2011年2月8日火曜日

「当事者主権」とは何か?

「当事者主権」という単語は、障害者の中西正司さんと上野千鶴子さんが書いた『当事者主権』(岩波新書)で有名になり、今ではマスコミでも普通名詞として使うようになっています。この本のことをどちらの発言かわからない、立場が不明と批判する人がいましたが、それは間違いです。二人の著者が自分の障害者、女性としての闘いの中から見えてきたことを話し合ううちに、お互いが刺激しあい、一人の意見が止揚されるなかで一体となり、まさに二人の意見としてだされたのが「当事者主権」であったのでしょう。

この本の中には刺激的なことばが散らばっています。「当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれもー国家も、家族も、専門家もー私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない、という立場の表明である」(4頁)、「当事者主権とは、社会的弱者の自己定義権と自己決定権とを、第三者に決してゆだねない、という宣言である」(17頁)、「当事者主権の考え方は、この代表制・多数決民主主義に対抗する」(18頁)。ほれぼれする啖呵です。

しかし、「当事者主権」はいつのまにか、ケアされる(或いは差別される、マイノリティ)側の当事者だけでなく、ケアする(或いは差別者、マジョリティ)側も当事者であるという認識が広がり、定義が曖昧になって来ました。「この用語法のもとでは、世の中に『当事者でない者はだれもいない』と言うことも可能になる程度に、当事者概念のインフレを招き」、そこで改めて上野さんが、「当事者とは誰か、ニーズとは何か」を正面から論じています(「ケアの社会学」『季刊at 15号』)。

上野さんはケアの現場から論じるのですが、そこには専門家やケアする側の言い分がいろいろとある中での発言と受け取れば、彼女の言い分はまことに明確です。「『なにをしてほしいかは、私に聞いてください』ということ、これこそが『当事者主権』の思想である」。この思想は、ケアを必要としている人だけでなく、あらゆる「マイノリティ」とされる人たちにとっても有効です。勿論、在日朝鮮人にとっても。

「在日」にとって差別とは何か、「当事者」としての「在日」は何をしてほしいと訴えているのか、このことをどうして「当事者」抜きにして、憲法学者や社会学者(心理学者も含めましょう)、それに「多文化共生」に携わる行政の担当者は「専門家」としての意見を述べたがるのでしょうか。

しかし、ケアとは何かはケアを受ける人が一番よく知っているのと同じく、日本社会の何を差別・抑圧と捉え、何をしてほしいのかということは、まず、「当事者」である「在日」から聞くべきなのではないのでしょうか。それを客観的な歴史、法体系、憲法問題などをよく知らない一般の人に「啓蒙」することが重要だとばかり、「啓蒙」に走ることを職業にしている「専門家」や「連帯」を唱える運動体もあります。彼らはひどい場合、自分の意見に合わない、或いはやり方が気に入らないからと「当事者」との「共闘」を公然と拒みます。どうしてこういうことがおこるのでしょうか。これは大変不幸なことですね。

「在日」が日本人の立場性を問い、沈黙を強いるようなやり方に対して、私は批判をしています(「『民族差別とは何かー対話と協働を求める立場からの考察―1999年『花崎・徐論争』の検証を通じて』http://www.justmystage.com/home/fmtajima/」。「在日」が何を欲するのか、この「当事者」の意見を無視して、客観的に必要で正しいことを進めればよいというのは間違いです。「在日」にもいろいろと意見の違いがあります。何が正しいとは言えません。しかし「当事者」にいいことであると、「専門家」に勝手に判断してほしくありません。自分たちに都合のよい「当事者」だけを相手にし、他を排除するようなことはやめていただきたいものです。私たちのような「多文化共生」を批判する「在日」「当事者」とも一緒に議論をしようではありませんか。

「多文化共生」をどうして私たちは批判するのかについてまず、しっかりと耳を傾けて理解してほしいものです。批判の仕方がおかしいとか、一生懸命やっているひとを無視しているというのは的外れな反論です。日本政府と行政は結局のところ、「当事者」からの差別への怒りの声であった「共生」を求める声を吸い上げ、「多文化共生」をスローガンにして掲げ、社会の「統合」を求める政策を遂行しようとしているのであり、外国人「当事者」と一緒になって論議し決定しようとはしていません。外国人市民代表者会議があるではないか? これは、「行政のパターナリズム(父長的温情主義)」「ガス抜きの場」(上野千鶴子、『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』)です。

「在日」の徐京植と障害者の安積遊歩とはどこが違うのか。安積の言葉は激しく、恐らく反発して逃げた人も多いでしょう。しかし彼女は健常者を突き放したり沈黙を強いてはいませんし、決して切り捨てることをしません。それに付き合いきる人も偉いですが、その両者のぶっつかりあいから新しい道が見えるのです。しかし日本人としての立場性を問う「在日」はこれまでどうであったでしょうか。私は自分自身を振り返っても反省することが多いと考えています。

差別・抑圧を生み出した歴史・社会構造の歪みを身をもって知る「在日」「当事者」として、その歪みを日本人と協働して変革していこうという働きをすることが私たちの課題です。
まず何はさておいても「当事者」の声を先にお聴きください。そして意見の違いがあっても対話を続けましょう。全てはそこから始まります。

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