基地に真剣に取り組む姿勢があるなら、沖縄に来て「座り込み」や基地を取り巻く「人間の鎖」などに参加するよりも、東京で大集会を開いてください。三万人集会を東京で、政府のお膝元でやってください。首都圏の日本人の沖縄に対する無関心さを呼び覚ますために。三万人集会でも、基地反対に対する沖縄県民の声と毎回開かれる県民、市民集会に比べればその千分の一すらなりません。

沖縄に本気で連帯する気持ちがあるのなら、沖縄ではなく政府のお膝元で大集会を開く行動をとるべきです。国益の名のもとに、沖縄だけに犠牲を強いているのを平気で見過ごし無関心でいる日本人に日本のど真ん中で大衆のうねりを見せてください。
皆さまの誠実な連帯に期待しています。

カトリック那覇教区
司教 ベラルド・押川壽夫
(正義と平和全国大会開会ミサ説教で谷司教が朗読)

うれしいメールをいただきました。

臨海部についての第二回目の懇談会の講師をしてくださった伊藤和良産業政策部長から、メールをいただきました。今回の懇談会の内容に関する私のコメントについて、大変、心のこもったメールをいただきました。発題された資料を作成していただいたということですので、この点もみなさんにお知らせします。希望者は連絡ください。
(http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/10/blog-post_30.html)

私はますます対話の重要性と、しっかりとものを考え発言していく市民の責任を痛感しています。臨海部に関する学習会を続けるとともに、川崎にある市民運動の横のつながり、活性化についても考えていきたいと思います。これこそが川崎をよくしていく最も重要なものであると確信するからです。いろんな意見、立場の違いがあるでしょうが、違いではなく、共通点を探りながら、大きな市民のうねりを作り上げたいものです。

崔 勝久

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崔 勝久 さま

おはようございます。ブログも拝見しました。
(中略)
資料は本日、コピーしてお渡しできるようにします。これなかった他の人にもお配りできるよう、少し多めにコピーしておきます。準備ができましたら、メールしますので、なにとぞ、よろしくお願いします。

川崎市経済労働局産業政策部長  伊藤和良

2010年10月30日土曜日

臨海部についての市民懇談会の報告、行政の現場から

みなさんへ

今日は朝から大雨で台風の影響があり、JRの運行に支障があったようです。それにも拘わらず10名を超える人が集まりました。今回の講師は、川崎市経済局産業政策部長の伊藤和良さんでした。

「工都100年を支えた基礎技術と先端技術の将来展望」「自治体の使命は高い理念に基づき、地域で汗をかき続けること」「川崎市におけるオープンイノベーション 産学官連携・知財戦略の紹介」という伊藤さんの準備されたレジュメに記された内容からも、彼が何を言いたいのかわかります。

55歳になられるという伊藤さんは、市の第一号の「遊学生」としてスウェ―デンに行き、それ以来15年に渡り、毎年5月に訪れ行政マンとして街の変化を見守っているとのことでした。川崎の工業都市としての伝統を活かし、生き残りに苦しむ中小企業に役立つようにできることは何でもやるという熱血漢で、毎週金曜日の早朝にもつ学習会は800回にもなるとのこと、中小企業に寄り添っていきたいという言葉が印象的でした。スライドを使った90分の講演はよく準備されていて、流れるようなスピーチでした。

川崎の「光と影」ということで、臨海部を夜観光する企画を立ち上げたり、公害の街を「環境の街」に変え、素材産業から研究開発の都市へ、知財戦略を重視する川崎市きっての理論家であり先頭に立つ市の行政マンであるとお見受けしました。川崎のDNAは工業であり、市の役割はコーディネートととらえ、大企業と中小企業、大学間の連携を深め新たなビジネスを作り出すという思いもよくわかりました。

今回は伊藤さんの産業政策部長としてやってこられたことを中心にした講演だったのですが、私は、彼の誠意・熱意は理解できても、それでは川崎市の将来を見越した政策はどうなのか、何を川崎市の問題としてとらえているのかという点では、今一、残りの90分では十分な話を聞けませんでした。

スウェ―デンの市民の実態を見てこられた伊藤さんにとって、川崎市の「タウンミーティング」のように、行政主導で行政は市民の声は聴いても(学者の意見を取り入れ)、何もしようとはしないという意見がありましたが、何よりもこのような市民の参加の器を上から作るだけで、市民と一緒に課題を担い対話から具体策を練るという姿勢をもたない、民主的ではない行政のあり方から街づくりは可能なのかという、最も根本的なところをどう思っているのか、実はこの点がよくわかりませんでした。

臨海部の将来に関しては私企業のことでありよくわからないという説明でしたが、臨海部は川崎市全体の2割、その6割をJFE(元日本鋼管)が占めていて、これまでの工業化の中心であった石油や鉄鋼の素材産業が間違いなく変わらざるを得ない(研究開発や新製品の開発など付加価値の高い脱工業化産業に向かうということがはっきりとして来ている)というときに、何も考えていないというのは私にとっては信じられないことです。

鉄鋼や石油の他に危険な薬品を使うような工場を集中させ、人も住めない工場地帯として残したまま、時代の流れに沿って目の前の対応策を練るのか、川崎の歴史と文化・伝統(ものづくりを含めて)に合ったまったく新しい街づくりをするのか、私は今が100年の工業化の道を歩んできた川崎の転換点だと思います。それは「その時になって」からではもう遅いのです。今から、企業・市民・行政がしっかりと話し合いを進める準備に入るべきでしょう。

経済政策は経済の分野で完結するのでなく、自治のあり方、地域のネットワークつくりなど総合的な街づくりのなかで考えられるべきものです。二次会での席で、国際都市川崎を目指すのであれば、外国籍職員の昇進を禁ずるような政策から変えるべきですねと、スウェ―デンの実情に詳しい伊藤さんに振ったところ、さあ、よくわかりませんという、「行政マン」の顔で話されました。

中小企業に拠り沿うというのは、経済政策で終わらず、商店街を含めての総合的な街づくりであるべきだという意見がフロアーから出されました。川崎の法人税の3割は臨海部の企業からのものらしいのですが、臨海部を工場地帯にして他から切り離し、ネガティ―ブな問題はそこで集中させるということは逆に大震災のときにはとてつもない被害をもたらします。川崎を研究開発の都市にして世界に類のない新たな都市を作るというのは、もっと大きな構想であるべきです。

素材産業から研究開発都市にすることによって「持続する都市」を作るというのであれば、そこでは住宅環境、文化など住民がQOLを享受するような空間であるべきで、臭いや危険な薬品があっても構わないことを前提にした臨海部をそのまま残すという発想が間違っていると、私は思います。もっと大胆な構想を、何よりも市民と一緒に考えて行くという、恐らく伊藤さんがスウェ―デンで一番実感されたことを一緒に始めたいものです。

読者で伊藤さんの講演内容(スライド)を資料としていただけることになっています。希望者はメールで申し込んで下さい。今日の懇談会の内容は追ってみなさんにご報告いたします。伊藤さん、ありがとうございました。行政の現場からの貴重なご意見をうかがうことができました。今回は坂本市議の御尽力で議員会館の会議室を予約していただき、懇談会にも参加いただきました。感謝いたします。

次回についてのみなさんのご意見はいかがでしょうか。

2010年10月29日金曜日

領土問題を考える、基本は民衆に目を向けることー伊藤明彦

伊藤明彦さんから領土というものをどのように考えるべきなのか、というさらに詳しいメールが送られてきました。おっしゃっている基本は明確ですが、意見は分かれると思います。みなさんの御意見はいかがでしょうか。

崔 勝久

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 私の意見をブログに掲載してくださり、ありがとうございます。

 私が「竹島は韓国領」「尖閣諸島は日本領」と判断していることについて、問題提起されていると思いますので、少し触れさせていただきますが、私は「尖閣諸島は琉球領」だと考えています。そして「琉球」が「沖縄」として現在「日本領」ならば、「尖閣諸島は日本領」と判断しているということで、今後「琉球」が独立するならば「尖閣諸島は日本領ではない」ということになります。

 しかし私が述べたいことは、国家の判断や専門家の判断、各個人の判断など、立場によってそれぞれの判断があるけれど、私伊藤明彦は「尖閣諸島はどこ国の領土?」と聞かれれば「日本領」と答えるけれど、「民衆へ目を向けなければいけない」ということです。

 日本が台湾を「支配」した時代は、日本国家からすれば「台湾は日本領」です。すると台湾から見れば、尖閣諸島は「国内」ということになります。たとえばまったくの空想ですが、当時の台湾漁民は、国内の尖閣諸島で問題なく漁ができたのかもしれません。それがいつまでできたのか。アメリカの沖縄占領時代はどうだったのか。もしそのころも漁ができたなら、沖縄が日本に返還されたとき死活問題になった台湾漁民がいたということになります。そういう想像もできるわけで、もしそうなら、台湾が1970年代に領有権を主張し出したことも理解できます。上記の例は、まったくの私の想像ですが、そういう民衆の立場で考えることが大切なのではないかと思います。

 現在の中国に対しても、民衆の立場に目を向ければ、日本企業によって「安い人件費」で働かされている・・・。日本経済はそのような民衆からの「搾取」の上に成り立っている・・・、。そういうことを考えると、日本国内においても同様のことが行われていることに気が付きます。

 私たちが民衆に目を向けず、国家と同じような立場で語るなら、ただ危機を煽る目的に用いられているマスコミに同調することになり、「軍備は必要」という世論作りの一因になってしまい、「軍備で儲ける」ことが目的の権力者の思う壺になってしまうと思っています。

伊藤明彦

2010年10月27日水曜日

ブログ読者からの御意見

ブログ読者からの反応

5人の読者からの御意見がありました。
尖閣諸島をめぐる中国と日本の在り方については
さらに討議をする必要があります。

この「出来事」の間に中国に滞在された人は、
中国ではまったく「騒ぎ」がなかったという
ことでした。これはこれで問題にされるべきですが、
いずれにしても日本での「から騒ぎ」は意図的に
報道されているという意見が多いようです。

伊藤明彦さんは「竹島は韓国」「尖閣諸島は日本」
の所有と断定的に書かれていらしゃいますが、その
ように日本政府やマスコミが断定的に言う根拠は
何か、中国・台湾の主張は根拠なく、ただ政治的に
言っているだけなのか、慎重に、冷静に、客観的に
知る必要があると思います。

この分野での読者のさらなるご意見を求めます。

崔 勝久

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納税者の一般的感覚ー滝澤貢

たぶん「納税者の一般的感覚」なのでしょう。
恐らく日本で一番成功している企業であれば
その納税額も相当なものでしょうから
「納税したもの」として、相当の見返りを
「受税したもの」としての国家に要求しているのでしょう。
特段の「歴史観」があってその歴史観からの物言いではない
と確信します。
そんな「歴史観」があったとしたら、それはそれでたいした
ものでしょうが・・・。

ただ、当然ながらグローバル経済活動は
国家戦略と結びつきますから
強大な軍事力を背景に傍若無人な経済活動が出来るのです。
でなければ一私企業が傭兵を雇うことによって初めて
それが可能になります。
だから、米国では、いわゆる「セキュリティ会社」が
実は海外派遣の「傭兵」会社だったりするのでしょう。

そもそも、「多文化共生」などをまともに考えるグローバル
企業などあり得ません。
他国で展開するのは、その必然があるからで
それが「安価な労働力」であったり「巨大市場」であったり
するだけでしょう。
現地で起こる軋轢については、
本国の軍事力か、あるいは自社の経済力による傭兵によって
解決するかの選択肢があるだけだと思います。

特に、私企業が一人の人間の意志どおりには動かなくなる
コーポレーション(co-operation)であればなおさらです。

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尖閣諸島での中国漁船逮捕と沖縄ーN古賀

企業は、本拠地の国の国籍があり、その国の後ろ盾を求める
でしょう。これはけっして変わることはないでしょう。

やはり、尖閣列島での漁船逮捕は、沖縄の市議会議員占拠
の公示期間中に行われました。9月7日です。

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尖閣諸島問題と世界の今後を思うー塚本昭二郎

この度、崔さんが尖閣諸島問題で、ユニクロ柳井社長の発言新聞記事を読み、企業活動と国家の関わりに就いて、皆さんはどう思われますかと、問題提起されました。私はその記事を見ていないので、コメントできませんが、この問題と世界の今後の在り様進展について、私見を述べたいと思います。

私は1927年生まれ83才です、4才で満州事変10才で日支事変14才で大東亜戦争18才敗戦で終戦です。もの心つく頃から多感な青年期まで、14年の長い間勇ましいスローガンが躍る戦争一色でした。その戦禍の体験から、悲惨な戦争の実態を知らない若い政治家を中心に、党派を超え「領土を守ることは政治家最大の責務」と声高に叫び、尖閣諸島に自衛隊をと、武力衝突も辞さない主張は、偏狭な愛国心を煽動し、戦争体験世代として我慢ならない思いです。

その上で、やれ弱腰・軟弱外交だ・圧力に屈して国益を害するなどなど、嵐の非難を浴びながら、仙石官房長官が指揮した政府の対応は、見事と賞賛するものです。それは官房長官が例に引いたポーツマス条約での小村寿太郎と国際連盟脱退の松岡洋介の両大使が帰国時に受けた焼き討ちと歓呼の比較は、時間軸でどちらが国民の生命を守ったか、適切でわかり易い事例と思いました。私はこの度の事は勿論、あらゆる国際紛争は当事者国で話し合って解決すべきと確信致します。10年20年でも、外交の知恵と総力で交渉を決裂させず継続している限り、戦争にはならないからです。

さてグローバル化した世界はこれからも益々進化発展すると私は思います。大気も水も石油も地球資源の限界が近付いている事を人類が気づいて来たからです。それがCO2大気汚染問題や、生物多様性が国際議題と成っているのだと思います。今日、本屋さんを覗いたら「地球文明の危機」表題の本が積まれていました、著者稲盛和夫氏です。
地球は人類に垣根を低くし、国境が消えることを求めているのでは無いでしょうか、尖閣諸島はじめ、世界各地の紛争地も、領地領海の確かなことは総て地球のものなのです。

時間がかかっても、人類は必ず単一民族・狭い国家観を超える多様性で統合し、グローバルなアイデンテーが構成する、人類の議会「世界連邦政府」の誕生を確信するのです。

みんな一緒に歌おう/異なる声で/そして一つの心で
スペイン国家

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住みたい人が、住みたい場所で、住みやすい国ー伊藤明彦

 いつも情報をくださりありがとうございます。

 私もこの間、「尖閣諸島騒ぎ」からいろいろなことを考えています。
 私は、世界の国家の権力者は、「軍備で儲ける」という目的で一致していると判断しています。少なくてもアメリカ・日本・北朝鮮・韓国、そして中国・・・。ですから今回の「尖閣諸島騒ぎ」も、もはや自作自演だと感じています。「意図的に中国脅威論を煽っている」ということはその通りであり、特に日本では、日本に沖縄に、そして辺野古沖に「米軍基地は必要」という世論作りが第1の目的だと思っています。

 私は、「竹島は韓国領」と判断していますが、「尖閣諸島は日本領」と判断しています。
 しかし、過去にそして現在も日本が中国および台湾にしてきたことがあります。これに対する中国・台湾の民衆の思いは理解し、解決していかなければいけないと思っています。日本国家が尖閣諸島領有を宣言したのは、日清戦争中です。まもなく日本が台湾を支配します。そして、「尖閣諸島騒ぎ」が起こった9月は「満州事変」の月・・・。

 戦後は、「安い人件費」ということで、中国などの民衆の貧困の上に経済成長をさせた日本。ユニクロもその一つで、それに気がつき労働運動を始め人件費が高くなってきた中国から、まだ「安い人件費」ですむ国への転換を考えているのでしょう。ガーナではチョコレートを食べたことがない子どもたちが、学校に行かずにカカオ農園で働いているそうです。そして私たちはチョコレートをたべている・・・。フィリピンのバナナも・・・。例をあげたらきりがなく、日本の「経済的植民地」にされている国は数多いのです。そして「搾取」により成長した日本経済は、もろい経済になってしまいました。

 中国の富裕層は、少子化で定員が埋まらない日本の大学に子どもを進学させ、日本の企業は中国人留学生を採用しています。また中国で土地を取得しても70年で国に帰さなくてはいけないので、軽井沢の別荘地などを購入し土地を永遠取得する中国人が増えています。それはそれでいいことだと思いますが、日本と中国との関係が、民衆同士の思いが、過去・現在のままなら、中国国家に利用される可能性はあると思います。

 そこで、改めて「日本人の誇り」「日本人のプライド」を考えると、それは「ない」のです。「ない」から「万世一系」なんてものを持ち出すのです。憲法9条がそれになればよかったのですが、今は「ない」が正解だと思います。住みたい人が住みたい場所で、住みやすければ、いいと思います。私は今住んでいる町が好きです。愛国心も愛県心も愛市心もありませんが、愛区心と愛町心はあります。そうなると住民登録だけで充分で、国籍・本籍は関係ないと思います。住民主権です。「住みたい人が、住みたい場所で、住みやすい国」、それならそれで誇りがもてます。

 失礼しました。またよろしくお願いします。

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政治は政治としてーSS

ブログ、拝読いたしました。

ユニクロの件の話題も読みました。
政治と実際の経済活動は、
全く別の動きをしている事を
中国に行って感じました。
当社のような弱小企業にとっては、
国が何かしてくれるという感覚は
そもそもありませんので、
企業も体が大きくなると錯覚も生じるのでしょう。
当社が中国にいる4日間は尖閣諸島の問題が
とてもヒートアップしており、上海でデモがあるかも
しれないとの報道もあった時期でしたが、
中国国内でその話題を耳にしたり、
何か問題が起きたことは一切ありませんでした。
一方日本に帰ると加熱気味の報道でしたので、
これは、「国としての外交戦略と情報のコントロールが
どの程度できているか」の差であると思いました。
日本は、この辺は作為的に周到に対処するのには
限度があるのでしょう。マスコミの稚拙さもあるでしょう。
一方、中国は非常に対外向け情報と国内向け情報の
扱いは上手であるな。と思います。

中国も韓国も日本も、
それぞれ一つの問題があれば、
国益が最大限発揮されるようにそれを利用するのは
当たり前の話だと思うので、
建前としての正義とか正解については、
我々民間人があまり気にしていると、
本質がどこにあるか分からなくなるな~と
今回の中国訪問で特に思いました。
(尖閣の問題だって、知っている情報の内容によって
答えが違うのに、情報が正しいかどうか誰が分かる
のでしょう。)
当社は、政治は政治として置いておいて、
中国と取引ができれば良いなと思ってます。

2010年10月23日土曜日

ユニクロの会長発言、そうか、新自由主義って国民国家の強化と一体なんだ!

『季刊 ピープルズ・プラン』11月号に寄稿する原稿、ようやく脱稿しました。私には学問的な論文は書けず、民族差別についての想いを率直に書きました。前向きな形で論議されればと願っています。読者の率直なご意見を期待します。

10月23日の朝日の「be」で、ユニクロの会長兼社長の柳井正の「希望を持とう」というコーナーがあり、毎週持論を記しています。今回は、「偏狭な愛国心排すべき」というタイトルです。

「アジアは共存共栄をめざすしかない。すでに日中は互いに切っても切れない関係を築いている。その原点に立ち戻り、冷静に対処することが大切だと思う」と穏健で、さし障りのないことを書いています。しかし私があれっと思ったのは、今日の朝日新聞本体の経済欄で、ユニクロの主力商品の中国生産比率(現在8割)を2015年までに5割に引き下げると柳井会長が記者会見した際、16日の中国成都での反日デモでユニクロ店を一時閉鎖したことを明らかにし、日本政府の対応について以下のような発言をしていたことです。

「中国に進出した企業は自己責任でやってくださいというのはどうかと思う。ビジネスがやりやすいようにするのが国としての義務」ということでした。これを読み、中国に進出している多くの企業は恐らく、我が意を得たりと思ったでしょう。

私はこの記事を読み、そうか、国境を超えるという新自由主義は国家権力と結びつく、ネオリベのインターナショナリズムはナショナリズムの強化と表裏一体と言われていたことはこういうことだったのか、はっきりと実際のこととして理解できました。

しかし政治的に冷静な対応を訴える企業家の歴史観はどうなんでしょうか、尖閣諸島は日本「固有」のものということがマスコミで当然視されています。中国を専門とする横浜国大の村田教授のメールでは、「日本国内が大騒ぎしているのに驚いております。中国でも事件そのものは伝えられておりましたが、日本のような馬鹿騒ぎはしておりませんでしたので。この問題を利用して意図的に「中国脅威論」を煽っているとしか思えません。」と記されていました。

野党や民主の中でも管政権の弱腰を批判する声が相次ぎました。「粛々と国内法に基づいて処理をする」ということそのものが、尖閣諸島を日本「固有」のものであること宣言するという構図になっており、これは基本的には竹島(韓国、独島)問題と同じだと思います。日清戦争の前後、富国強兵政策で植民地主義による日本の侵略・拡張の過程で生じた問題です。この事実はまったくマスコミでは報道されず、ナショナリズムを扇動するばかりです。

ユニクロはもっとも成功している企業のひとつであり、世界に進出し、多くの外国籍社員を抱える「開かれた」企業とされています。しかしその会長が、いざとなると国がでて守ってくれと本音をだすのですから、多文化共生は植民地主義のイデオロギーとする私の主張をいみじくも証明してくれたように思いますが、みなさんのご意見はいかがでししょうか。

2010年10月18日月曜日

個人史―私の失敗談(その6、全てを失い新たな旅路へ)

私の個人史は一時、中断したのですが、それは最近のことを記すことで多くの人に迷惑がかかると思ったからです。しかし最も身近なことを話せば、正真正銘、私はもののみごとに「相続」した不動産、私が自力で立てた家屋もすべて手放しました。「相続」は私の父のみならず、義父の残してくれたものを含めてです。私は文字通り、子供に残せる資産は膨大な借金以外は何もなくなりました。

学生の時から「在日」に目覚め生意気だった私は、差別社会との闘いを宣言し本名で生きることや、日立闘争、地域活動と具体的な実践に邁進したのですが、それは新しい動きであると同時に、周辺の人たちからの激しい反発を受けることになりました。在日韓国教会青年会と川崎の青丘社からは責任ある地位からリコールによって放逐されました。

お前の行く末を見てやろうと、肉憎々しく言われたことは数多くあります。成功するはずはないという彼らの予言はものの見事に的中したのですが、しかし文字通り無一文になった私がそのことによって、自意識としては生まれて初めての開放感を味わい、新たな一歩を歩み出すことに喜びと意欲をもつことになったことに感謝の気持ちを持とうとは予言できなかったようです。

全てを失い何もないということがこんなに開放的で、自由を与えてくれるものなのか、私はあらためてこの間思索してきたことを根底から捉えなおしたいと思っています。「杖一つの他は何ももたず」(マルコ6章8節)、私はこれは古代のことだと思っていました。聖書の奇跡物語は実際に起こったことでなく、原始キリスト教団の信仰告白が反映されたものと理解していたのです。今だに記憶に残っている、森有正のアブラハムの無からの旅立ちについての話を大学の礼拝堂で聞いたときも、何千年前の神話としか理解できませんでした。しかし今、それらのことは私にリアリティをもったものとして迫ってきます。

このように書くと読者は私がファンダメンタルな信仰者になったのかと思われるかもしれません。奇跡物語を聖書は日常を超えた神秘的な神業のように記していますが、奇跡を人間のあらゆる努力を超えすべてをあきらめたところから、思いもよらぬ、自分の人間としての可能性が途絶えたところから起こった出来事ととらえると、私は全てを失ったときにまさにこのことを経験しました。事業の失敗から残されていた不動産全てが競売にかかり、それが全く知らない第三者によって落札されたのですから、私たちはその落札の日から6カ月以内に家をでるしかすべはなかったのです。私はそのことを予想し、家族全員に心の準備とその覚悟を求めてきたのですから。

私はありがたいことに家族の誰からも私の失敗について批難されることありませんでした。義母も妻も、義弟家族も淡々とこの事態、私の失敗の結末を受けとめてくれていました。私は家族の想いと彼らの配慮に感謝するしか言葉がありません。そのうえ多くの人にかけた迷惑を考えるとこれは当然のことであろうと思います。

競落が決まったその足で、私は落札をした不動産業者に会いに行きました。彼らはビジネスとして落札した物件を立て売り住宅か新たなマンションの建設をするのが常識です。私は無謀にも、その会社社長に面談を求め、私のこの間の失敗の連続を見守ってくれた義母が亡き夫が残してくれた場所で死ぬことを願っていると考え、彼女が住めるようにしてくれることを訴えました。数回にわたる話し合いで、その若き社長は、最終的に私の願いを聞き入れてくれました。今は家賃でそのまま私たちは義母と共に住ませてもらっています。

彼女が亡くなるまでそのまま住んでいいという条件まで承諾してくれました。これは私にとってはまさに奇跡でした。自分のやってきたことの全ての結末であると同時に、私は自分の手を超えたところから恩恵を受けたと思うしかありません。

振り返ると、私は自分の実家と妻の実家の両方に責任を持とうとしたことになります。大阪ナンバの一等地のビルは、父の三度目の妻から彼の病床で離婚による1億円を超える慰謝料を求められ、その金策をするために銀行に担保にいれました。しかしそれは同時に、私が継いだ岳父の会社の事業(前に記したぬいぐるみの仕事)を支える担保でもあったのです。いろんな事業をしながらなんとか借金から脱却したいという思いが、今から考えると私の潜在的な重荷になっていたのでしょう。無理な投資を重ねたのも金銭問題を一挙に解決しようとしたことで、冷静な理性を失っていたのだと思います。

今はもうこれまで苦しんできた資金繰りに悩むことはありません。私が求めてきた日韓のビジネスは「一粒の麦」になってくることを願うだけです。「在日」の問題については、年内発行予定の「人権の実現―「在日」の立場から」『人権論の最定位 全5巻』(法律文化社)、「「民族差別」とは何かー対話と協働を求めて」『季刊 ピープルズ・プラン』11月号にまとめ、これから自分の進むべき方向についてのグランドデザインを描きました。

私は古代のアブラハムのようにこれからの余生を新たな地を求めて生きることになります。ただ私にとって幸いだったのは、私を理解し、支えてくれた妻と一緒にその旅路に出ることができるということでしょう。これまでやってきたことで無駄なことは何もなかったと思い、これからの新たな人生を歩めることに胸を膨らませる今日、この頃です。それに今朝、新たな喜びが与えられました。俳優を志す次男に二番目の子が生まれたと知らせがありました。

2010年10月15日金曜日

さらばサツキさん、「革命」に生きようとした友人、逝く

サツキさんはこの5ヶ月間の闘病生活もむなしく、本日、病院で亡くなったそうです。御冥福を祈ります。

サツキさんは、新左翼党派に属し20歳の時から活動をしていたそうです。成田闘争で機動隊から水平打ちされた催涙弾で片目を失明し、下半身は同じ新左翼の他党派の火炎瓶を下半身にまともに受け大火傷をしたとのことです。

私たちとは、10年以上、川崎の「外国人差別を許すな・川崎連絡会議」で一緒に活動をしてきました。歌が好きで、カラオケでは何時間も歌うような明るい性格の持ち主でした。
1週間前に彼が末期がんで手術もできず放射線と抗がん剤で「復帰」しよとしていると聞いて、私はすぐに電話をし、早く元気なったらカラオケに行こうねと言ったところ、喜んで「そうしましょう」と応えていたのですが・・・残念です。

61歳11カ月と部屋にありましたが、病床には同郷の太宰治の『走れメロス』が置かれていました。純粋な文学青年だったのでしょう。

彼の本名は今日、初めて病床で知りました。ある中年の女性が成田闘争の集会に参加したときの名簿を彼が見て、その日の夜自宅に来たそうです。その時の彼の説得によってオルグられた、本当に感謝しているということを彼の耳元で話していました。そうか、彼らはもう40年も、党員として命をかけ日本社会の「革命」を目指して闘ってきた同志なんだ、ということをつくづくと思い知らされました。身内は誰もないところで、意識のない彼の足をずっとなでる人たちを見て、彼らは闘ってきた「仲間」なんだなと実感しました。

今のこの時勢、「革命」に本気で取り組んでいる人たちがいるということは驚きです。「革命」とは何か、それはどんな手段によって実現するのか、世俗化した世界において一般の大衆との接点はどうなるのか、一部の労働戦線の「勝利」をもって針小棒大に拡大解釈して自論を展開しているだけではないのか、仲間を暴力的に切り捨ててよいのか、「在日」問題を利用主義的に取り上げてきたのではないか等など、私なりに言いたいこともあります。

しかし私はサツキさんとは論争をしたことがありません。時々は自宅に集まり、楽しく酒を交わし話をした仲です。妻は、彼の仲間にどうしてもっと早く知らせてくれなかったのよと涙ながら詰め寄っていました。意見が違ってもいいではないか、どうして10年も一緒に活動してきたのに、党の事情で私たちの人間関係を切るようなことをしたのか、恐らく彼は自分の心情と党の方針の間で悩んだに違いありません。

そういえば、昨夜から私は自室のステレオでナット・キング・コールを聴きだしました。夢の中で私が「モナリザ」を歌っていたら誰かが自分に歌わせろとマイクを取り上げるのです。不思議な夢だなと思っていたら、その意味が先ほど届いた彼の死亡を知らせるメールを見てわかりました。サツキさん、今度またカラオケに行きましょう。下手だったけど、たっぷり、何時間でも聴いてあげるね、御冥福を祈ります。

2010年10月10日日曜日

川崎で支局をもつ各マスメディアの方に

今日の朝日新聞全国版で、「日米の協力関係 「次の50年」協議」「ワシントンでシンポ」というタイトルで小さな記事がでました。「世界やアジアの平和と繁栄のための日米の役割を考えるシンポジューム「日米関係―次の50年」(米外交問題評議会<CFR>,朝日新聞共催)」で、内容は後日(22日付けの朝刊)発表とのことです。

私が驚くのは、50年先の日米の「協力関係」について両国の専門家を集め、昨今の時事問題をも念頭に置き、広範囲な情報を分析するとのことです。50年先ですよ、Who knows?と言いたくなりますが、できるだけ多くの専門家の知識、情報、判断を集め、未来に寄与したいということなのでしょう。

そこでわが川崎に支局を置く各マスメディアの方々に具体的な提案があります。川崎というと昨今では、「在日」の「多文化共生」と「公害から環境都市へ」ということしか話題にならないようです。「区民会議」とか「タウンミーティング」はほとんで市民の関心を買いません。

何故か、面白くないからです。市民参加や「市民の責務」ということが声高に言われますが、それらはいずれも行政主導の、予め行政の設定した範囲内(想定内)のことしか話題にされない、行政の方針の正当化に使われるだけと市民は思っています。そんな短時間で話し合いなんかできっこありませんから。

「在日」だと「多文化共生」という話題だけが取り上げられ、「コリアンタウン」「外国人市民代表者会議」も時々目にしますが、昨日(土曜日)のかきいれ時に現地セメント通りを訪れそこの寂れ具合に驚きました。「多文化共生」そのものが政策として世界的に問題視されてきていることを知識としてでも知っている記者はいるのでしょうか。

また「地方参政権」の問題についてもまともに問題点を報道した社があったのでしょうか。6日の議会で3月には否定されている永住外国人の参政権をめぐる意見書案が今回通ったということの意味を分析した記者がいたのでしょうか。

さらに深刻なのは、マスコミの臨海部に関する関心、問題意識の水準です。石油コンビナートが抱える深刻な事態、鉄鋼社が海外ビジネスの比重を高めている(現地への投資、技術移転、日本市場の縮小)ことがどういうことなのか、それは近い将来、JFEの場合、川崎全市の12%の面積もつ敷地の使い方が問題になるということを意味しています。世界に誇る「環境都市」のスローガンも実際は、京都議定書の定めた数値をクリアできそうもないと専修大の『白書』は明記しています。

誰もがわが川崎が世界に誇る「環境都市」になってほしいと願います。しかし「大本営発表」ではあるまいし、行政の発表する資料しか記事にしないというのではあまりに寂しいではありませんか。川崎の実態が「環境都市」として相応しいのかどうか、今どのような問題を抱えているのかについて研究・調査・検証しようとする新聞社はないのでしょうか。冒頭の記事のように、全川崎の20%を占める臨海部の50年先をどうすればいいのか、シンポを主催し未来に貢献しようとする新聞社、記者はいないのでしょうか。

川崎に支局を置く各マスメディアの方、川崎市の臨海部の50年先を考えるシンポを一緒に計画しませんか。

2010年10月6日水曜日

円高で1ドル50円は「歴史の必然」? 臨海部はどうなるの?

今朝のテレビ朝日の「スーパーモーニング」で衝撃的なインタビューがありました。同志社大学の教授が、ドルはこれまで過大評価されてきて、円高になるのは「歴史的必然」と言うのです。ミスター円の榊原氏も基本的には円高になることを認めていました。

その教授は、1ドル50円もありうるということでした。円高になると海外に行く工場が増えるのではという質問には、海外移転は円高とは関係しない、それは海外の低賃金が最大要因とのことでした。

そうすると、川崎の臨海部の場合、臨海部は川崎の全面籍の20%で、JFE(元日本鋼管と川崎鉄鋼の合併会社)はその60%ですから、JFE社1社で川崎全部の12%を占めることになります。

その臨海部では、石油関連会社は勿論、JFEのような鉄鋼会社は海外の高炉に投資をし、現地で高品質の鉄を作り、現地生産を始めている日本の自動車メーカ(日産マーチはタイで生産し輸入されている!)に供給する体制が急速に実現されているので、近い将来(恐らく50年以内)に川崎臨海部のJFEは撤退か、大幅に縮小することは間違いないと思われます。石油関連はここ数年でしょう。

十数年前に、歯の抜けるようにがらがらになった臨海部は、東南アジアの旺盛な需要でまずJFEが元気を取り戻し、抜けた跡地にはどんどん後釜が来ているようです。勿論、各企業の努力があり、公害をなくす技術開発がなされ、企業間の協力がなされているのは事実のようです。

しかしそれが、川崎は「公害都市」であったが、今や世界に誇る「環境都市」と言えるのか、その点は疑問です。専修大の白書では、京都議定書でだされた炭酸ガスの規定をクリアすることはまったくできてないそうです。

今月の30日(土曜日)に既に案内をしたように、産業政策部の伊藤部長をお呼びして「川崎臨海部の現状と展望について」の2回目の懇談会を持ちます。多くの方が参加されますように(事前に申請下さい)。
http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/10/skchoi777gmail.html

伊藤部長は苦戦する川崎の中小企業のために心血を注ぎ具体的な対策をされてきていると伺っています。当日はそういう実態と、その上で50年先、川崎臨海部をどのようにすべきなのか、その展望に関して市民との意見の交換をしたいと考えています。

現在の川崎市の将来像に関しては、行政は各地区の具体的な現状と課題を明記しているのですが、臨海部の将来像に関しては一言も触れていません。しかし地域の活性化、地域のあり方は、市民と識者、企業との真摯な対話を通して話し合われなければならず、それが政策に反映されないと具体的な展望を持つことはできません。

世界では、その地域の実情にあわせながら、ドラスティックな(高速道路を無くし川を作ったり、運河を再開発したり)政策が実際になされています。わが川崎でできないことはないはずです。それには、まず市民が行政としっかりと話し合い、課題を共有化することから始めるべきだと考えます。

世界に誇る「国際都市」川崎は一朝一夕にはできません。経済政策だけではできません。市民が参加し意見を述べることが普通にない、行政とも対等に話し合えことが保障され、何よりも、同じ行政パーソンを国籍で差別する制度を一日も早く撤廃し、世界に「国際都市」宣言をしなければならないでしょう。「国際都市」は総合的な、あるべき街つくりの延長にあるのです。

2010年10月5日火曜日

<「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索>加藤千香子さんの論文の紹介

4月26日に加藤千香子さんが東京歴史科学研究会で発表した「1970年代の「民族差別」をめぐる運動―「日立闘争」を中心に」を、当日の会場での議論を踏まえて改めて論文にしたものです(『人民の歴史学』第185号)。

「1970年代前半は、日本社会で「在日朝鮮人問題」が浮上した時代で、「日立闘争」はその象徴となる運動であった」という理解のもとで加藤さんは、日立闘争における日本人と「在日」との「共同」・協働のあり方に焦点をあて検証し、「在日朝鮮人の民族的自覚と日本人の自己変革」という定着した評価を、「現在を新自由主義の時代ととらえてその困難に向き合おうとするならば、これらの前提や結論自体を問い直すことが不可欠」ではないかと問います。論文は、日立闘争における日本人のそれぞれの「主体」のあり方、両者の関係性と「共同」について、最後に闘争後の地域活動の行き方を検証します。

加藤論文の特徴は、これまでの研究者(及び活動家や一般的な評価)が日立闘争当事者の朴鐘碩のアイデンティティ変容や、日本人の「自己変革」、及び川崎における「現在をマイノリティの権利や「共生」の達成点」ととらえるこれまで固定的な評価を<脱構築>した点にあると思われます。

日立闘争での日本人と「在日」の「共同」性が評価されてきましたが、加藤さんは、地域活動に活動の場を求め「社会とのかかわりを積極的に求める」「在日」と、「「抑圧者」(加害者―崔)としての自覚と意識変革を課しながら内向化し疲弊する」日本人の対比を明らかにします。そして何よりも、「在日」が「民族運動としての地域活動」とした活動自体が、保育園の「お母さんたちの問題提起」によって問われるという、これまで誰も取り上げなかった「事件」に焦点をあてたことが注目されます。

70年代の「共同」が「在日」に「連帯と差別解消を要求する権利意識の高揚をもたら」す一方日本人の内向化や逃避を生んだが、「90年代以降の「共生」は、マジョリティである日本人側が「行政施策を通して、権利を求めるマイノリティに対して一定の場所と文化の承認を与えようとするもの」であり、「「民族差別」解消の課題は、「多文化共生」のかけ声への変わっている」と指摘しています。

裁判闘争後、日立に就職し朴鐘碩はそこで「企業社会の同化・抑圧」の現実に鋭い告発を行ってきたことも記されており(この点も、これまで研究者が言及してこなかった)、結論で、「70年代の「共同」と新自由主義時代の「(多文化)共生」を超える新たな協働の模索が必要」ではないかと提起しています。

また『人民の歴史学』では当日の討論要旨も掲載されており、その中で加藤さんが、「「被害者」である在日朝鮮人に対して日本人は「加害者」としての立場から向きあっていたため、(日本人としての)「権利意識」が育ちにくかった」という発言していることは重要な指摘だと思われます。

今もてはやされている「多文化共生」とは、新自由主義の時代において何なのか、どのようなイデオロギーとして用いられているのか、また日本人と「在日」の「協働」はどのような質をもつべきなのか、を考えるためにも加藤論文を是非、一読されることを薦めます。

なお、加藤論文は望月文雄さんのHPに掲載されています。
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_205.htm

川崎臨海部の現状と展望についての懇談会の御案内

第二回10・30懇談会のご案内
川崎臨海部の歴史・現状・課題についてー
市民参加による地域再生を目指してー


川崎の埋め立ては日本の工業化と共に始まり、今年で100年になります。「韓国併合」と同じ時期です。戦後、日本は経済最優先で工業化に邁進し、川崎は海を埋め立て、臨海部は世界に類のない、ごく一部の人口海岸でしか市民が憩うことのない製鉄所や石油コンビナートが中心の工業地帯になり、市民は公害に悩まされてきました。

しかし現在は、各企業と行政が公害を克服しようと努力をして技術革新を進め、廃棄物の利用や新エネルギーの開発によって、世界に誇る「環境都市・川崎」に生まれ変わろうとしています。しかし市民が参加し、臨海部の展望についての話合いに参加することはこれまであまりありませんでした。

第1回目の懇談会は横浜国大の中村剛治郎教授が講演で、川崎の臨海部について世界の例をあげながら、川崎も市民がプライドをもてるような街になれるように大胆な政策を打ち出すことが必要というお話をされました。今回は、行政の立場でどのように臨海部の現実に関わり将来の展望を考えるのかのお話しを伺い、参加者と意見交換の場を持ちます。

第一回目は猪俣議員、今回は坂本議員の御尽力で会場の設定ができました。感謝いたします。なお会場の都合上、希望者は事前に事務局のメールか電話で申請下さい。


主催 「新しい川崎をつくる市民の会」
代表   滝澤 貢
川崎市川崎区小川町11-13日本キリスト教団川崎教会
連絡先:skchoi777@gmail.com、携帯番号:090-4067-9352

2010年10月2日土曜日

こんなに共鳴した本はありません、文京洙『在日朝鮮人問題の起源』

文京洙『在日朝鮮人問題の起源』(クレイン、2007)、「在日」関係の本でこんなに共鳴したことはありません。文さんの学者としての謙虚な姿勢から、わからないことはそのままわからないと言い、断定的でなく、それでいてしっかりと事実は事実として押さえるという書き方をしています。私が共鳴したのは、文書から彼の人柄がしのばれるということもさることながら、彼の追い求めてきた思想的遍歴(「在日」としての生き方)に自分のそれが重なるように思えたからでしょう。

著者は日本社会が戦後どのような国民国家つくりをして「在日」を疎外するに至ったのかを説得力あるかたちで説明します。しかしこれはある意味で、他の学者でもやっていることで、特に新しい資料の発掘ということはありません。しかし彼の特徴は、「在日」そのものが同じく、国民国家の概念、枠内で自己規定してきたことを率直に記していることです。

著書の中でも日立闘争の記述は何度も出てきます。それがいかに新しい発想であったのかということを高度成長、都市化現象の流れのなかで、歴史的、社会的に説明します。それらは社会科学的に分析して証明した上で概念として提示するというより、高度成長によって日本人社社会が大きく変わってきたことの影響を「在日」も受けたという脈絡で説明し、違和感はまったくありませんでした。なるほど、その通りだと思いました。

日本共産党と「在日」との関係も詳しく取り上げ、『日本共産党70年』において「在日」との関係には一切ふれていないということを明らかにします。6全協以来、日本共産党と総連は「極左路線」批判だけでなく、相互干渉しない、「内政不干渉」を旨とする「主権国家」「国民原理」においても同じ土俵に立ち、「在日」の運動はそれ以来、この枠を前提にしてきてそこからの脱却に時間がかかったこと、その脱却は下からの「市民」の立場からの動きを待つしかなかったこと、その端緒に彼は日立闘争を位置つけます。

彼に共鳴した上で、違和感をひとつ。それはエピローグで「既成の理念と違う何か別の理念を編み出そう」とは思っていないと記しながら、プロローグでは「多文化共生」を理念化していると思わせる書き方をしていることです。日立闘争も川崎での地域活動も、また「多文化共生」を謳う川崎市の施策もその実態は何かということを文さんは知ろうとせず、文献や一方(「共生」を推進する側から)の話しでそれらを評価するというのは、結局、それらが文さんの「理念」に適ったからなのではないでしょうか。

川崎のことを論文にしたり、本にしたケースは多いのですが、ほとんど(私の知る限り全て)、「共生」施策を批判する意見の検証はせず、「共生」はいいものだという結論を先に持ちそれに見合う資料・情報でその結論を正当化するという過ちを犯しています。例えば、金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』(明石書店、2007)、広田康生「アジア都市川崎の多文化・多民族経験」(宇都榮子編著『周辺メトロポリスの位置と変容』(専修大学出版局、2010)、その他多数あり。

文さんは私たちが12年以上、川崎市政の問題点や、川崎の地域活動の問題点を批判してきたことを耳にしながらも深く関心をもたなかったのではないかと思います。それは「多文化共生」批判の中から新たに「開かれた社会」につながる展望がでてくるのではないかという思いが彼にはなかったからではないでしょうか。

私はむしろ、「多文化共生」は今日何故強調されるようになったのか、カナダやオーストラリアでは批判的な見解もでてきているのに、どうして日本は教育・経済・労働・行政・市民運動等の各分野でもてはされているのか、みんなが一致して賛美する現象を批判的にとらえるべきではないかと思うのです。「多文化共生」は社会・歴史の中で一定のイデオロギーとしての役割を果たしているのではないか、この点を私は文さんと会う機会があれば議論したいと思います。

私は「国民国家」を根本的に批判する西川長夫の<新>植民地主義論はあらためて議論されるべきだと考えています。「在日」を含めた、増加する在日外国人の日本での位置そのものが実は国民国家日本の植民地主義支配なのではないかと、私は思うようになりました。

2010年9月30日木曜日

田中宏著『在日外国人 新版―法の壁、心の壁』を読んで

この本は田中さんでなければ書けない本だと思いました。
「戦後に発生した「在日」差別」というタイトルで原稿の
依頼を受け、いろんな本を読み漁っているところでこの本
に出会い、多くのことを学びました。

佐藤勝己の『在日韓国・朝鮮人に問うー緊張から和解への
構想』(亜紀書房)も一応読んでおこうと思い目を通した
のですが、両者の立場に決定的な違いがあります。
日立闘争のときに私たちは佐藤さんに本当にお世話に
なりました。

田中さんは昔から顔をあわせれば挨拶する程度で、徹底的
に話しこんだことはありません。故李仁夏牧師と共同代表
で「戦後補償」など様々な活動をされていらしたことは
よく知っていました。佐藤さんと田中さんは風貌も似ており、
昔の佐藤さんの議論の進め方はどうなんでしょう、「日本人
の責任」ということでは、私は田中さんとそんなに違いが
あったとは思えませんが・・・

『日韓新たな始まりのために 20章』(田中宏/板垣竜太編、
岩波書店)は、<嫌韓流>に対して単なる批判にとどまらず、
日韓の「開かれた関係」をつくるための「思考の糧」を目指
したもので、錚々たるメンバーが執筆しています。ひとつ気
になったのは、田中さんがここでは「在日コリアン」とし、
前書では総称として「在日朝鮮人」としている点です。

私は「在日韓国・朝鮮」も「在日コリアン」も何か聞いていて
座り心地がよくないのです。最近マスコミは勿論、左翼系の
雑誌でも躊躇なく使っているようですが、両方の使い方、
もう一度よく論議してほしいですね。

ここには北(総連)からも南(民団)からも文句を言われ
ないようにという逃げ腰の「配慮」を感じます。

二人の決定的な違いは、佐藤さんは北の脅威と、「在日」の
実際の問題点をよく知りその上で議論を展開するのですが
(勿論、すぐに「在日」や韓国人について本質主義的な決め
付けをするのでそれは決定的に間違っていますし、「国民
国家」を絶対視しているという点では私と全く意見は違い
ますが)、田中さんは南北問題などには一切触れないで、
自分の体験から出発して、日本人社会の歴史認識(「心の溝」
)や国家の在り方(「法の壁」を具体的に明らかにして、
まさに「共生」を求める姿勢を明確にしています。学者として、
書かれていることに間違いはありません。その通りです。

しかし私はふと、田中さんはどろどろした「在日」の実態や、
市民運動の中身を知っているのか、そこで苦しんだことがある
のかと感じました。

田中さんの日立闘争の紹介の仕方を見て(133-134頁)
感じたのですが、これまでにない運動で日本の青年たちが
「自ら日本社会のあり方を自問する方向に発展」していった
のは事実ですが、その運動の中身はどうか、またその後の
地域活動にも触れていらっしゃいますが、そこでの私の
個人史で記したような内部のごたごたは恐らく見て見ぬ
振りをされるのでないか、鄭香均の闘いの最後の段階で,
運動の総括ができなかった内部のごたごたにも敢えて関与
されなかったのではないか(わかりませんが)と思いました。

田中さんが誠実に「在日外国人」問題に取り組んで
いらっしゃることは誰もが認めるでしょう。しかしそれを
生み出す日本社会の根底的な問題はどこにあるのか、
「在日外国人」問題は日本社会の歪みの結果出てくる
問題であると私は考えるのですが、それは何なのか、
日本人と「在日」はどこで対等な立場で一緒にその
「日本社会の根底的な問題」について歩むことができる
のか、一度じっくりと田中さんと話をしてみたいなと
思います。

田中さんは、著書にもある「花岡」事件の解決に関して
野田正彰から批判を受けられたようですが、野田さんの
これまでの本を読みいいかげんなことで他人を批判する人
でないと思っていたので、大変、意外です。反論もされて
いますが、「花岡」事件の、「解決金」をめぐるおかねが
からんだどろどろした問題に田中さんがどのように対応
されたのか、今後田中さんの批判者にどのように最後まで
向き合われるのか、この点も知りたいですね。


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崔 勝久
SK Choi

2010年9月28日火曜日

個人史―私の失敗談(その5、お母さんたちの問題提起)

私は慣れない自分の仕事のことに全力を尽くして鉄屑を運ぶトラックを乗り回していましたが、桜本ではじめた地域活動のことが気になっていました。保育園は公認保育園として社会的に認知され青丘社の中心だったのですが、同時に「在日」青年や日本人の青年が多く集まるようになりいつの間にか自分たちの問題意識で動き始め、何が中心なのか混沌とした状況になっていました。ボランティアから主事になった日本人青年や「在日」の主事たちにとっては既に日立闘争は「伝説」になっており、彼らは日立闘争から学ぶものはないと公言するようになっていたのです。

私はその状況に危機意識をもち、川崎市の奨学金制度における差別(国籍条項)問題があったことをきっかけに「民族差別とは何か」というティ―チインを提案し、青丘社に関わる職員とボランティ全員で民族差別と闘うことの意味について徹底的に話し合いました(「民族差別とは何かー青丘社での民族差別の本質を問うティ―チイン資料として」http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_16.htm)。

そのティ―チインがきっかけになり青丘社の中で保育園や学童保育・学習塾を統合して「民族差別と闘う砦づくり」をめざす運営委員会をつくることが、正式に理事会の承認をうけて発足しました。教会員の、それほど社会意識の強いとは言えない人たちを説得して、私たちの熱意や意欲を支えてくれたのは李仁夏牧師でした。日立闘争からの動きをじっと見守り支えてくれていた李牧師の、私への信頼はそれほど篤ったのです。

私はその運営委員会の委員長に選ばれました。月に1回、各現場の代表と社会人(私と、日立闘争後、川崎市役所に就職したY君)が加わり、各現場の報告を受け、現場の問題を議論するようにしました。妻は3人の子供を産み乳がんの手術をしたこともあり一度復職した後レストランを始めるにあたって退職していましたが、保育園の父母会の会長の悩みを聞くうちに、保育内容に関わると思いそのことを保育園に伝えようとしたのですが、彼らは「文句を言っている」と反発しはねつけるばかりでした。そこで「在日」と日本人のお母さんたちが一緒になって話し合い、保育園のあり方に問題を投げかけるようになりました(曺慶姫「『民族保育』の実践と問題」『日本における多文化共生とは何か』(新曜社)参照)。

その問題提起の内容を聞きながら、私たちが目指してきた民族主義的な運動と大きくなってきた組織のあり方に根本的な問題があると気付き、私は彼女たちの問題提起を受け留め青丘社内部全体の問題にしようとしました。保育園(青丘社)は差別と闘うことを掲げた「在日」のためのもので、「在日」が主になっており(民族保育)、日本人はそれを見守り支える存在となっていたため、日本人父兄は傍観者的な立場にならざるをえず、そのことの反発からいろんな問題が噴出して父母会会長は苦しんでいたのです。

民族や国籍に関わりなく子供一人ひとりを見守るというより、どうしても差別に負けない子供に育ってほしいという、運動をしてきた私たちの思いが保育内容や、組織の在り方にでてきていたのです。「在日」の大変さや差別の実態を聞かされても地域の日本人父兄からすれば、私たちの子供と私たちの生活の大変さはどうなるのよということにならざるをえません。

妻は元保母として保育内容の問題を根底から考え直さなければならないと考え、私は青丘社の存在意義、組織の在り方を捉え返さなければならないと認識するようになりました。いずれにしても自発的に地域のお母さんたちが提起した問題を青丘社全体が一人一人しっかりと受け留めることが先決であることを私は主事たちや職員、各ボランティに精力的に(時には徹夜をして)話しかけ説得を試み、各現場で問題提起のことを話しあうまで運営委の凍結を宣言しました。

保育園のお母さんたちが準備をして礼拝堂で問題提起をするという前日に、組織の混乱を引き起こしたという理由で、私は青丘社の主事や青年たちから糾弾を受けました。私たち夫婦は気が狂ったと叫ぶSさんは、その時のテープを問題提起したお母さんたちに送りつけてきました。糾弾される中で、それでも保育園のお母さんたちが青丘社に問題提起するという事実は残ると一言、私は何の弁解をすることなくみんなに話しました。

涙ながらに訴えたお母さんたちの問題提起の後、臨時の理事会が開かれ、何の議論も総括もなく、運営委員長の解任、同時に運営委員会の解散が多数決で決められましたが、その記録は一切公開されていません(「社会福祉法人青丘社理事長に宛てた公開書簡」http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_38.htm)。

私は保育園の園長は牧師が兼任するのでなく、それを専門職とするべきだというところまで踏み込んだので、NCC総幹事に選ばれ対外的な仕事に忙しかった李牧師は、信頼していた崔が自分を追放しようとしていると捉え、私を「過激派」とみなし、李牧師に批判的でありながら「身内の仲間づくり」を優先してお母さんたちの問題提起を受け留めようとしなかった主事や青年たちと一緒になることを選びました。青年たちの糾弾も理事会の決定も全て彼が承諾・実行したものだと思われます。

義母を含めた私たち家族は地域活動や教会からはじき出されるようにして離れることになるのですが、そのときの私たちの生活はまさに「地獄」でした。しかしまさかそのときの問題提起が30年後、現在の新自由主義下の「多文化共生」を批判する根源的な核になろうとは私たち自身、夢にも思ったことはありません。

2010年9月27日月曜日

個人史―私の失敗談(その4、素人のレストラン経営)

工場を解体するという決断をしたとき、義母と妻と3人の子供には車で伊豆の方に行ってもらいました。真っ暗闇の中を走り、小汚い民宿に泊まったときの心細かった話は後で妻から聞きました。家族が帰ってきたとき私は家にはおらず外で泊まり歩き、警察が家の周りをロープで張り巡らしている環境の中で、妻たちは夜でも電気をつけず、どこから電話がかかってきてもただ震えてじっとしているだけだったと言います。

しかし前回記したようになんとか、文字通り、「裏から手を回し」レストラン開業にこぎつけた私は、その間、リーズハウスは単なる焼肉屋ではだめだと思い、東京から横浜、千葉を回りどんなレストランにするのか考え、メニューに、キムチ・ピラフとかカルビ・スープ、鉄板の焼肉コースや韓国風ソーメンなど、私たちにしかできないものを入れた、小ぎれいなカフェレストランにすることを決めました。

あまり人手がかからず、素人でも作れる料理や喫茶ものを中心にしたのですが、お店で出す料理の経験のない義母は、私の尊敬する、在野の画家の呉炳学先生の経営する駅前の喫茶店で、ハンバーグなどの作り方を教えてもらっていました。リーズハウスは道路沿いとはいえ人の出入りが少ない場所でしたが、多くの人に愛される店になりました。

私たちがどのような生活をしていたのか、その当時、スクラップの仕事に関わるきっかけ、その仕事内容、警察の騒ぎ、レストランの開業の大変さは誰にも話すことがなかったので、多くの人は私たちが余裕でレストランを開業し保育園のことや地域活動に関わっていると思ったかもしれません。

しかし私は、亡くなった李仁夏牧師には事細かに報告をしていました。それを知る義母は、牧師が来て祈りの中で慰労し激励してくれることを願っていたようですが、祐天寺の総菜屋のときも、南加瀬でレストランを開業するまでの数年にわたる大変なときも、祈りに来てくれたことは一度もない、と失望していました。彼女はいつでもどんな時でも祈りに慰めを求める女性でした。

そのレストランも人手に渡り、間もなく解体が始まります。妻は非正規スタッフとして近くの公立保育園に復帰しもう8年になります。二度目の乳がん手術も受けたのですがすっかりと元気になり、今では還暦を過ぎた最古参ですがもっとも元気な保育士として同僚の尊敬を受け仕事に励んでいます。

そういえば最初の乳がんの手術の時彼女は20代で、義父が亡くなり私がスクラップを始めた翌年でした。医師からは3年の生存率は50%以下と言われ、自分一人の胸にしまっていたことを思い出します。その時の状況下で、彼女の気持ちを考えるとどうしても「真実」を告げることはできなかったのです。良性の腫瘍と説明したのですが、彼女はわかってだまされたふりをしていただけなのかもしれません。

私は彼女の手術方法について医師から説明を受け、転移しないため乳房全体を削ぎ落とすように切り取る、ハルステッド法といわれる手術方法を言われるがまま承諾しました。しかし後でわかったのですが、その当時すでに欧米ではそんな残酷なやり方は時代遅れとされていたのです。

私が医師の言うことをそのまま信じるのでなく、自分の納得できるまで調べなければならないと思うようになったのはその時の悔しさがあるからです。近藤誠の本を読んで、転移しないようにということで当たり前のように出された薬を止めるように彼女を説得し、本人は悩みに悩みその旨医師につげたところ、「ああそう、いいですよ」ということでした!

病院(医師)、医薬品メーカー、厚生省は一体となっており、ガン細胞を小さくし転移しないための薬というのは莫大な売り上げをあげながら、それは日本だけで使われている代物だったのです。私は近藤誠が一連の本で書いていることを納得しました。しかし彼は日本の医学界では異端児でした。

2010年9月24日金曜日

個人史―私の失敗談(その3、レストランを始める)

前回、娘の事故の話を記しましたが、当時3人の子供を遠く離れた桜本保育園に送り迎いしており、その事故は保育園から3人の子供をピックアップして家に帰ったときのことでした。目の前で娘が宙に浮くのを見て慌てふためいてトラックから降り娘を抱きかかえて家に飛び込んだ私は、トラックのブレークをかけず二人の息子を中に置いたまま飛び出したので、トラックはそのまま坂道を滑り下りました。

保育園の年長さんだった長男は、なんと自分と弟を守るためトラックのブレーキをかけ、木にぶっつかりトラックの正面ガラスは大破したものの、二人の息子は無事でした。本当に助かりました。

私は一人でスクラップの仕事を続け、4トン半のトラックで多いときには10トン以上の鉄屑を運んでいました。そのとき、会社のヤードをそのまま居抜きで借りたいと「在日」の同業者から話がありました。家賃が取れるし、引き取ってきたスクラップを買ってもらえるというので、私は即、承諾しました。ただし、いずれ、ヤードと倉庫を改造して家の者が食っていけるようなレストランでもと考えていた私は、そのときは出て行ってもらうという了解をもらっていました。

早くレストランを始めないと不渡りをだし義妹の結婚にも差し支えると危惧した私は、義妹の結婚式を早めてもらい無事に大阪に送ることができました。その後ヤードを戻してほしいという話をいくらしてもヤードを借りた同業者は一切返事をしなくなりました。そこで私は大晦日に、彼らの鉄屑300トンを運び出し、工場を解体する決心をしました。警察沙汰になることも予想されたので、家族はみんな旅行に行ってもらいました。

300トンの鉄屑というのは大型ダンプで50回以上も運ばなければならず、工場の解体は酸素で基礎のパイプを切らなければなりません。その手配をしてくれたのは、桜本保育園の「在日」の園児の父親で、夜中から朝にかけてやり続け、最後の鉄柱1本残ったところで警察が来ました。元従業員が通報したようです。

そこで立入禁止のロープが張り巡らされ、私は同業者から器物破損と窃盗容疑で訴えられました。勿論、300トンのスクラップは別の置き場に移しただけなので窃盗にはなりませんでした。何回か警察に呼ばれたとき、担当官から、お前ら朝鮮人同士が喧嘩しやがって迷惑だ、ということを言われたものですから、私は啖呵を切り、その足で、私を訴えた同業者の家に行きました。勿論、殴られるだろうという覚悟でした。

私を見た「同胞」は掴みかかってきましたが、一息置き、「サイ、お前は偉い」と言い始めたのです。私が家族のことを想い、こんな思いきったことをしたということを彼は理解してくれていたのでしょう。

賠償金を払うことで決着したのですが、その間、立入禁止のロープは張られたままで、時間のない私は張られたロープの反対側がちょうどマンション建設のために空き地になっていたのでそこから業者を入れて、お金はないので売り上げから支払うという条件でレストランをつくりはじめ、それから数カ月後、オープンにまでこぎつけました。メニューは全て手づくりで、徹夜で青丘社のボランティアの女性と作り上げたものです。店の名前は、義母の名字からリーズハウスLee’s Houseにしました。

コックさんは元私の同僚で今はふれあい館の理事長のB氏の紹介です。義母と妻は厨房、私はホールを受け持ち、それこそ家族総動員でまったくの素人がカフェレストランを始めたのです。2階にいた子供たちは、突然の環境の変化に戸惑い誰からもかまってもらえず、真中の娘は寂しいと泣いていたそうです。乳がんの手術後、それでも保育園で働いていた妻は保母の仕事に未練を残しながらもレストランのママになることを決断してくれました。35年前の話です。

家族でやっていた店ですが、週に何回か来てくれたコックさんを店が終わったあと、私が車で東京まで送ることになっていました。送り終えて帰宅途中、疲れきって何度も朝方まで車中で寝込んでしまいました。家の者は随分と心配したと思います。事故がなく本当に幸いでした。

2010年9月23日木曜日

個人史―私の失敗談(その2、スクラップの時の思い出―娘の事故)

造船場と公の施設から出るスクラップを扱う、私が義父から継いだ仕事はいずれも登録制で、入札によってスクラップを買い、それを細かくして問屋に収めることを主な業務にしていました。市場価格かそれより高い価格で入札するビジネスモデルはどうあがいても通常の仕方でやり続けることはできません。「談合」や「接待」、「超」重量オ―バの積載は当たり前のことでした。

義父と一緒にやってきた「在日」のベテラン従業員4人はある日、自分たちの条件を呑まなければ辞めると言い出しました。私のような素人、お坊ちゃんにはこの仕事はできないと踏んでの要求でした。私は即座に、呑めないと言い放ち、トラックがあれば彼らはスクラップで生活は続けられると思い、彼らに大型トラックすべてを退職金代わりに渡し、彼らの言葉通り辞めてもらいました。

残ったトラックは4トン半1台で、私の持つ普通免許で運転できたのです。自動車運転の得意でない私でしたが、義弟を助手席に乗せ、翌日から早朝、横須賀までスクラップを取りに行きました。手形が何かも知らないでスクラップの社会に飛び込み、従業員頼りだったのに、私が一人でトラックを運転してやっていくと言うので義母や妻の心配は大変なものだったでしょう。私はスクラップの仕事を3年半続けました。

いろんな思い出がありますが、なんと言っても娘の事故は忘れることはありません。当時、祐天寺で小さな惣菜屋を始めたこともあり、家族がみんな忙しく働いているときでした。3人の子供をトラックに乗せ家に帰ってきたときのことです。私が家の前の道路でヤードにトラックを入れるため駐車したとき、桜本保育園に通っていた娘が運転席の反対のドアから降り始めました。そのときバックミラーに後ろから来る自動車が見えたので思わず、危ない、と叫んだのですが、娘はトラックの前を横切り、そのまま後ろから来る車に跳ね飛ばされ、それこそ宙に舞い上がり道路に叩きつけられました。一瞬のことでした。

救急車を呼び、市立病院に運びましたが、医師は今日一日が山場、どうなるかわからないという判断でした。ぶっつかった車にはへっこみが見られ、娘はまともに顔と頭を打ったのですが、なんと顔にはかすり傷ひとつなかったのです。ぐったりとする娘を見て、私はどれほど後悔したかわかりません。しかし奇跡が起こりました。眠れない夜を過ごした翌日から娘は意識を取り戻し、その後数日入院しただけで、本当に何の怪我もなく退院できたのです。医師によると、小さな子供はマリのように衝撃を受けても飛ばされて何ともないことがあるということでした。

入院中、教会に通う私たち家族は娘が無事であったことを喜び神への感謝を捧げていたとき、神様のおかげで助かったという話を聞いた娘は、どうして同じ保育園の友達が交通事故で死んだのかと尋ねました。私は答えることができませんでした。

私はスクラップをしていたときのことを苦労と思ったことはありません。初めて経験した「在日」のなまの世界を、義父が経験したことを私もやっているという意識でした。そのときの経験を語り始めると、私は娘の事故のことを思い出すのです。

2010年9月19日日曜日

ここ3回連続で読者からの反応がありました

ここ3回連続で読者からの反応がありました。私としては勇気づけられる、うれしいお便りでした。読者からのお便りの内容を匿名で公開し、さらに議論を深めるきっかけになればと願いします。私自身は、もっとしっかりと思索を深め、自分のテーマを追求していきたいですね。

崔 勝久

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朝鮮王妃閔妃(ミンビ)の暗殺の真意って知ってます?http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/09/blog-post_18.html
●崔勝久 様 いつもメールをお送り下さり、ありがとうございます。今回の文章、とても良いですね。私も崔さんを通して、色々なことを学ばせていただきました。ゆっくりと力作と向き合うことが出来きず、情けないこの頃です。お礼旁々お返事まで。S.Lee

個人史―私の失敗談(その1)http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/09/blog-post_16.html
●崔さん是非書いてください。崔さんにしか書けない壮大なドラマであるだけでなく、日本と韓国・朝鮮の現代史の苦渋の歩みと未来の展望が展開されるのではと期待しています。
M. Kimura

「在日」のスクラップ(鉄くず)屋さんと出会ってhttp://anti-kyosei.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html
●貴兄の率直な一面を垣間見、感動しました。あなたの本質ー正直を見る思いです。MB
●印象深いお話を、ありがとうございました。QS
●ご無沙汰です、狂暑の如きこの夏、お変わりなき様子でなによりです。つい先日、今ベストセラー第1位。「母」 カンサンジュン著を読みました。オモニ ウ・スンナムさんが生きる為の流れで鉄クズ業を営み、一家の家計を支えていたことを知り、崔さんのこのメッセージが印象的に心に伝わりました。21世紀は人類が違いを認め合い協調して、それを乗り越えていかなければ地球が持続できぬと確信し、残り少ない時間を過ごそうと、決意しております。以上  では又・・・・TS

2010年9月18日土曜日

朝鮮王妃閔妃(ミンビ)の暗殺の真意って知ってます?

「韓国併合」100年を問う国際シンポジューム以降、中塚明『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠陥を問う』(高文研 2007)、角田房子『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮文庫 1988)、『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか』(高文研、2009)を読みました。

中塚明の本に関しては既にコメントをしました。植民地主義史観がいかに抜きがたく現代にまで影響を及ぼしているのか、改めて考えさせられた本でした。
(http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html)

さて、一度学問の道をあきらめ研究者の「落ちこぼれ」を自称する金文子が改めて職場復帰して、角田房子の本を読み10年をかけて書いた本がこれです。中塚教授の厳しくも温かい指導のもとで「職場復帰」して再度、研究者として歩み始めた力作です。今年の夏に韓国MBCが中塚教授への長時間インタビューを行ったとき、金文子の研究成果を高く評価する話をされたということを通訳者から直接聞きました。

角田房子との決定的な相違点、そして金文子の本の価値を高めた点は、角田が「どれほど自由に想像の翼を広げても、陸奥宗光が、また伊藤博文が、閔妃暗殺を企てたとは考えられない。閔妃暗殺事件と日本政府の間に直接の関係はない」と断定的な結論を下したことに対して、金は関係する日本人の背景を徹底的に調べ上げ、陸奥と伊藤という最高権力者が深く関わっていたことを明らかにしたことです。「日本政府は、朝鮮における「電信と駐兵問題の解決」を大本営と三浦梧楼に委ねたのである」(358頁)。

角田の結論だと、三浦梧楼特命全権公使が独断でやったということになります。彼女がいかに「申し訳ない」気持ちを強調して、韓国・北朝鮮への友好を謳おうとも、その贖罪意識的な認識では国家権力とは何か、なによりも今自分はどのような時代に生きているのか、そして何をすべきかという点で保守的な態度をとり植民地支配を根本的に批判する立場には立ち切れないと思われます。

私は金文子の本で初めて知ったことが多くありました。まずは「閔妃暗殺」の歴史的な意味、日本国家にとっての必然性です。福沢諭吉が「閔妃暗殺」を正当化するような発言をしていたこと、明治天皇の「事件」を知ったときの発言、また日本の新聞記者が日清戦争取材に同行して中国人商人12名を虐殺したことなどです。

人はいかに国家と自分の生き方を同一化していくのかを改めて思い知りました。自分の中に組み込まれたナショナル・アイデンティティを相対化する作業は大変であってもその事実を直視することから始めなければならない、この点を再認識させられました。

同時に、「歴史上古今未曾有の凶悪」事件として「閔妃暗殺」を記した内田定槌(当時の京城領事)のように、勇気ある発言をした人がいたことも重要なことを示唆してくれます。国籍や民族を超えた連帯の芽の可能性はこの耐えがたいまでの悲惨な事件の中にもありました。

2010年9月16日木曜日

個人史―私の失敗談(その1)

斎藤(私の父親―崔仁煥の通称名)はカレーショップやジャズ喫茶などを経営する事業家としても成功、終戦後のミナミを代表する「顔」の一人になった。だが、経済成長のレールを猛スピードで走りだした日本社会と逆行するように、彼は店を失い、ジムからも強いボクサーは生まれなくなった。「没落」という言葉を使う崔の目には、父親の成功と挫折は在日朝鮮人が歩んだ戦後の縮図のように映ったという。城島充『拳の漂流ー「神様」と呼ばれた男 ベビーゴステロの生涯』(講談社)20頁

私の父親がどういう男性であったか、上記の引用から読者は想像できるでしょうか。私のメールやブログを読む人はアンダーグランドに近い世界のことは恐らくほとんどわからないと思います。10歳のとき一人で来日し、宝塚のトップスターを愛人としていた父は、外車を乗り回す生活をしながら全てを失ったとき、故郷の北朝鮮に帰ろうと言い出したことがありました。私はいつか愛すべき父親のことは書こうと思っていますが、時間がかかりそうです。

昨日のメールでスクラップ(鉄屑)業のことを書きましたが、それは私の義父の仕事でした。韓国の山奥から密航で日本に渡って来た彼が川崎で従事した仕事がスクラップで、それ以来無骨にもずっとスクラップ一筋の一生でした。

私は日立闘争や地域活動に精を出し、いっぱしの民族運動の活動家として全力をつくしていたときです。私は自分のやってきた運動をさらに進めようと結婚後韓国留学までしていたのですが、「在日」問題を「日本社会の歪」と捉ながら、自分の最も身近にいた義父の苦しさやその心の痛みを知ることがありませんでした。

義父の訃報を聞き私が在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞めてスクラップ屋を継ごうとしたのは自分のふがいなさを悔い、自分で義父の生きた「在日」の世界に飛び込み、そこで生きようとしたからだと思います。

私は何も知らないスクラップの世界に飛び込み、無我夢中で働きました。しかし義父の作り上げた人脈と商売の方式は根本的な矛盾を抱え、まったく展望が見えないものであるということが徐々に私にも見えてきました。お金もなく、会社をつぶすこともできず、そこから脱却する途を私は探り続けました。

これまで私は川崎での運動を基盤にして小むつかしいことを書き連ねてきましたが、ここ数回は、30代の初めから35年間どのようにして飯を食ってきたのかを思い出しながら記したいと思うようになりました。

それは成功談ではありません。私もまた、ビジネスとしてはある時期の父のように全てを失い、多くの人に迷惑をかける、恥の多き結果になりました。しかし私には、どのような時にも私を支え、私と一緒になって悩み苦しみながら励ましてくれる妻が傍にいました。

私の「在日論」は自分で悩み、歩み経験したことをしっかりと見極め、開かれた社会を求めるものです。その歩みを確実に進めるために、私はもう一度、自分の過去を振り返ります。

2010年9月14日火曜日

「在日」のスクラップ(鉄くず)屋さんと出会って

今日、身内が手放した家を解体し引っ越すというので、解体屋さんが残されたクーラーや室外機を取りに来ました。どこにでも解体現場に駆けつけ、そこで金属ものをもらっていく仕事です。私と同年輩に見えたその解体屋さんは腰が低く、要らないものは何でももらっていくという話をしていました。私は、岳父のスクラップの仕事を継いでいたので、私もスクラップの仕事をしてたんですよと雑談の中で話しました。

そうすると誰もいなくなったところで、ハングサラミ(韓国人)ですか、スクラップの仕事をしていたと言われたので、と彼が言い出しました。そうですと答えて話がはずみました。奥さんを亡くされて、再婚をせず子供を育てたこと、数年前に焼肉屋を止め、昔やっていたスクラップ屋に戻ったということでした。ヤード(置き場)を持たず、解体現場を回って金属ものを集め、すぐに仲間に売っているのでしょう。ヤードがなければ家電にある銅線やレアメタルなどを取り出すことはできませんから。

私は30代の頃、在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞め、川崎での地域活動の現場を離れる決心をして、亡くなった岳父の小さなスクラップ屋を継ぎました。朝鮮人の従業員が4名の小さな会社でした。彼らは達者なもので、11トントラックに40トンの鉄くずを積み、運搬するのです。毎朝夜明け前にでかけ、造船場のスクラップを取りに行くのが主な仕事で、私の場合はヤードがあったので、その鉄くずを機械にかけててのひら大の大きさに切り、問屋に納入するのです。問屋はそれを電気炉をもつ会社に納め新たな鉄に生まれ変わります。そのスクラップ業は、戦後、ごみの収集と合わせ、在日朝鮮人が従事する仕事でした。

私は日本名を名乗る彼が東京の民族学校を出たことを知りました。映画「パッチギ」の世界の経験者でしょう。腰を低くし、解体現場を回り、家電や金属ものをもらう仕事の大変さに思い至り、これをきっかけにお付き合いしましょうねと言ったのですが、彼は何か解体物の処理で困ったときにはいつでも連絡ください、と答えました。それは商売にしたいというより、何か親近感を表す言葉だったのでしょう。

本名を名乗ることを日立闘争以来主張してきた私自身はどのビジネスの時でも本名を名乗り、3人の子供は日本名(日本読み)のない子として育てました。地域で本名を名乗る体制をつくることにも奔走してきました。しかし今、それでよかったのか、複雑な想いを抱くのです。

日本人と同じ権利、そう、それは当然です。しかし朝鮮人であることを当たり前のこととしては生きにくい現実を今日も目のあたりにして、私は日本のあるべき姿は正論を並べるのではなく、明治以来の国民国家づくりの過程でどれほど圧倒的な日本人が植民地主義を正当化する感性をもたされてきたのか(朝鮮人自身も)、その実態を知り、そこからの脱却はどうするのかという課題を自分の課題として取り組むことから始まると改めて思いました。

2010年9月5日日曜日

崔承喜っていう伝説のプリマ、知ってます?

残暑、お見舞い申し上げます。なんと京都は39.9度だったとか!みなさん、くれぐれも体調にはお気をつけください。

直木賞作家、西木正明の『さすらいの舞姫ー北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜』(光文社 2010)という900頁を一気に読みました。平凡パンチの編集であった著者が、川端康成との三島由紀夫の「事件」に関するインタビューで初めて川端が絶賛する戦前の朝鮮人バレリーナのことを聞き、そこから取材をして書き始めたとのことです。

私はしかしその崔承喜のことは、生前の父から聞いたことがあったのです。一度だけでしたが、その名前はずっと記憶していました。「アジアのイサドラ・ダンカン」とされる彼女のことは、父の言葉の所為か、その後の断片的な情報と共に妙に生々しく記憶に残っていました。しかし今、本を読み終え、不思議な気持ちになっています。

終章にあるように、もともと彼女が住んでいたのが、ソウル支庁に近い、参鶏湯(サムゲタン)料理で有名な土俗村は私がよく行く店であったこともあり、また何よりも、その本から「解放後」の朝鮮史、何よりも朝鮮戦争後の北朝鮮の政治状況が手に取るようにわかります。そして日本、中国の私のよく知る文化人・政治家とも深く関わった、歴史に翻弄された芸術家であるということがあまりに切実に迫ってくるのです。私の尊敬する周恩来が「アジアの至宝」と彼女の亡命に力を貸したことも妙に納得です。当分、彼女の夢を見そうです。

日本や中国ばかりか、アメリカやヨーロッパの当時の最も著名な人たちが絶賛してやまなかった崔承喜の、クラシックバレーと朝鮮の舞踊をひとつにしたモダンバレーの水準の高さとその美貌、私は必死にYOUTUBEで検索しましたが、映像はなく、ただ写真とレコードになった肉声を聞くのみでした。西木正明の小説がどれほど事実に基づくのか、彼の歴史観、思想、想いで書かれたものかの判断は慎重にすべきだということは言うまでもありません。

私はその本を読んでまったく関係がないのに、私の同世代の「在日」が民族的アイデンティティを求める中で社会主義国の「北」に限りない「幻想」を抱いたことを考えてしまいました。勿論、韓国政府のでっち上げもありました。しかし実際に、日本の「拉致事件」と同じ時期、「拉致」を実行した「北」のシステムに乗って「北」に行き韓国に渡り逮捕された「在日」は、民族の英雄として朝鮮史に残るということで済ませることができるのか、彼らは崔承喜を英雄視しながら結局は「殺害」した「北」の実態に対して、どうして観念的な理想を抱いたのか、その解明が必要だと痛感します。それは日本の戦後の左翼運動の総括とも関係するような予感がするのです。

2010年8月23日月曜日

驚くべき数字、日本は「韓国併合」が悪かったは20%-中央日報

韓国の大手新聞である中央日報が日経と「韓日強制併合100年を迎え、両国国民を対象に共同で電話質問をした分析結果」として、「韓日強制併合」が悪かったという回答が、韓国では78.9%(あれっ、もっと高いと思いましたが)、日本では「悪かった」は20%、「悪い点もあるが良い点もあった」(60%)そうです。そうか、そうすると日本でも「悪かった」と認識しているのは一応、80%になりますね。

私は基本的にこのような数字は信用できないと考えています。質問の仕方、特に電話であれば誘導の仕方で応え方は随分と違ってくると思われるからです。

問題は、「悪い点もあるが良い点もあった」という認識です。これは日韓会談の最初のときからの日本側代表の発言内容であり、遡ってみると、中塚明さんの本では、1946年5月号『世界』に掲載した鈴木武雄さん(元京城帝国大学教授)が朝鮮問題を最初に取り上げたそうです(その後、4年間の空白!)。そこでも鈴木さんは米の朝鮮での増産を取り上げ、日本の生産技術(近代化)が大きく寄与した点を強調し、植民地支配の正当化をしているそうです(中塚明『現代日本の歴認認識―その自覚せざる欠落を問う』(高文研、89-104)。

植民地支配に問題があっただろうが良い点もあったという認識は、日本が朝鮮の近代化に貢献したということであり、「日露戦争前後から専ら言われてきた「朝鮮停滞論・落語論」」(中塚、103ページ)を前提にして成り立つのだと思われます。

韓流フアンが増え、多くの日本市民が韓国に関心を持ち始め、スポーツ界・経済界においては韓国から学ぶべきという声も台頭しているようです。しかし同時に、北朝鮮の貧困、金正日の独裁など「拉致」事件を犯したとんでもない国というイメージも広がり、私は北朝鮮認識の中に植民地歴史観がそのまま繋げられているように思います。

中央日報はFTAが締結されれば、「両国の明るい未来のための基盤が構築されると期待される」と楽観的ですが、対北朝鮮に対しては「制裁」を重視する日本の対応を考えると、私は全く楽観的にはなれません。一体過去の歴史を直視しないでどうして真実の交流がなりたつでしょうか。横浜市では全市中学で自由社版歴史教科書が使われる危険性がとりざたされています。
(http://antiーkyosei.blogspot.com/2010/07/blog-post_28.html)

その教科書では、日本軍が一部のアジア地域で解放軍として迎えられたという写真が載っています。「韓国併合」さえ知らない大学生も多くおり、またそんな教科書を日本の若い人が学んで育つのですよ、私はどう考えても楽観的になれません。

2010年8月22日日曜日

中塚明著『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠落を問う』を読んで

先日の「韓国併合」100年を問うシンポジュームでの中塚明教授の基調報告を聴き、会場で教授の著作を買いました。『現代日本の歴史認識―その自覚せざる欠落を問う』(高文研、2007)という本です。その本が第1版であることに驚きました。こんないい本がどうしてもっと多くの人に読まれないのかと思ったからです。

著書は4章で構成されています。第1章「明治の日本」を讃える“常識”を疑う。第2章「明治栄光論」で隠蔽される歴足の事実。第3章 歴史の偽造・3例を検証する。(1.江華島事件はなぜ起きたか。2.日清戦争はどうしてはじまったのか。3.日本政府・軍がひた隠しした東学農民軍の抗日闘争)。第4章 韓国にみる過去の問い返しと歴史認識の深まり。この目次を見ただけで、先生の意気込み、気迫が伝わってくるような気がします。

NHKの坂本竜馬が放送されていますが、作者の司馬遼太郎は「明治の時代」を最大限称賛し、戦争に突き進んだ昭和の時代は「非連続の時代」と解釈します。この「明治はよき時代」であったという認識は現代の知識人といわれる、例えば反藤一利、寺島実郎だけでなく、鶴見俊輔、藤原彰までにも影響を与えているようです。

かつて5000円札の顔であった新渡戸稲造、岡倉天心、矢内原忠雄が植民地朝鮮をどのようにみていたのかも明らかにされます。さらに、雑誌『世界』で朝鮮のことをとりあげたのは、1946年5月号であり(丸山真男の有名な論文「超国家主義の論理と心理」と同じ号)それも朝鮮支配を近代化という観点から正当化する内容で、それ以後の無関心状況から、中塚教授は、「戦後日本の知識人の責任」を厳しく問います。

日清戦争に至る日本の暴力的な侵略の事実を最新の研究成果を取り上げて実証しながら、それらの事実を日本政府が軍人を動かしどのように隠蔽していったのかを明らかにして、「明治のよき時代」幻想は完全に覆えります。中塚教授の歴史観は明確で、明治以降日本人が積み上げてきた朝鮮に対する見方は「今日でもいぜんとして変わっていません。変わっていないばかりか、日々、再生産されて」いると喝破します。

韓国における「東学乱」の位置付けも、韓国での民主化闘争の過程で大きくかわってきており、その「農民革命」には農民の男だけでなく女性、子供も参加し、そのモニュメントの作り方まで「新たな歴史観」に基づき変化してきたことを教授は説明されます。教授とで会った韓国の研究者は、「国家主義」「民族主義」という「狭い垣根から解き放つ」体験をしたという新たな可能性、地平まで示唆して終わります。

日本の教育の現場で、近現代の歴史がしっかりと教えられるべきだと痛感します。また植民地主義史観の克服は、日韓両国においてもいかに困難なことか改めて認識しました。みなさんに一読をお勧めします。

2010年8月18日水曜日

国民栄誉賞受賞者、王貞治の国籍についてー王選手は例外

お久し振りです。
高橋先生のお別れ会にはお出でくださりありがとうございました。

王選手の「台湾」国籍は知ってましたが、彼ほどの英雄になると
どこの国籍であろうと関係なく「おらが王」であってほしいと
ファンは思っているようです。

ただ、これは全くの例外であって、一般人はたとえ国籍を日本に
変更しても住み難い国であろことはもうすまでもありませんね。
また、王選手であっても、長島選手に匹敵する実力をもちながら
外国人であるがゆいに不当に扱われているということで彼の為に
国民栄誉賞が考えられたといわれております。

坂内宗男、

国民栄誉賞受賞者、王貞治の国籍についてー日本学術会議に抗議します

崔さんへ

日本学術会議の国籍条項は、もう6-7年前にの本平和学会の名前で
抗議しもうしいれもしています。

しかし、なかなか腰を上げようとしません。機会があればまた、
申し入れをしますが、崔さんの視点はユニークです。

中華民国・台湾は国交がなくなった時点で国籍から地名として
意味が変わりました。二つの中国を認めない中国の主張でもあります。

IUより

日立製作所労働組合で「(被)選挙権」は付与されているけれど・・・朴鐘碩

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」のHPの掲示板(コミュニケーションの項)に朴鐘碩が、「日立製作所労働組合で「(被)選挙権」は付与されているけれど・・・」というタイトルで、日立の組合の実態を記しています。
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html

労使一体の元、組合の執行委員を選ぶ選挙においても、対立候補はおらず、「組合活動の主軸である春闘議案」さえ、その内容を組合員が質問することも職場で討議することもないそうです。
「私が驚いたのは、日立製作所本社支部の役員候補者の公報である。候補者の所信はなく所属と氏名のみが記載されていた。組合員は何を基に(不)信任投票するのか?」

そんな環境にあって、朴鐘碩は今年の6月25日に、「私は職場の皆さんに励まされ、2000年から執行委員長に立候補し6度目の挑戦」し、投票者総数1219名の内、148名の得票を得たとあります。彼の職場での奮闘ぶりが目に浮かぶようです。

「韓日併合・朝鮮半島植民地化から100年になる。日立就職差別裁判から40年。私は、「民族の主体性」を問われた。「裁判は同化に繋がる」と批判された。(民族)差別・抑圧を糾弾し、問いかけた。それを作り出している日本社会の問題・戦争責任を追及した。同時に自分はどう生きるべきなのか、問い続けた。日立闘争は、「同化」に繋がったのか。「民族」を求める以前に人間らしくどう生きるか、悩んだ。多国籍企業日立で働く労働者の問題と民族差別は深く絡んでいる。」

来年、朴鐘碩は日立を勤めあげ定年を迎えます。彼が起こした裁判闘争の歴史的な意味を、彼の還暦と定年を多くのいろんな立場の人と一緒に祝す集いを持ってしっかりと考え、確認し、今後歩むべき方向性を模索できればと私個人は思っているのですが、みなさんはいかがでしょうか?

国民栄誉賞受賞者、王貞治の国籍について

猛暑が続きますが、みなさん、おかわりございませんか。

昨日から王選手(と私の中ではインプットされています)のご母堂が逝去されたことがニュースで流されてました。108歳だったそうです。そうかと聞き流していたのですが、今朝の「スーパーモーニング」で王選手の国籍が台湾(中華民国)のままだと聞き、驚きました。ちなみに「台湾」(=中華民国)は「朝鮮」と同じで「国籍」ではなく、「地名」とされています。

私の頭の中では国民栄誉賞を受賞した(ホームランの世界記録異達を成した王選手が第一号で、そもそもが王選手の表彰のために作られたとされている)のだから、てっきり尊父の名前をつかっているが、日本国籍をもつものと思い込んでいました。いやはや、思い込みって怖いですね。反省します。

ウィキぺディアによると、<国民栄誉賞(こくみんえいよしょう)は、日本の内閣総理大臣表彰のひとつ。「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とするとして福田赳夫内閣時代の1977年8月に創設された>とありました。国籍条項はありません。

紫綬褒章も外国籍者が受賞していますね。そうか、そうするとやっぱり、日本学術会議の国籍条項ははやく撤廃させなければなりませんね。「特別会員」というような姑息なことを認めずに正面から、突破させたいですね。日本学術会議の事務局はメールでこのようなことを言ってました。

<日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄の機関として科学に関する重要事項について政府からの諮問に体する答申、勧告等を行う機関であり、会員は国家意思の形成への参画に携わる国家公務員であるため、公務員は日本国籍者に限るとする政府の「当然の法理」の考え方に従い、日本国籍が必要であると解されております。>
(「日本学術会議:事務局からの回答」
http://anti-kyosei.blogspot.com/2009/05/blog-post_18.html、
「日本学術会議事務局からの第3回目の回答です」
http://anti-kyosei.blogspot.com/2009/05/blog-post_7770.html)

日本社会は、日本国籍者だけのものではない、外国籍者も同じく日本社会の「主人公」であるという私の主張を、王選手は黙って実行してたんですね。あの世では、戦後日本のヒーローだった力道山も微笑んでいることでしょう。

2010年8月13日金曜日

「韓国併合」首相談話から想うこと

みなさん、この暑さのなかどのように過ごされていますか。
お盆のときには大雨があり、その後は猛暑が続くそうです
から、お体にはご注意を。

 「韓国併合」100年にあたっての首相談話は自民や民主
の中からも批判の声があがり、一方、十分でないという声も
ありますが、和田春樹さんが言うように、村山談話より
「一歩前進」というところなのでしょうか。しかし韓国
では厳しい意見がだされているようです。

日本の新聞は中国政府もまた談話を「歓迎」と報道して
いますが、韓国の朝鮮日報は、11日付中国紙・環球時報
のトップ記事を紹介し、「日本が中国を除外し、韓国に
対してだけ謝罪したことは政治的背景があるのではないか」、
「今回の出来事は日本と韓国が手を結び、中国に対処する
転換点になるのではないかとの疑念が生じる」という、
中国の政府発表とは違う一面を報道しています。

これは6者会談を念頭においたものとも読めますが、私は、
大国になった中国が、韓国・日本に対して警戒をにじませた
ものと感じました。いわばこれはいずれもが植民地支配を
強化する国家同士であることを意味します。

日韓両国は自国内の労働力ではやっていけず、廉価で使い  
捨てできる外国人の労働力を必要とするに至り、それを
「多文化共生」というかたちで外国人の「統治」をしよう
としています。それを韓国の尹海東さんは、「内部植民地」
と先の「韓国併合」100年を問うシンポで発表していました。

一国内に多くの民族を抱える中国もまた、内陸部に廉価な
労働力が多くあり海外から労働力を入れる必要はないとは
言え、植民地支配をどのように進めるのかという点では、
国民国家の運営という意味では、日本・韓国と同じ問題を
持つと見るべきなのでしょう。この点は、孫歌さんにお会い
したら是非、伺ってみたいですね。

今年の『思想』1月号で、李成市さんが興味深い論文を
書かれています。当時のアカデミズム実証主義歴史家が
いずれも日清・日露戦争、韓国併合に進んだ日本の植民地
主義を批判的に捉えることができず、それを反映させる
かたちで古代史を解釈したというのです。

その中で、「帝国主義」を取り上げる上野千鶴子さんと
石母田正を例にして、その議論の前提になる日本の古代史
(朝鮮支配)は植民地主義歴史観に基づいた誤ったもので、
それを「自明なものとして・・議論される構造に組み込まれ
ている」ということを記しています(141頁)。

 私は「韓国併合」100年を問うシンポに参加して懸念を
もったと先のブログで書きましたが、アカデミックな実証主義を
求めると言うことは、過去、決して実際に生起していた国民国家
の植民地支配の動向を批判的に捉えることではなかったという
ことです。今の歴史学者や社会科学者は違うと言えるのでしょうか。

 先の尹海東さんは、シンポでの発題をこのような言葉で終え
ました、「新たな転換は、ともすると戦後迎えることになった
新たな植民地主義である可能性もある」。在日朝鮮人を含めた
外国人の「多文化共生」はそのような植民地主義として捉える
べきなのではないでしょうか。このブログをごらんになった
様々な分野の研究者のご意見をお聞かせください。

 

2010年8月9日月曜日

「韓国併合」100年を問う国際シンポジュームに参加して抱いた懸念

国立歴史民俗博物館主催、「韓国併合」100年を問う会共催、岩波書店・朝日新聞社後援の「国際シンポジューム「韓国併合」を問う」が8月7-8日の2日間にわたって東京大学で開かれました。延べにして1000名を超える、主催者側も予想していなかった大盛況で、会場に入りきれない人も多くいたようです。

「韓国併合」100年にあたり、未だ植民地支配が清算されずにいることを危惧する、もっとも良心的な歴史学者と一般市民が集ったということでしょうか。よく準備されたシンポで、現時点での、日本の学界の「最先端」の問題意識と研究内容が披露されたということなのでしょうか。中塚明先生の講演をはじめ、5つのセッションがあり、「近代の東アジアと「韓国併合」」、「日本の植民地支配」、「戦後日本と植民地支配の問題」、「歴史認識の問題」、「世界史の中の「韓国併合」」についての問題提起と25名もの研究者の発表という形式でした。

講演と問題提起、それに15分くらいの短いものであっても各自の研究発表の内容は十分に準備されたもので、学ぶことの多いシンポでした。しかし2日間、最初から最後の打ち上げのパーティにまで参加した私には、大きな懸念が残ったということを正直に告白せざるをえません。

25名の学者の中で、またフロアーからの一般市民の発言を含めて、日韓両国が「人種的マイノリティ問題を中心にした多文化社会を迎えている」という現状認識をもって、「内部植民地」の問題と発表したのは、韓国成均館大学の尹海東氏、ただ一人でした。彼の発表については総括の中でも取り上げられていたこともあり、後日、みなさんにお知らせします。

これだけ外国人が増え、「多文化共生」政策を日韓両国政府が政策として掲げるということは歴史的にどのような事態なのか、その「多文化共生」とは一体何なのか、私には植民地支配の清算をすべきだという意識をもつ歴史学者が、「多文化共生」政策が尹海東氏のいう「内部植民地」(或いは、西川長夫氏のいう<新>植民地主義)の問題ではないのかということについて一切の関心を示さなかったということに、大きな危機感をいだかざるをえませんでした。歴史学者は実証的な研究を進めながら、今現実社会で生起している「多文化共生」についての明確な見解を示し、植民地支配の問題として警鐘を鳴らすべきだと思います。

立ち話でしたが、それでも東京外大の岩崎稔氏、岩波の小島潔氏などのように、私の外国人の「二級市民」化、「共生」政策の問題点の指摘に大きく頷いていた人もいたということを付け加えておきます。

ついでに私の目の前にちょうど、「8・22日韓市民共同宣言大会」のチラシがあり、「朝鮮植民地支配の清算」を謳っています。しかしそのスローガンは、「平和と共生の東アジアを!」というものです。過去の清算を願い闘う市民もまた、「多文化共生」が「内部植民地」の問題だという認識を持っていないのではないのか、気にかかります。

2010年8月6日金曜日

朝鮮学校の「高校無償化」問題はまだ未決、一橋大・鵜飼哲教授より

みなさんへ
一橋大の博士課程の研究者の友人から、メールの転送依頼がきました。

朝鮮学校の「高校無償化」問題で集会をもたれた鵜飼哲教授が、「ゼミ生および友人のみなさん」宛に送られたものだそうです。問題はまだ未決であること、今後さまざまな巻き返しが予想されるということを、記されております。

仙谷官房長官が韓国併合100年に際して、村山談話以上のことを語らせまいとする動きも活発化しているようです。お互いの駆け引きや、政治上の立場があるのでしょうが、私自身は、一歩踏み込んだ談話を「首相の談話」として出してほしいと願いますね。

管首相が国家「君が代」に対する国会での質問に対して、大変見苦しい答弁をしていました。あれでは、「強制はよくない」とした天皇談話より落ちますね。実際の「首相の談話」の内容は仙谷さんがまとめるとのこと。さて、どういう内容になるのでしょうか。

崔 勝久

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ゼミ生および友人のみなさん

8月3日の「朝鮮学校の「高校無償化」問題を考える学習討論集会」@一橋には多くのゼミ生と友人の方々のご協力、ご参加をいただき大変ありがとうございました。

集会当日に毎日系メディアが流した「無償化」適用の方向という報道は、翌日社民党の議員秘書を通じて確認したところ、文科省内のいわゆる専門家委員会の議論の方向性が示されているだけでまだ確定的な事実ではありません。反対に、この報道をきっかけに、議会での自民党の追及、右派系団体のファックス、メール攻勢が始まっています。これからまだ「ひとヤマもふたヤマも」あることを覚悟しなければなりません。

集会で在日朝鮮人人権協会の金東鶴さんが提起されたように、この局面では適用賛成の意見を文部科学省、首相官邸に集中する運動が必要です。下記のURLをご覧いただきメールを送っていただきたいと思います。また、友人たちにもこの声を広げてください。決定はお盆明けになるという見方が有力です。

集会の主催者である私たちも来週には要請行動を行う予定です。適用が実現してもさらにその先の運動を構想していかなければなりませんが、まずこの局面で力を集中する必要があります。よろしくお願いします。

鵜飼

文科省 https://www.inquiry.mext.go.jp/inquiry38/
首相官邸 https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html

2010年8月4日水曜日

投稿: 朝日新聞報道を読んでー朝鮮学校無償化問題

崔さん

今朝の朝日新聞一面に「朝鮮学校無償化へ調整」のタイトル記事
を読みました。実施に閣内一部反対の意見もありますが、大勢は
力強く、実現に向け動いたものと感じます。

これは日頃差別の存在を許さぬ皆さんの活動の成果と、人類の歴史
に対し、逆行を阻止する国民の良識が働いた事と思います。

是非この教育の場に於ける人権に関わる事が、現実のものとなること
を祈念致します。

             10:8:4日      塚本

2010年7月30日金曜日

仙谷官房長官と朴鐘碩(日立闘争当該)

7月29日の朝日新聞夕刊の「窓」論説委員室のコラムで、石橋英昭記者が「弁護士政治家」というタイトルで仙谷官房長官と朴鐘碩のことを記しています。40年前の二人の出会いが今日の二人を作ってきたのですが、日本の政治の中枢を担う政治家になった仙谷さんと、40年勤めあげ来年5月に定年を迎える朴鐘碩のことを想うと、不思議な気がします。定年の時の集いはどのようなものになるでしょうか。

以下、コラムの全文を記します。

弁護士政治家  論説委員室から 朝日新聞夕刊7月29日

東大在学中に司法試験に合格した仙谷由人さんが弁護士登録をしたのは、25歳のとき。最初に担当したのが、日立製作所の就職差別事件だった。

在日韓国人の朴鐘碩さんが、国籍を理由に採用を取り消され、入社試験で日本名を使ったことも「ウソつき」だとされた。裁判では不当な民族差別だったと認められ、朴さんが全面勝訴した。

「オマエたち日本人が作り出した差別だ」「この裁判にかかわることでオレは生き方を変える」。深夜までよく青年弁護士と議論したのを、来年日立で定年を迎える朴さんは、覚えている。

40年近くが過ぎ、仙谷さんは官房長官に就いた。戦後補償などをめぐる発言に原点の体験がにじむ。ふらつく政権内では、その調整力が頼りにされる。今もどこか、面倒見の良い、法律事務所のボスといった風情である。
見渡せば、早くに政治家に転じた枝野民主党幹事長、谷垣自民党総裁と、山口公明党代表、福島社民党党首、また横路衆議員議長も弁護士資格を持つ。25日に任期が切れた江田参院議長もそうだ。

与野党ねじれのもと、数を頼んだ乱暴な国会運営はできない。ルールに基づいて、損得を比較考量し、弁論で説得する。求められるのは「法治国会」だ。法律家がこれだけ政治の中心にいるのは、時代の必然だろうか。
週参議員で弁護士出身は現在31名。この中から首相が生まれれば、鳩山一郎以来のこととなる。<石橋英昭>

崔 勝久

2010年7月28日水曜日

横浜市で何が起っているか?―自由社版「つくる会」教科書をめぐって―加藤千香子

 横浜市では、「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)の自由社版教科書『新編 新しい歴史教科書』が、昨年夏の採択決定に基き、今年4月より市内18地区中の8地区(港南区、港北区、青葉区、都築区、金沢区、緑区、瀬谷区、旭区)の中学校で使用が義務づけられています。この教科書は、以前から内容における大きな偏りや、間違いが多いことが指摘されていました(採択後にも40ヶ所もの訂正が行われています)が、現在公立中学校では横浜市でしか使用されていない教科書です。

 ここでは、横浜市における教科書採択の問題、現在どのような動きが進んでいるか、そしてそれに対抗するための私たちの取組みについて述べたいと思います。

1 採択決定の経緯
教科書採択が決定されたのは、昨年8月4日の横浜市教育委員会でした。横浜市の教科書採択は、すでに2005年から、各学校の意見が排除され、教科書取扱審議委員会の答申をもとに市教委が採択するという手続きになっています。今回の採択は、中田宏元横浜市長(採択決定後に市長辞任)が任命した今田忠彦教育委員長ほか6人の委員の採決によって行われました。その際、他教科が従来通り挙手裁決、歴史だけが無記名投票という不公正な方法がとられ、しかも学校現場の声はもとより教科書取扱審議会答申(答申では自由社の評価は大変低い)すら無視したものであったことが明らかになっています。

 また、市教委では、「つくる会」に同調している市民団体が請願してきた採択地区の市内一地区化を方針として決定し、県教委に変更の承認を求めていました。教科書採択後の10月の県教委では、この市内一地区化の件は激論になり、一地区化に反対する渡邊美樹委員が辞任するなどの混乱を引き起こしながらも、承認の決定がされました。この市内一地区化は、現在検定中の「つくる会」系教科書を8地区どころか全市18地区で使用させるための採択を目指しているものと考えられます。

2 採択後の動き
自由社版教科書が採択されたことに対し、横浜市教職員組合(浜教祖)では、自由社版教科書の採択の経過と内容を批判しながら独自に同書の使用を前提とした授業案集『中学校歴史資料集』を作成、今年4月に組合員へ配布しました。これは、「教員の指導上の戸惑いを払拭し、子どもたちの学びを保障する観点から」のもので、教員組合として当然の対応です。

しかし、これに対して市議会で一市議から出た質問を受けた市教委・山田巧教育長は、「教科書の適切な使用等について」(4月28日付)の文書を出し、「横浜市教育委員会が採択した教科書を必ず使用しなければなりません」「教員の管理監督及び教育課程の管理運営を適切に行っていただくよう」といった内容を各中学校長に通達しています。また市教委は『資料集』を「極めて不適切」とし、「今後、このような文書を教員に配布しないこと」「学校ポストについては、今後、職員団体活動に使用しないこと」という「警告」文を浜教組に手渡しました。こうした動きをとらえた『産経新聞』は、5月以降、浜教組の『資料集』配布を「法律違反」行為と断定、紙面第一面で扱うなど激しいキャンペーンをはじめました。さらに、「つくる会」は浜教組への厳重処分を市教委に申し入れ、また5月25日の参議院文教科学委員会でも義家弘介議員(自民)が取り上げています。

この中で持ち出されているのは、教科書使用義務をうたう学校教育法34条に反するという論理ですが、肝心なのは、同じ学校教育法34条の2にある、教科書以外の教材使用の自由が無視されている点です。教科書だけを使って授業をすること自体、現場ではきわめて非現実的といわざるをえませんし、授業に際して多面的な観点や学問的な理解の助けになる教材は不可欠です。浜教組の行為を問題にする側や市教委の動きは、自由社版教科書の使用義務づけの徹底化に加え、教員の教育活動に大幅な制限を課すことで、上からの管理・監督を強めるものにほかなりません。大変大きな問題をはらんでいます。

3 横浜教科書研究会について
昨年秋に発足した私たちの「横浜教科書研究会」では、市民、教職経験者と大学の研究者とで自由社版教科書の内容の検討を進めています。その結果、特定の価値観や道徳を教え込もうとするために生まれる歴史の歪曲や誤り、アジアや世界に背を向けた内向きの「日本人」中心史観、天皇の力の実態以上の評価など、戦前の国定教科書とも酷似している内容が具体的に明らかになってきました。

この検討の成果をもとに、自由社版教科書を使用しなければならない学校現場の先生方
に役立ててほしいと考え、「自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?」Vol.1、Vol.2を作成し、横浜市立全中学校に送付しました。Vol.1は序論にあたるもので、実践編のVol.2では原始・古代・中世・近世を対象に、各時代の全体的な問題点の指摘のほか、32のテーマと8つのコラムを設定し、①学びたいこと、②ここが問題(教科書の問題点)、③アドバイスを具体的に提示しました。この教科書で授業せざるをえない状況に追い込まれた現場の教員の方たちにとって、実践的な力となることをめざして編集したものです。今後、Vol.3近現代編の発行も予定しており、教科書検討の際には、ぜひ参考にしていただきたいと思います。
 
この問題は横浜市だけの問題ではありません。目下進行中の中学校教科書検定や来年度の教科書採択ではこうした動きがさらに強まり、全国的にも広がりをみせる恐れもあります。それを食い止めることは言うまでもありませんが、進行しつつある教育現場の管理強化に抗するとともに、これを機にあらためて「歴史」を学びなおしていくような動きをつくっていくことも大切と考えます。みなさま方からのご協力、心より願っております。

※冊子普及や資金カンパにご協力ください。
「自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?」Vol.1 協力金1部300円以上
「自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?」Vol.2 協力金1部800円以上

  横浜教科書研究会
  〒240-8501 横浜市保土ヶ谷区常盤台79-2
横浜国立大学教育人間科学部歴史学研究室
電話 045-339-3434  FAX 045-339-3437
メールアドレス yokohamakyokasho@yahoo.co.jp

                             (加藤千香子)

2010年7月27日火曜日

韓国の「多文化共生」の実態―国際結婚が10%を超える!

韓国の「多文化共生」の実態―国際結婚が10%を超える!

今朝のテレビ朝日のスーパーモーニングで、韓国の国際結婚の実態が報道されていました。2000年は3.5%であったものが、2009年には10.8%になったそうです。それだけ国際結婚が多いのは、農村に嫁に行く韓国の女性が少なくなり、子供を産み、働いてくれる若い嫁を海外から迎えるためという説明でした。現在韓国農村の3割は国際結婚によるそうです。そこには色濃くジェンダー問題が潜んでいます。

7月25日(日)に日本学術会議主催の「グローバル化するメディア社会と文化的市民権」の公開講演会があり、「市民の会」の伊藤さんと私が参加しました。そこでの基調報告は韓国延世大学の金賢美教授によるもので、大変興味深いものでした。今朝のTV報道でも解説されていましたが、国際結婚の対象は中国、ベトナム、日本、イズべキスタン、カンボジア等にも及び、その仲介業者は現在、未登録業者を含めると2000社にもなるとのことです。TVでは人身売買、奴隷売買と言ってましたね。その通りです。

金教授の講演からは、韓国はNGOの活動が活発で、政府は外国人労働者を受け入れる体制を迅速に法制化している実態が伝わりました。NGO側は、「文化的市民権」ということで、「同化」を進め「韓国らしさ」を当然視・強要する政府の政策と、それを受け入れる一般社会に対して、「多文化共生」の必要性とともに韓国社会の閉鎖性に批判的です。金教授は、マスコミとNGOは外国人の人権(「再配分」と「承認」)の重要性を強調した論陣を張っているものの、当事者不在である実態を指摘されていました。

講演を聞いた多くの人は、韓国の「多文化共生」政策が進んでいると感じたかもしれませんが、私見では、勿論韓国から学ぶこともありますが、それは表面的な分析で、韓国は政府(国家権力)の力が強く、それにもろに対抗するためにNGO活動が逆に盛んにならざるをえない、何故ならば、地方自治の実態があまりに「未熟」だからだと私は分析します。NGO側の運動も大きくは、外国人の人権を謳いながらも「多文化共生」政策を裏から支える形になっており、その主張はキリスト教の影響か(?)博愛主義的で観念的だという印象を受けます。

「多文化共生」は韓国の例を見ても、日本と同じく、結局は国民国家の強化につながり、マジョリティのあり方を根本的に批判、変革する視点が圧倒的に希薄です。外国人をどう受け入れるのかというレベルで留まっています。

私は今いくつかの論文を書いていますが、マイノリティ問題はマジョリティ問題という曖昧な概念でなく、マジョリティの何が問題なのか、そこを徹底的に論議する必要があると思います。私の結論は、日本、韓国における「住民主権に基づく住民自治」の仕組み(及びそれを必要と考える市民の考え方が希薄)をつくる過程で、それを外国人と一緒に論議しながら、マジョリティを変えていかなければならないというものです。

詳しくは、「オルタナティブ提言―「在日」の立場から」(季刊『ピープルズ・プラン』)、及び「人権の実現―「在日」の立場から」『人権の実現』(斎藤純一編)、(『講座 人権論の再定位』(全5巻、法律文化社)で拙論の掲載が決定したらお知らせします。

2010年7月19日月曜日

『立法の中枢 知られざる官庁 内閣法制局』を読んで、「当然の法理」again

西川伸一『立法の中枢 知られざる官庁 内閣法制局』(五月書房、2000)を読みました。内閣法政局の存在は勿論、「当然の法理」はその内閣法政局の見解、意見であることはよく知っていました。しかし内閣法制局とは内閣の憲法を解釈するところくらいの認識しかなく、その意見というものがどのような意味をもつのか、不覚にもこの本を読んで初めてわかりました。ということで、「当然の法理」again、もう一度とりあげましょう。

「各省庁の官僚が起草した法案、政令案は内閣法制局に、国会議員に手による議員立法は議員法制局にもちこまれ、文字どおり一字一句にいたるまで入念に審査」されます。

内閣法制局の審査を経て成立した法律で最高裁から違憲判決を受けたものは一つもなく、70名からなる内閣法制局は1885年以来の歴史があり、戦後も「誤謬」のない、すべての官庁の法制化にあたって最高の権威をもち司ってきました。そこで定められた「論理」は変更が許されず、「一度示した憲法解釈、法律解釈はだれが首相でも、政権交代があっても従来の見解を固守する」ようになっているとのことです。

だから、地方公務員法には国籍条項がないにもかかわらず、1953年の法制局の見解、すなわち、かの有名な高辻発言の、「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画に携わる公務員となるためには、日本国籍を必要とする」という「法政意見」が今に至るも生きて、各地方自治体を牛耳っているのです。法律でも政令でもないので、改正されることはなく、「意見」ゆえに変えようがないものとされています。この「国家意思」はのちに、地方公務員の場合、「公の(或いは地方自治体の)意思形成」と読みかえられています。

従って「当然の法理」を破るのはまずは地方自治体の首長の勇気です。かつての高知県の橋本知事がその先例です。外国籍公務員の管理職を拒んでいた「当然の法理」は、地方参政権が実現されると「公の意思形成の参画」が承認されるので、議員立法であれば内閣法制局の「意見」に影響されることなく外国籍者の管理職は実現します。

ここで注意すべきことは、この10年以上、議員立法による外国人の参政権の法案化の動きは、昭和28年に内閣法制局長官が、憲法15条の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利」を、日本国民の「専有」でなく、「奪うべからざる権利」(かつての天皇制とは違う)という見解に基づいているということです。そうだとすれば、これを未だに日本人だけの権利と自民党の国会議員や市会議員が強調しているのは、無知か、わざとこれまでの経緯を隠しているとしか言えません。首長の決断ですべてが変わります。

臨海部についての川崎市民懇談会の報告(修正版)

臨海部についての川崎市民懇談会の報告
(17日の報告について曖昧な点のご指摘が中村さんからなされ、26日に修正しました)

7月17日(土)午後1時から5時まで、横浜国大の中村剛治郎教授をお招きして、臨海部についての懇談会をもちました。「川崎臨海部の歴史・現状・課題についてー市民参加による地域再生を目指して」という主題の下、中村さんの約2時間にわたるお話しとその後の活発な質疑応答があり、大変、有意義な懇談会をもてました。参加者は21名で、一般市民の中から広範囲な方々が参加されました。市会議員、行政の方の参加もあり、今後、この懇談会で論議されたことを叩き台として継続して議論を進め、市政に反映させたいと思います。

詳しくは後日出される事務局からの講演録を参照していただきたいのですが、中村さんのレジュメを添付いたします。実際のお話はレジュメを元にして融通無碍、興味あるエピソードを混ぜながら、漫談調でありつつ、ずばりと本質を突くものであり、市民の間では臨海部の問題はタブー視されていたものを、臨海部に関心をもたせ夢をいだかせるような、思わず引き込まれるような、熱のこもったおはなしでした。講演録をご期待下さい。

中村さんのお話を要約しますと、以下のようになります。

1.工業化の過程で生まれた臨海部は100年目にして転換期を迎え、ここで100年後の展望をだす絶好の機会とするべきである。一時、広大な空き地が生じたものの、アジアの旺盛な需要のために見事に素材産業中心の臨海部は復活したように見えるが、それは「事実認識の問題」で、これからの世界経済のあり方を勘案したとき、川崎におけるポスト工業化のあるべき姿を明確にすべきではないか。

2.川崎は「川の先」から由来し、東京に近いという立地条件を最大の武器にすべきであり、アジアの先進国日本はポスト工業化時代への突入に際して、知識集約型の産業に向かうもののこれまでの産業構造をそのままにするのではなく、思い切って環境・自然を大切にする方向に向かうべきである(多摩川の干潟などを破壊するような神奈川口での羽田と結ぶ橋の建設は、世界からどのような評価を受けるのか。高速道路をこわしてまで自然を優先し、新たなまちづくりを目指したボストンや、韓国ソウルのチョンゲチョンを参考にすべき)。

3. これまでの、先進国は研究開発でアジアは廉価な労働力提供地という認識ではなく、アジアが世界最大の市場になりそこに研究開発の拠点や、高品質の製造拠点になることを認識すべきである(日産マーチがタイで生産され日本に逆輸入されること、GEは開発拠点としてアメリカより、中国・インドに圧倒的に力をいれることを発表済)。

4.その流れの中で、高品質の鉄鋼を生産し輸出していた日本の鉄鋼メーカーは、早晩、アジア、ブラジルで高品質の鉄が生産され、日本での生産拠点である川崎・千葉の工場は大幅に縮小せざるをえなくなる。また高炉の十分の一で高品質の鉄を生産されるようになってきた電炉への切り替えもバージン資源の有効利用という面からも検討されるべきではないか。廃プラスチックをコークスの代わりに再利用しているJFE方式のみが評価されているが、(そうすれば関東全域から廃プラを集積しないとそのキャパに合わず、臨海部は関東の廃プラのゴミ捨て場になり、ますます臨海部で住民が憩えないという環境が持続することになるという問題も残る。)そのような廃プラスチックをそのままプラスチックにする新日鉄のマテリアルリサイクル方式と比較・検討するような論議(技術的な検証)も必要ではないか。

5.川崎の環境都市宣言の目玉で、先端技術産業として注目されている代表的企業として電気自動車用のりチームイオン電池メーカーのエリートパワー(株)があるが、世界的研究開発拠点とはやし立てられていたが、実際は、開発研究施設は滋賀に置き、臨海部は量産工場だけである。川崎市も県も巨額な助成金をだしたが、生産は自動化さされており、地域の雇用につながるとは思えず、手放しで評価すべきかは議論が必要ではないか。

6.日本の研究開発は企業ごとに行われていて、産業集積(クラスター)を謳い、次代産業の可能性を追求するのではなく、集積の構造やそのシステムがどのようになっているのかを研修すべきではないか。あまりに安易にクラスターということが言われている。

7.本来、海は公共のものであり、太平洋岸の好立地にありながら付加価値の低い素材産業のコンビナートを建設したのは、廉価で埋め立てをしたからで、そこが民間企業の土地所有になっており、公共性をもった土地利用との間に問題がある。土地の所有・権利・土地利用の関係を法令化するのに10年以上かかるので、長期的な視点から
事前に取り組む必要があるのではないか。

8. 最後に大都市の条件は人口の大きさではなく、そこでの文化の影響力がどれほど広範囲に及ぶのか、商業が盛んになり、商業が活気あるかたちになっているのか、住民の経済と生活基盤の盤石さ一致しているのかということが、目安になる、現在の川崎は、東京の影響下にあり、臨海部の空き地も「さみだれ式」に対応するばかりで、都市としての明確なグランドデザインがなく、市民の一体感もない。市民全体が川崎に誇りを持ち、夢をもてるような町にすべきである。そのためにも、川崎の臨海部を海辺として市民が憩えるような転換を図るべきではないか。
(以上、文責事務局)

質疑応答の中では、臨海部は暗いイメージしかなく、敢えて関心を持とうにも持ちようもない状態であったが、中村さんのお話を伺い、希望が持てた、このような学習会を継続してやってほしいという声が圧倒的でした。また川崎区は労働者の街で、産業道路にある池上町のような、消防車もはいれないような地域(これも臨海部の問題としてとらえるべきでしょう)の実態が不問に付されてきたという意見もありました。

勿論、既存の川崎市の路線を実務的に担っている行政マンや、行政の政策発表を大本営発表のようにそのまま何の検証もなく報道してきたマスコミにとっては、耳の痛い内容であるかもしれません。しかし中村さんのような意見(中村さんは、地域経済学会の会長であり、金沢市や神奈川県の産業政策に深くコミットしてきた現場に詳しい研究者)が実際にあり、それに市民が好感をもって聴いたことは事実であり、行政にとって、何よりも川崎市民にとって、臨海部に関心を持ち、今後、自分たちの意見を行政に反映させていくい機会になると思います。

請期待中村教授的講演録、再見!

崔 勝久

2010年7月16日金曜日

「当然の法理」を問う 鄭香均さんが横浜国大で講義 ー  民団新聞より

「当然の法理」を問う 鄭香均さんが横浜国大で講義

【神奈川】東京都の保健師として管理職就任を認めない
「当然の法理」の不当性を問い続けてきた鄭香均さんが
5日、横浜市保土ヶ谷区の横浜国立大学で約90分の「特別
講義」を行った。同教育人間科学部の加藤千香子教授が、
「差異と共生」の授業枠の中で招請した。

 鄭さんは看護3職から国籍要件が外された88年、都の保健師
として採用された。外国籍としては当時、第1号だった。その後、
上司から管理職受験を勧められながら、日本国籍がないことを
理由に拒否され、裁判に訴えた。

 最高裁での敗訴について、鄭さんは「日本には正義がない。
日本の民主主義が問われている」「当然の法理は日本国籍
保持者全体に係わる問題」だと諭した。他人の苦労話とばかり
思っていた学生の中には、予想外だったのか、一部で戸惑いと
反発も見られた。

 一方で、「日本人ならば日本の法に従うのは当然だと
思っていましたが、ふだん、法を意識していない私は、
知らず知らずのうちに法に縛られすぎているのではないか」
と肯定的に受け止める意見も目立った。

 加藤教授は、「公務員は公権力であり、それに従う
のは当然だとしてきたいまの学生世代には、えっ自分? 
なに、どうして? という感じでしょうね。こうした揺さぶり
こそが必要」と確かな手応えを感じていた。

(2010.7.14 民団新聞)

2010年7月15日木曜日

韓国から来た、ある民族主義者A教授との対話

A先生、先日は長時間お話をする機会をつくってくださり、ありがとうございました。A先生は韓国から来て30年経ち、もう15年も日本の大学で国際法の教鞭を執っていらっしゃるそうですね。国際法の専門家として、地域や地方自治体より、国家対国家の関係を重要視し、その意味で帰化をし、韓国のオリジンを公言する政治家として日本の国政に参与することの意義、重要性を強調されていました。

オールドカマーとニューカマーとは、例えば指紋押捺を強いられる点を具体例として挙げて、その違いを強調されていました。オリジンを明確にする、民族アイデンティティにもっとも関心がおありのようで、「在日」の本名で生きること(元野球選手の張本が毎週日曜日、テレビで張本として出演していることに憤慨し、Changと名乗るべきだということでしたね)、帰化してもオリジンをはっきりとさせるべきだということでしたね。

私はそんなA教授に対して、民族主義者ですね、と言いました。否定も肯定もされず、ちょっと意外な表情でした。アイデンティティを明らかにするという当然のこと、どこでも通用するであろう正当な主張に、それは民族主義ですねと言われ、若干、揶揄されたような、そんな倫理的な言い方は観念にすぎず、実際の生活の実態を知らずに倫理的なあるべき論を言っていると言われているような気持になられたのでしょうか。

実は私も40年前から民族に目覚め、日立闘争に関わるようになってから、日本社会の差別と同化の歴史・政策を糾弾し、本名で生きることを宣言し、地域の「同胞」子弟の教育、その父母や行政への働きかけに全力をあげ取り組んできました。公立学校の教師にも「在日」を日本人と同じように教育するのは、無自覚な同化政策だと彼らを糾弾してきました。

しかしA先生、65になった今、私は学校の先生が正義感からか、自分の価値観からか、多文化共生を掲げ、「在日」は本名で生きるべきだと「在日」子弟に働きかける実践を教師集団の目標に掲げている実態を見て腹立たしく思うのです。自分と関係をもつ数年間で、どうしてその子供たちに民族的な自覚をもって生きて行くように、本名を名乗るように説得、教育しようとするのでしょうか。差別に負けないよう、勇気をもって生きて行くようにというきれいごと、建前をよくも恥ずかしくもなく言えるものだと思います。

教師自身が言いたいことも言えない状況に置かれているということを子供たちはよく知っています。もっと長い時間をかけて、人間としての在り様を求めていけるように(またそのように生きられなくとも)彼らを見守ることはできないのですか、長い一生の間で自立して人間らしく生きることを求めてくれればいい、自分もそう生きるからと、生徒(学生)に教師として言えることはせいぜいそこまでということに気がつかないのでしょうか。

A先生、私は、「在日」もニューカマーも日本で定着して生きようとする場合、永住権をとるのか、日本国籍をとるのか、まったくその人の自由だと思いますよ。問題は、日本社会に定着するのであれば、その地域の住民として国籍に拘わらず、その地域のあり方に関心をもち関わりをもたなければ、そしてその地域がよくなっていかなければ、自分自身の生き方が不自由になるということです。A先生はそのことを認めながらも、でも日本社会がそのように受け留めないのではないか、だから帰化して国政に参加して、そのような状況を上から変えていくべきだと強調されました。

それは飛躍しすぎです。観念・論理としてはありえても(またそのよう考える政治家もでるでしょうが)、自分の住むところで人間らしく生きることを求め続けない限り、そしてその要求を他の人々に認めさせない限り、実は社会は変わらないのではないでしょうか。それを証明するのは、障がい者の運動です。一切動くことのままならない障がい者が看てくれる人に申し訳なく思うのでなく、当然の権利として自分の欲することを口に出し求めるには闘いが必要です。同じことではありませんか、私たちも。

地域の変革が可能であり、仮に成功しても、地域ごとに格差が生じ、その変革された部分さえ、日本政府は平準化ということで元に戻すかもしれないということをいくつかの例をあげられました。地域の発展は国と別にはありえないということは私も認めます。しかし、国の政策だけで地域がよくなるということはありえません。地域は地域の独自の歴史・文化・風土をもち、その住民が主権者として関わることなくしては地域の変革はないと、私は考えるのです。

地域住民一人一人が大切にされ、一人一人の意見が尊重されるようになって初めて、外国籍住民もあるがままの姿で、また各人が大切だとするアイデンティティ(価値観)が受け入れられるのです。同性愛者のアイデンティティが尊重されることも基本的には同じだと思います。ですから時間がかかっても、外国籍住民も日本人と一緒になって、そのような社会にすべく、そのような社会をつくるべく闘うしかない、と私は考えます。

A先生、昨日は初めての出会いでした。ずけずけと失礼なことを申し上げたかもしれません。非礼をお詫びいたします。これをきっかけにして、韓国からのニューカマーとして日本に定着しようとされる方々と十分な対話をすべきだということを学ばせていただきました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

2010年7月8日木曜日

仙谷長官に期待―中韓の戦後処理「改めて決着を」(朝日新聞)

今朝の朝日で、仙谷由人官房長官が7日、都内で講演をして、中国や韓国などとの戦後処理問題について「ひとつずつ、あるいは全体的にも、改めてどこかで決着し、日本のポジションを明らかにする必要がある」と述べたそうです。

新聞報道では、朝鮮人や中国人の強制連行、遺骨収集、在韓被爆者、朝鮮総督府時代に日本に持ち帰った財産の他、日韓基本条約の「改善」にまで踏み込んだようです。従軍「慰安婦」問題については報道されていませんが、彼にその点に関する問題意識がないということは絶対にないでしょう。問題はむしろ、これまでの運動側がどのように再組織をして、
「慰安婦」問題の具体的な提案をするのかということではないでしょうか。

私は6月5日のブログに、「拝啓、仙谷官房長官へ」を書き、期待を述べました。
http://anti-kyosei.blogspot.com/2010/06/blog-post.html

改めて、仙谷さんへの期待を表明します。根拠は何もないと言えばないのですが、彼からのメールにあった、日立就職差別裁判の闘いで学んだ、これだけは譲れない<モチーフ>に期待するからです。11日の選挙結果、9月の党代表選などマスコミで民主党の内部に関していろんな情報がながれるでしょうが、仙谷さんはどのような対応をするのでしょうか。

>先日民団婦人会の研修会に出席する機会がり、40年前の日立就職
>差別裁判の闘いの一端で学んだ私のモチーフなどを話しました。
>だれがなんと言おうとこれだけは譲れない私の精神的財産です。

2010年7月7日水曜日

鄭香均さん、昨日のご講義、お疲れさまでしたー加藤千香子


昨日の横浜国大での鄭香均の「特別講義」は、加藤千香子教授の
「差異と共生」の授業枠の中で具体化されました。これで
日立闘争の当該の朴鐘碩が2回話しをしたので、「在日」の
戦後史に残る人物2人が横国で「特別講義」をしたことに
なります。昨日のブログで記しましたが、「在日」当事者
からの話を聴き、関連する資料や本を読み、学生が自分の頭で
考える機会が体系的に作られればいいなと、思います。

加藤さんが鄭香均に出したメールをご本人の承諾を得て、
ブログで公開させていただきます。それで、読者のみなさんは、
特別講義の内容、学生の反応を知ることができるでしょう。

また、加藤さんが日立闘争における日本人と「在日」の「協働」
に関して学会で発表されたことを、香均の話を聴き、どのような
方向で発展させればいいのか、その思いを記されています。

崔 勝久

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鄭香均さま

昨日は本当にどうもありがとうございました。また、蒸し暑い教室
でのご講義、おつかれさまでした。
昨日の講義、今日もずっと考えさせられていました。

何より、ご自身の看護婦・保健婦になった経緯からはじまり、
それだけでも重い意味をもつ内容ながら、さらに裁判へ、そして
後半では「正義」や「民主主義」をどう考えるかという、現在の日本
社会とそこに住む者に向かって問いかけるという展開、
一言一言の重さと深さを実感しながら、聞き入ってしまいました。

学生にとっては、後半、自分たち自身の権利にかかわってくる
問題だという指摘が、おそらくまったく予想外だったのだと思います。
他者の苦労話だと思っていたら、いつのまにか当事者は自分?
えっ? 何、どうして? という感じでしょうか。
少なからぬ戸惑いもあったかもしれません。
ですが、こうした揺さぶりこそが必要なのだと感じます。
本当は、鄭さんの揺さぶりを受けて、さらに私たち教員の方で
学生に咀嚼させ、考えさせていかねばならないのですね。

来年も講義されますか?という学生の質問がありましたが、
学生は拒否反応ではなく、もっと知らなければならないことに
気づいた、そのうえできちんと対話したいという前向きな姿勢の
表れなのだと思います。


これは私見ですが、70年代には「日本人」が「在日」に向き合
うことと(「共同」)とは、「抑圧者」である自己を認めること、告発
を受けることでありました。

ですが、それはともすれば贖罪意識や観念的な「抑圧者」の自覚に
終わりかねないものでもあったでしょう。鄭さんは、そうではない
新たな「共同」の方法を提案されたようにも思います。

もっと必要なのは、「日本人」自身が、国家の奴隷になる被害者でも
あるというその痛みを自覚し、その意味で自らの人権を何より大事
にすること―実はそれが現在難しいのですね―ではと、あらためて
考えています。

2010年7月6日  加藤千香子

2010年7月6日火曜日

横浜国大での鄭香均の特別講義を聴いて

みなさんへ

蒸し暑い日が続きますが、お変わりありませんか。私はこの1カ月、
「人権の実現ー「在日」の立場から」という論文づくりに没頭
していたのですが、ようやく書き上げました。『講座 人権の再定位』
(全5巻 法律文化社)の第4巻、『人権の実現』(編集 斎藤純一)
のなかの論文で、この秋に出版されるとのことです。

昨日、加藤千香子教授の「差異と共生」の授業枠で、鄭香均の
特別講義がありました。約90分の話で、岩手の高校時代、まったく
就職ができなかった経験から始まって、東京都の保健士になる過程、
裁判所の判決内容など、時には涙を浮かべながらも、学生に「主権
在民」の意味を問うなど、学生にとってはとてもチャレンジングな
特別講義だと思いました。本当にいつ聴いても香均は話が上手。
話す内容がそのまま原稿になるという、天才的な才能の持ち主です。

判決の持つ意味について、「在日」にとってというより、日本人自身
にとってどのような意味を持つのかという彼女の説明については、
学生たちは理解ができず、自分たちの勉強不足を告白していました。
しかし「在日」を可哀そうな存在と思っていたであろう彼らが、しっかり
と憲法を含めて勉強をしないと何もわからない、見えてこないということ
を実感したということこそ、今後の第一歩だと思います。

私自身は、石原慎太郎都知事が「与党には親等が帰化した党首、幹部
が多い。先祖への義理立てか知らないが、日本の運命を左右する法律
(外国人地方参政権)を作ろうとしている」発言から、多くの政治家や
ひいては芸能人にまで、誰が「在日」かということがネット社会で
話題になっている、異常な「魔女狩り」に似た騒ぎに注目しました。

この騒ぎは一体、なんでしょうか。とても嫌な状況ですね。私は娘が、
生きるためにアメリカに留学したいと訴えてきたことを思い出します。

私は、「韓国併合」も知らない大学生がいるという事態と、この「在日」
騒ぎの持つ意味をしっかりと考えるためには、小手先の対応でなく、大学
において「在日」についての体系的な教育プログラムを作る必要があるの
ではないかと、強く感じました。当事者の話を聴き、疑問点を出させ、
一定の本を読ませ、リポートを提出させ、とにかく「在日」の状況を知り、
それによって日本社会の実態をどのように考えるのか、複合的に考える
訓練を大学でしないでどこでするのでしょうか。

大学関係者に考えていただきたいですね。いかがでしょうか。
横浜国大だけでなく、このメールを読まれている各大学関係者の
みなさんのご意見をお願い出来ますか。私たちも積極的に協力
させていただきます。

--
崔 勝久
SK Choi